鉄と熱と雪と

青い屋根の民家の1階のキッチンでニケは恐ろしいものを見た。


-乾いた血溜まりにある手足がバラバラになった2人の死体。どちらも男だ-


異臭に鼻をつまむ。


目はくり抜かれて内臓は飛び出している。腐敗しているようで、黒ずんだ身体から強い異臭が立ち込めて羽音を響かせた蝿が小さな木枯らしのように舞っている。


グリュンの声がしない-


「どうしたボウズ!大丈夫か!?」


-敵兵はいません!異常ありません!-



2階から返事が聞こえ安心して髭をさするニケ。しかし目の前の2人はどうしてこんな死に方をしているのか、疑問に思っていた。


「こんなに死体をめちゃくちゃにするなんて-」


ニケは四肢がバラバラにされている2人分の死体を見て恐怖を感じた。


2階から小声で何かを喋っているグリュンの声と掠れた少女の声がする。


まさか、誰かいたのか-?


ニケはゆっくり、こつんこつんと階段を上っていく。


2階で戸が勢いよく開けられる音がしてがさがさと何かを漁る音がする。


「おいグリュン上等兵!?何かあったのか!?」


階段の上に現れたのは、俯いた蒼髪の美女の手を引いて走るグリュンの姿だった。グリュンのラグーングリーンの瞳が揺れている。まるで何かを恐れているかのようだ。


「何だ!?何がどうしたってんだ!?説明しろ!おい!!」


くちなしの花の香りと淡い熱が漂う。グリュンはニケと目も合わせずに真っ直ぐに駆け出して外の古びた車に乗ってしまう。


「おい…なんなんだよ…」


ニケは目の前の事態が掴めず唖然としている。


グリュンは凄まじい速さで走り去ってしまった。蒼髪の美女の澄んだコバルトヴァイオレットの瞳が呆然としているニケに向けられる。


ニケは慌てて大時計の振り子のように足を走らせて雪原に停止した『アンナの酒樽』に戻り状況を伝えた。


皆が驚愕して狼狽える中、ベグライト戦車長は静かに身体を起こして皆に言い放った。


「いいか、落ち着け。問題なのはグリュン上等兵が脱走した理由だ、きっとその女にでも惚れちまったんだろうよ。しかしここは戦場だ、あいつは命の危険に晒されている。だがいくら野蛮な俺たちにでも目の前の任務がある。そして何より、脱走したグリュン上等兵を捜しに行く手段が今のところ無い」


「轍を歩いて探って行けば!なんとか!」


ニケは必死になって1人で持てる武器をかき集めている。


「いや、ここいらは吹雪の強弱も強ければ頻度も高い。すぐに轍なんて消えちまう」


ベグライト曹長は1度指揮した部隊を全滅させたことはあるが、参加した作戦の数だけ見れば百戦錬磨の金毛の獅子だ。信用は置ける。


「じゃあ、どうすれば…」


悲観に暮れたドネレグとニケ、そしてガンテス。リチトは黙って操縦席に座っている。


「とりあえずこいつが直るまでグリュンは探せない。直ったらすぐにグリュンの元へ前進する」


皆に緊張が走る。ガンテスはもう弱音なんて吐かずにエンジンルームで作業を再開する。


「おいガンテス、ちょっと嫉妬してるだろ」


ドネレグが部品を渡しながら笑って言う。


「当たり前じゃないですか!とびきりの美女と逃げ出しただなんて!!僕が全力であいつを連れ戻しますよ!!!」


猛烈な勢いで進んだ修理作業の末エンジンはかかった。ベグライト戦車長以外、皆オイルまみれになっている。生き返った鉄の鮫は直ぐにグリュンの作った消えかけている轍を目指し前進を始める。『アンナの酒樽』はグリュンを目指していた。


「『公国の羊飼い』殿の元気なアヒルちゃんはどうするんで!?」


「安心しろ、あいつのデートで俺はたったの1度も待ち合わせ時間に間に合ったことはない!」


「そりゃ泣きますね!」


ドネレグは冷やかしが好きだ。しかしベグライトは一髪分も動じない、むしろ楽しんでいる。


鉄の鮫は白い吐息を吐き散らして轟音をなびかせながらまさに海の狩人のようにグリュンの足跡を辿っていく。


夢の中-見渡す限りの平原、遠くから父と同じくらいの齢の女性が蒼髪を海流のような風になびかせて歩いてくる。不思議と吹き荒れる風の音は聞こえてこない。顔は長い髪に隠されている。


