『天使降臨』
-ディジェム王国王室に飾らせたかの名画『天使降臨』-
「-それでは、健闘を祈る」
第2小隊 小隊長エル・イオパルド少尉は『アンナの酒樽』への命令の最後をそう締めくくり、通信回線を切った。通話時間はものの30秒しかなかった。
エル・イオパルド少尉の命令はこうだった。
「再補給地点にて弾薬類及び食料の補給を直ちに完了して『アンナの酒樽』には敵の猛反撃を受けている前線へと先遣部隊として前進してもらう、敵の新鋭兵器が噂されている。悪夢が待っていると戦車長に伝えろ」
きちんとした佇まいの戦車長ベグライトは緊張した面持ちで駆け寄ったグリュンより小隊長からの命令内容を聞いた。そしてその端正な服装と体躯とは打って変わって蒸気戦車の転輪にだらしなく寄りかかり、とても大きな欠伸を1つしてその黒く波打つ夜明け前の海を潜ませた黒瞳に被せられた何本も皺の線が入っている堀深い瞼を軽く擦った。
「ふぁあああおう…」
そのとても場違いな態度にグリュンは驚愕して不安が押し寄せ、周りで死力を尽くすシスル公国軍兵士達の視線をきょろきょろと気にしだした。
「これだから少尉殿は分かってない、俺たちは『アンナの酒樽』だぞ。なあお前ら、新米のグリュン上等兵にもそれを教えてやろうじゃないか」
深い灰色の不思議な声にどこか黄色のライトが当てられて楽しげな声になっている。
「そうですよ!今日はもう十分働いたし、酒盛りにしましょう!酒なら弾薬よりはある!それに今日は新米のボウズがいる!」
ニケは戦車長よりは背が低くて太っている。側から見ればもみくちゃの髭を整えてゴマをする小心者には見えるが、どこかニケには人の心を掴む何かがあった。髪と髭だろうか。
「ニケの言う通りですぜ隊長!」
「!?」
ニケに同調したドネレグはその小麦色に焼けた太い右腕をグリュンの白く細い首筋に上から勢いよく引っ掛けた。
蒸気戦車の裏から丸眼鏡をかけたガンテスの呻き声が微かに聞こえる。
ドネレグは『アンナの酒樽』とはニケの愛娘であるアンナ・イッシキから届けられる貴重なブランデーやウォッカ、テキーラやウィスキー。そしてグリュンの父クロコダイルが愛飲していたシスル公国にしか存在しないエレクトブランなどの蒸留酒が定期的に送られてくるために2日に1日は必ず宴を開くという自堕落な部隊だということを嬉しそうにまだどこか戸惑いのあるグリュンに話した。
ニケは自慢気に二等辺三角形の鼻に生い茂るその髭を撫でる。
「うちの酒蔵は世界1だぞボウズ。うちの娘もカミさんに似て世界1美人だぞ」
「まあたニケの自慢話が始まる、とっととずらかるぞグリュン」
「おい待てドネレグ!うちの娘はなあ、ピアノは弾けるわ歌えば野に花が咲くわで-」
「おめえの娘も汚ねえ髭でもじゃもじゃなんだろ!アソコも臭そうだぜ!」
「なんだとドネレグ!写真も見たことねえで!すぐ抱けるような豚女どもとヤってるようなおめえにゃ一生見せねえがな!」
怒ったニケの髭が冷たい風に吹かれて逆立った。
グリュンは黒髪のワックスが光るドネレグの黒い龍の刺青の入ったたくましい右腕に連れられその場を後にした。
ニケとベグライト戦車長の陽気な会話と死力を尽くす同胞達の戦闘を間近にした怒号の雨。そしてその中に紛れたガンテスの弱々しい嗚咽が遠ざかる。リチトは『アンナの酒樽』の35式蒸気戦車を悪臭の立ち込める死体の山から静かに眺めている。
「この刺青が気になるかグリュン?」
「軍曹殿、自分は刺青を見るのが初めてで…」
歩きながらグリュンは脈打つドネレグの筋肉に封印されて身悶えているような黒い龍を見た。
「こいつあ陸の水龍、俺がいたティンタリアス地方のドーウィロウ村に伝わる名ではレグドネリングシャードと…そっから俺の名はドネレグってついた。お前さん出身はどこだ?どうやらティンタリアス地方でもシスル公国でも無さそうだが」
ドネレグの強い野心の象徴である龍の黒瞳がグリュンの珍しいラグーングリーンの瞳を見据えて聞いた。
