第二十四章 根本文子の獄中手記

 耳鳴りがする。そのたびに子宮がズキンズキンと脈打ち、頭に響く。皮膚が痛む。燃えるように。

 思わず頭頂部に触れる。どこも腫れてはいないし、傷もない。縫われたような痕もなかった。

 人黄とやらは奪われなかったのか。なぜここに運びこまれたのか。それさえもわからない。

ここに来る前の最後の記憶は、ジョージ・ホテルの大広間。交合させられ、小野が陽隆に見えた。

 そうして気づいたら、この独房にいた。

 犬飼美栄子殺人犯として――。

 母も同じ建物内にいるのだろうか。私はここに放り込まれてから、一度も檻の外に出されていない。食事はすべて看守が運んでくる。誰も何も教えてくれない。

訊問が行われる気配もなかった。

 私は真実を伝えたい。

 聞いてくれないなら、書くしかない。幸い紙と鉛筆はもらえた。

 頭のなかの問答をそのままかたちにして記述する。


一 陽隆の子孫を恨んだ理由


問 文芳はなぜ陽隆を恨んだのか。


答 江戸城における論争で、陽隆は経血を穢れだとする発言を繰り返した。そのため文芳は理性を失い、御前で狂態を演じた。自分がそのような行動をとったと認められなかった高祖母は、陽隆の呪法にかかったせいだと考えた。私たち子孫はその呪いがあとあとまで祟ったと信じた。


問 呪いだと?


答 そうだ。


問 文芳は江戸追放になったとはいえ、長崎の鳴滝塾にふたたび迎えられた。そこでシーボルトによって子宮筋腫嫡出手術を施され、塾生中山慶之助の子を宿し、三十六歳で出産を果たしている。呪われていたとは言えんじゃないか。


答 高祖母は子を産んでも、幸福にはならなかった。


問 夫となるべき中山慶之助を出産後に失ったからか。中山はシーボルト事件に連座し、獄中生活で衰弱したのが原因で死んだ。シーボルト事件は将軍徳川家斉の陰謀によって引き起こされ、陽隆も加担していた。それが呪いだというのか。


答 確かに高祖父の死は、不幸のはじまりだった。女手一つで子どもを育てるのは大変だ。しかし中山の死が呪いのせいとは考えていない。高祖母は中山慶之助という人には執着がなかった。それなりの情はあったが、心のどこかで運命の人は別に存在すると信じていた。情人を失ったことを根に持つなら、陽隆よりも徳川家斉を恨んだだろう。


問 だったら陽隆の呪いがあとあとまで祟ったというのは、何のことをいうのか。


答 文芳は子ができても、江戸城大奥に勤めた過去を捨てきれなかった。少しでも江戸に近いところに住みたくなり、娘が三歳になると長崎から大坂にうつった。心斎橋で開業していた鳴滝塾時代の学友・岡研介のもとで、診療や翻訳の仕事をしたが、大坂人になじめず、鬱屈した日々を送った。呪いのせいだ。


問 文芳の母方の祖先は山内対馬守一道で豊太閤に仕え、関ヶ原の戦いで西軍についた関西人だった。とけこみそうなものだが?


答 高祖母の頭にあったのは、自分には武家の血が流れているということだけだった。気位の高さが何をするにも邪魔になった。しかも仕事と子育てに追われるだけの生活には我慢できなかった。


問 では呪いではなく、自分のせいで不幸だったのではないか。


答 いいや、呪われていたからこそ、高祖母の体にはふたたび子宮筋腫ができた。年をとるにつれ、偏狭な人間になった。娘のフミは母親の若い頃の自慢話だけを聞かされて育った。高祖母の大奥時代の話は、気位の高さや、癇癖の強い我ままな性格とともに、二代目のフミから三代目の文乃へ、四代目の芳へ、五代目の文子すなわち私へと伝承されていった。

そして血の道までも。曾祖母も祖母も高齢出産だった。「三年子なきは去る」といわれた時代に、曾祖母は婚姻後五年目に、祖母にいたっては七年目にようやく妊娠している。しかも初代から私の母まで、子どもは一人しか授かっていない。

さらに全員、伴侶を戦争で失った。

 二代目フミの夫、すなわち私の曽祖父は、大坂で評判の砲術師だった。幕府に見こまれ、妻子を連れて江戸に移った十年後の慶応四(一八六八)年、戊辰戦争に参加したが、大砲のそばを離れたとき、味方にあやまって斬られた。三十七歳だった。

