第3話
カップを丁寧に洗い、アルコールランプなどを元の位置に戻して自分がいた痕跡をすっかりなくすと、俺は理科準備室を後にした。
廊下へ出た拍子に、真向かいの保健室の壁に待ち構えるように佇んでいた白衣の眼鏡美女と目が合う。思わず顔をしかめた。
「キミも変わってるねえ。理科準備室に好んで出入りするとは、科学者志望なのかい?」
見咎められるかと思いきや、美女の紅い口からはからかうような言葉が飛び出しただけだった。俺は内心でほっと息をついて、後ろで一つに括った茶髪を指で弄ぶ女性――養護教諭の雲林院由利亜(うじいゆりあ)を半目で見遣る。
「暇なんすよ。察してください」
「高校生でしょ? もっと他にやることないの?」
雲林院先生は腕を組み、俺を上目遣いで見た。白衣の胸元から覗く胸元が眩しい。
そこから目を逸らし俺は横を向いた。保健室と理科室に挟まれ、その先が行き止まりになっている廊下を用もなく通る人はおらず、俺たちの周囲は取り残されたように静かになっている。
「ありませんよ。何しろって言うんですか。高校生らしく部活しろなんて生徒指導の先生が言いそうな冗談は間に合ってます」
俺の言葉に雲林院先生は呆れたように肩を竦めた。眼鏡越しに、優しさと哀れみを一対一で混ぜた生温い視線が返ってくる。
「まったく、これだから草食系男子は……そんなんじゃいつまでたっても彼女できないわよ」
「元から望んでないです」
「諦めるのは努力してからにしたら? 先生、嫌いじゃないわよ、キミみたいに何事も達観して人生を斜めから見ているぼっち男子。群れるのを嫌うくせに、本当は友達が欲しくて仕方がないのよねー」
「人に勝手な設定付けるのやめてください」
誰がぼっち男子だ。……そりゃ、友達はいないけど。
俺は不機嫌な顔を見られたくなくて先生に背を向けた。いつもこうだ。この美女は俺を校内で見かける度、こうしてやたら親しげに話しかけてくる。誘ってんのか。いや、遊ばれているだけか。
ふざけた養護教諭のことはさておき、俺は図書館でも行くかなーと廊下をぶらぶらと歩き、
「そういえば、今年の新入生に面白い子がいるの、知ってる?」
「他人に興味はないっす」
「キミは興味なくても、向こうはあるかもね」
「は?」
振り返ると、雲林院先生は人を食ったような表情で微笑んでいた。
「今度紹介してあげる。その子も血気余って保健室によく運び込まれるのよ」
「俺は喧嘩して保健室に運ばれたことはありませんが」
俺のツッコミに美女は声を出して笑い、保健室のドアを開けた。
「とにかく、せっかくの学校生活、楽しまなきゃ後悔するのはキミなんだからね。なんだったら、先生はいつでもお手伝いしてあげるわよ」
しっかり流し目をくれた雲林院先生は白衣を翻して保健室へ消えた。バタン、という音。
それを言うためにわざわざ廊下で待ち構えてたのかよ。
呆れた俺は部活に向かう生徒たちの中へ身を投じた。そんなこと言うなら図書館の蔵書に漫画を導入してくれ。
***
楽しげな喧噪に包まれた放課後の廊下を一人で歩いていると、否が応でも孤独というものを認識させられる。
人間とは不条理な生き物だ。思春期になれば、俺たちは得てして自由を求める。親の束縛から逃れ、他人から何も言われない自由を。
確かに自由とは鳥類における大空のように、はたまたサバンナに棲む動物にとっての広大な草原のように、魅力的なものだ。しかし、自由を手に入れるということは同時に、誰からも干渉されないことである。何をしても、誰も何も言ってくれない。つまり孤独だ。
望んでいた自由を手にしたというのに、俺たちは嘆くことになる。寂しい、と。
哲学的な思考をすることで自らの感情を分析していた俺を二人組の女子が追い越したとき、俺の目は左側のショートボブの女子に引き付けられていた。
それはショートボブが好きだから、とかじゃなくて、その女子の背後にスーツを着た男がぴたりとつけていたからだった。
三十代くらいに見えるその男は片脚を失っているのに、松葉杖をつくこともなく前に進んでいた。マユリと同じように姿が透けていることから、霊的なもので間違いないだろう。
二人の距離はムカデ競争でもしているかのように近い。明らかにその男性の存在はおかしいのに、ショートボブや周囲は彼に気付いていないのかスルーだ。気付いていたらきっと悲鳴を上げてフルボッコされてる。
こういった幽霊を俺は何度も目撃していた。そいつらは大抵、挙動不審で意思疎通が図れない。マユリみたいなケースはごく稀だ。俺は暇にかまけてそいつらを観察したことがある。
彼らは通常の人間には見えず、声も聞こえない。その身体は全ての物質を通過し、逆に人間も彼らに触れることはできない(しかし、マユリは意志を込めれば物体は持てると言っている。人体に触れることはどんなに頑張ってもできないらしい)。そして、彼らは基本、何もしない。
せっかく幽霊になったんだから女の子のスカートでもめくってみたらいいのに、と思うが、彼らは意識がないのか何もしようとはしないのだった。ただ歩いていたり、座っていたり、佇んでいたり。
無害な存在って素晴らしい。誰かにも見習ってほしいものだ。
ショートボブのストーキングをしている奴も、そこにいるだけで彼女に何もしやしないだろう。わかっているから俺は少し見つめただけですぐに視線を外し、欠伸を一つしかけ、
「待って! 止まってください、幽霊がいるんですっ!」
廊下に大声が響き渡った。
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