「軍曹殿、自分はシスル公国のファイアーンス区出身の身です!」
「おいおい、そんなに気を張らなくていい。戦場で気を張り詰めるのは敵を見つけた時でいいんだ。それと、俺を呼ぶ時はドネレグさんでいい」
ドネレグは肩をぽんぽんと叩き緊張しているグリュンを怒る闘牛のような低い声で、しかし安心を促す安らかな表情で若いグリュンを落ち着かせた。
戦場に血の匂いが満ちていく。
シスル公国フィルンの町原産の太陽の柔らかさを湛えた蜜柑を酒に漬け込み熟成させた後に特殊な調合を加えたエレクブラン。その酒は香りを嗅ぐだけでシスル公国の青空と蜜柑畑の景色が広がっていく。そして一口飲めば我が故郷のシスル公国へ舞い戻ることができる。それほどに甘くどこまでも澄んだ香りだ。しかしグリュンは食卓でそれを飲みながら楽しい話をする父クロコダイルの年季の入ったラグーングリーンの瞳を思い出して寂しくもなった。
-フィにこいつはまだ早いぞ-
そして『アンナの酒樽』は公国陸軍の積雪をも溶かす銃弾の雨が降っている前線からは離れているこの夜の再補給地点で小さな宴を開いた。
遠くから蒸気戦車が数台走る音が聞こえてくる。
そこでは6名の戦車乗りが酒を飲み交わして他愛のない話で盛り上がり、皆焚き火の灯りに照らされてガンテスは蒸気戦車の砲身にしがみついて何かを叫んでいたりじゃれ合いから急に殴り合いの喧嘩になって途中から隊長とグリュン、ニケとドネレグの雪合戦が始まったり。そしてニケの弾くギターの音色に合わせて歌を歌っていたりして酷い寒さをものともせずに楽しんでいた。リチトは未だに1番年の近いグリュンとすらも会話をしないで黙っている。
「おいリチト!こんな時くらいたまには笑ってみろよ!」
「……」
ニケの言葉にリチトは耳を貸さず木の丸太に腰掛けたままブランデーを揺らして眺めている。そのまま歌はブランデーを揺らめかすように流れるように続く。
「そいつは人形だから仕方ねえよニケ、にしてもなあ隊長!聞いてくれよ、新米のグリュン君は故郷の誰かさんから手紙が届いてたらしいぜえ」
「なっ!ドネレグさん!?」
声が裏返った若いグリュンは手紙のしまい込まれている胸ポケットをか細い手ですかさず抑える。
「それはあ、興味深いなあ」
戦車長は酔いが回っているのか滑舌が微妙に悪くなってきている。
「女なんだろうグリュン、ゲロっちまえよ」
「だから違います!父親ですよ!」
そこからはドネレグの執拗なグリュンの恋人説の押し付けとグリュンの鉄壁の父親説の真実の応酬が続いた。まさに『アンナの酒樽』は雪が舞い落ちる中、波を打って揺れている大きな酒樽のようだとグリュンは思った。そしてグリュンの中で押し殺していた何か重たいものも穴の空いた風船のように萎んで、最後には顔が真っ赤になるほどの笑いと酔いが残った。軍に入隊してからというもの、こんなに子供のように楽しんだのは始めてだった。
酒を浴びるほど飲んで蒸気戦車の砲身にしがみついて唸っていたガンテスが宴の席に近づいてきた背筋をぴんと張った3人組の人影を見て驚き、手足を滑らせて白い雪の上に落ちた。
「ベグライト曹長はいるか!?」
そんな酒で熟した宴の果実に新品のサヴァイバルナイフのように鋭い声が突き立てられた。実際にエル少尉は鋭く研がれたナイフを焚き火から出た光の波が中を通って黄金色にゆらめいている酒瓶の並ぶテーブルの上にどす、と立てた。何よりグリュンが驚いたのは昼の通信で凛々しい男の声を連ねていたエル・イオパルド少尉が気品のある麗人、銀髪の女性であったことだった。
しかし彼女の鋭い声は一瞬しかその甘ったるい雰囲気を引き裂けなかったらしい。エル少尉の細く尖った銀糸の眉が強張った。エル少尉の背後に控えたライフル銃を備えた兵士2人組は密かに笑いながら耳打ちしている。
『アンナの酒樽』以外の4個部隊を含めて揃う第2小隊は先程、再補給地点にて集結を完了した様子だ。
酔っ払ってふらふらと立ち上がったベグライトは無理矢理両の手を脇につけ直立不動の姿勢を見せた。
