白獣と少年
海のように深く青い空の下、遠く平原の向こうにある広大なクリーム色のカーテンのような城壁に囲まれたかの国。そこはシスル公国と呼ばれていて、そこには中央に聳える一際背の高いシスル城に住む豪華絢爛な貴族達を中心として繁栄と平穏に満ちた柔らかな世界が広がっているらしい。
僕の住むアカプルコ村はそのクリーム色のカーテンの外の遠い場所にある。村の周りはご飯をよそうお皿をまるごとひっくり返したみたいに平べったい草原が何処までも広がって何もない。いるのはもさもさの羊だけ。僕はこの小さなアカプルコ村で羊の放牧を手伝ってる。羊はメェとしか鳴かないって大人達は言うけど、僕にはわかるんだ。羊も羊達なりの言葉を使う。ほら、今お腹空いたって言ったろ?これ、僕にしか聞こえないんだ。
見渡す限り海のような大草原の中1人座り込んで羊達を眺める少年。冬の季節にはこの青々としたアカプルコ村が位置する大平原が北に位置する山岳地帯の影響で沢山の雪が降り積もりあたり一面が全て真っ白の世界になる。
細かい造形で様々な色の雪の紋様が散りばめられた深紫のアカプルコ村特有の民族衣装を纏い、風にたなびく髪は彼の一族に代々受け継がれているフロスティホワイトと名が冠される静かに雪が舞い落ちるような美しい銀髪だ。まだ季節は夏であり、羊達も少しばかり暑そうだ。彼の持つ青い瞳は母似であるがどこか暗いその表情は父似である。
「ちょっとルー?また羊と喋ってんのかい?ほら、あんた働き過ぎなんだ。あとは母ちゃんがやっておくからマリンくんとこ行ってちょっと遊んできなさいな」
この温かい布団のように優しい声の主は母さんだ。僕の名はルーブ、だから母さんはルーと呼んでいる。平原にざわざわと風が吹く。
「大丈夫、母さんだって色々疲れてるだろ。ほら部屋で休んでて」
母さんは色の薄い布衣にすす切れたバンダナをしている。今は父親がシスルに出稼ぎに出ているから代わりに僕と母が家の領地で羊達の世話をしているのだ。
「まあ、それは嬉しいのだけれどルーや、母さんが本当に嬉しいのはルーが楽しく遊んで元気でいてくれることだからね」
母さんは僕が村で変な子供として見られていることを心配しているのだ。たしかに羊と喋れるなんてどうかしてる。でも、喋れてしまうのだからしょうがない。母は蒼い宝石のような瞳を、ルーブはグレーがかった青い瞳をして互いに見合った。さっきよりも強く風が吹き荒れて草原がたわむように揺れる。母さんのさっきの言葉がやけに嬉しくなってきてルーブはにんまりと笑って駆け出した。
「ちょっとマリンに会ってくるー!」
「ちょっとじゃなくていいのよー、あとは母さんに任せて存分に遊んできなさーい!」
「羊達お腹空いてるから餌あげてねー!」
母さんは嬉しさに溢れた顔で駆け出したルーブを見送った。
同い年のマリンという少年はここから少し行った先に僕たちと同じように領地を設けて暮らしている。見えてきた-
「おーい!マリーン!夕立谷に行こー!!」
丁度マリンは一仕事終えたばかりらしい。マリンの父はこの村の村長でルーブの父とは仲が良く、たまにうちにも遊びに来るくらいだ。いつもなら怖い村長に止められるが、今日は忙しいのか外には出てきていない。ボサボサに伸びた髪を払いのけてルーブに走り寄る水色のバンダナの少年「おう!ルーブ!俺も行くよー!」そんなマリンと一緒にルーブは風吹く草原の中、夕立谷へと向かった。
