雨の中で火の中の彼
「おいフィヨルドくん!朝だぞ!起きなさい!」
眩しい太陽を浴びて目が覚めたグリュンは腹の上に何かが乗っている気がした。腹の上に腕組みをした黒猫が乗り、グリュンのラグーングリーンの眠たげな瞳を見つめている。
「ふああ、私は疲れているんだよディック、昨日から疲れ過ぎて夢から抜け出せないんだ。だからこうして君と喋ってる」
うーんと寝返りを打った私の腹の上から飛び上がったディックは床にその長いつま先を立てて腰に手を当てて私を睨みつけている。
「だから、夢じゃないから!」
「現実で猫は喋らない!」
黒猫ディックがそのお洒落な右手を上下に軽く振ると私の身体と布団がふわりと風船のように空中に浮き上がった。
「うあ!やめてくれ!頼むから!」
「嫌だ!信じるって言うまでやめない!」
簡素な雰囲気のあるペテルの靴工房二階の空き部屋で私は猫に振り回されている。まさに異常事態だ。
下の階から爆発したような女性の甲高い声が響く。
「ブラウン・アズディック!父上に言いつけますよ!新米さんをいじめないで下さい!!いいですか!!!」
「ニャア!!」
黒猫ディックは一瞬身の毛を逆立てると静かに私をベッドに下ろした。私はペテル・モーベットと書かれたパジャマを着て、いつもなら整えられていた黒髪の毛もくしゃくしゃの状態でベッドに座った。
下の階からかつかつと革靴の鳴る音が近づいてきて簡素な扉を元気よく開けて赤髪をなびかせたベラが入ってきた。
「グリュンさん!早速出かけましょう!!」
「そうだフィヨルド!出かけよう!!」
ベラのラグーングリーンの輝く瞳がさらに輝き出して高級宝石店のショウケースに置かれた磨き上げられたダイヤモンドのようである。ディックも同じだ。
「は、はあ…出かけるというと?」
「シャルル町ですよ!シャ・ル・ル・町!素材を揃えに行くんですよ」
「え?」
グリュンは困惑してボサボサの黒髪を掻いて額の傷に触れた。血の幻覚は無い。
「グリュンさん、ここはペテルの靴工房ですよ。まったくもう、靴の素材集めに決まってるじゃないですか」
「いや、だからその…」
グリュン・フィヨルドが聞きたいのはそこではない。彼の頭にあるシスル公国の地図にも、彼の知るシスル公国の全体地図紙にもシャルルなどという名前の町は存在していないということだ。
すると黒猫ディックがベラに耳打ちをした。やはり、人間のように。するとベラはとてつもなく驚いた顔をした。
「まあグリュンさん!?あなたシャルルに住んでらっしゃる人ではないのですか!?私はてっきり-」
「いや私は-その-」
言葉につっかえたグリュンは頭を抱えて考えた。
やはりあれだけの長い時間白い壁の迷路を彷徨った分、私の見知らぬ町にたどり着いてしまったというのか。しかしこれだけ私に幻覚症状が出てしまっている訳だから。なんとかしてシスル公国の我が家へ帰らねば。
するとベラが悩み込んでいるグリュンの少々筋肉質な手を笑顔で取った。
「とりあえず、行きましょう。私もあなたのことをまだ何も知りませんし、ここから出るだけでもきっと違う何かがありますよ」
「そ、そうですかね」
私より少し年下の赤いふんわりとした長い赤髪が素敵なベラ・モーベットが口の端を上げて笑った。そのにこやかなシルクの表情は私の胸の中の暗い海に安らかなさざ波を立てた。
私は着替えてからベラと黒猫ディックとともにそのシャルルの町に出かけることにした。
階段を降りて昨日のダーダネラの目玉絨毯の部屋の入り口を通り過ぎて(通り過ぎた時にダーダネラと目が合ってゾッとした)真っ直ぐ行くと不思議な銀でできた林檎や小さな船や空飛ぶ気球を模した装飾で飾られた玄関がある。扉の装飾は特に細かくて、まるで木で作られた広い街を空から見て切り取り、そのまま縮小して扉の表面にぴったりと貼り付けたような造形だ。よく見ると、街の造形が小さく動いている。