 三代目文乃の夫、私の祖父は、横須賀造船所の測量技師だった。明治二十三(一八九〇)年、軍務局臨時建築部勤務の海軍技手に選ばれ、日清戦に従軍。明治二十七(一八九四)年八月、軍艦に乗船して渡韓したが、歩兵連隊とともに元山で上陸させられ、漢城(ソウル)まで二百粁(キロメートル)の行軍についていくことになった。四十度近い猛暑のなか、二十瓩(キログラム)の荷物を背負って歩かされ、疲労のため途中で動けなくなり、翌日亡くなった。四十三歳だった。

 四代目芳の夫、私の父は、祖父の弟子で測量技師だった。明治三十四(一九〇一)年、二十五歳で海軍技手見習になり、海軍省艦政部勤務となった関係で日露戦に従軍。明治三十七(一九〇四)年、戦艦春日に乗船し遼東半島海域に入ったが、濃霧の中、味方の巡洋艦吉野が衝突してきたため沈没した。父はまだ二十八歳だった。

 代々兵士でもないのに戦争に巻き込まれ、味方の非が原因で亡くなっている。

 何もかも呪われているとしか思えなかった。陽隆が文芳の子子孫孫にまで祟っているのだと。だから私は憎んだ。陽隆はもちろん、その子孫まで呪った。


問 貴様が小野中佐を呪うようになったのは、具体的にいつか。


答 八歳のとき、父が亡くなった。陽隆の呪いのせいだと母は言い、私にはじめて文芳の言い伝えを語った。ひいひいおばあさんはお城に住んだえらい人だったけれど、陽隆という悪いお坊さんと戦ったために呪われて悪い人間になり、その子どももみんな不幸になった。おばあさんがどんなにひどい母親だったかということを、母はやけに熱を入れて話したが、それよりも陽隆が呪文を唱えて茶を薬に変えたという話の方が印象に残った。子どもだった私はまだ色々なことがぴんとこなかった。ただ恐ろしいような悲しいような気持ちでいっぱいになった。

 母は小学校教師をつづけながら女手一つで娘を育てるうちに、話に聞いたひいひいおばあさんに似てきた。冷たく、子どもの気持ちは二の次。給料が入ると自分の欲しいものを先に買う。百貨店で牛肉の缶詰を買って押入れに隠し、私には与えずに自分だけ味わう。母親は子どものために飢えも我慢するとは、どこの話か。うちでは何でも母が優先だった。娘は道具扱いだった。その最たるものが経血処理だ。台所で母の込め玉をかえさせられる。間に合わないと、夜玄関に寝かされた。女学校に入る頃には殴られ蹴られし、高祖母の言い伝えは本当なのだと認識するようになった。

 母は娘の成長だけが生き甲斐だったという。過大な期待をかけたために、少しでも不満があると自分を抑えられなかったと。私の成績は悪くなく特に英語は優秀だったが、理系科目は父に似ずまったく駄目で母を失望させた。おまけに体育が苦手なために級友に仲間外れにされた。学校ではいじめられ、家では虐待されるうちに、私は運命を呪わずにはいられなくなった。すべては陽隆のせいだと思うようになったのは、その頃のことだ。

 女学校を卒業すると、今度は見合いだった。早くから方々に依頼していた母は、嫌がる私を無理矢理着飾らせて連れ出した。相手はどれもこれも小金持ちのえらそうな男ばかりで綺麗な女を見慣れているためか、私を見ると決まって馬鹿にしたような薄笑いを浮かべるのが癪に障ってならなかった。それだけでは飽き足らず、どこぞの新興成金の息子が、自分がいかに裕福かを証明するために灰皿に一円札を入れて燃やし、得意げな顔を見せた日には私はメンス中だったこともあって我慢も限界、ヒステリーを起こし、灰皿に茶碗蒸しをぶちまけてやった。

 見合いが中止になったのは言うまでもない。母は卒倒を起こさんばかりだった。

「どういうつもりっ」

「私を自由にして」

「少しはお母さんの気持ちも考えなさいよ。あんたのために人生を犠牲にして、このざま。え、どうしてくれんの。自由になりたいのは、こっち。家を出たいのを今までどれだけ我慢してきたと思ってんの」