夕立谷はアカプルコ村から北に歩いて1時間くらいかかるところの山にある小さな谷で、ここに僕達の秘密基地がある。僕らはいつもなら4人で集まってここで山道に散らばっている鉱石を集めてる。だから木々を何本も集めてたわませて作った僕らの自慢の秘密基地には宝石袋の山が出来上がりつつあって、最後には集めた沢山の光る鉱石を全部旅の商人に売っぱらって集めたお金で祭り行事の盛んな東のディジェム王国に遊びに行くという計画を立てていたのだ。
-夕立谷の秘密基地-
「なあルーブ、あんまり遅くまでいると今度こそ白獣が出るから気をつけようよ、しかも今日はデミルとルミミアもいなくて2人だけなんだよー」
村長の息子のくせにマリンは気が弱い。
「だーいじょーぶだってえ、今日はあっちに探しに行こうぜ!」
にっと口角を上げて笑ったルーブが指差した方向には子供には気高く見える小さな山がある。もちろんアカプルコ村はその方向と反対側だ。
アカプルコ村のルーブ家の石造りのキッチンにて今日の夕飯の支度をしているルーブの母の背中には少しの不安があった。最近、白獣が急にあらわれて遠くの集落で羊や馬が大勢連れ去られたらしいからもし今日ここいらの近くまで白獣が来ていたとしたら、どうしたら良いのかしら。
白獣とはその名の通り身体が白い毛で覆われている大きな獣である。この険しい山岳地帯側に構えられた西のシスル公国と東の豊かな海洋側に位置するディジェム王国に挟まれた草原地域。そこにある小さなアカプルコ村と他の小さな村々や集落などが密集する平原地方を総称してティンタリアス地方と呼んでいる。このティンタリアス地方に古くから伝わる伝承のうち有名なもので魔法使いの国、白獣と女、陸を滅ぼす海竜などがあるがこの小さなアカプルコ村で度々目撃されてその存在が示唆されているのがその白獣と女の話に出てくる伝承の魔獣、白獣である。
太古の昔、ここティンタリアス地方で1人のそれはそれは美しい女戦士が旅をしていた。その女戦士はとても美人で行く先々の村では宿に泊まるときは必ず護身用の刀を携帯し、夜分何者かに襲われた時は切りかかって撃退していた。そんな彼女が旅をしていると山道で急な大嵐に見舞われてしまい山奥で発見した小さな神殿に逃げ込み、そこで雨宿りをすることにした。彼女はその神殿で一夜を明かすこととした。しかし神聖な神の御前でふしだらな姿を晒した美女を影から密かに見ていた者がいた。その者は前に彼女が泊まっていた農村で彼女に次の村への道を教えた農家の優しい男であった。男は女のあまりの美貌に恋に落ち、狂ってしまっていたのだ。男はしんとした神殿の中彼女に忍び寄り、その傲慢な力で抵抗する彼女に乱暴をした。そのとき彼女は必死に神に願いごとをしたのだ。助けて下さいと。すると男はみるみるうちに巨大で邪悪な白い獣に姿を変えてしまい、神殿内に作り込まれた小さな池の水面に映った自分の醜い姿に絶叫して吹き荒れる嵐の中猛々しい雄叫びを上げながら消えていったのだ。一件落着に思えたがしかし涙を流し続ける女。実は彼女はその白い獣へと変貌した男の優しさに恋心を抱いていたのだ。彼女は神を恨んだ。何故こんなことになってしまったのかと、悲しみに打たれながら次の村に辿りついた。彼女は村の宿屋に泊まり、深い眠りにつく。夢の中で女戦士は焼け落ちて滅びた村にいつかの白い魔獣を見た。彼女は燃え盛る炎の中必死になって物言わぬ魔獣に寄り添い元の優しい男に戻って欲しいと涙を流し謝り続けたが、白い魔獣は何も返さずにゆっくりと女に背を向けてティンタリアス地方の北にある山岳地帯の奥へと寂しそうに去っていった。彼女が目覚めると部屋の床には人のものとは思えない白く長い獣毛が一本、落ちていた-というところでこのティンタリアス地方にしかない伝承の逸話は終わっている。
