シスルの靴工房
フーテンコロリ
長靴をはいた軍人
-親愛なるレイモンドへ、このお話は本当だ。今度来た時はここの靴屋に寄ってみるとい。- レイモンド・サニストンへ グリュン・フィヨルドより
靴ブラシで擦ると私の嫌いなきつい薬品の臭いが漂うもの。それは公国陸軍が私へ支給した黒い
街中に佇む家の二階の自室で
綺麗にする為に磨いているのか、それとも拭いきれない
彼の名はグリュン・フィヨルドである。
私の家の二階の窓の外から街中の人々の快活な生活が織りなす柔らかい音と家の近くにある広いセラドン川からバケツに汲んだ少しの水を手でかき混ぜたような小さな流音が耳に届く。靴を磨く手をとめた私は風に揺れるカーテンを開いて窓の外、青空いっぱいの景色を見てその音に耳を澄ませた。青空の遥か遠くではアグリネイト山脈と呼ばれる気高い山脈に雪が降り積もり山頂部が白く輝き、その下に広がる平野にはいくつかの農村が雨が降った時の水溜まりのように広がっていてさらに手前には優雅な額縁の下端のように国を守る背の高い外壁が風に揺れるクリーム色のカーテンのように広がっている。
ここ、シスル公国は政経ともに豊かな国家でこの国を治めている高級貴族らが住まう唯一の城は国の中央の一際高い丘の頂上にある。その城は緑の木々や蔦で覆われていてまるで古代遺跡になりかけた苔の生えた城に見える。しかし見え隠れする黄金の装飾により偉大な雰囲気を漂わせるその城の名を国名と同じシスル城という。そのシスル城周辺から流れ出ている川幅の広い豊かなセラドン川の流れと組み上がりかけた精巧パズルの美術品のようなシスルの街並み、それの最後のピースとなるシスル国民の安堵と平穏がこの国の豊かさを指し示す最大の象徴なのである。
-しばらくの間グリュンは柔らかな風の吹き込む自室の中からのシスル公国の青空の景色を独り眺めていた-
「これで薬品の匂いが消えるといいんだが」
グリュン・フィヨルドとは私の名だ。フィヨルドという名は外国のとても美しい山脈からとられたらしいのだがもはやその真偽を知る唯一の人物である私の父はもうこの世にはいない。母は私を産んですぐに他界し私の家族は物心ついた時から父親のみであった。本当であればあともう少しの間、あの気さくで笑いの絶えない父と一緒にこのシスルの安堵と平穏の景色を楽しみながら談笑にでも浸っていただろう。それを思うと綺麗すぎて深すぎるシスルの青空に胸の内がきりきりと痛んだ。
長きに渡る灰色戦争は突如勃発した。私がまだ16を迎える前の年のことである。シスル公国は隣国であり交友関係であったディジェム王国と条約を結び、更にシスル公国とディジェム王国は周辺にあるヴェスタ帝国やオペラモーヴ国、シェルコーラル国の大小様々な国々に戦線布告を宣言したと報道機関が報じた、その例年よりも強く乾いた秋風の吹き荒れた年が灰色の雨が終わりの知らせとなる灰色戦争の始まりの1年となった。
私の父の仕事のことはよくは知らなかったが、私の知る父はいつも家の中ではのんびりと本を読んだりしている。しかし4日に一度くらいに遠くへ出かけようといって水色のところどころ赤茶げた我が家のトラックに幼い私を一緒に乗せては山や海や時には別の島までどこまでも連れていってくれた。そうした時の父はトラックを運転しながらとても楽しそうに身振り手振りをつけて昔あった面白い話や怖い話ワクワクする話を沢山、幼かった頃の私に聞かせてくれた。
大雨が降って暗雲が立ち込めて強風が吹き空と大地を穿つ雷が鳴り響いていた日。
父の運転するトラックは私を乗せて平原に吹き荒れる嵐の中を走っていた。
「フィや、よおく聞きなさい!お前の父ちゃんはな、昔、海で幻のでっかい海竜と闘って勝ったことがあるんだ!!」
雷鳴が走るトラックの外で轟く。
フィヨルドの父グリュン・クロコダイルは記憶の中のままの明るい笑顔で片手はトラックのハンドルに、片手は大きな龍が泳ぐ手振りをみせて幼い私に伝えている。
「おっきいってどんなくらいおーっきいの!!?」
悪路に揺れる車内でドアバーに必死にしがみつく私は父に聞く、この時点で幼いフィヨルドはほとんど恐怖に負けて目を瞑って叫んでいるような状態だった。
「そおりゃあもうでっかいのさ!うーんとな!!」
笑い声を上げながらトラックを運転する父の姿が目を少し開いた時にふと微かに荒波を乗り越えていく大船長に見えた。
「お父さんはどーやって勝ったのー!?」
雷が喋る父の後ろで光った。私は雷が泣いてしまう程に大の苦手であった、だから思い切り歯を食いしばり目を瞑った。
ビシャアアアアアン!!!!