ベラがその洋人形のような白い指先で金のドアノブを舐めるように握ってゆっくりと開ける。その様はまるで童話小説に登場する主人公のようであった。風が工房の中へと吹き込み、そのとき扉の街のような装飾がざわざわと音を立てたかのように揺らめいていた。
「理解できない」
「そりゃね、仕方ないよ」
小さな黒猫ディックはそう言うとグリュンの肩にとび乗った。
赤で埋め尽くされた淑女とどこか重い雰囲気の男とその男の肩に乗った1匹の黒猫の3方は開いた扉の奥に青空とともに広がるシャルルの町に出た。
ペテルの靴工房の内装は不気味なお化け屋敷のようであったが、外から見ると存外普通の建物で普通ではないところといったら赤い瓦屋根から突き出た煙突が金管楽器のように一回転して捻れているところである「あれはサンタクロースが家に入れないようにしてるのよ、父がサンタは嫌いだって」それにシャルルの町もどうやら見かけ上は普通の町であった。昔グリュンが父クロコダイルと訪れた海産物が盛んなディジェム王国にあるシュルージュの町にシャルルは少しばかり似ていた。歩けば威勢の良い魚屋や壺屋、肉屋や八百屋の主人の売り文句の声が海飛沫のように舞い上がっていたものであった。その賑やかなシュルージュの町で1度父とはぐれてしまい迷子となったグリュン、そのときに賑やかな市場で見た死んだ豚や魚達の目が今だに思い出せる。とにかくあれは、怖い。やしかしこのシャルルの町、どこか変だとは思ったが売り物がどことなく異様だ。三角形の何に使うかも分からない鉄の棒、黄色い液体の入った球のフラスコにどう見ても怪しげな形のマント、極めつけには生ゴミのような異臭のする見たこともない爬虫類型生物の干物。
そんなシャルルの町を歩いているグリュンは隣で歩いているベラと会話しながら、時に黒猫に頬を突かれながらシャルルの不思議で賑やかな町を進んだ。
「それで、ここは一応シスル公国にある町で正しいんだな」
「ええ、そうよ。正確には…」
グリュンは町の周りの風景を見渡すが、シスル城も無ければアグリネイト山脈も無い。あるのはただ、青空と賑やかな町の風景。やはり、騙されているのではないかとグリュンは眉をひそめる。その答えは案外すぐにベラの一言によって明らかになった。
「シスル公国は、この上にあるんですよ」
「そうだよフィヨルドくん!上にあるんだ、上に」
ベラは熟れた淑女の唇を震わせて長くぴんとはった人差し指で天空を指し示し、黒猫ディックは胸を張りグリュンの肩の上でベラと全く同じポーズをしてみせる。
「へえ、上にねえ…」
もう昨日からの度重なる疲労でもはや疑う気力すらないグリュンはくまの出来たラグーングリーンの深い瞳を上空にある青空と白い綿飴のようにふわふわとした雲に向けて小さくそう呟いた。
「あ!フィヨルドくん!もし戻りたかったら僕に言ってよ!今度は白回廊とは別ルート使うからね!」
どうやら私が昨日迷い込んだ白い壁と石畳が永遠に続く場所は白回廊と呼ばれているらしい、しかもそこはこの町を目指す数多の怪物をこのシャルルの町に踏み入れさせないために先代の住民が作った防壁であり、永遠の迷路だというらしい。自殺した者の魂をシャルルバーニュの大魔法使いと呼ばれる輩が拾いあげ、その魂を猫や蛙等の小動物に転生させ守護獣を産み出す。その守護獣達を白回廊に放ち、白回廊に溢れる数多の怪物達を元の世界へ戻させる仕事を与えているらしい。どこまでが本当なのか、今のグリュンには分からなかった。しかし、黒猫が人間のような仕草をする。そして人間の言葉を喋る。さらにその黒猫が自殺した元同僚だと言う。それら全ては本当のことであった。