そんな白獣は伝承によると夜分に同じく罪を犯そうとする男の臭気に寄って来て一心不乱に暴れ回って生き物という生き物の内臓を食い散らかすのだそうだ。
夕立谷に夕陽が迫る。
ルーブは沢山の鉱石を見つけてマリンに見せびらかしている。
「こんだけの量が取れればきっとディジェムに行けるぞ!」
マリンはそんな張り切っているルーブを他所に山道の林内から望む遥か彼方にある気高い山脈をぼうっとして眺めている。それは山頂部が赤白く輝きその天からの贈り物のような山頂からかけられた淡いベールのように緩やかに流れている山峰を持つ一際大きな山脈。それはこの世界をしっかりと見守っているようにこの大平原に聳えるアグリネイト山脈だった。
「あなたのようになりたいですアグリネイト山脈」
「まあた、変なこと言ってら。ほら、もう少し奥に行ってみよう」
マリンは変な子だ。でも、僕と変わりない。
マリンも大概は普通の少年なんだけどたまに見せるその不思議な雰囲気が僕はたまらなく好きなのかもしれない。好きっていうのはデミルの姉のルミミアが好きって感じじゃなくてこう…なんていうか僕にとって大切な人って感じがする。今はそれでいい。
山林を抜けていくとあたりの日が陰ってきていることに気づいたルーブとマリンはもう少し鉱石集めをしようとは思ったが2人とも長い話の末、合意して帰ることにした。
「まあ、死んじゃったら仕方ないしな」
「そりゃそうでしょルーブ、たまったもんじゃない。折角集めた鉱石が台無しになるよ」
「うーん…そこじゃない気がするよマリン」
すると不意にがさがさと深く生い茂った草むらから怒気を荒げた男の声がした。
「おい小僧共!てめえらがここの鉱石を横取りしてる癖もんか!!」
「う、うわあああああああ!」
男はとても大柄で背中に黒く光る猟銃と腰に帯刀を携えている。その顔は怒りで歪み村の祭りでよく使われる白獣の面のようだ。ルーブはその男が恐ろしい山賊であると悟った。山賊の男達は自分の欲望のためなら何でもするような危険な連中だ。しかしこの山にはいないはず、しかしもし山賊であるならば僕たちは殺されて狼の餌にでもされてしまうだろう。男は殺意に満ちた顔でその豪腕を振るい叫び散らして逃げようとした僕らをその場から強引に連れ去った。
「離せ!離せー!!」
「てめえら生きて返さねえぞ、このヌルバさまの山を荒らしたとあっちゃガキでも許さねえ」
「誰か!誰か助けてええ!!」
ルーブとマリンの絶叫が山にこだまする。しかし、助けが来るような気配はない。
「僕らをどうする気だ!?食べるのか!それと-」
マリンは首根っこをヌルバの大きな右手で掴まれたまま丸太ほどの足で顎に蹴りを入れられて口から血を流し気絶した。ルーブは絶句した。ヌルバは荒い鼻息を漏らして野太い声で言った。
「うるせえ」
僕は息を飲んだ、マリンが死んではいないかと横目で見たがさっきまで冗談で死んでしまったら折角の鉱石が台無しになると口にしていたマリンの口から赤黒い血がぽたぽたと流れ落ちて大地を赤く染め顔は青く、目の焦点が合っていない。死んでしまった、のか。
殺される-!