「お疲れ様です少尉殿!いや〜酒を飲み交わすには良い日和で!どうです、久々に一杯やりませんか!?」
そう言ってまたふらふらしながらエレクブランが一杯に入った酒瓶を1つ差し出した。
「ふざけるのもいい加減にしろゲンヴァー!明日は戦地へ前進するのだぞ!お前はそんなだからいつまで経っても昇進せんのだ!!」
怒りをその橙色に照らされた白い顔に宿して差し出された酒瓶を払い飛ばすエル少尉。
「冷えて折角美味く熟したエレクブラン酒が、もったいないぞ泣き虫少尉…」
「な、なんだ…と…貴様!」
ベグライトは嘲笑うように微笑んで見せた。そして腹が煮え繰り返ったエル少尉は焚き火の光が届かぬ闇の奥へ
「明日の夜明け前に出発だ!準備をしろ!」
男勝りな彼女が消えた闇の中から怒号を響かせた。
『アンナの酒樽』のトレードマークである35式蒸気戦車の側面装甲の目立つ位置に描かれた肉付きの良い女がバンダナをつけた黒髪を風になびかせて酒樽を背負っている絵の口を閉じて笑っていた女が口を小さく動かして喋りかけてきた。
あの人、諦めなかったのよ-
えっ?
エル・イオパルド少尉は聞いたところベグライト・フォウ・ゲンヴァー曹長の士官学校時代の同期であるらしい。ベグライト戦車長は宴の席でエル少尉のことを昔から優秀な堅物や真面目過ぎる馬鹿、軍の可愛いアヒルなどと悪口とも褒めているとも取れる言い方をしていた。
結局その後も呑んだくれて蒸気戦車の中で寝込んでいた『アンナの酒樽』は公国陸軍兵士の「起床!起床!前進準備!前進準備!」という力強い号令で叩き起こされた。あたりはまだ暗い。そして酷く寒い。
夜明け前に集結した35式蒸気戦車全5両で総勢約30名の第2小隊はヴェスタ帝国の最前線へ向け前進を開始した。生き物の焼け焦げた臭いと公国軍兵士達の喧騒の声が遠ざかり、やがて5両の蒸気戦車の重なって響く動力音と外の白い景色だけが残った。
「ったく少尉殿はなんであんなに五月蝿いんですかねえ」
「あいつは愛国心の塊のようにも見えるが、本当は俺たち出来損ない部隊の同胞にも死んで欲しくは無いだけなのさドネレグ」
灰色の声に一瞬たじろぐドネレグ。
「ま、俺あ女とヤれりゃあ何でもいいんですがね」
「少尉殿はやめた方がいいな、泣き虫だし」
「…もしかして隊長殿?」
ベグライト戦車長は微笑むと深い溜息をついて白い水蒸気を撒き散らした。
ドネレグはにやにやしながら通信機器の前に座るグリュンを見た。彼は昨日の喋りかけてきた不思議な女性の絵を思い出してぼーっとしている。
「そんなボケっとしてたら追いかけてくる女もいねえぞグリュン」
「ドネレグさん、そういうのはまだ…」
「まあ、解る日がくるか」
ドネレグはそう言うと蒸気戦車の装填装置を手で触れて確認した。
しばらく白い雪原の中を1列縦隊を維持して進む5両の35式蒸気戦車。
はっとしたグリュンは胸ポケットから父の手紙を取り出してゆっくりと続きを読み始めた。
-『あの場所で母さんはプロポーズした父さんになんて言ったと思う?-ごめんなさいの一言だ。その時父さんはとてもショックだったよ、でも初めて劇場で出会った母さんの美しさに父さんの時間は止まってしまったんだ。劇のポスターを見ながらポップコーンを小脇に抱えて入り口に向かって歩いてた父さんは美しい柳の木に命を吹き込んだような母さんにぶつかってポップコーンを撒き散らしてしまった。謝りながら手を差し伸べてきた女神の淡い瞳に父さんの時間は飛び散ったポップコーンですらそのまま宙に浮いて止められてしまったんだ。
-いいかフィ、時が止まればそれは正しい恋だ。正しいやり方を身につけて時を動かして育てていけばそれは愛だ、大切にしなさい。17歳の誕生日おめでとう。-本当ならケーキでも送ってやりたかったが軍部の連中に差し止められちまってな-』-
父さん-
グリュンはその達筆な字で書かれた最後の文の下にあるブランコの絵をしばらく眺めていた。
すると蒸気戦車のエンジンが壊れたバネのような妙な音を立てて急停止した。-故障か?