「子どもに向かってよくそんなことが言える。自分がおばあちゃんたちにそっくりだって気づかない?」

「あんたに何がわかる。誰のおかげで生きていると?」

「誰も頼んだ覚えはない、産めとも、育てろともね」

「・・・・・・そう。あんたもおばあちゃんたちと同じ。血も涙もない人間。まったく呪われてる」

「出てって。家を出たいんでしょ。その方がせいせいする」

「そうするわよ。あんたにあんなことされたんじゃ、東京にいられないんだから」

 母は本当に家を出、どこをどう渡り歩いたものか、翌大正五(一九一六)年、千葉県我孫子町で貧しい婦人相手に経血を用いた保芽和療法をはじめた。文芳に憧れていた母は、娘時代に読んだ『月水療法録』をもとに経血療法を試したいと夢見ていたが、十八で結婚して以来生活に追われてかなわなかった。それをいよいよ家も教師の職も捨て、娘の結婚資金をつぎこんで実行に移したのだった。三十九歳になったばかりだった。その頃の母はまだ文芳の療法が本物だと信じていた。

 いざ一人になると、私はたちまち生活に困った。いくら女学校を出ても、女ではまともな職業にほとんどつけない時代だ。頼った先は、新宿の伯母だった。父の姉の上条梓乃は、薬屋に嫁いでいた。私の母とは折り合いが悪く、父が死んでからはいっそう疎遠になり、同じ東京市内に住んでいるのに会うのは年に一度程度だった。それでも子のない伯母は、姪のことはいつも気にかけていたようで、私が行くと実の子に対するように温かく迎えてくれた。私は部屋を与えられ、薬屋で働くことになった。伯父はさっぱりした人間で気兼ねがいらなかった。ところが順調なのは最初の一年だけだった。

 私が二十歳のとき、四十四歳の伯母は卒中で倒れた。幸い命はとりとめたものの、半身麻痺の状態で寝たきりになった。介護は私の仕事になった。家事は女中にさせても、身の周りの世話は私でなければ嫌という。一日じゅうそばについて排泄、食事の面倒はもちろんのこと、一定時間ごとに寝返りを打たせ、足がむくむといえばさすってやる。尻が痒いと言われれば、重い体を持ち上げて、片手で必死に腰を支える。何とも言えない臭いが鼻をつくなか、片手で布おむつの間に手を差し入れる。指に生温かいどろっとした感触があり、爪に緑色っぽい便がこびりつく。ひるめば、たちまち声が飛ぶ。

「ちゃんと掻きな。そこじゃない。もっと右。痛いっ、もっと優しく支えてっての」

 文句が絶えない。私が何をしても感謝するどころか。花を飾れば、ここは花屋じゃないから捨てろと言い、目の前に置いた饅頭に気づかずに私が盗んだとわめく。自分では何もできない惨めさを忘れるには、私を叱るしかなかったのだろうと、今なら思える。でも私はまだ若かった。家においてもらっている恩を忘れ、怒りばかりふくれあがらせた。子どものときに世話してもらったわけでもないのになぜ私が面倒を見なければいけないのか。疲労でメンスは重くなるし体調不良がつづいて私の方が倒れそうだ。こんな目にあうのも全部陽隆の呪いのせいだと思うと、心の底から憎くなった。できるなら子孫に復讐してやりたいと思うようになったのは、その頃のことだ。

 私は研究をはじめた。介護三年目には、伯母は私以外の人間にも世話させるようになっていたので、自分の時間はとれるようになった、少しでも暇ができると図書館に行った。陽隆自体の資料はほとんどなかったので、兄の日啓や徳川家斉、シーボルト事件、真言密教など陽隆に関連のある項目について調べていった。背景を知るにつれ、子どもの頃聞いた言い伝えの意味が、はっきりしてくるようだった。高祖母が受けた屈辱を自分のことのように感じ、陽隆への憎悪が高まった。子孫の所在を知りたくてたまらなくなった。しかしそのときは知るすべがなかった。


二 秘薬について


問 文芳が作ったいわゆる秘薬は、何の治療を目的として作られたか。


答 文芳は長崎で公儀隠密を内偵し、将軍家斉が脱毛症である可能性が高いと薩摩藩に伝えた。薩摩藩元藩主島津重豪は将軍を操るため、毛生え薬を作るよう文芳に命じた。文芳は薩摩の援助で医学を学ぶ条件として、子宮病の治療法を見出すことを言い渡されていたが、毛生え薬さえできれば先の条件は免除すると言われたため、必死になって取り組み、完成させた。