雷鳴がさらに大きくなる。
「いいかフィ!とーさんはな!大きな竜の眼をただ睨みつけてやったのさ!!!」
悪路を走るトラックの揺れは一層激しくなり、幼き少年フィヨルドはもみくちゃにされて外に投げ出されそうなくらい車内で跳ねている。父は眼を瞑って耳を塞いで怖がっている息子を見てその特徴的な眼をにかっとして太陽のようなまあるい笑い声を上げていた。
「何いってるのとーさあん!?そんなんじゃ倒せるはずがないじゃないか!!睨んだだけだなんて!どーせ嘘なんでしょー!!!!」
「ハハハ!ならやってみるんだフィ!お前なら出来る!だってお前はとーちゃんの息子なんだからな!!!」
もはやあたりは本当に海の荒波と幻の海竜に飲まれたトラックの中のようだ。
「無理言わないでよー!睨めっこで嵐が止まるわけないだろー!!!」
荒れ狂う大地の嵐に飲み込まれて行く平原。
だが、フィことグリュン・フィヨルドは父の言う通り堅く閉じていた眼をゆっくりと見開いた。すると-
「うわあああ!すごい!!!」
雨や雷はいつのまにか止んでいて、黒雲の無い向こうにある緑の平原に天まで届きそうな程巨大な流線型の塔とそこにはめ込まれた様々な色をした鉱石群が
父はその城を見て興奮して前に乗り出す私を見て静かに微笑んだ。
「ほら、勝てただろ。やっぱりフィは俺たちの自慢の息子だ」
「当たり前だよ、だって父さんの子供だもん」
父のあの時の笑顔の曖昧さはちゃんと記憶に残っているのに、あの素敵な夢のような城が何だったのか今の私には思い出せない。
太陽に照らされて優しい風にそよがれた幼い私と同じ太陽みたいな温もりの父。
そんな太陽に照らされていた家族はふいに切り裂かれた。
その後父との暖かい日々が行き過ぎて私が16歳の誕生日を迎えたその日。公国陸軍の兵士が家に真っ青な召集令状を持ってやって来た。すぐ次の日には公国陸軍に召集され、私は父と私が長年暮らした家のもとを去ることになった。その日のことは今でも忘れられない、降りしきる雨の中父は泣き叫びながら銃で武装した兵士達の制止を払いのけてまで16歳になったばかりの私を公国陸軍の兵士達から取り戻そうとした。
「フィヨルドー!行ってはならん!!逃げるんだ!!!」
「ごめん、父さん。僕だけが逃げるなんてこと、出来ないんだ。僕は絶対帰ってくるから、それまで待ってて。すぐ帰るから」
兵士達に再び取り抑えられてしまう父、その姿が私の前で最後の父の姿だった。
僕は泣きそうになりながらも迎えの黒い箱のような車輌に乗り込み、同じく召集された同い年の子供達と共に軍の所有する基地へと向かった。空いている席に座ると父が私に叫ぶ声が聞こえてきた。
「お願いだ!フィヨルド!お前まで失いたくはない!!帰ってきてくれ!!!フィヨルドー!!!!」
僕は必死にゆっくりと走り出した黒い車輌の中で膝を抱え込み父に謝った。
-ごめんなさい!お父さん!!本当にごめんなさい!許してください!!ごめんなさい!-
最後に微かに父の優しい声が耳に届いた。
-絶対に死ぬんじゃない、帰ってこい。お前はこの世でただ唯一の母さんと父さんの1番大切なたった1人の自慢の息子だから、だから絶対に!帰ってこい!父さんはずっと-
-ここでフィヨルドの帰りを待つ-
私は熱い涙が頬を流れていくのを感じた。嗚咽した。喉が枯れて無くなってしまいそうな程に泣いた。泣いて声の届かぬ父に、母に謝った。そしてひたすら涙を流し続けた。
