大切な日
暗い夕方の森を抜けると優しい彼がいた。
「シャモア!ここよ!ダフネよ!」
ダフネは母の使い古しのローブに身を包んでいる。それでも十分なくらい神秘的な輝く洋人形の顔をローブの隙間から覗かせていた。
「ダフネ、こっちだよ。おいで」
貴族服の赤いジャケットに早くも身を包んでいた優しげな美少年、ドミスト・シャモア・パーグレイは貴族の血の証である手入れの行き届いた肌に目口鼻がはっきりとした男前の顔立ち、その整えられた金髪に隠されたフィエスタローズの桃色に限りなく近い瞳は人を惑わす魔力を秘めている。まさに大きな権威に相応しい風貌である。凛とした口から溢れる言葉の1つ1つは丸く磨き上げられた真珠のように人を魅了してきた。
シャモアとダフネの2人が並ぶとまるで偉大な魔法使いと彼に連れ去られてしまう異国の姫君のようである。
2人は夕陽に紅く塗り上げられたシスル城の地下秘密の暗い入り口を抜けてシャモアの部屋へと向かった。そこは本来なら逆向きに使うルートで、敵に攻め込まれた際使うものである。暗くてジメジメした通路をシャモアの後ろにぴたりとくっついて進むダフネ。
「わあ、凄いわ。これならどんな敵が来ても大丈夫ね!」
「敵は君かもしれないな」
シャモアの今まで見たこともない冷淡な顔にゾッとするダフネ。
「ええ?私が?」
ダフネの困惑してあたふたとした表情を眺めてシャモアは頬を緩ませ、にこりと笑った。
「嘘だよ、引っかかったね!」
「ひどいわ!レディに嘘つくだなんて!」
そんなやり取りをいくつかしているうちにシャモアの寝室にたどり着いたようだ。
シャモアが行き止まりの壁をずらすと光が差し込み、荘厳なシャモアの寝室が一望できた。神聖な森を象ったクローゼットが手前にあり、赤い絨毯が一面に敷かれ色とりどりの宝石がはめ込まれたフカフカの2人で寝れそうなくらい大きなベッドがある。そして大きな窓の外にはいくつもの星が瞬いていた。
「いけない、急がなければ!」
シャモアはローブを羽織ったダフネの手を引いて隣の部屋へと急いだ。そこには東洋系のきりっとした顔立ちのメイド服を着た怖いお姉さんがシアン色に輝いて薄く青いタイトな肩無しドレスを準備して待っていた。
「シャモア様、お時間が迫っております」
その感情の無い声質がダフネには少し怖かった。
「わかってるよバールリン、早くダフネに着せてあげてくれ。僕は部屋の外で待つ」
「ちょっとシャモア、私これを着るの?」
「舞踏会、楽しみだったんだろう?舞踏会はちゃんとしたドレスを着なきゃいけないんだ。あと、これをつけて」
水滴が流れていくような声でダフネに目元を隠すシアン色の仮面を丁寧に渡した。
「さあ、あとは僕を信じて」
確かにまだ幼いダフネにはまだ大人っぽいタイトドレスであったが、耳に残ったその真珠の言葉に従ってメイドのバールリンに着せてもらった。着てみると少しきつかったが、近くにあった大きな合わせ鏡を見るとそこには、公国の小さなお姫様が優雅なお辞儀をして立っていた。ダフネはその自分自身の姿に目を輝かせた。
ダフネは早速、部屋を出るとシャモアの手を取って2人で横並びに歩き出した。最初は慣れないドレスにつまづいたりもしたが、すぐにちゃんと歩けるようになった。
ダフネ、ちゃんと仮面をつけて。お忍びなんだから-
耳元で真珠が3つ転がり、はっとしたダフネは手を繋いだ反対の手に持っていた仮面を目元に付けた。
シスル城の廊下はとても綺麗でうっとりとする。角を曲がると同じように男女で手を繋ぎあって歩く貴族達が数組いた。大広間の扉前には背の高い2人の衛兵が槍を持って待ち構えており、シャモアが来たとわかるとその場で敬礼をしてすぐさま左右に扉を開いた。
