迷路を描いてオドル猫


-シスル公国 東ブリュトン横丁アーケード-


賑わっているシスルの街角を練り歩いていると前から肩に丸い緑色の皮鞄を肩にかけて白いワンピースをゆらめかせ耳元にエメラルドグリーンのゴム紐で束ねた一際綺麗な金髪を生やした頭に後ろ向きに被った深緑のハンチングが特徴的な小さな少女が大手を振って歩いてきた。その様子は軽快なマーチを刻むおもちゃの兵隊、いや色とりどりの花咲き乱れる野原をゆく女学生だろうか。


商店街のショウケースに人混みの中を抜けていく彼女の溌剌とした姿が浮き上がっている。


このシスル公国の東ブリュトン横丁の賑わいはこの青大陸でも有数の部類である。見えない紙吹雪が直立した街並みから降り注ぐ。


シスル公国とディジェム王国、そして小さな村々があるこの大陸を青大陸と呼ぶ。何故色の名前かと言えばかつて世界中を旅した冒険家達が皆この小さな大陸のことを口を揃えて水の豊かな国、ひいては海の大陸と呼んでいたからである。それとは別に3つほど大陸がある。第1に平均気温が高く、火山活動が活発で青大陸から西の海を越えた場所に位置し、シェルコーラル国や他の小さな国々がある紅黄大陸。そして第2に青大陸を中心にして東の静寂の海を越えた先にある小さな島々の大きな集合体で構成された風の大陸。最後の第3の大陸は北の果てにあり氷で覆われた世界が広がっている龍の眠る大地。したがってグリュンやこの青大陸に住む人間が知る大陸は青大陸、紅黄大陸と風の大陸。そして、龍の眠る大地の4つとなる。しかし今尚も大陸中の探検家、冒険家達が新しく前人未到の第5の大陸を求めてさらに外の世界を旅している。


そんな4つの大陸の中でも小規模な青大陸の西にあるシスル公国のブリュトン横丁で結わえた金髪にハンチングを後ろ向きに被り大手を振って歩く白いワンピース姿の少女。よく見れば彼女の肩にかけた少し浅い深緑色のまあるく太った皮鞄からいくつもの結い上げられた新聞紙達が夏場に北にある山々の影響で発生するシスル公国特有の巻風に吹かれて無造作にはみ出し、ゆらゆらしていた。しかし、今にも落ちそうなその新聞紙達に気づきもせずとても元気にのしのしと歩く新聞配達中の少女。賑わう街の中きいという金属の擦れる音と空気がガス缶から抜けていくような音がしたかと思えば歩いていた少女が急に「きゃあ!」と後ろに仰け反った。賑わう商店街の街角から急に飛び出してきた二輪蒸気自走自転車に乗った男に少女は轢かれかけたのだ。危うい所で自走自転車は急停止した。


「嬢ちゃん!悪いね、急いでるんだ!」


無理矢理詰め込んだ新聞紙の重みでバランスを崩し後ろ向きに倒れてずとんと派手に尻餅をついた少女。男はそれに構わず手元のレバースロットルを回し自走自転車の黒いボディに取り付いた金管楽器のようなパイプを振動させて鉄製の錆びたマフラーから水蒸気を吹き上げて2本のタイヤに蒸気動力を与えその場を走り去った。沸き立つ水蒸気に目が眩んで小さく咳き込む少女。


「ちょっとお、ちゃんと謝んなさいよ!こちとらレディなのよ!」


「大丈夫かいお嬢さん、怪我は?」


優しく少々ぎこちなく手を差し伸べたグリュンに白いワンピースに深緑のハンチングを後ろ向きに被った少女は気づいた。


「ええ!心配ないです、私は大丈夫です!」


グリュンが差し伸べた大きな手をその細く白い手で掴んで立とうとした少女の青い瞳はグリュンのラグーングリーンの透き通ったどこまでも深く吸い込まれそうな瞳から恥ずかしくなって視線を逸らし、自分の背中側にある皮袋に視線を逃した。