問 しかし効き目はなかったのだろう。


答 それらしいものができればよいと文芳は島津重豪に言われていた。最先端の西洋医学研究所である鳴滝塾で作られたことが重要だった。とはいえ文芳はホメオパシー理論を用いた経血薬には効果があると信じていた。


問 最初に完成した薬が徳川家斉に献上されなかったのは、なぜか。


答 陽隆が盗んだ。文芳はのちに新たな「秘薬」を作って将軍に献上するが、陽隆は最初の薬が唯一の完成品と信じていた。それが紛失さえすれば、文芳を政争にまきこまずにすむと考えたようだ。陽隆の目的が文芳を守ることにあったとは、私もつい最近知った。


問 陽隆は薬をどうしたか。


答 捨てるにはしのびなかった。かといって陽隆が持っているのは危険だったので、中国人の友人に託した。友人は中国に送った。中国人が効果抜群の毛生え薬と思い込んだためか、秘薬として伝わったようだ。


問 効果抜群の薬とされたものが、なぜ百年も使われずに現代まで残っていたのか。


答 一八二八年、長崎の中国人が送った薬は、文芳の著書『月水療法録』とともに上海の李筍喜のもとに届いた。李筍喜は清朝の官吏にして資産家だが学者でもあり、奇書珍本が好きで、明朝の富豪の邸宅を購入して慈雲楼と名づけ、古今東西の書籍計数万冊を収めていた。それだけに『月水療法録』を秘籍として喜び、秘薬もあわせて大切に保管した。ところが李筍喜はそれから間もなく亡くなった。彼の死後、蔵書は散逸。一八五〇年代に太平天国が蜂起したときに文芳の著書と薬も持ち出され、売られた。購入したのが顧理武だった。

顧理武は欧州遊歴経験のある学者で、岸田吟香とも親交があった。岸田吟香は画家岸田劉生の父親で、幕末に神奈川で医療宣教師ヘボンに習った眼薬精錡水を明治初期の銀座に薬局を開いて売り出し、大成功を収めると中国大陸にも事業拡大し、一八八〇年上海に支店を出し、中国風に岸吟香と名乗って現地の文人たちと親しく交わった。八年後の五十五歳の誕生日に顧理武は詩を贈っている。顧理武も秘薬を秘籍同様蒐集品として保管していた。一九〇八年の死後は、息子の顧奇炎が受け継いだ。これがその名の通り変わり者で、打倒清朝運動に参加したが、役人に睨まれると、自分を密告した家僕を絞め殺し、商人に化けて上海を逃れた。一九一〇年に革命がなってのちも家には帰らず、書物を馬に積んで読みながら流浪の旅をつづけ、ときには土地を耕し、あるいは商売をして命をつなぎ、二十年近くも各地の歴史踏査をしていた。


問 その顧奇炎は秘薬をどうしたのか。


答 『月水療法録』ともども持ち歩いていた。厳重に管理していたから、盗まれることはなかった。


問 一連の話をどこで知ったのか。


答 忘れもしない大正八(一九一九)年、夏のことだった。伯母が倒れて四年目、二十三歳だった私は介護の合間にふたたび薬局で一人店番をするようになっていた。

八月のその日は猛烈な日射しで、昼過ぎの客はまったくなかった。その頃はまだマスクをしていなかったので喉が渇いては麦茶を飲んでいると、見たことのない男が飛びこんで来た。だるまのような顔をした初老の男は、私を見るなり目をぱっと輝かせ、言った。

「あんた、根本文子けえ?」

 そうだと答えると、男は汗だくの顔を笑みでいっぱいにした。

「よしっ、そんなら文芳の子孫じゃな?」

 驚きのあまり呆然としつつ、反射的にうなずくと、

「あんたには秘薬を受け取る資格があるけん」

「秘薬・・・・・・?」

「とぼけんでもええ。喜べ、あんたのひいひいおばあさんが作った薬じゃ。それが百年ぶりに戻るがな」

「は。いったい何のお話ですか」

「秘薬」のことは根本家には伝わっていなかった。自分の作った薬が中国に渡ったことを高祖母が知らなかったためだろう。

 男は私がとぼけているとみたようだが、本当に知らないとわかると、先に述べた秘薬のたどった歴史を語った。

「そのような話をどちらでお聞きになったんです」半信半疑だった。

「十余年前、岸田吟香が亡くなる前に聞いたんじゃ。吟香さんは吾輩の知友でのう。以来、文芳の子孫を探そうと思っとったが、日露戦後の国際問題の処理や、朝鮮の開発などに忙しうてなかなか暇がとれんかったのを、ようやくとりかかってとうとう見つけたわい、ワハハハ」