「-あなたは…?」


-私のことなんて知らなくていいわフィヨルド、あなたは何も悪くないのよ-


強烈な身体の冷えで目が覚めたグリュンは左方の白い首筋に当てられた冷たい金属を感じる。


-銃口だ。


目だけで冷たい銃口の方向を見る。そこには黙ってライフル銃の先をグリュンの首元に真っ直ぐに向けている黒い8つのボタンが並行して縫われていて黒手袋をつけた袖には金色の熊の刺繍の入る赤い軍服に鉄製のつばが付いた黒い円筒帽を被り強い警戒と殺意の目で睨みつける男。その後ろには幾人かの同じく赤い軍服に身を包んだ兵士達がいて、何かを喚いている。


「テアミ、ジェスラーニダ!ジェスラーニダ!!」


「ナジトル、アネメニエレフレンコス。ヴェダルヴィスミセエラ」


「ヴェダルヴィスミセエラ!?ジョジエジェスラーニダ!?テアミ!?」


「アネメニ。デミディユートエフランシア、ベスラ…ナジトル。ナジトル、アトレアスレイベルートル?」


「…ヴィチア」


どうやら1人の階級の高い男の命令に他の2人が憤怒し、異議を唱えている。その間もグリュンの首元に銃口を当てる兵士は強烈な殺意と表情で睨みつけている。戦争相手のヴェスタ帝国の兵士だろう。


今動けば、僕は確実に殺される-


心臓がけたたましく鳴って、頭に響く。


スカーレットは!?スウィはどこだ!?-


ちらと一瞬横目で何度か見たが、眠っていた黒のロングワンピース姿のスカーレットはかき消えて空っぽの座席が1つしかない。窓の外は夕陽…いや、朝日が昇り始めている。


「ベスラ、ヴェダル…ヴィスミセエラ」


口論していたうちの1人が銃口をグリュンの首筋に当てがう兵士に命令すると、その殺意に満ちた顔をカラクリ人形のようにゆっくりと動かして命令した男を睨む。


「ディルドミタ、アネメニエセルシエドナジトル…」


強い力で肉を貫きそうなほど押し込まれていた銃口は力が抜けて窓の外に下がっていく。グリュンは一安心したかと思えば開いた窓の外から強引過ぎる力で外に叩き出され、重い手枷で拘束される。


「くっ…」


膝の先から雪の冷たい感触が伝わっていく。


ヴェスタ帝国軍兵士に取り囲まれたグリュンは死刑を待つ囚人のようだった。看守となるさらに階級の高い者が奥に停車している堅牢な装甲車両から降りてゆっくりと歩いてくる。


ガラス細工の甲高い声が雪原に響いた。


「ベスラ!テアミ、ナジトル。ラフトゥンリューケ!」


その美しい声にグリュンは2つの意で心臓が止まりかけた。-スカーレットはまだ生きてる!…スカーレット?


朝靄の暗がりから鉄のつばのついた黒い円筒帽を被り赤い軍服姿で出てきた威圧感のある女性軍人。


雪を踏み殺すように歩いてきた彼女の肌触りを僕は知っている。


信じられない-グリュンは目と耳を疑い、もしこれが真実なら今すぐこの舌を噛み切ってこの場で死んでやろうとすら思った。


ヴェスタ帝国の鮮血の赤い軍服に身を包んだ蒼髪の美女スカーレット・スウィートハート。そこには彼女の優しげな面影はなく、凍てついた冷酷なるヴェスタ帝国軍の部隊指揮官の姿があった。


「スカーレット!どうして君が!?」


叫ぶグリュンを見てスカーレットは小さく呟いた。


「…ヴェスタ、エルジマーティチェ…あなたが悪いのよ」


スカーレットはゆっくりと腰のホルスターから小さな拳銃を取り出して涙と怒りで感情と表情がぐしゃぐしゃになったグリュンの古傷のついた脳天を静かに狙う。コバルトヴァイオレットの瞳からはもはや一欠片の感情が見えない、ただ人を殺す目をしている。