僕は黙って目を瞑り神に祈った。助けて-と。
恐怖の山賊ヌルバは2人を引きずったまま暗い山道を奥へ奥へのしのしと歩き、小さな神殿にたどり着いた。神殿には微かに光が灯っている。
神殿は遥か太古からあるように朽ちてはいるものの、まるで生きているような石像達があたりにたくさん置かれており。その不気味な光景がさらに幼いルーブの恐怖を駆り立てた。
「こいつらを俺のガキにするぞ、マティナ!いるんだろ!出てこい!」
暗く静まった神殿の奥からぺたぺたと足音が聞こえてくる。
「出てこいと言っているだろ!マティナ!」
山賊ヌルバはまたしても怒気を荒げたかと思えば近くにあった白い柱を丸太のような足でごつんと蹴った。
「あなた、そんなにお怒りになさらず…」
神殿の奥からは白い肌を持つ綺麗な女の人が歩いてきた。彼女の服はぼろ切れの布だけのようで外に出られないようにされているのか裸足である。山賊ヌルバと一緒にこの不気味な神殿に来たようだ。
「フンッ、こいつらをガキにしてやるんだ。喜べマティナ」
「あら、なんて可愛らしい子供達なのでしょう」
僕は恐怖と寒さに震えて下を向いている。
銀髪がとても珍しかったのか僕の髪を撫でているマティナという女性。急に僕の耳元で彼女は静かに囁いた。
ごめんなさい-
その時僕ははっとして彼女を見た。彼女の目は虚で下を見ている。悲しみに溢れた雪のように白く美しい顔や手には紫色の痣や擦り傷がいくつもあった。
「ほれ、お前達の寝床だ。明日から働いてもらうぞ」
そう言って山賊ヌルバは僕たち2人を神殿にあった石造りの長椅子に藁を集めてできた寝床に放り込んだ。
僕は口に赤黒い血の跡が残るマリンを見て悲しみの涙を流し、気がついたマリンは同じく潤んだ目から冷たい涙を流した。マリンは生きている。ほっとした。
山の神殿に吹いた夜風が横になる2人の身体を次第に冷たくしていく。まるで2人の少年を氷漬けにするかのように。
ルーブは途切れかけの意識の中で優しげな男の人の声を聞いた。
私が悪かった-
何故そんなに悲しそうなのか、声の主は何者なのだろうか。
私が全て悪かった-
謝っても-謝り切れない-
償っても-償いきれない-私が悪かった-
彼女を傷つけた-
もし-愛してよかったのなら-
もっと柔らかく-言葉をかけて-
もう一度彼女に-会いに行けたなら-
傷つけたりせず-そっとその肌に触れたい-
そっと触れて-愛を確かめたい-
あの瞬間の恋を-触れて確かめたい-
でももう、それはできない-
聞こえてくる幻聴に悲しさを覚えたルーブは蒼い瞳を潤ませた。もう逢えないと確信したアカプルコ村の人々と優しい母と働き者の父が脳裏をよぎった。涙がまた、溢れた。
夜の山がざわめく、山賊ヌルバは何人もの人間を殺し略奪を繰り返した。マティナはその略奪のうち綺麗だと思って商業旅団からさらった娘であり、その後も他に何人かの女をさらってきたことはあったが気に食わないと言って無残にも焼き殺してしまったり切り殺したりした。しかしマティナだけは殺さずにこうして神殿に移り住んだ今でも側に置いているのである。沢山の血を浴びた残酷の身体がざわめく夜の山に得体の知れない何かの気配を感じとった。
何か、いるな。
とても低い音でグルルルルと喉の鳴る音が神殿の外から風に乗ってやってきた。
「あなた、外に何かいます。熊かしら」
マティナは怯えながら静かに泣いている僕たちのところに這い寄ってきて静かに抱きしめた。マティナの白く痣だらけの身体も、僕らと同じで酷く冷たかった。
「喋るなよ、喋ったらお前達ごと殺す」