 男は全身の汗を弾き飛ばさんばかりに大笑した。

「あとは顧奇炎を見つけるだけたい。吟香さんが生きとった頃、秘薬を持っちょった顧理武は、『息子以外には譲れん、文芳の子孫は別じゃが』と言うとったちう話じゃ。顧奇炎も大事に守り通してるようじゃが、あんたらには渡してくれるじゃろう」

 男は秘薬に異様な興味を持ち、手に入れたがっている様子だった。

「あなたは、いったい・・・・・・」

「吾輩? 吾輩は杉山茂丸じゃ。福岡ではちと名を知られとる、事業家みたようなもんじゃ」

 あとで知ったが、杉山茂丸は怪物的国士だった。つねに先を見越す並みはずれた頭脳の持ち主で、伊藤博文や山縣有朋も杉山には一目置いた。明治大正の政治家で彼の意見に左右されなかったものはいないという。一説によると、日露戦に勝ったのは杉山のおかげらしい。官職を何度も勧められたが、そのたびに断り、社会を裏面から動かしてきた。

 それでいて杉山茂丸には偉ぶったところがなかった。目つきは鋭かったが、頭がもじゃもじゃで不精髭を生やし、色あせた浴衣を着ていたから親しみやすく、私のことをあれこれ聞かれても嫌な気はしなかった。杉山は当時五十五歳。父が生きていたら、それぐらいの年だったのもあり、どこか懐かしい感じがした。伯父も同世代だったが、さっぱりしすぎていて包容力がなかった。私は客が来ないのをいいことに、問われるまま文芳の言い伝えから自分の恨みつらみまで喉の渇きも忘れて打ち明けた。

「うむうむ、ようわかった。吾輩がどうにかして陽隆の子孫の所在を探りだしてやろう」

「本当ですか」

「その気になれば、吾輩にできんことはない。無論顧奇炎の居所も突きとめる・・・・・・あんたの母さんも見つけ出さんといかんな。秘薬を取り戻すにしても、親子一緒がええ。千葉で保芽和療法を広めとるらしいが、娘のことはずっと気にかけとるがな。そのうち吾輩が連れて来てやる」

「・・・・・・」

「何じゃ、うれしうないんか」

「母のことはあまり・・・・・それより陽隆が高祖母の薬を盗んだと思うと、悔しくて・・・・・・とにかくお世話になります。どうお礼を申しあげたら――」

「礼などいらん。秘薬をとり戻してくれれば、それでええ。ついでに陽隆の子孫に復讐するのも面白かろう。そんときは吾輩が策を授けてやるわい。アハハハ」

 杉山の真の計画を、私は知るよしもなかった。


三 計画


問 陽隆の子孫の所在がわかったのは、いつか。


答 私が二十四歳になった大正九(一九二〇)年だ。杉山茂丸は初対面から一年後、本当に陽隆の子孫の居所をつかんで報告しに来た。それで小野長盛の名を知った。当時二十七歳の陸軍大学生で陸軍中尉。父親が千葉で葉茶屋を営んでいることや、中学生の弟がいることもわかったが、小野長盛のみが、私の憎悪の対象となった。年が自分に近い上、軍人だったからだ。父も祖父も軍の犠牲になったから、私は軍人が嫌いだった。


問 復讐計画は、大正九年に立てはじめたのか。


答 当時はまだどうしていいかわからなかった。策を授けると言った杉山茂丸は仕事が忙しいのか以後何年も姿を現さなかった。


問 だからといって何も行動しなかったわけじゃないんだろう?


答 薬局の客で、身内に陸軍関係者がいる人に話を聞いたり、陸軍の機関誌を貸してもらったりして、小野の動向をそれとなく探ろうとはした。


問 それでどの程度の情報を得た?


