第一章 実は彼女が厨二病なのは誤解である
第1話
アルコールランプに火を灯すと、薄暗かった室内がわずかだが明るくなった。
放課後の喧騒から遠ざかった理科準備室。棚にずらりと並んだ危ない薬品や実験器具の数々。部屋の隅には気味の悪い人体模型まである。室内中央にある理科室特有の四人くらいで座れる大きな机を一人で占有し、俺は三脚の下にアルコールランプを滑らせた。
立ち上がって窓際に置いてあるビーカーの一つを取ると、水道の蛇口を捻る。
外はまだ全然明るい。桜の木がぐるりと囲むように植えてある校庭では、春の風で桜の花びらが吹き荒れる中、サッカー部が練習に励んでいる。その威勢のいい声が時折ここまで響いてきていた。
あー平和だ……。
俺は水を入れたビーカーを手に戻ると、三脚の上に置いた。席に着く。
それから俺は用意してあったコーヒーカップに、挽かれたコーヒー豆が入っているバッグをかけた。上からお湯を注ぐことで簡単に本格的なドリップコーヒーが楽しめるやつだ。
バッグを開いてカップにセットしただけでもコーヒーのいい香りがする。鼻をヒクつかせながら俺は鼻腔一杯に息を吸い込み、
目の端で人体模型が動いた。
来やがったな。
俺の平和なブレイクタイムをガチでブレイクしてくる嵐の前触れ。俺は目の前のビーカーに集中しているフリをした。ビーカーの内側に付き始めた気泡をさながら芋虫の観察のようにじっと見つめる。
視界の端では人体模型が音もなく横にスライドを始めていた。準備室の壁を伝い、俺が座っている背後へとそれは移動しつつある。
またそのパターンか。先が読めた俺は、ため息を押し殺してそのときが来るのを待つ。
三、二、一……。
「わあっ!」
俺が計ったのと同じタイミングで人体模型が俺の上にかぶさってきた。それを見越していた俺は手を後ろへ突き出してその頭突きをブロックする。
「きゃうっ!」
人体模型が床に崩れ落ちる音と同時に聞こえてきた悲鳴。俺はやれやれと思いながら振り返った。
「マユリ」
そこには、床に転がった人体模型と一緒に、制服を着た三つ編みの小柄な少女が倒れ込んでいた。濃紺色のブレザーにチェックのスカート、そして赤いリボン。紛うことなく、この高校の女子の制服である。
「いったー……。もうっ、何すんのよ!」
マユリは勢いよく身体を起こすと仏頂面で俺を見上げた。その顔の左半分は異様に長い前髪で隠されている。
「それはこっちの台詞だ。毎度毎度、俺のささやかな癒しの時間を邪魔しやがって」
「ふふーん、せっかく人が退屈を紛らわしてあげようとしてんのに。ねっ、さっきのびっくりした? 心臓止まりそうになった?」
「ならねーよ。おまえ、何度同じことすれば気が済むんだ」
マユリがこの手の悪戯を俺に仕掛けてくるのは最早日課となっている。それで驚けとは無理な話だろう。
「それより、それ、ちゃんと片付けとけよ。ここで遊んでる生徒がいる、なんて教師共に思われたら面倒だからな」
俺が床で糸の切れたマリオネットみたいになっている人体模型を指すと、マユリはチッと小さく舌打ちをする。
「はいはーい」
二つくらいトーンを落とした声でかろうじて返事をしたマユリは、生ゴミを持つみたいに人体模型の頭に付いている紐を持った。
そんなに触りたくないなら始めからそれで遊ぶなよ。
そう思った俺の目の前で、マユリの身体が浮いた。
理科準備室の中空。
マユリは脚を動かすことなく、すうーっと移動すると紐を元の位置に戻した。
「あーつまんないつまんないつまんないっ!」
唐突に叫ぶと、マユリは空中から見事なバク宙を披露して、俺の向かいにあるイスにストンと座った。こんな芸当は体操のオリンピック選手でも不可能だろう。 座った拍子に前髪が持ち上がり、マユリの顔の左半分が一瞬見える。
そこに皮膚はなかった。人体模型と同じだ。露出した頬の筋肉、頬骨、剥き出しになった眼球……。生きている人間の顔ではない。
「なんで驚いてくんないの!? つまんない! ハルを驚かすのがあたしの楽しみなのに!」
勝手に楽しむな。
「そりゃ、幽霊なんてものは急に現れたり馴染みがないから怖いもんで、こう毎日来られたら驚くこともないだろ」
おまえの悪戯に最後まで付き合ってやってるだけありがたいと思え。
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