山賊ヌルバはその鋭く研ぎ澄まされた感覚でそこにいるものが狼でも虎でも熊でもないさらに大きな獣であることを感じとった。背中に背負った大きな猟銃にそのはち切れんばかりの筋肉質な手をかける。
暗い夜に眠る神殿の入り口にそれは大きな揺らめく影が姿を現した。
「何なんだ、一体!」
山賊ヌルバは聞いたこともない唸り声を耳に、構えた猟銃でその影を捉えて静かに撃鉄を起こした。僕らとマティナは三人共強い恐怖に小さく震えている。
ウゴオオオオオオオオ-
影からゆっくりと大きな姿を現したのは4本足で歩く白く美しい毛並みの整った虎のような、しかしもっと身の毛もよだつような顔をした怪物だった。下顎には腰までの長さほどもある牙が2本天に向かって生え伸びている、宝石のような光を放つ白い毛並みで覆われた身体は大熊の約3倍以上はある。そして前足は大きく、入り口にある柱の2倍ほどはある大きさだ。顔はまさにルーブが村のお祭りの時に見た鼻先の尖った禍々しい白獣の仮面にとても似ている。しかし、その面に浮き上がっている両の瞳はどこか悲しげで今にも泣いてしまいそうな雰囲気さえある。
「やめて下さい!あなた!」
マティナは猟銃の引き金を引こうとした山賊ヌルバに叫んだ。
「黙ってろ!うるせえ!」
山賊ヌルバのこめかみに青筋が立ち、銃口をマティナに向けた。
「きゃあ!」
銃声が薄暗い神殿に響く。マティナの身体は一筋の閃光で撃ち抜かれて血飛沫が舞った。彼女は僕たちの目の前でゆっくりと崩れ落ちていった。
はや、く…にげ……て……。
血がマティナの白い身体を冷たく赤く染めていく。マティナの目から輝きが消えていく。
「くそう!皆殺しだ!!」
僕たち2人は一目散に走り出した、するとまた乾いた銃声が鳴り響いた。山賊ヌルバはもう1発走り出したルーブに向けて撃ったのだ。ルーブが嗚咽して膝を抱え、銀の髪をばさばさと揺らしながら床に転がりこむ。膝の先を撃ち抜かれたのだ。マリンは真っ青になってうずくまるルーブの元に駆け寄った。どうやら掠めていたみたいで血は致死量にはなってない。マリンは村長の父から譲り受けた少年らしからぬ直感と判断力で直ぐに自分の頭に巻いていたバンダナで止血した。
まさに神殿内は地獄と化している。
「へへっ、綺麗な白い毛皮じゃないか。殺して俺の服にしてやる」
白獣は動揺して気が狂っている山賊ヌルバに襲いかかる。山賊ヌルバはありったけの弾をその白獣の身体に撃ち込んだ。しかし、白獣は怯むことなくその巨大な爪のついた前足を振り上げる。あっけにとられて刀を抜こうとした山賊ヌルバ。白獣は音もなく神殿の壁へ向かって山賊ヌルバを強烈な力で殴り飛ばした。
ずしん、という重たい衝撃が神殿の池の水面を揺らした。
僕は一生懸命に手当をしているマリンの後ろからゆっくりと近づいてくる白獣の蒼く澄んだ瞳と視線を交わした。
もう一度-生まれ変われるものなら-
また頭に響く声。
彼女を傷つけたりはしない-
白い羽毛に覆われた魔獣はその欠けた刃のように尖った鼻先で近くに倒れている血溜まりの中で息絶えたマティナの美しい横顔を撫でた。
その姿は昔、神話の絵本で見た光景とまったく同じであった。
すると鈍く白い光がマティナの亡骸を包み込む。みるみるうちに赤い血溜まりが蒸発していき、肌はより白く美しく潤っていき。マティナはとうとう永い眠りにつく美しい女の白石像へと姿を変えてしまった。
背後の魔獣に気づいたマリンが恐怖のあまりルーブの後ろに後ずさる。
ルーブはその美しく白い魔獣の不思議な力に魅入られたのか神殿の冷え切った石床を這って白獣に近寄った。
私は彼女と同じ人間だった-
彼女は美しかった-
「もう悲しまないで」
私は今でも彼女と過ごした日々を忘れない-