答 小野長盛が陸軍大学を卒業後、陸軍大尉に任官し、東京の参謀本部に赴任したということぐらいだ。


問 同じ東京にいると知って、見に行こうとしたんじゃないのか。


答 復讐を実行に移す以前に敵の顔など見る気はなかった。第一、私には伯母の介護があった。


問 だが伯母の上条梓乃は、関東大震災で伯父とともに家屋の下敷きとなって亡くなったな?


答 ・・・・・・誰も助けられなかった。私はたまたま午前中図書館に行き、その帰りで外にいて間に合わなかった。


問 上条梓乃は大正十二(一九二三)年に死んだ。なのに貴様たち親子は、死んだのを隠した。上条梓乃の名前を使って計画を実行するためだ。ちがうか。


答 ちがう。


問 ちがうと言ったって、貴様の母親は上条梓乃を名乗っていたではないか。


答 実際に計画を立てたのは杉山茂丸だ。全部杉山茂丸がお膳立てした。伯母がまだ生きていて実妹のもとに身を寄せたように装ったのも、母が突然東京に戻ったのもそうだ。杉山はその年の前半、我孫子にいた母をはじめて訪れ、秘薬や私のことを話した。そのとき母は患者から目を離せなかったが、しばらくすると娘に会いに来た。八年ぶりに再会した母は四十七歳に私は二十七歳になっていた。私たちは表面上、和解した。母を許すことはできなかったが、復讐のためには協力しあう必要があった。陽隆を恨む気持ちは、母も私に負けていなかった。

 だが震災後しばらくは復讐どころではなかった。食べ物や寝る場所を確保するだけで大変だった。新宿の薬局はもとより、以前母と住んでいた家も瓦礫と化していた。母は千葉に来るよう勧めたが、私は断った。母と同居するぐらいなら、東京で一人苦労する方がましに思えた。患者を思い出させて母を帰すと、私は生まれてはじめて必死になって職を探し、年齢をごまかして神楽坂のカフェエの女給になった。当時は太っていなかったし、顔も醜くはなかったから採用された。そうして二十八歳にしてはじめて男と寝た。給料だけでは下宿を借りられなかったので、客に体を売るしかなかったのだ。屈辱だったが、それほどつらいとは感じなかった。震災や伯母夫婦の死の衝撃に強くとらわれていたときだから、自分が自分のようでなくなっていて、命に関わる問題以外は大したことがないように思えた。楽しんでさえいた。ところがある晩激痛に襲われ、私は病院に駆け込んだ。検査の結果、子宮筋腫が見つかった。幸いまだ大きくはなかったので、手術ではなく対症療法を選んだ。交合を減らし、食生活を改善したら、痛みはさほど感じなくなった。だが筋腫によって自分が呪われた血を引いていると再認識させられた私は、結婚も出産もしないと改めて決意した。結婚すれば夫は若死にし、出産すればその子もまた不幸になるにちがいない。こんな血は断ち切らねばならない。

 空いた時間に小説を書いて、私は憂さを晴らそうとした。作品の原案は、江戸城での陽隆と文芳の争いだ。実際にはなかった殺人事件を起こして捕物帳の形式をとり、陽隆を犯人にして、文芳が徹底的に追いつめ打ち負かすという物語した。小野長盛が先祖の所業を知っているかは不明だったが、作品が完成すると、読ませたい欲求にかられた。

 頭に血がのぼると引っ込み思案らしからぬ行動に出られる私は、探偵小説雑誌『新青年』の編集部に原稿を持ち込みに行った。編集長の森下雨村は作家の一人と連絡がとれずに困っていたらしく、私の作品に興味を持ってくれた。読み終えると言った――舞台を英国に置き換えて書き直してくれないか。次号は米英新作家紹介号だ。君が英国人作家の小説を訳したことにしたら面白いと思うんだが、どうかね。

 私は承知した。舞台を十九世紀の倫敦にして医術と魔術を融合させる実験を繰り返す殺人犯の男を、学者の女がやりこめる探偵小説に書き直し、作者名を英国人エフ・ウヰリアムズ、訳者名を鈴木直として掲載した。すると翌年には杉山茂丸の息子、泰道が、百年前の先祖の呪いを題材にした小説『あやかしの鼓』を同じ雑誌で発表した。『新青年』を読んだ小野が心理的に追いつめられるさまを想像して、私は何とか自分を抑えていた。

