第2話

 マユリは正真正銘の幽霊だった。


 なんでも数年前からこの学校にいて、生徒たちを驚かせるのが趣味らしい。悪趣味な奴め。マユリと意思疎通が図れてしまった俺は、彼女に暇潰しとばかりに付き纏われて十日程が経つ。


「絶対驚かせてやるんだから、今に見てろ」

「諦めの悪い奴……」


 呟いて俺は脇にあった布巾を使ってビーカーを掴んだ。もう中の水はコポコポと沸騰をしている。


 バッグの上から少しずつお湯を注ぐと、コーヒーの香りが部屋中に漂った。


 マユリは机に腕を置き俺の手元をじっと見ていたが、それは三十秒ともたない。はあ……とため息をつき、顔を横に寝かせたと思ったら身体を起こして宙に浮き始める。落ち着きがない。


「あーつまんないー。ねえ、ハル、なんか面白い話して」

「無茶ぶりすんな。……おまえ、前に入学式で何かやらかすとか言ってなかったか? それはどうしたんだ?」


 自分の持ちネタがないためマユリに話を振る。マユリは口をへの字にすると、中空で身体を横にした。スカートの半分が重力に従って下に垂れる。


「もちろん、やったよ。来賓の話が長すぎるからマイクのスイッチを切ってやったし、垂れ幕をバサアって新入生の席に落としたし、記念撮影ではちゃんとどのクラスにもピースして一緒に写ったし……」


 どうやら散々な入学式になったらしい。


 俺はカップからバッグを取ると、もう一つのカップの上に置いた。


「いるか?」


 カップを指さし、訊く。

 マユリは右目だけで俺をじろりと見ると、首を横に振った。


「いらない。幽霊が食べたり飲んだりできないの知ってるくせに」

「香りだけ楽しめばいいだろ」


 俺はカップを持ち上げて真っ黒い液体へ鼻先を近付けた。蒸気が俺の鼻を煽る。

 熱い。俺はカップに口をつけずに机へ戻した。


「いいなー、サッカー楽しそうだなー」


 目を上げるとマユリは浮いたまま窓の向こうを眺めていた。


「ねえ、ハル。サッカーしよ」

「イヤだ」


 途端にマユリが頬を膨らませて目の前に迫る。顔面同士の距離、わずか十センチ。左半分が前髪で隠れているだけまだマシか。


「なんでなんでぇ。ハルも少しは運動した方がいいよ。こんなとこに閉じこもってないで行こう、サッカー」


 マユリの手が俺の手を掴もうとして――すり抜けた。


 瞬間、間近にある少女の表情がさっと哀しげな色を覗かせる。

 俺はそれに気付かないフリをしてコーヒーカップに目を落とした。


「……いいもんっ。一人でサッカー行ってくる! ハルに相手してもらわなくったって、できるんだからっ!」


 言うなりマユリは一直線に窓へと向かい、ガラスをすり抜けた。その姿はすぐに見えなくなる。


 一人になった俺がもう一度カップを持ち上げたとき、校庭の方からわあ、と歓声とはまた違った声が上がるのを聞いた。立ち上がって窓へ近付く。


 見下ろすと、マユリがサッカー部の紅白戦に乱入して、とんでもない方向にボールを蹴っていた。サッカー部の連中は皆驚いて足を止めてしまっている。そりゃそうだ。マユリが見えない彼らには、ボールが勝手に動いているようにしか見えないのだ。


 やれやれ、怪奇現象の起こる高校でいつか有名になっちまうぞ。

 俺はため息をつくと、満面の笑みを浮かべてボールを追いかけるマユリを視界から追い出すように窓から離れた。

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