第二十三章 熊野・一八四一(天保十二)年二月 陽隆
何もかもが白く煙っている。雪は、伸びきった白髭に、痩せさらばえた体に、容赦なく降りつもる。じき風が加わり、海は荒れ狂うだろう。さすればこの小舟など、ひとたまりもない。
ひと月前、大御所様が六十八歳でお隠れになられた。同じ年のおのれがあとを追うのも、定めかもしれぬ。
かつては大御所様の侍医だった。そう言っても今では誰も信じぬであろう。
山に入って何年にもなる。庵とは名ばかりの、枝でできたあばら家には、冬ともなれば絶えず雪が吹き込む。若い頃過酷な修行に耐えた身も、病に侵された。いずれにせよ、もう長くはない。
これは最後の賭けである――。
幼い頃、気弱だったおのれがいじめられるたび、勝気な兄はかばってくれた。両親を亡くし、叔父に厄介払いのため千葉の智泉院の役僧にさせられてからも、それは変わらなかった。わずか一歳ちがいだが、父親のように思えた。お冬のことがあるまでは。
十七歳のとき、おのれはお冬にひと目ぼれした。千葉の葉茶屋の女中で、智泉院によく参詣に来た。そのお冬を兄ははらませた。兄・日啓は、金銭面での援助は約束した。納所坊主をつとめて六年、それなりに金をためこんでいたゆえ、難しいことではなかった。
お冬は宿に下がって子を産み、実の母親と三人で不自由なく暮らしたが、心は満たされなかった。暇をみては寺に来た。そのたびに兄は突き放した。女はほかにいくらでもいた。美貌をたねに檀家の娘をたぶらかしては、もて遊んでいたのである。
するとある日、お冬はおのれを誘った。兄に頼まれてお冬の家へ金を届けに行ったときのことだった。子どもと老婆は親戚の家に出かけていた。お冬は唐突に抱きついてきた。可憐な娘の面影はなかったが、若かったおのれは火がついたようになった。女を抱くのははじめてだった。お冬は自ら裾をかき開き、おのれにまたがった。みるみる下腹が真っ赤に染まった。月厄の日にもかまわず、お冬は激しく腰を振った。絶頂に達しようというとき、動きがとまった。お冬は目をつりあげた。とたんに口からごぼっと音をたて、生温かいものをおのれの胸にぶちまけた。血だった。そのままがくりとうなだれ、二度と頭をあげなかった。
お冬の息はとまっていた。
恐怖でがんじがらめになっていると戸を叩く音がした。我に返り、お冬の体を引き離した。とっさに逃げることしか考えられず、法服に手を伸ばした矢先、
「俺だ、日啓だ」声がし、戸が開いた。
「陽隆いるか。早く帰らんと叱られるぞ」
兄はそう言いながら入って来た。その場の様子を見て驚いた顔をした割には冷静に遺体をあらため、
「お冬は毒でも飲んだのだろう。俺との関係を悲観しておったから・・・・・・おまえのせいではない。ここはまかせておけ」
心得顔をして処理した。すなわち医者に袖の下を使い、お冬はおのれが来たときにはすでに癪を起こして死んでいたと言わせた。兄はねんごろに回向をし、長男のために金銭面での援助をつづけた。
しかしおのれはしだいに兄を疑うようになった。お冬が絶命した直後に来たのは偶然とは思えなかった。
兄が毒を盛ったのかもしれない。お冬を厄介者扱いにしていた。考えれば考えるほど疑いは濃くなった。
だが口には出せなかった。兄はその気になればおのれを人殺しにできる立場にあった。はじめからそうするのが狙いでお冬の家に行かせたのかもしれなかった。
怒りがわきあがった。兄のせいで心に傷を負った。あの日以来、女と血を見ると吐き気がした。それらの言葉を耳にするだけでも、血みどろになって果てた女の姿が目に浮かんだ。罪悪感にも苦しめられた。何が原因にしろ、お冬がおのれとの交合中に死んだ事実は消えない。
二十歳になると逃げるように江戸へ出て、日本橋の宝生院の役僧になった。住職は医道に通じ、寺に医書を山と積んでいた。おのれは片っ端から読破し、学問に打ち込んだ。四年がたち、忌まわしい記憶も薄れていくように思えたとき、兄が会いに来た。
兄は三人の子持ちになっていた。お冬が長男を産んだのと同じ年、鳥追い娘に次男を、その翌年、酒屋の後家に長女をはらませたと悪びれもせず言った上、新たな女が四人目を身ごもっていると自慢げに口にした。おまけに子のいる喜びをさんざん説いていった。不覚にも、おのれの心には迷いが生じた。その年、諸国行脚の旅に出たのは煩悩を振り払うためだった。