「愛していたんだね」
彼女は最後まで美しく優しい女性のまま-
「……」
マリンは月の明かりに照らされた白い魔獣に喋りかけているルーブをただただ見守っていることしか出来ない。
彼女は旅立ってしまった-
「あなたはそれでどうしたの?」
私は追いかけて彼女に酷いことをした-
「そうなんだ、酷いことを」
穢れた私の記憶の中に-
許されない罪が今も眠っている-
「もう大丈夫だよ」
ルーブはその白獣の大きく毛深い前足に目を閉じて額をそっと、触れた。白獣の身体はとても冷たい岩のようだった。
だからこの身体で罪を償い続けている-
「あなたはもう十分罪を償ったよ、大丈夫。大丈夫だから」
そうか、私の罪を君が許して-
白獣から一滴の涙が零れ落ち、ルーブの月に優しく照らされた銀色の髪の上に落ちた。
1人のすがりつく少年と大きな白獣を月明かりが照らして深い影を落とす。その姿は神に祈りを捧げる少年と悲しげな魔獣の石像のようであった。
ぐさり、という刺した音とともにルーブに赤い血が浴びせられた。白獣の口から大量の血が溢れ出ている。
「ぐあああ!この俺が山で、はあ…死ぬ訳には、はあ。いかねえんだよ!」
白獣の横腹に野生の執念だけで立ち、大きな刀を白獣に突き立てた傷だらけで血だらけで片手と片目すら失った山賊ヌルバがいた。
グルオオオオオオ!!
白獣の低い雄叫びが神殿を揺るがす。
帰りなさい、銀髪の少年よ-
「待ってマリン!何か方法が!」
「死んだら終わりなんだ!早くここから逃げるんだよルーブ!!」
鬼気迫るマリンは隙をついて血だらけのルーブを背負いあげ、山の神殿から逃げ出した。
走るマリンの背中にしがみついたまま後ろを振り返るルーブ、神殿からは凄まじい白獣の雄叫びとともに周りの植生植物や木や大地が次第に石化していく様子がまるで大地に灰色の大波が押し寄せた光景のように見えた。
ルーブの耳には白獣の悲しげな雄叫びがその後も深く響き続けていた。
途中の夕立谷を出たあたりの草原で意識を失った2人だったが、真夜中になっても帰ってこない2人を探していたアカプルコ村の人々に助けられた。
-ルーブの家-
ランプの灯に照らされたベッドの上に包帯と絆創膏を貼られて横になるルーブ。母は側で優しくルーブの長い銀髪の頭を撫でていた。
「母さん…とっても、愛してるよ」
「そんな当たり前のこと言ってないで、ゆっくり眠りなさい。本当に無事で良かった。私もルーを愛しているよ、だから何も言わずに姿を消したりしないでおくれよ」
さらに母さんは額をルーブの額に優しく当てた。白獣とは違う、暖かい額を。
「うん…おやすみ、母さん」
母はランプに照らされた柔らかな笑顔に花を咲かせた。
ルーブの蒼い瞳にはその母の笑顔が何よりも愛おしく、大切なものであると感じられた。
白獣はこんな感じで、大切な人に触れたかったのだろうか。きっと今のルーブにはまだわからないことだらけである。白獣の真実を知ったルーブは白獣の行く先を案じた。
白獣はあの後、どうなったのだろうか。
ルーブは耳を澄ませればまた、あの優しげな細い声が神殿のあった山から聞こえてくるような気がした。蒼い目を閉じて深い眠りにつくルーブ。
ありがとう、少年-
夢の中で草原に立つ白獣に出会った。魔獣は深いお辞儀をすると眩い光に包まれて、優しげな青年に姿を変えた。そして彼は笑顔で手を振り、ルーブに背を向けて遥か遠くに世界を見守る神のように聳えているアグリネイト山脈の山頂の方角へ向かって歩み出した。その姿を見たとき何故か僕は、ほっとした。
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