停止してからすぐにエンジンルームを開いて丸眼鏡をかけ直しエンジンを隅々まで確認するガンテス。表情が曇り出す。
「おい、大丈夫なのかガンテス?」
ドネレグはすぐさまガンテスに問いかける。ベグライト戦車長は壁にもたれて腕を組み帽子を目元が隠れるほど深々と被った。
「ビームに取り付いたエンジンゲートスプリングがいかれたんです、これは時間がかかりますよ。もしその間敵に遭遇したら…」
…今度こそ、死んじゃいますよ…
ガンテスは呟いたつもりだったが、ニケが髭をぴくりと動かした。
「レイモンドは仕方ない、それにあの時は結果的に全員助かったんだ!いちいち喚くんじゃねえぞ、ガンテス」
ニケの黒い毛に覆われた恐ろしい表情が髪の毛の間から覗いた鋭い眼光とその太く低い声から感じ取れた。
あの時とは、きっと僕が代わりに来る前の通信手が負傷したときのことだろう。
昨夜までの暖かかった記憶が若いグリュンの胸の中で急に冷め始める。
4両の車列はエンジントラブルで停止した『アンナの酒樽』を雪原に残して過ぎ去っていった。どうやら特殊な部品の交換が必要で、修理にはかなりの時間を費やしてしまうとガンテスは弱々しく言って操縦手のリチトと修理作業を始める。グリュンは通信機器を用いてエル・イオパルド少尉が直接指揮して先陣を切る蒸気戦車に状況を報告した。彼女は憤怒した様子で了解し無線を切った。グリュンの耳に甲高い雑音が響き軽い頭痛がする。
「よしボウズ、お前と俺で周囲の偵察に出るぞ」
ニケは髭を触ってから鉄製の冷たいコンテナに格納されたライフル銃を二丁取り出して一丁をグリュンに手渡した。
外の世界をライフル銃を背負って歩くグリュンとニケ。外はしんとしてただ白いだけの雪原だった。
「グリュン、お前さんはファイアーンス区で召集されたんだろ」
ニケの髭から白い煙が吹き出す。
「はい軍曹殿、自分の家に1年前、青の召集令状が届きました」
そう言うグリュンの深緑の目は真っ直ぐ前を向いていた。
「何故戦争が起こると思う?」
ニケは少し俯いて歩きながら呟いた。
「美しい海と領地を奪おうと殺戮を犯す敵国から自分達の国を守るためです」
グリュンが訓練兵時代に教官に叩きつけられた言葉だ。
「いいやボウズ、戦争ってのは守るために起きるんじゃない。ざっくり言えばさ、人間てとっても弱い生き物なんだ。ほら」
ニケはそう言うと太い指先で小さな森の方へ駆けていく白い狐を示した。微かに昨日のアルコール臭がする。
「彼らは別に同種で殺し合ったりはしないだろ」
「しかし軍曹殿…」
グリュンは言葉に詰まって白い狐の小さくなっていく後ろ姿をただ見ていた。
白い雪原を戦地に赴いた息子と、同じく戦地に赴いた父親が並んで歩いている。
ニケ軍曹殿はなんで兵士になったんですか-
そう聞こうとして口を開いたグリュンをニケの言葉が遮った。
「おっ!民家があるぞ、伏せろボウズ」
確かに、よく見れば雪原の波打つ丘の間に青い屋根の小さな民家が1つある。『アンナの酒樽』からはまだ遠く離れてはいない。
「敵がいるかもしれん、弾を確認してついて来い」
低く屈んだ姿勢で民家に近づく2つの白い影。玄関先には古びた車が一台止まっていた。
民家の窓の下から中を覗くと、誰もいなかった。
両脇から玄関の戸に近づくニケとグリュン。
グリュンに緊張が走る。
入るぞ-
ニケは節だらけの太い指で玄関の戸を静かに開き、中に突入した、上の階で小さな物音がする。
グリュンは訓練通りライフル銃を構えて先に突入したニケの背中から隅々まで部屋を確認してニケと分かれ、先に階段をゆっくりと上がっていく。物音がする部屋の戸にゆっくりと息を殺して近づき、耳を押し当てた。中から窓際で皿を洗う1人分のさらさらと鳴る音が聞こえる。