「全部嘘だったのか!君がディジェムにいたっていうのも家族が疎開したってのも!全部嘘か!!?」


「…そうよ、嘘よ。家族なんて元からいないわ、騙されたあなたが悪いのよ」


凍ったガラス細工がグリュンの胸に深く突き刺さる。


-ウウうおおおぉぉおおおおおおおおおおおオオオオオオ!!!!!!!!-


叫び声を超えてもはや熊の唸り声のようなグリュンの声が雪原にいた小動物達を怯えさせ、遠ざける。


目が血走り、狂った表情で手枷から血を流しながら必死に暴れるグリュンを上から3人のヴェスタ帝国兵士が取り抑える。振り絞った力で兵士の大きな手に抑えつけられ雪に埋まった顔をぎりぎりと上げる、首が折れようと気にする状況では無かった。顔を上げたそこには薄紫の無感情の瞳と冷たい拳銃のどこまでも深い銃口の穴が僕の頭を捉えている。


「本当の私は帝国軍に忍び込んだシスル公国の泥棒鼠を殺すクリーナーよ。昨日のあの民家は私の家でもなんでもなくて、ただ私が誘い込んだ鼠達を処分するための小屋。フィが丁度私が身体にこびりついた鼠の血をシャワーで流してた時に部屋に来たときはどう殺そうか迷ったけど、あなたが優しい男で助かったわ。名前も嘘よ。改めて、私はアネメニ・ロート・ゼラニアム。ヴェセルセード『アネメニ』」


戦争というものはどこまでも残酷なものだ、美しい少女の肌触りも暖かさで包まれた会話も夜に見た鮮烈な雪花の虹の景色も、そして彼女の名前すらも無限の虚無へと姿を変えてしまう。


「嘘だ!君はスカーレット・スウィートハートだ!君は僕が始めて恋した女性スカーレット・スウィートハートなんだ!!君は全部嘘だって言ったけどあのときの表情だって!雪花を見たときだって!あれは全部本物だっだはずだ!絶対に嘘だ!!こんなこと!!!」


グリュンは頭の中がぐちゃぐちゃになり鬼の様な形相で叫ぶ。松の木の枝から積もった雪が落ちる。冷たい雪がグリュンの手枷から流れた暖かい血で赤く染まっていく。


嘘だ-全部嘘なんだ-


頭の中で今の現実が嘘なのか過去の思い出が嘘なのか-分からなくなる-


「あり得ないかしら」


小さな拳銃の冷たい撃鉄がスカーレットの、アネメニの柳の木のような細い手で起こされる。


「ジョワド!ジョジエジェスラーニダ!?アネメニスワイツ!!?」


グリュンを抑えつけているヴェスタ帝国兵士の1人が困惑しながらスカーレットに喚いている。


「ヴェスタ、エルジマーティチェ…」


スカーレットの冷気を纏う言葉に冷たく凍るような風が吹き、アネメニのシンフォニーブルーの蒼く生き生きとした髪を揺らす。その潤って輝くシルクの蒼髪だけが正しくて、断じて他の全ては間違っていた。登っていく太陽の光が対面する2人を温めていく。


乾いた金属音と短い破裂音が雪原の雪を白けさせる。


グリュンの白い身体に昨日のスカーレットが求めた熱いものとは違い、死を感じるほどの高熱がほとばしる。口からは血の飛沫が溢れて鼻の穴からはけたたましい鉄と血の香りが広がる。グリュンの目は窪んで表情に暗い影が落ちている。グリュンは高々と笑い出した、ヴェスタ帝国兵士達がその恐ろしさにどよめく。コバルトヴァイオレットの冷たい瞳は冷然として、笑いながら死にゆく敵国の少年兵を見つめている。


「あはははは!嘘なんだろスカーレット!そうだろ!?ねえ、『動物解明ゲーム』の続き…がはっ…またやろ、うよ。へへ、嘘が得意…がはっ!!-…なんだから、本当に…きれ…な子は…困…る、よ」


あは、あはははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!


「………」


呻き声を上げて涙ぐむグリュンの右脇に白い煙が揺らぐ小さな穴が開いている。そこからじんわりと血液が滴る。呼吸をしようとすれば身体に冷たい風が通り、死が迫る。


スカーレットのコバルトヴァイオレットの冬の鉄のように冷えた瞳が血を流して倒れたグリュンを見つめている。


死んでいく頭の中で甦るのは産まれてから今までの自分。父との思い出、シスル公国の豊かな風景と海の景色。シェルコーラルの泥沼、ヴェスタ帝国の白い雪景色。そこに映るスカーレットの笑顔は割れたガラスのように、砕け散った。後には自分の血が海のように広がっていく。


彼女の赤い口紅で飾られた薄い唇が動いたのが最後に見えてグリュンは涙を流しながら銃弾の熱で雪のように溶けていった。


グリュンの視界に白い霧が広がっていく。


暖かい-とっても、暖かいよ-スカーレット-

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