「ああああああっ!」


小さく叫び目を丸くした少女は皮鞄から飛び出して道端に転がったいくつかの新聞紙を見てさっきまでの元気が裏返り、その元気はシスル公国特有の夏に吹く強い巻風に吹かれたような焦燥に変化してはみ出す新聞紙達をぐいぐいと緑の皮袋に引っ込めた。グリュンも少しそれを拾うのを手伝った。


「これも、落としていたよ。大事なものだ」


グリュンはその威厳ある様相とは裏腹に静かにどこか不器用に少女に髪を結い止めるためのエメラルドグリーンに光るゴム紐を手渡した。


「あ、ありがとうございます」


どういたしまして。君、その若さで休日に仕事なんて偉いね-


という言葉が頭に浮かんだが、その口からは出てこない。


「うん、気をつけて。じゃあ」


少女は肩口まで伸びた揺れる金髪を細く白い両手で素早く束ねてエメラルドグリーンのゴム紐で耳元の近くになるように結わえた。青い瞳、濡れた金髪とそれを結わえるエメラルドグリーンのゴム紐。まるで細部まで作り込まれた洋人形に命を吹き込んだようであった。


グリュンは言葉にこそ出ないが優しくにこりと会釈して少女の元を去る。そういう時のグリュンはとても気品の高そうな乳白色の肌が余計に分厚く白くつやつやになる。つまり、格好が良好になるといえる。これはきっと彼がシスル公国で豪華絢爛であった貴族軍の一員だったからであろう。少女は見惚れたのか少しその曖昧さに苛立ったのか、早口でこの場を去ろうとするグリュンに喋りかけ始める。


「新聞配達したら近所の叔母さんから美味しい蜜柑もらえるの!それでね、私の叔母さんの蜜柑、すっごく美味しいの。お兄さんに1つあげる!」


グリュンは驚いて振り返り、その深く底に暖かさを沈ませた瞳を見開いて少女の青い瞳と少女の手にした淡い蜜柑を見る。


「まだ働き口のない私には到底、働き者のお嬢さんの蜜柑を食べる権利なんてものは無いんだ。君が働いて貰った分は君が食べなさい。それが大人だからね」


グリュンは冷静な言葉だけはすらすらと口から溢れ落ちる。しまったと後悔を浮かべてラグーングリーンが深く揺蕩っている鋭さはあれど優しげな瞳とどこか不安げな表情を少女にむける。


「お兄さんの話私にはむずかしいけど、レディの言うことは紳士ならちゃんと聞くものよ。はーい!」


少女は笑顔になって手にしていた腫れぼったい蜜柑を私のオリーブ色の上着のポケットに突っ込んで白いワンピースを風に揺らめかし、走って人混みの中に逃げていってしまった。


「おいお嬢さん!待って!待ってくれ-!」


グリュンはそのとき蜜柑の香りがすとんと鼻から滑り落ちていく不思議な感覚を味わった。そして賑やかな街に住む者の言葉達が跳ねて踊る街路の人混みの中を笑いながら小走りに消えていく後ろ向きに緑色のハンチングを被り白いワンピースを夏の巻風になびかせた青い瞳の少女を見送った。


日差しに暖められたオリーブ色のコートの内側では熟れた蜜柑の甘くて透き通る良い香りが立ち込めていた。たしかシスル公国の北側に位置して少しばかり豊かな緑の多いフィルンの町では蜜柑の栽培が行われていたはずだ。彼女はフィルンの町から汽車に乗って来たのかな、もしそうなら大変偉い少女だと感心したグリュンであった。暖かい巻風が蜜柑の香りをコートの中でフラスコに入った水のように揺らす。