敵は呑気に皿洗いをしている、もし気づかれていたら敵は銃を構えているはずだ。落ち着けグリュン-
グリュンはゆっくりと引き金にかかる人差し指に力を加えて息を呑み心の中で3秒数えた。額の古傷が少し痛んで身体からじんわりと汗が滲む。
-『3』-『2』-『1』-
どん、という目を見開いて戸を開け放つ音とともにグリュンのまだ青さの残る警告が部屋に響く。グリュンの小雪のついた鼻先をくちなしの花の成熟した熱を帯びた香りがふわりと漂った。
「銃を捨てろ!」
美しい水滴がゆっくりとタイル床に落ちて-弾ける。
しかし、グリュンはその光景を見て口を小さく開いたまま強張った両肩の力が抜けてしまった。リチトとは違う、蒼いガラス細工と金糸の布を融合させたような声がする。
「兵隊…さん?」
-いいかフィ、時が止まればそれは正しい恋だ-
そこには一級品のヴァイオリンのように滑らかで、そして湯気の立っている艶めかしい肌色の背を向けたグリュンの目線ほどの背丈で蒼髪を濡らした女性の裸体がある。皿洗いのように聴こえたのはそのすべすべの肌にシャワーの湯水が夏の小雨のように注がれていた音だった。その水滴の滴る桃のような肌に触れれば柔らかく溶けてしまいそうで-肩甲骨の真ん中に少しばかり浮いている背骨に触れて桃のような尻の上まで伸びたシンフォニーブルーの蒼く生き生きとした髪は窓から差す太陽とシャワーの湯水を浴びて毛先まできらきらと濡れている。成熟した女性を強調した兎の、いや馬のように美しい膨らみのある尻の輪郭が緩いカーブを描いてしまりある清潔な白い足首に繋がっている。そして彼女はシャワーの蛇口を柳の木のように滑らかなその伸ばした手先で止めた。そのとき不意に細くくびれている身体に走るしなやかな肋骨のある脇から見えてしまった雨に濡れて熟れた果実のような乳房。顔を赤らめたグリュンに背を向けていた蒼髪の彼女が横を少し向いた時、彼女の蒼い髪の間から覗く色気のある薄い唇と鼻先が見えて最後に整った睫毛にどこか幼さを感じる薄紫の奥ゆかしいコバルトヴァイオレットの瞳とゆっくり目が合った。
音が聞こえない、景色が見えない。コバルトヴァイオレットの薄紫の瞳と薄い唇、そして蒼髪の彼女の美しい裸体はグリュンのラグーングリーンの揺れる瞳には舞い降りた蒼髪の天使にしか見えなかった。
全ての感覚と意識が彼女に吸い込まれるグリュン。
そのときには既にグリュンの身に今まで感じたことのない動悸、どくんどくんと波打つ胸の高鳴りとぼーっとするほどの高熱が襲いかかっていた。
なんだこれ-息苦しい-
「とても-綺麗だ-」
自分の発した言葉が部屋を反響し、はっとして目を逸らす。そしてぎこちなくあたりを見回すグリュン。心臓が勝手に踊っているようだ。
-どうしたボウズ!大丈夫か!?-
「敵兵はいません!異常ありません!」
まだ1階にいるニケの言葉に素早く戸の方を振り向いて返答したグリュン。彼は目を合わせずに美しい背中を屈んで怯えている肉付きは美しい女性なのにその瞳にはどこか幼さを浮かべている彼女に届かぬほど小さな言葉をかけた。
そしてグリュンはライフル銃を背負ってそのくちなしの花の香りと水蒸気の煙が薄く漂うシャワールームに背を向ける。
服を着て静かに待ってて、僕は敵じゃない-
コバルトヴァイオレットの瞳を潤ませて肌着をかけた彼女はグリュンの背中を見つめて怯えた表情で小さく呟いた。
本当…に…?-
彼女はその場を去ろうとするグリュンの背中に蒼いガラス細工が縫い込まれた金糸の布をぶつけた。
「助けて兵隊さん、私をここから連れ出して…」
グリュンはまた止まって、彼女を振り返る。
