ようこそペテルの靴工房へ

困惑したままグリュンは突如出現した鉄の扉を抜けた。すると眼前に広がるのはまるで童話小説の世界である。部屋は奥行きが25mほどで横幅はやけに広く、黒い天井はかなり高い。壁にそって一筋のトパーズやルビーの宝石で出来た小さな赤い滝が次第に燃え盛るように煌めいたり次第に弱まって黒く濁ったりを繰り返している。戦争が始まった頃最初に進軍したムラサメという土地に生息していたホタルと呼ばれる昆虫が持つ次第に強まったり弱まったりするエメラルドグリーンの輝きを思い出した。赤く染まった床にはぎょろぎょろと動く大きな紫の目玉があしらわれたバレンシアの浅赤い奇妙な、しかし高貴な絨毯が敷かれている。高い天井には煌金のシャンデリアがぶら下がり、先端には躍動し駆けていく馬のモチーフ。そそり立つ四面の壁には所狭しとがっちりとした木製の本棚が設けられていてそのどれもから本が溢れてきそうであり、持ち主の性格が現れているようである。その一角に小さくちょこんと受付らしきものがあり、そこに私より少し年下くらいの若い女性がいた。


彼女の着ている服は全体的に赤を基調としている。その服は貴族のその洗練された貴族衣装ドレスとは違ってどこかふわふわとしており、右肩の付け根辺りにはロイヤルブルーに金箔が疎らに貼られた銀の縁取りが印象的な小さなバッジが付けられている。そのふくよかな胸元を覆うワイン色のエプロンのようなものには金で花柄の刺繍がある。薔薇色の風がなくとも揺らめく長めのスカートには網目の模様かよく分からないがどことなく黒い蛇をあしらったような黒ずんだ柄があり、靴は全体的に彼女の持つ赤髪と全く同じく潤んだ赤色をしていて足の甲あたりにアズライトの宝石が組み込まれている。彼女の服装は頭からつま先まで様々な赤で統一されているが彼女自身の持つ肩口まで伸びた生命力ある潤んだ赤髪よりは少し薄い赤が基調となっているらしい。彼女は美しく潤んだ赤髪をなびかせ凛とした態度で物静かに机と向き合っている。そしてシャンデリアの優しい炎に照らされた机に小綺麗に置かれた清楚な紺色で金の刺繍入りの分厚いノートに独特なカーブを描いた羽根つきペンで何か長い文を書き記している最中であるようだ。


私が必死に驚愕と今までにない不安と少しの安堵が入り混じりの状態で彼女に歩み寄ろうとすると床の赤い絨毯にある紫の視線がぎょろりと動いて私を捉えた。私はその馬車の車輪ほどもある大きな目玉と見つめ合ったまま固まった。黒猫アズディックは小さな身体で情熱的なタンゴを踊りながら声高々に固まる私に言い放った。


「フィヨルドくーん、ちょっと僕また白回廊の巡察に周らないといけないからまた後でね。あと、僕の名はいつも通りディックでいいから…ね!」


黒猫ディックは言葉の最後で私に向き直りフィニッシュのポーズを決めて手を2度叩き、私をその金色の縁取りのある大きな瞳で見透かした。そして霧に北風が吹き荒れたように黒猫は姿を消す。今度は人間の魔法使いのように。しかし私は絨毯にある紫の視線からある種の危険を感じていた。その視線からは敵国の兵士達の銃口を向ける時の恐ろしい形相やそれに似た類の者達の幻影が見え隠れしていた。もう何がなんだか理解できたものはない。


グリュンの腹が鳴る。


は、はあ。こんな時にも腹が減るんだな、その…


言葉は出ない。


グリュンの白く透き通った肌からは油汗が滲み、頬はこけてラグーングリーンの瞳は俯きかげんになり光を失っている。


するとやっと仕事が終わったという感じで座ったまま伸びをした赤髪の若い女性がやっとこちらに気づいた。彼女が口にその細く白い手を当てる。


「あらお客さん!?すみません私、つい集中してしまって!」


やっと人間味のあるちゃんとした人間に出会えて少しほっとしたグリュン。


いえいえ、私にもそういう時があります-と言いたかったが、紫色の瞳から注がれる殺気に身体が動かない。その間に空かせた腹が代わりにぐうと返事をした。


「とりあえず何か食べましょう、奥に客間があるので…ちょっとお!ダーダネラ!この方はお客様です!無礼ですよ!」


赤毛の女は腰に手を当てて頬を膨らませダーダネラと呼び名された赤い絨毯を叱りつけた。まるで可愛い弟を叱り付けるようなその光景がグリュンには大層面白く見えたはずだが、どうにもそれどころではなかったようだ。


紫色の大きな目線からやっと解かれた私は近寄ってきた赤髪の女と目が合ってさらに驚いた。一瞬、鏡に映る自分自身と目が合ったのかと思った。自分と同じこの地方ではとても珍しいラグーングリーンの青々と澄み渡る瞳が乳白色の肌と高い鼻、厚ぼったく光る唇を添えた優しげな顔にしっかりとはめ込まれていたのだ。