「とても良い香りがするじゃないか」


そのとき帰りの北側行きの汽車に乗って緑の大きな皮鞄にもたれて眠りこけているあの少女の寝顔が脳裏に浮かんだ。


少しばかり、心配だな-


しかしグリュンの口元には小さな笑みが転がっていた。


少女から貰い受けた霧に烟る太陽のように柔らかくて甘い蜜柑の香りには微かにフィルンの町で蜜柑を摘むおばあさんの暖かい気持ちが封じ込められている気がした。



喫茶カフェシュガービート-



店に入るところからこの物語は始まる。ドアを開けると細い赤紐で木彫りの芸術品のようなドア枠に重しとして吊るされた少しでも触れてしまうと今にも破裂しそうな宝石、例えるなら小さな子がバターナイフで色々な宝石を塗りたくって遊んだような歪な宝石がドアの動きと同時に引き上げられ、ことんと音を立てる。


その一瞬に外の光が店内に注ぎその歪な宝石の中で乱反射して風が吹き魔法がかけられる。まるで宝石作りの灯台から放たれた様々な色の光線が木目細かいガラス細工の海を揺らして照らし出すように。店内に木材棚で息を潜めていた様々な形、赤や黄色の瓶や白鳥の首のようにへし曲がったようなガラス細工達が一斉にして命を注がれて輝きを放ち、全て息を吹き返す。


もう、その一瞬には火山の誕生を見たように心惹かれてしまう。しかしながらこの店に入店するような客は私くらいの軍人崩れの男しか存在しない。だから逆に言えばここシュガービートは私の大切な1ピースとも言える。


「いらっしゃい。おお、グリュン君じゃないか」


いつものこの喫茶の老マスター、ジャック・クジャクはその禿げて丸い地球儀となった頭の範囲の分からぬおでこに掛けていた不思議な眼鏡。構造を言えば螺旋階段一段一段の構造のように丸いレンズ5枚が一枚一枚丁寧に片目の金縁の丸いレンズ枠に押仕込められている。もう片方の左目には不思議なくらい赤みがかっているブラウンの瞳がある。そのひしゃげた瞳から見られた側から彼の眼鏡を見るといつも奇妙なステンドグラスの模様に見えるし、いたって美しさは皆無だ。代わりに機能性は抜群らしい。彼はこれをしっかりとかけ直して私を見たのか見えていないのかは今のところよく分からない。彼の出生や年齢もその眼鏡と同じく未だ謎のベールに包まれている。


私はこの店に偶然訪れてから毎週珈琲を飲みに来ていたが、別の店でこの店の本当の役割を知り-。


「今日はなんだか元気そうじゃないか、何かあったのかい?珈琲、それともココアかい?」


ジャックは底の深いグラスをテーブルカウンターに置き、ひしゃげたブラウンの瞳をよりひしゃげさせ嬉しそうにして私をレンズ越しに見ながら笑った。


「まあ、可愛げのあるお嬢さんに遭遇したとだけ言っておこう、ココアで。あとピザかなんかくれないか」


「いいぞ、可愛いげのあるお嬢さんとはまたグリュン君の夢物語かい?」


まったく、やめて欲しいものだ。ジャックのその出で立ちの方が余計に夢物語じみている。グリュンは嫌がる顔をして見せた。ジャックはにやりにやりと何処かの国の魔女のように笑っている。手に持った特製ココアを作るための道具はその魔女の使う魔具のようだ。ココアは、マグカップだ。


「ジャック、ところで例の案件を聞いてもいいかい?」


表情の堅くなるグリュン。


「あれかい?」


ココアを作る手が止まりにやけが止まらないジャック。


「あれだ」


「あれか?」


禿頭を光らせて笑い出すジャック。


「だから、あれだ」


さらに堅くなり眉間に皺を寄せるグリュン。


ジャックはむふうと息を吐くとそこらにある木箱の山をその節だらけの大熊のような手で漁りだした。


「おおっと、あったあった!こいつだなグリュン君」


ジャックはとても重そうにして両手で抱えた小さな箱をゆっくりと時間をかけてグリュンに手渡した。


「軽いじゃないか」


グリュンはもう罰でも浴びせてやろうかという顔をする。ジャックは三日月のように笑った。


「おやおや、グリュン君にはまだ愛が足りなかったかな、そいつは愛を浴びた重さで重さが変わる魔法の木箱なんだぞ」


木箱には無数の薔薇の堀絵がばら撒かれている、開けてみると中には手の平サイズの綺麗な長方形をした小さな黒い木札が1枚置かれていた。ジャックは腹黒そうな笑みを浮かべ、普通の木札の木目と違い表面の木目に多方向に捻れたような歪みがある黒い木札とジャックの冗談を無視してその木札を深い緑の目で静かに凝視するグリュンを交互に見る。


