迷路の扉

その黒猫はまさに不思議そのものだった。-踊っている-


目を凝らして見てもその猫はブリュトン横丁裏路地の石畳の道をまるで跳ね躍るバレリーナのように縁石をそのもさもさとしたつま先で蹴って飛んだりしている。


こちらには気づいていないのかとても楽しそうに踊っている。まるで女房が妊娠したと騒ぐ夫のよう、そう人間のように。


グリュンは近場で糸を引いている誰かがいないものかと探したが、人っ子ひとりとしていはしない。右手に持っていた入店証明の黒い木札を懐にしまって、代わりに少女のくれた蜜柑を取り出した。


グリュンは昔から信じる心の強い人間だった。だから今も彼は父クロコダイルから聞いた数々の冒険譚を多少なりとも信じている。だが灰色戦争での見ず知らずの人を殺した経験や助け合っていた仲間の死、そして彼の唯一の家族であった父の死が彼を疑り深く暗い影を落とす男に変えてしまったのだ。しかしながら目の前で起きてしまったが以上、疑える余地はない。


-踊っている、猫が人間のように-


稲妻のような衝撃が頭を掠めると同時に私はその猫を追いかけることにした。何故かはわからない。しかし確実に追いかけなければ何か良くないことが起きる気がしていた。


そしてしばらく私は裏路地を乱舞する黒猫を気付かれないように尾行した。



陽が傾き、街にオレンジの灯火が灯されていく時間だ。


グリュンはあることに気づいた。


は何処だ?


訳もなく黒猫を追いかけていたら石畳の左右を白い巨壁に覆われて夕日の眠たげな光しか届かない謎の路地に入っていた。


気づけば追いかけていた黒猫でさえ音もなく消えている。


昔、こんな話を父から聞いたことがある。昔々とある国にいた帽子職人の男が特別に愛する人への贈り物として赤く尖った帽子に藍銅鉱から削りとった宝石である青いアズライトをあしらった贈り物としてとても相応しい赤い帽子を作っていた。しかし日々帽子を作るために欠かせない縫い合わせ用の大きな縫い針を途中で壊してしまい、その縫い針を買いに下町に出かけたそうだ。そこで不可思議な黒猫とすれ違った。彼はそのあまりの不可思議さにその黒猫についていってしまった。すると見たことも聞いたことも無いような迷路のように入り組んだ路地に辿りつきそこから何日も出られなかったという。その上生還した帽子職人の男の目は虚で、何があったのかも話してはくれない。もはや自分の愛して止まない帽子作りすらしなくなり、愛する人への赤い帽子は作りかけのまま何処かの帽子店の倉庫に今も眠っているという。


あたりが見たこともない場所で少し焦るグリュンであったが、少しの間深呼吸をし、密室殺人事件を請け負った探偵のごとくそのラグーングリーンの眩い目を澄ませた。グリュンはやはり軍人だ。いかなる時も冷静で、氷のように冷たい。


どうしたものか-


とりあえず来た方向から戻ることにしてまたしばらく歩き続けたが、出口は見えそうになく。監獄の檻のように広がる白い壁に目眩がし始めた。石畳を黒い長靴ブーツが踏みしめる音が白い壁に反響して自分の後を誰かがつけている錯覚を覚える。


白い壁に出会い太陽がもう一度昇ってから半日が経過した。


腹が減ったので貰った蜜柑を食べながら1人歩いてはいたが、蜜柑の房はこの一房で最後らしい。


こういうのはアトランティク砂漠でもオラージュ雪原でも慣れていたことだ。まあとりあえず。歩こう-


苦しい時はそれより遥かに苦しかった過去を思い出せとは軍で教わったことだ。


グリュンは少々危険な状況に陥った時によく鼻歌をする。彼の今までの試練からするとこれはあまりにも危険というよりは理解し難い状況なのだが。だから鼻歌を-



「フフフンフーン♪」



まるで迷路だな、昔シスル貴族親衛隊に配属されていた時に宮殿の門前で元はシスルで有名だった演劇団の劇団員だったという同僚が言っていた言葉を思い出す。「物事ってなあグリュン、ぜーんぶ迷路なんだよ。一度迷い込んだら抜け出せない、でもきっと答えが一つある。軍部の人間だってここの貴族の人間だって同じさ、話を聞いてそいつの事を理解しようとすればすぐに迷路が始まる。それも果てしなく長い迷路だ、だって出会う度に広がっていくんだからたまったもんじゃない。そうは思わないかい?」グリュンはまだ若かったが顔の堀は深く白い肌を持つ美系であり、度重なる戦闘でも生き残ってきた。そのことで公国から命が下り、親衛隊に属すこととなった。親衛隊でいたその時期は人と会話することを極端に嫌っていた。しかしその元劇団員の同僚とだけは小さな会話をよくしていたものだった。


「ああ、確かに。迷路だな」


その同僚は戦争中に自殺で亡くなった。丁度今の私より一つ年下だったと思う。本当に人というのは迷路のように複雑だとそのことを知ったとき、グリュンは呟いた。



歩いていたらポケットから黒い木札がことんと滑り落ちた。


滑り落ちた木札が石畳に触れた途端に眩い光を放ち、目の前に鉄の扉を浮き上がらせた。あまりの突然の出来事に腰を抜かし後ろに倒れたグリュンはその鉄の扉を深い青に不安の滲む目で睨みつけた。


「一体、何が起こったっていうんだ…?」


石畳のうえにぽつねんと置かれた黒い木札はぱっと消えてしまい、いつの間にか姿を消していたあの踊る黒猫に姿を変えていた。しかもたまげたことに私に喋りかけてくるではないか。


「おうフィヨルド!久しぶりだな、覚えていたか。私だよ!私!」


黒猫は金色の縁取りのある瞳を輝かせそのしなやかな柔らかい四肢で輪舞ロンドを舞いながら話かけてくる。


「……!?」


困惑した私は目をまあるくして人間のように二足で踊る黒猫を見ている。誠に信じられない。


「はあ、やっぱりわかんないか。私だよ、ブラウンだよ。ブラウン・アズディック、親衛隊の時の君の同僚!覚えてないの?忘れた?」


黒猫は少しばかり苛ついたのか驚いた私に腕組みして言葉の抑揚をさっきよりも強くつけて喋りかけてくる。やはり人間のように。


「劇団員出身のアズディックだよ」


「黒猫…アズディック……そんなはずない。ディックは自殺したんだ、戦時中に…」


グリュンはまたも訳がわからなくなり頭を抱えこんだ。黒猫は溜息をついてシスル公国貴族軍の脱帽時の敬礼である右手の平を胸に当て身体を10°前方に傾けて首を垂れる仕草をした。やはり人間のように。


「信じられない…」


「まだ信じないのー?」


グリュンに愛想を尽かしたのか黒猫アズディックは彼に背を向けて黒い木札から出現した鉄の扉を数回ノックした。


「おーい、ベラ。客人だぞー、俺の知り合いだから早く入れてやってくれー」


内側から女性の声が微かに漏れ、がこんと鉄の扉がゆっくりと開いた。


「まあ、話は後だぞフィヨルド。あと、ここに来るんだったらちゃんと前もって連絡すれば直ぐにここまで俺が連れてきてやったんだ。フィヨルド君はいつも話し下手なんだからいけない。次は気をつけてな」


黒猫アズディックは開いた扉の中へ消えていった。


私も流石にこの場所にいるよりはマシだと後を追ってついていった。









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