長い道を行き、涙も枯れた先の基地に到着して最初に私が手にしたのがこの黒い
-あの時自分も周りの兵士達を振り切って父と一緒に逃げていれば、そんな考えが今も私にのしかかって苦しめてくることがある。-
そして長い戦争から帰ってきた時には既に私の父はこの世にはいなかった。重い病気だったと聞いた。最後まで息子の帰りを待つと言って病院から家に戻ろうと毎日抜け出していたらしい。さらに父が書いた私宛の手紙が沢山あったが全て届くことはないはずだからと私宛に送付した手紙以外に家に何通もの手紙が山積みになっていた。帰ってきて父のいない冷たい風の通る我が家の中で、まるで家の中の時間が私が召集されたあの時のまま止まっていたように並べられていた家具達はもしや家の中にまだ生きている父がいるのかもしれないという辛い想いを私に幾つも抱かせた。私はそういった気持ちを抱く度に深い谷底に突き落とされたような感覚に陥っていた。帰りを待つって言っていたじゃないか、何故なんだ父さん-フィヨルドは父と自分が写っている写真と目が合わないようにことんと倒した。写真の中の笑顔の父と目を合わせてしまったら自分さえも死んでしまうのではないかという気さえしていたのだ。
記憶というのはそれに勝る印象の記憶があればその古い記憶は薄れてしまう。例えるならばこの国のように今の安堵と平穏の豊かさが集まった精巧パズルの美術品に昔の悲惨極まる戦争の影のピースなんて一欠片も残ってすらいない。もしかすると外の道を駆け回る笑顔の子供達は悲惨な戦争がこの国であったことすら知らないのかもしれない。
私にとってそれは至上の幸福であるが、尚且つそれは私達兵隊がシスル公国に命をかけたという事実までもがこの国から忘れ去られてしまったという辛い現実でもあったのだ。しかし、私と父の辛い記憶は私の中で時を重ねる毎に忘れ去られ薄れてくれることはなく、ただそこにいつもあった。むしろ強まっている気さえする。時々ふいに思い出してこうして涙を流している。
額の古傷が痛み、片手で傷に少し触れてから触れたその白い指先を見る。
流れた赤い血の幻想が緑青い瞳に映し出されて静かに消えた。
次第に辛い考えが腹の底から這い出してきて部屋を埋め尽くす前に私は窓とカーテンを閉めると再び
何かに集中していれば悲しみや苦しみから逃れることが出来る。これは陸軍で習ったことだが、それと同時に逃れられるのはその時だけということも知った。もしかしたら人は悲しみや辛さが大きい程に物事に集中してしまうのかもしれない。
そういえば朝の洗面と朝食をとることをすっかり忘れていた。
ぐうと腹がなり、健康的な胃腸が空腹を告げる。
-
この
踵をこんこんと鳴らして靴に足がちゃんとはまっているか確かめる。
「さあ、散歩する時間だぞフィヨルド。笑顔、笑顔」
頬を両の手のひらではたいて気を引き締める。
いずれは父のような暖かい人柄なりたいと願っていた陸軍兵士フィヨルドは青空に輝く太陽をイメージして胸を張り、玄関の戸を開いて平穏の街に歩みだした。
フィヨルドが父から受け継いだラグーングリーンの青々とした瞳がいっそう輝きを放っている。
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