著者あとがき

著者あとがき

                                  杉山茂丸


 文学なぞは神経衰弱のもとだと、伜の泰道に云うてきた吾輩が、齢七十にしてはからずも小説を執筆した。「吉津安武」は筆名で、吾輩の雅号「其日庵」と同じくキジツアンと読む。

 本作の大部分は実際に見聞した事実に基づくが、江戸時代に関しては主に資料と想像で補った。

 この長き物語には、読者もさぞや倦厭であったろうが、吾輩としては事実の真状を、まだ百分の一だも書き尽くされぬ思いでいる。


 根本文子は二年前の昭和七年一月二十三日、非業の死を遂げた。

 時期が来たら、助け出すつもりだった。吾輩が根本親子を放置したには訳があった。


 文芳の玄孫の存在を探りあてたのは、今から十五年前、大正八年の夏である。期待に反し、根本文子は小物だった。され共、なかなかの変わり者ではあった。その上頭脳明晰で努力家とわかったので、「この娘を教育し、陽隆に対する復讎心を利用しながら、秘薬を手に入れさせたら、存外面白い成績が上がるかも知れん。気の永い咄だが五年や十年かけて見るのもよかろう」と思い立ち、母親の根本芳とともに吾輩の壮大な計画に加える事にしたのである。

 日本と支那を兄弟の義で結ぶのが吾輩の計画だった。支那は大であり、日本は小である。それ故に日本は支那と手を結び、ともに東洋を開発し、繁栄発達すべきである。それが両国を生かす道なのである。然し陸軍は支那を侵略しようとばかりしておる。軍の暴走を止める手立てを考えあぐねていた折、根本文子から陽隆の話を聞いた。調べた結果、陽隆の玄孫が陸軍参謀小野長盛と知った吾輩は、秘薬を使って軍を懲らしめる方法を思いついた。実現には根本親子の協力が不可欠だった。

 かくて吾輩はおよそ十年に渡り、根本文子に復讎の為めと思わせつつ、陽隆の玄孫および日支情勢に関わる種々の知識を与えながら、カフェエや外人商社で働かせて教育した。けれ共、文子は期待した人間には育たなかったのである。

 吾輩は常々云い聞かせていた――人間一度意を決して志業の道に踏出し、成敗を死生の間に争わんとするは、始めにまず大義名分の道を明かにし、次ぎに世道人心に益する事を定めて出なければならぬ。復讎が最終目的にしろ、人の役に立つことをせよ。同じ骨を折るならば、国家、社会、民人の為めになる事を道楽と思うて、遣って遣って遣りこくったなら、人も喜び自分も気持が良いから、それも面白い仕事である。結果が善にあれ悪にあれ、期する処は自外他救(じげたく)である、と。

 然るに文子は何時までたっても狭量にして義気なく徳なく、自分の事のみ考えていた。而も己の不幸をすべて周りのせいにし、人を羨み妬むばかり。人間栄枯の妙界に処するの真諦を解さなかったのである。故に領事館警察に捕縛されても、すぐには助け出さなかった。一時でも牢獄に入れば、少しは悟る処があって人間並みに成る事もあろうと思うたからである。

実際問題、救おうにも準備が整っていなかったというのもある。根本親子の逮捕の裏には小野がいた。小野の裏にはヒトラーがいた。日本の官憲には顔がきく吾輩も、独逸の権力者までは動かせなかった。そこでヒトラーが滞在していた宿に吾輩の細作(しのび)を忍び込ませ、禿頭をカメラに収めさせることにした。ところが細作が見つかってしまい、吾輩に監視の目が向いた。難儀している間に、文子の死体が黄浦江から上がった。

 文子は監獄で吾輩が後ろ盾だと繰り返し口にしたが、妄想と決めつけられ、精神病院へ移されていた。それから間もなく殺され、黄浦江に投げ込まれたのである。遺体は英国船によって発見され、共同租界警察署に運ばれた。吾輩が情報を耳にし、八仙橋の別荘から署に駆けつけたときには、解剖はすでに終わっていた。