まさにその2人の様子は芸術の盛んなディジェム王国に存在する有名な『天使降臨』の絵画のようだった。優しい日が差し込む雪の森林の水の滴る川面に翼の折れた美しい天使が舞い降りて狐の狩猟を終えて長靴から血を流している猟師の男に助けを懇願している美しく幻想的な風景がそこにあった。
グリュンは何も言わずにとにかく高鳴る心臓を落ち着けるために一度深呼吸をした。しかし彼女のコバルトヴァイオレットの瞳を見据えるだけでも苦しくなる。
魔術か何かか?-
「何があったんだい」
「帝国の人達が、パパとママを…ママはクローゼットに…隠れてなさいって…」
蒼髪の彼女は名をスカーレットといい、弟と妹を含めた家族5人でこの町外れの青屋根の民家で猟生活を営んでいたらしい。しかし我がシスル公国がヴェスタ帝国領土へと34式及び35式蒸気戦車を用いた電撃作戦を用いて進軍していた頃、1家庭2人ずつ若い子供を汽車で疎開させろという集団疎開令を発令しスカーレットの弟と妹は紅黄大陸西の海岸基地周辺へと疎開することになった。しばらくしてヴェスタ帝国の巡回警備の兵士達がこの家に現れ、スカーレットの父と母は帝国軍の兵士達に無理矢理乱暴に連れ去られたのだという。涙ながらに事情を説明するスカーレットをただ黙って膝をつき、見守るグリュン。
「僕が…助ける」
その時グリュンの胸には運命の熱がこもってきりきりと痛み、ラグーングリーンの目には強い意志が揺らいでいた。
こつんこつんとニケが階段を上がってくる靴音がする。
グリュンはスカーレットの肩を抱いて一目散に部屋を飛び出した。驚いたスカーレットの蒼髪がいちじくの花の香りと白い蒸気をシルクの糸のように家の中を撒き散らし外へ飛び出していく、隣の部屋でグリュンは何着かのスカーレットの着れそうな服をクローゼットから掴みだした。スカーレットは小さなペンダントをぎゅっと握りしめている「これはパパからのプレゼントなの」そう言った桃色の薄い唇を見てまた身体が熱くなる。手を引いて階段を駆け下り横切ったときニケが何かを喚いていたがそれも気にせずグリュンは古びた車にスカーレットを乗せて偶然付いていたキーを回しエンジンをかけた。操縦は訓練兵時代に軍用トラックの操縦訓練を受けていたため、問題は無かった。
頭は混乱して、しかし心は高鳴る方向へと身体を進ませる。目の前にある黒い轍のある雪道を見る。
ああ、どうしよう-
グリュンの頭の中は『アンナの酒樽』の仲間に助けてもらうべきであると警鐘を鳴らしていたが、心の奥ではそれに対する得体の知れない不安が鳴り響いていた。
軍服姿のグリュンと肌着1枚に上から暖かい羽毛の上着を羽織りグリュンから車にあった分厚い毛布をかけてもらって曇る車窓から外の玄関先に立つ黒い毛で覆われたニケを見つめるスカーレット。
グリュンは自分がどうにかなってしまったと理解しつつ車を走らせる。
絵画『天使降臨』には続く物語があるとディジェム王国の作者は伝える。翼の折れた天使を助けた若い猟師はその美しさのあまり一生人間のまま側でいて欲しいとその傷ついた翼を剥ぎ取ろうとする、そして彼は見限った天使に狐のように食い殺されてしまう。最後にその天使は人を殺したとして天界から追放され、殺人を繰り返す雪国の美女として寿命を全うし底なしの地獄へと堕ちる。
青い屋根の民家が暖かな日で照らされている。
遠くに走り去る古びた車に乗った焦燥で包まれた深緑の瞳の若き少年兵と真っ直ぐに伸びた蒼髪と不安に満ちた薄紫の瞳の若き敵国の少女。今、その2人はただ外の白く烟る世界へと走り出すことしかできなかった。
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