その頃、小野長盛は参謀本部支那班の所属になった。内外の情勢を見ても小野が支那に派遣されるのは時間の問題たい。顧奇炎も大陸にいることじゃし、この際支那で復讐するのが一番じゃけに、あんたも大陸行きの覚悟を決めとけや――そう杉山に言われた。利用されて終わるとは気づかず、私は信じて従った。中国語と英語を習得しろと言われれば懸命に勉強した。丸の内の外人商社を紹介され、タイピストになれと言われればなった。

 昭和三(一九二八)年、小野はついに北京へ派遣された。顧奇炎も同じ河北地方にいるらしいと情報が入った折だったから、杉山茂丸は大陸行きの時機到来とばかりに私たちに策を授けた。

 計画は私たちの希望を大いに反映したものだった。秘薬が手に入ったら、百年前のシーボルト事件の構図を反転させて、小野長盛をシーボルトと同じ立場に立たせ、失脚させる。復讐の意図を明確にするため、江戸の地理と北京の地理を一致させる。

ところが本格的な準備にとりかかりだしたとたん、母が逮捕された。保芽和療法を信じて病を悪化させた患者たちが警察に告げたのが原因だった。杉山がほかのことに気をとられているうちに、詐欺罪で懲役三年の刑が科せられ、母は栃木囚獄に収監された。

 一時は途方にくれたが、杉山はむしろ天の采配だと言いだした。服役は鉄壁のアリバイになる。吾輩が裏から手を回して母さんを檻から出し、かわりに替玉を入れる。なに獄長には承知させる。天下の陸軍参謀を敵に回すなら、別人に化けるくらいのことはせんと。あんたもじゃ。

 保柴芳子という偽名は、自分で考えた。名を芳子にしたのは、小野長盛が「芳」のつく女に弱いと知ったからだ。保柴は、大久保利通と羽柴秀吉から一字ずつとった。羽柴秀吉は織田信長にかわって天下をとり、大久保利通は西郷隆盛と対立し、最終的に自決させるまでに追いこんだ。織田信長と西郷隆盛から一字ずつとった長盛に、保柴は勝つという意味を込めたのだ。

 昭和五(一九三〇)年春、母は上条梓乃に、私は姪の保柴芳子となって、上海に渡った。

決戦の場が北京から上海に変更されたのは、小野長盛が上海公使館附武官になったためだった。江戸の地理を上海に置き換えた拠点作りが行われた。経血実験所、刈屋珈琲店、汎太平洋通商会社の設置――杉山の資金と人脈が大いにものをいった。

とはいえ最も必要なのは、百年前の秘薬だった。小野を秘薬で釣れなければ、復讐は成功せんと杉山は言った。

 顧奇炎は河北から馬で南下しつつあった。秋になって上海郊外の龍華に到着したと聞くなり、杉山茂丸は私たち親子を連れ、友人の魯迅の案内で、顧奇炎の一時滞在場所であるあばら家を訪ねた。私たちは文芳の子孫だと名のり、代々の言い伝えを中国語で語り、文芳直筆の『月水療法録』や手記を見せて子孫だと納得させた。顧奇炎は礼金を受け取り、秘薬を譲ってくれた。

 それは本に書いてある通りの外観だった。三百竓(ミリリットル)ほどの液体が入った、一輪挿しの花瓶のような型の、青い硝子製の壜だ。布で何重にも包んであったので、表面に傷はほとんどなかった。金属製のふたがしっかりと差しこまれ、隙間をワックスで埋められていたため、開けるのにいささか難儀した。

 きつい匂いがしたが、母は少し口に含み、私にも一滴なめさせた。その頃母は先祖が作った薬の効果を疑っていた。保芽和療法を自分で十数年試し、月水療法は騙りだったと気づいたからだ。美栄子ら母に忠誠を誓った孤独な日本人娘四人にも毎日一滴ずつ与え、腹を壊す以外に何の作用もないとわかると、秘薬の実体はただの腐った水だと結論づけた。杉山茂丸は落胆しつつも、秘薬で通せと命じた。

 母は蒲生出太郎やスメドレーを紹介され、珈琲店のマダムになりきって現地での組織作りにあたった。尾崎周明もその一人だった。小野の手下の和田と星とともに来店したときは初対面のふりをした。その尾崎が敵に通じていたとは、杉山も見ぬけなかったようだ。


問 貴様らは人に使われただけと言いたいようだが、失踪事件はどうなんだ?


答 あれも杉山が発案した。


問 だが実行したのは貴様の母親だろう?