 吾輩は元来乱世の不逞児、太平の屑男にて、たいていの事には驚かぬのだが、このときの衝撃は今なお忘れる事が出来ぬ。

 根本芳は娘が死んだとき牢獄にいた。のちに吾輩が釈放させ、上海戦勃発直前に新嘉坡(シンガポール)行きの貨物船に乗り込ませたが、娘を失って意気消沈した芳は間もなく熱病にかかり、五十七歳にして息を引き取った。娘の遺体を見ずに済んで、むしろ幸せだったかもしれぬ。

 文子の死因は、青酸カリによる中毒死と判明。毒による死斑は現れていなかったが、遺体には二つの異常な特徴があった。

 一つは死後、頭の肉を削られていた事。頭頂部の髪を抜かれ、頭皮に六箇所、直径と深さが一糎ほどの穴が開けられていた。

 ヒトラーが、手下にやらせたのだろう。人黄を得んがためにちがいない。人黄とは、真言立川流によると、人間の頭頂部の皮下に六粒あるもので、人身の精髄が宿っているという。文子は最初の犠牲になったと考えられる。

 こればかりは吾輩一期の不覚、無言懺悔の鞭を幾万回打っても気が済まぬ。

 本尊大頭作成法では、人黄を性液その他とともに髑髏に塗りつづけると、八年後には神通力が得られるとされる。そのためには人黄が千人分必要となる。

 立川流を信じるわけではないが、吾輩憂えずにはおれぬ。もしヒトラーが人黄を千人分集め、八年後に儀式を完成させたらこの世は如何なるかと。

 ただでさえ世界は今、良からぬ方向に進みつつある。

 その一つが二年前の上海戦である。開戦阻止を試みた我々の努力も虚しく、昭和七年一月、日本軍は戦争を仕掛けた。支那軍の抵抗は、独逸が陰で援護しただけあって、予想を遥かに超えて頑強だった。日本軍の人員の損耗は甚だしく、開戦から三十六日で休戦協定が結ばれ、大戦争につながらなかったのが、せめてもの救いであった。

 然しこの戦争によって独逸は実戦力をつけた。その独逸で一か月前、総統に就任したヒトラーは、密かに猶太人狩りを行い、強制収容所送りにしては殺していると聞く。千人分の人黄を集めるのが目的ではあるまいか。

 儀式が完成する一九三九年、ヒトラー率いる独逸は再び世界大戦を引き起こすかもしれぬ。

 流れを変えようにも、吾輩最早寄る年端で思うように動けぬ。


 然しここに一つの救いがある。

 文子の遺体にはもう一つの特徴があった。眉間の肉が盛り上がり、一つのかたちを成していた事である。

 根本芳によると、秘薬を摂取した人間の額には何故か阿字が浮かびあがった。実際、文子の額に生じたのを吾輩は何度も見た。生存中は眉間に皺ができたときに限られていたが、遺体に生じた文字は消えなかった。

 陽隆の念が外在化したのであろう。世の中には科学では説明しきれん事がある。陽隆が文芳の薬に自らの思いを封じ込めたのが、それを飲用した人間の顔に梵字の阿字となって現れた物と思えてならぬ。

 その陽隆の子孫である小野長盛によって文子は確かに殺された。小野が直接手を下しておらんとしても、何らかのかたちで殺害に関与しているのは間違いない。

 けれ共、吾輩はこう信じる。

 小野長盛は根本文子を生かそうとしたと。

 経帷子に陀羅尼が書かれてあったことからしても、遺体を河に流したのは小野としか考えられぬ。ヒトラーは闇に葬るつもりだったろうが、小野は主君の目を欺き、密かに外に運び出した。文子の死体に現れた阿字を見て、高祖父の真意を悟ったのだろう。死装束を着せ、その上からさらに救命胴衣を着せ、発見されるようにして河に流した。

 『神秘舎利法印明』に云う、

 水火ハ光リナリ。火ハ釈迦ノ舎利ナリ。二火ハ浄飯王ト摩耶夫人ノ和合ナリ。コレ赤白二渧ノ身骨ナリ

 釈迦の舎利である火は、虚空に何万と浮遊している水の塊の一つを選んで交わり、強烈な光となって永遠に存在しつづける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る