そのときダフネの鼓動は高鳴り、少し目眩がしそうだった。あれほどフィルンの町から夢見ていたシスル城の舞踏会に来たのだ、無理もない。
大丈夫、信じて-
開いた瞬間どんという地響きが何度もこだまして扉の向こうにあるシスル公国が一望できる大窓に色とりどりの火の花が咲き誇っているのが見えた。
「綺麗だね」
「ええ、本当に綺麗だわ」
それから夢の時間はあっという間だった。私はいつも川辺でダンスの練習をしていたものだから特に大きな失敗は無かった。ずっとシャモアが優しくリードをしてくれていたからダンスがとても楽しかった。天井まである大きな窓に映る花火と一緒にダンスしている私達を見てただ純粋に凄いと思った。着ている薄く青い綺麗なドレスのスカートをひらひらさせて、ピアニストのお姉さんにピアノの弾き方を教えてもらったり、酔っ払ったおじさんがくるくる回っているのを皆んなで助けてあげたり。最後に集まった皆で盛大に歌を歌ったりして本当に夢のような舞踏会だった。シャモアも素敵な笑顔だった。
そしてシャモアの寝室で私の着ていたスカートとシャツと母のローブに着替えた。部屋に入ってきたシャモア。
「なあダフネ」
「本当にありがとうシャモア!とっても楽しかったわ!今日の日は絶対に忘れないと思う!」
「帰らないでくれよ」
「え…でも、私帰らな-」
ダフネはその時初めてシャモアのフィエスタローズの瞳が本当に悲しくて死んでしまいそうな彼の暗い表情を見た。
「一緒に暮らそう、あんな汚いところにいないでさ」
「確かに…確かに私はこの場所を夢見ていたけど、フィルンの町は汚くなんかないわ、だって私の大切な家族がいるもの、シャモアにも大切な家族が、いるでしょ?」
ダフネの濡れた金髪を結わえているエメラルドグリーンのゴム紐が小さく輝いた。
「なんで…なんでだよ…僕には…」
「シャモア…?」
シャモアは強く拳を握りしめて下を向いている。ダフネは身の危険を密かに感じ始めていた。
「母さんは自殺したんだ。あの戦争が終わってから…すぐに」
「何…何の話よ…」
「父さんはそのせいで気が狂った、人が大勢死んだのは貴方のせいだって母さんが…だから私が死ぬって…父さんはそれから変になっちゃって…」
「シャモア?私わかんないよ、けど-」
小刻みに震えているシャモアに近寄って触れようとするダフネ。
「やめろ!僕に触るなアア!!誰も僕を知らないんだ!誰もわかろうとしないから、だから痛い!だから独りでずっと痛いんだ!気が狂いそうで毎日毎日痛いんだよ!」
近寄る手を払いのけて顔を上げダフネを睨むシャモアの目は血走っている。
しかしダフネは怯まずに距離を詰めて静かにシャモアの鼻先に自分の鼻先を近づけた。
「ダフネ、何を-」
急に近づいてくるダフネの表情に怯んだシャモア。
「母さんが人に優しくするにはこれが1番だって-」
ダフネはその青く澄み渡った満月の浮かぶ海を湛えた瞳を閉じてゆっくりと潤んだ唇をシャモアの閉じた唇と重ねた。
遠く小さな三日月の明かりが重なり合う2人の影を冷たく静かに照らしている。
一歩後ずさるシャモア。しかし身体から重い何かが抜けて行くような感覚を味わってそこに止る。目を閉じていたダフネの瞼から涙が溢れている。それを見た拍子にシャモアの心に押し留めていた母の姿が堰を切ったように頭の中に溢れ出した。
「きゃあ!」
ダフネに平手打ちをするシャモア。悲鳴を上げるダフネ、そのフィエスタローズの瞳には狂気が渦巻いていた。