答 それは否定しない。私は面識のなかった美栄子、市子、幸代、ケイの四人に、母は半年以上前から指定の場所で働かせていた。それぞれ江戸の地理に符合する地にあり、かつ店名が火虚水乗のどれか一字にあてはまった。彼女ら四人は九月二十一日未明、あらかじめ切り落とした自分の髪と、経血で片仮名を一字記した紙を、店先へ誰も見ていない隙に置いて立ち去り、行方不明を装った。日本人の注目を集めるには十分だった。犯人を装った母は、尾崎に智恵を借りつつ小野にさまざまな暗号を与え、翻弄した。

 秘薬のありかをいっぺんにわからせたのではつまらないから、たっぷりじらす必要があった。汎太平洋会社の取引や実験所は、そういった仕掛けの一つだった。

 私たちが何者で、何が目的か、敵に少しずつわからせ、追いつめることができた。後ろ盾の策のおかげではある。背後にはつねに杉山茂丸がいた。すべて杉山の計画だった。


問 杉山氏が黒幕という証拠はあるのか?


答 それは・・・・・・。


問 ないんだろう。無関係の人間に責任をなすりつけようとしても無駄だぞ。貴様らは犬飼美栄子を殺した上、小野中佐に危害を加えた。


答 でっちあげだ。私も母も殺人犯ではない。


問 いいや。貴様らは復讐のために殺人の罪を中佐になすりつけようとさえしただろうが。認めろ! 明日の朝まで延々同じことを言われたいか。

答 ・・・・・・小野に危害を加えたことだけは認める。でも結局、復讐は失敗した。私は小野長盛という男を、まったく見誤っていた。


問 勝ち目がないことは、知っていたはずだ。少なくともジョージ・ホテルで赤い実の会を開いた十一月二十三日にはな。当日の朝、貴様たちは犬飼美栄子が敵に作戦をばらしたことを知った。それで腹いせに殺した。そうだな?


答 だから殺しはしていない。私は間違っていたと言っただけだ。真実に気づきかけたことはあった。そのときは理性で否定した。けれどもあの日、ジョージホテルの大広間で犯されたとき、私は感じてしまった・・・・・・小野と心が通じ合うのを。身も心もあの男と一体化するのを。すると小野の顔が百年前の陽隆の顔に、その目に映る私が百年前の文芳に見えた。僧侶の声が遠ざかり、壇上の文字と髑髏が重なり合い、梵字の阿字が金色に光り輝いて動きだし、天空いっぱいに広がり渡った。陽隆は私の耳に口を寄せ、語った。彼の物語を一瞬のうちに。そうして私はさとった、真実を。陽隆が薬を盗んだ本当の理由を。高祖母の運命の人は、陽隆だったと。


問 はいはい、おとぎ話はけっこう。要するに、貴様は小野中佐に惚れていた。だからなおさら中佐に通じた犬飼美栄子が憎くなって殺した。そうだろうが?


答 どれだけ事実をねじ曲げれば気がすむのか。犬飼美栄子は敵側に内通などしていなかった。私が小野に惚れたというのも間違っている。心が通じると感じただけで、男としてどうのというんじゃない。重要なのは、小野の高祖父の真実だ。

 陽隆は死の直前、一念を多劫にのばさんとした。来世で文芳と結ばれんとし、最期まで真言を唱えつづけた。死んでも阿字の印を結び、右手で左の人差し指を握ったまま離さなかった。その思いは唐にあった秘薬にも届いた。秘薬を飲んだ娘たちの顔に梵字の阿字が現れたのが、その証拠だ。


問 阿字だと。小野美栄子の額にもあったな。もしあれが刃物で刻んだ痕じゃないなら、貴様らに殺された無念がかたちになったってことだろうが。


答 まったくお話にならないが、美栄子の無念は否定しない。どんなに悔しかったろう。今の私にはその気持ちがわかる。杉山茂丸が救いに来ると信じていた。なのに現れる気配もない。私たちに罪をなすりつけ、自分は逃げたのだ。何が国士だ。いくら呪っても足りない。今となっては一番憎い。

 母も騙された。今ごろ同じ目に遭っているかもしれないと思うと、あれほど嫌っていたのに懐かしくてたまらない。父がいたときは優しかった母。反抗してずいぶん傷つけた。もう一度会えたら、謝りたい。

 また耳鳴りがする。全身が痛い。特に眉間が (以下空白)

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