「愛に重さは存在しない」


「いやあ、わからんよ。この世界広いからねグリュン君」


ジャックはその木札と一緒に住所の書かれた小さな紙を渡した。


「そっちが住所、そっちが入店する時に必要な証明木札。逆だったかな?」


グリュンは中の木札を取り出して片手に乗せ、一度天井に向かって軽く放ってから空を切るように掴み取り。そしてオリーブ色の胸ポケットに忍ばせた。その時、蜜柑の甘く透き通った香りが店に漂った。


「これが本当に、私を雇用してくれる店で間違いないんだな?」


私は少々疑ってかかる。


「どこで知ったのか知らんが、俺の喫茶は元々これが仕事だ。まあ短い人生楽しみな、グリュン君よ」


本当にありがとうジャック、これからは楽しい人生が待ってる-とは言い切れなかった。


「感謝する」


グリュンはカウンターにゆっくりと腰掛けてジャックの魔法がかかって淡いビスク色に揺らめく温かいココアをじわりじわりと飲み、小さな猪が描かれた丸い皿に乗った小さなピザを食した。


「その店、雇われるにはまず猫に会わなにゃいかんからな。まあ、その木札を持って迷路をなぞって行けば大丈夫だ」


ジャックは旅人を見送る宿主のように忠告した。


「わかったジャック、すまないな」


意味もなく生返事をするグリュン。


「ちゃんと人の話は聞くものだぞグリュン君。してまた、磨いてたんだな。今日も」


ジャックは少し不安そうな顔をしていた。


グリュンは黒い長靴ブーツを踏みならして店を出て行った。


「気をつけてなグリュン君よ」



出て行った時にもシュガービートを飾る色とりどりのガラス細工達の息は歪んだ宝石の音と共に全て吹き返していた。


きっとグリュン・フィヨルドもガラス細工達と同じであることを祈っているだろう。



-シスル公国 城下町ブリュトン横丁裏路地-


「ここで、いいんだな」


あたりは賑やかな街中だったはずであるが私1人、寒い小風に吹かれて立っている。賑やかな街の音はしない。代わりに風のなびく音と私の呼吸だけが耳に届く。


まあ、嘘か本当か分からなかった話だ。仕方ないだろう。グリュンは黒い木札を手にして呆然としている。


そこには本当に-何もない。期待した店の佇まいは無く。ただの草木が生い茂った空き地が一面に広がっていた。申し分程度に小さな看板で「立ち入るべからず」つまり立入禁止の表示がされている。


やはり、貴族公国陸軍に入って様々な戦地に赴き銃弾や刃や拳で面識のない人々を殺し、焼き殺し、刺し殺し、殴り殺し、撃ち殺し、斬り殺し沢山人を殺して-血で汚れきったこの白い両手につく仕事などこの世には存在しないのだ。あのジャックでさえも私を闇へ葬ろうというのか。シュガービートへはもう行くことは無いだろう。


グリュンの脳裏でジャックや街の人々、果ては街で出会った少女や会ったこともない蜜柑の叔母さんまでが幻覚の中で私を見てこう言った「消えろ」と。


グリュンのラグーングリーンの瞳に血で汚れた手が黒い木札を赤く染め上げていく光景が見える。


ここまでか-そう思った時。


裏路地を不思議な黒い猫が通った。


グリュンはその不思議さを-


見逃さなかった。


猫が舞い踊っている-

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