「やめろ!そんなもの全て嘘だ!まやかしだ!あんな母さんなんて最初からいないんだ!!」
「やめて!シャモア、ごめんなさい!」
ダフネは壁に押し飛ばされた。
「衛兵!私の部屋に侵入者がいるぞ!捕らえろ!!!」
もうそこにはかつての優しげなシャモアの姿は無かった。ダフネにはその声も表情も、シャモアの何もかもが恐ろしく感じた。
逃げなきゃ-
すると元々部屋の外にいたかのようにすぐに扉を開けて入ってきた一般的な庶民の服装をした1人の男がいた。
「やっぱりあの金髪のお嬢ちゃんだ。さあ、逃がしてやる」
困惑したダフネに舌打ちした男はすぐにダフネを掴み上げ抱き抱えてその場を去ろうとした。
「待て!貴様、何者だ!?逃す気か!?」
シャモアが狂気を振り撒きながら叫んでいる。
「女に手を出す奴は好きでね、お前も一緒に来い」
身体のでかい男は振り返ってシャモアのみぞおちを蹴飛ばし、気絶したシャモアを肩に抱き抱えた。
ぐお、ぐおおぁう-
男は2人を連れて階段下の薄暗い大きな部屋に入った。そこで寝かされたシャモアと座らされたダフネ。あたりには粉々になった大理石と微かに女の人の形をしたものと-
ダフネはそれを見てはっと息を飲んだ。
蝋燭の灯りで照らされた生きている女の人がいる。
「いや違う、あれは作り物だ。生きちゃいない」
しかしそう言った男は誇らしげに笑っていた。彼は名をシャガールといい、シャモアの父に依頼されてその奥様。つまりシャモアのお母さんの石像をこの部屋で作っていたらしい。
「こいつが怖いか?」
シャガールは気絶したシャモアの背中に触れる。
ダフネは黙って震えながら小さく頷いた。
ダフネにとってこれほど大きなショックは今までなかった。
「だけどな嬢ちゃん、そりゃおめーさんが見てるからなんだ」
「見て、る…か…ら?」
ダフネは嗚咽混じりに聞き返す。
「見ちゃダメだ。ただ耳で聞いて、肌で触れればいいのさ」
「わか…ない、よ」
無精髭を右手で大きく
「やってみればいい」
シャガールは全く恐怖を感じさせない不思議な親密感をダフネに抱かせた。
言われた通りシャモアの微かに温かい身体をゆっくりと後ろから抱きしめて耳を背中に当てた。優しいリズムで心臓が動いているのがわかった。シャモアの真の優しさに触れられたような気がする。眠っている横顔の頬に一筋の流れ星が落ち、彼が小さく「許…し…て…」と呟いたのがはっきりとダフネの耳に届いた。薄暗い部屋に暖かな橙色の風が吹いた。
私の方こそ-
うむうむと目を閉じて何回も頷いたシャガールがゆっくりと口を開いた。
「その子の深い傷を癒したいかい?」
シャモアは小さな寝息を立てている。
「ええ…もちろんよ」
ダフネの青い瞳は真っ直ぐにシャガールを、濡れた金髪を耳元で結わえていたエメラルドグリーンのゴム紐は小さく輝いていた。
「じゃあ俺の知り合いにそれ専門のやつがいる。そこへお前達2人とも連れて行ってやろう、なあに怖がることは無い。靴をちょいと履き替えるだけさ」
シャガールはにかにかと笑っている。
「シャモアのお父さんは…」
「そいつの親父はまた後で俺がなんとかする。さあさあ、出発だ」
彫刻家シャガール・ブラウは重い腰を上げて大きく伸びをした。
公国立国記念日を終えて灯りの消えたシスル城がゆっくりと深淵の眠りについた。
その日はダフネにもシャモアにも絶対に忘れることのできない大切な1日となった。
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