「だから僕は魔法が使えるのさ!」
肩に乗った黒猫ディックは金色の縁取りが入った黒目で私を嘲笑い右足、いや右手の肉球で頬をグイグイと押す。彼に言いたくはないが、気持ちがいい。しかし急に、頭が痛くなってきた。
どうやらシャルルの町は私の記憶に微かに残っていた灰色戦争の時に行軍で聞いたことのあった魔法使いの国の伝承に出てくるシャルルバーニュそのものであるらしい。-酷い頭痛がしてきた。
歩いていたら急に泥沼の味が口中に漂ってきた、辺りには雨が降り敷きる音が響き渡り。景色がぐわんとぼやける。そして誰かが、叫んでいる。
「敵はこっちだー!!11時の方向!敵の砲兵及び中戦車1両!!!」
銃弾が飛び交う音がする。グリュンは気がつけば泥だらけになった公国貴族陸軍の薄い緑色に臙脂色の縦のラインの入った戦闘服の格好で深い泥沼から起き上がりライフル銃を手にして降り敷きる雨の中立ちすくんでいた。足に冷たい泥の感触が伝わる。周りは密林で足元には泥にまみれた深く幅の広い川があり、グリュンの目の前には高い土手に走って向かう同じ戦闘服姿の何十人もの若い男達がいる。そしてその誰もが必死の形相で駆け抜け、1人は頭を1人は足を撃たれて倒れ込んだ。泥と血が混じった飛沫が放物線を描いて飛ぶ。銃弾が腹に命中した者は赤く脈打つ臓物を腹に空いた穴から垂らして人形のように動かなくなって泥の中へゆっくりと沈んでいく。
1人の男がグリュンに駆け寄りその肩を掴んで仰向けに押し倒した。彼は上官だろうか、グリュンに向かって叫び散らしている。グリュンは大粒の雨が目に入って目を覚ました。
「グリュン二等兵!お前の任務は何だ!!公国のため!任務を全うしろ!!!行けっ!行けー!!!!」
いくつもの閃光の光が死体の埋もれた泥沼を照らしている。死にたくない…死にたくない!グリュンは片目の取れかかった同じ軍服の死体と目が合って底知れぬ恐怖に襲われたが、生きるため。土手に突撃した。
「支援砲撃はまだか!まだなのか!」
皆が何かを叫んでいる。なかにはただ震えてぶつぶつと何かを訴えながらライフル銃を抱きしめて土手にすがる者、必死に敵に撃ち返している者。気が狂って降り敷きる雨の中土手から敵方へと突撃していく者。みんな、死にたくはなかった。
このシスル公国のある青大陸から西へ遠く離れた紅黄大陸の海沿いにあるシェルコーラル国で我々公国貴族陸軍はシェルコーラル軍に対し大戦果を治めていた。東の海岸線から空爆を行いつつ陸から侵攻していった我々はシェルコーラルの長い山脈を抜けてとうとう敵国の首都付近であるムラサメ密林地帯まで進軍していた。しかし前線ではシェルコーラル軍の猛反撃に遭い、もはやグリュンのいた前線は死屍累々であった。
ここに行軍してくる時、ディジェム王国からの増援部隊にいた1人の衛生兵の少年と悪路に少々揺れながら走る頑丈な軍用トラックの荷台で居合わせて仲良くなり、話をした。
「グリュンの地元ではブッティガッシュっていう食べ物が有名なんだよね。あれ、食べてみたいなー」
赤十字の腕章を持つ彼はグリュンと顔を合わせて笑っている。
「うん、あれはとても美味いんだ。特に父さんが作るのは格別なんだ」
「じゃあさ!今度グリュンの家に食べに行くよブッティガッシュ!」
若かりしグリュンの表情が影を落とす。
「でも……」
「だって折角出会ったんだから、どんな理由で出会ってもそれは大切な出会いだよ。僕ブッティガッシュ食べたいし、もうグリュンと友達だから、いいだろ?」