同じだ-


「あの-どうされました?具合、悪いですか?」


「あっ。いいえ、問題ありません。申し訳ないのですがここでは食事を頂けるのでしょうか」


「もちろんですお客様!ようこそシスル公国の由緒正しい靴工房、ペテルの靴工房へ!」


長くふわふわした赤毛を揺らして彼女は奥の部屋へ案内した。絨毯なのかよくわからないダーダネラと呼ばれた一つ目は彼女の方を大層不安そうに見つめていた。私はその不気味な紫の瞳を避けて通った。


彼女はウキウキとして私を奥の部屋にある豪華な長机に置かれた椅子に腰掛けさせ左手の人差し指を振るったかと思えば机の中から突如浮き上がってきた洋風の食器の上に乗った豪華な食事達が現れた。どうやら本物らしい。品は私の好きなリブステーキを筆頭に、きのこ和えサラダに焼いた茄子。そしてブッティガッシュと呼ばれるシスルの名物料理(特製白パンの中身に熱々の激辛スープを流し込んだものを沢山の野菜と牛肉でしっかり煮込まれた甘いビーフシチューの上に2つほど放り込んだ辛味と甘味の絶妙なハーモニーを奏でる代表的なシスル公国郷土料理)が揃えられた。とても腹を空かせて天に昇りそうだった私は夢でもいいといった感じでばくばくと次々に口に放り込んだ。あまりの美味さで結果的に天に昇った。


「お客様、お味はいかがでしたか?」


「ああ、とても美味しかったですよ。しかし、よく出来た夢ですな。ブッティガッシュの奇跡的なあの味の再現度!我ながら天晴れですよ。はっはっはっはっは!-は?」


可笑しい人を見るように彼女は冷えた湖の青い目でこちらを傍観している。すると私の顔を見て何かに気づいたようだ。


「あなたもしかして、ジャックさんから聞いた就職希望の?」


腹持ちが良くなってきたのか急な不安に襲われたのか血色の良いグリュンは席を立って1つ前の部屋に足早に戻った。


「ちょ、あなた!待って下さい!ちょっとお!」


後ろから潤んだ赤毛を揺らして女が駆けてくる。


グリュンは白い頬を自分の細くてしなやかな手で何度も平手打ちし、目を瞬いて部屋を一望する。やはり赤い宝石の滝、豪華なシャンデリアと黒く高い天井。そして周りに聳える本棚の壁と床にある動く目のついた絨毯。全て、本物である。



「本物-だ」


開いた口が塞がらないとはまさにこのことであろう。グリュンは今までに起こった不思議な出来事がどれも自分の幻想ではなく偽りの無い本物であったことに大きなショックを受けた。


「私はベラといいます。ベラ・モーベット、父のペテル・モーベットからこのペテル靴工房の現オーナーを任されています。今この工房は深刻な人手不足でありまして、お力添え願えませんか。あっ、その前に貴方様のお名前を存じておりませんでした」


「グリュン…グリュン・フィヨルド…です…」


「グリュンさんですね!ジャック氏から聞いています!あの人やること適当ですから随分苦労されたと思います、ですから今日はお泊りになって下さいグリュンさん。外は夜ですから白獣が出て危険です、2階に風呂と来客者用の空き部屋があるのでそこでゆっくりしていって下さい。何かあれば私は下で作業してますのでお声を、ではまた」


そう言い残したベラ・モーベットは赤髪と同じく潤んだアズライトが怪しげな光を放つ靴を鳴らして先程の食卓の並んだ部屋よりももっと奥の部屋へと下がっていった。


私は呆然としている。


不可思議な現実を受け止めきれないままに2階の空き部屋へと向かい、呆けたまま風呂でシャワーを浴びた。どうやらシャワーも不思議な構造、というかどこからともなく水が天井からそれこそシャワーのように流れ落ちている。


「はあ-夢じゃあないのか」


風呂から上がり暗い部屋のベッドに寝転ぶと月明かりに照らされた視界にこちらを向いたディックと名乗る黒猫が入った。


「お前も、本物なんだろ」


ミャオと今回ばかりは猫らしく鳴いて黒い猫のふさふさした手を舐めている。


「これから一体、どうしたらいいんだ」


溜息をついたグリュンは身体が温まってきたせいか頭がぼうっとして底の無い大きな穴にゆっくりと落ちていくような深い眠りについた。


夢の中であの大嵐の日に父と見た美しい平原の真ん中に立つ揺らめく宇宙をその壁面に秘めて龍のような流線型を持つ巨大な城を見た。一緒に観ていたはずの父の姿は無かった。


父さん-


父を思い出すといつも胸の奥に閉じ込めて忘れようとしていた痛みが嵐となって押し寄せてきた。グリュンは自分の身体を深く丸めて父の存在を忘れようとする度に何故かきりきりと痛む胸を抑えて横になっているのだ。


-フィよ心配するな、迷うことに意味はない、迷うくらいなら適当に決めてしまえば良いんだ。いつも父さんはそう言っていただろう。大丈夫だ、フィなら何も心配はいらない-


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