「そ、そうだな。友達、だな。ははは」
「あっ!それに君の地元には魔法使いの国の言い伝えがあるそうじゃないか!」
そんなものはあの饒舌な私の父からも聞いたことが無い。しかし、興味が湧いた。
「僕の家族は昔旅商人をやっていてシスル公国の近くにあった村に商いで訪れた時に聞いたことがあるらしいんだけど-」
衛生兵の少年は魔法使いの国がどういうものであったかという話を長いこと話してくれたが、とうの私はぼんやりとしていて詳しいことはよく分からなかった。話し終えた衛生兵の少年とグリュンはとうとう黙り込んでしまい、互いに軍用トラックに乗せられて任務を控える衛生兵と二等兵の2人となった。戦場に着くまで、何も話が思い浮かばなかった。若い2人に戦争は重すぎたのだ。
敵の中戦車の砲撃で地面が揺れたかと思えば近くの土手が一気に弾けて同胞達が何人か紙吹雪のように吹き飛んでいく。その中に上半身と下半身に分かれたまま助けを求めている男がいた。銃弾の雨と勢いを増す雨と砲撃による爆発と燃え盛る炎の中そこに向かう1人の若者がいた。衛生兵の彼だった。
「今助けに行くぞ!」
衛生兵の彼は戦場の炎の中、必死に仲間の手当をしている。
グリュンは必死になって敵に撃ち返していた。グリュンのラグーングリーンの目には戦場の血の洪水のような世界がゆっくりと流れていくように見えた。ゆっくりと見えてきたのは助けに向かう衛生兵の彼を撃とうとして狙いを定める敵の狙撃手だった。
「伏せろ!」
グリュンは気づけば走っていた。衛生兵の彼の元へ、その傷だらけの
気がついた時既に-私は
軍病院のベッドで眠っていた。
周りには勇敢な彼の姿は無かった。
賑わう市場で1人うずくまっていた。
心配そうに見つめるベラと黒猫ディックの姿があった。
「大丈夫ですかグリュンさん。やっぱり、素材集めはやめて1度シスル公国に戻りましょう」
「そうだよフィヨルドくん、やっぱりジャックのやつの適当のせいでかなり疲れちゃってるんだ。僕がこれからうちに帰してあげるから帰ってブッティガッシュでも食べるといいよ。あれ、美味しいだろ」
彼は…彼は…ダメだったんだ。
急に嗚咽をしはじめたグリュン。
「戦争で彼は最後に…俺を助けて死んだんだ!俺なんかこれだけの傷なのに、彼は腹と片足を撃たれていたんだ!なのに、何故私を…」
グリュンは目を見開いて前髪を右手でまくり上げてベラに自分の額の傷を見せて言い放った。ラグーングリーンの目は赤く潤んでいる。風がそよいだ。
グリュンは微かに震えてうずくまったままその白く透き通った肌に一筋の涙を流している。
どうすることもできないベラと黒猫ディックはただ、泣き続けるグリュンの側に居てあげることしか。それしかできなかった。
シャルルの賑やかな街に小さな風が吹いている。シャルルに住む人々は戦争を知っているのだろうか、皆生きていたいだけで死にたくないだけなのに殺し合う。あの戦争を知っているのだろうか。涙が止まらなくて嗚咽するグリュンの黒髪の丸い頭をそっと優しくベラは抱いた。ベラの暖かい身体とワイン色のエプロンと揺れる赤髪から薔薇の柔らかな香りが鼻先に漂ってきた。すると身体が火照り、余計に胸の中に押し留めていた涙の海が溢れてベラの赤い服に注がれていった。ベラの胸の中でグリュンはぽろぽろと子供のように泣いていた。
グリュンの履いている
するとベラが小さな声で囁いた。
「あなたに一足、靴を作りましょう。きっとこの世で1番、あなたに似合うあなたの靴を」
ベラは傷だらけの
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