何年も各地を流れ歩くうちに世間ずれした。酒を飲む、殺生をする、博打を打つ、喧嘩をする。女色以外は何でもやった。八年後には殊勝な心をすっかり失い、文化二年に滞在した長崎では唐人相手の商売をして稼ぎまくるなど、金儲けを何よりの喜びとするようになっていた。
江戸を出て十年目に宝生院に戻ったのは、三十五歳を目前にして腰を落ち着けたくなったためだった。相変わらず女と血だけは苦手だったが、それを除けば、もはや以前のおのれではなかった。長崎で医術を学んだとうそぶいて住職を丸め込み、信者相手の治療をはじめた。寺僧が医者を兼ねるのは珍しくなかったから割合繁昌したが、儲けはさほど多くなかった。そこで茶の栽培をはじめた。唐の茶を作って売り出せばあたると思ったのである。
本堂で真言を誦し、如来が茶を薬に変えたといって信者に飲ませると喜ばれた。唐の緑茶、福安銀針を福安湯と名づけて売り出すと評判になった。だが兄は、「おまえが茶にこだわるのは、初恋の女が葉茶屋の女中だったゆえ。あの女をいまだ忘れられぬとみえる」と嘲った。
兄の鼻を明かすため、喫茶療法を江戸じゅうに広めようと誓った。その一環として文化八年三月、花見客でにぎわう上野で金をとらずに茶を配った。そしてあの女と出会った。それまで女は皆お冬に見えたのに、その娘はちがった。十八歳だった伊藤文は、芯の強さを感じさせる少年のようだった。色白で、切れ長の目をしていた。
目が合った瞬間、心が通じあったのを感じた。相手は二回りも年下の小娘だ。そう自分に言い聞かせ、あえて冷たい態度をとった。だが弾みで手をつかんだ瞬間、首筋まで赤らむのを感じた。天茶屋の幔幕を襲ったのは、その反動だった。
娘はまもなく暇を出され、町医者の辻元周庵に縁づいたという話が耳に入った。
辻元はおのれの知り合いだった。宝生院によく出入りしていた。喫茶療法の信者を装っていたが、目当ては茶殻だった。大量の茶殻を土の肥やしにしていたとき、ゆずってほしいと言われたのが契機で、辻元に売るようになった。安値で仕入れた茶殻をどうするかまでは聞かなかった。どうせろくなことに使わないだろうとは思っていた。人のことを言えた分際ではないが、辻元は女の腐ったような人間だった。欲深く、医者の癖に医道にまるきり無関心で、おまけに意気地なしときていた。そんな男に伊藤文をとられたと知り、平静を失った。
辻元は茶殻を高値で天茶屋に売りつけていた。それを天茶屋は新茶と偽って売り、大儲けをしていた。おのれはその事実をつかみ、お上に密告した。にもかかわらず、辻元は罪を逃れた。
失意のうちに二年が過ぎた。おのれは四十一歳にして宝生院の住職になった。喫茶療法も有名になり、世間的には成功しつつあった。だがもはやおのれの心には伊藤文しかなかった。文なしでは、すべてがむなしく感じられた。その心が過ちを犯させた。
法要に行った先で、若い後家と二人きりになったとき、魔が差した。後家は二十八だったが、少年のようにひきしまった顔立ちから切れ長の目まで伊藤文そっくりだった。それが艶めいた肌を見せ、女の匂いをさせ、もたれかかってきた。一瞬お冬が脳裏に浮かんだが、すぐに消えた。おのれは後家と交わった。
後家はまもなく里に帰り、二度と会うことはなかった。
文は辻元と別れたが、喜べなかった。大名屋敷に入ったからである。側室ではなく、側室付きの女中に選ばれたとのことだったが、器量十分でまだ二十四だっただけにいつお手付きになるかもしれなかった。仮にお手つきを免れたとしても、一生奉公と言われる屋敷勤めである。手の届かぬ存在には変わりなかった。
その翌年、江戸城での加持祈祷を手伝うよう兄に言われて従ったのは、将軍家に近づくことで、文のいる薩摩屋敷に出入りできるようになれるやもしれぬと思ったからだった。おのれは大御所様の信頼を得、奥医師になった。
それから三年後、ようやく文に会う機会がめぐってきた。
当時、大御所様は岳父の薩摩藩元藩主島津重豪公を押さえつけるため、策を動かしていた。
餌は、ご自身の体の秘密だった。侍医だったおのれは、大御所様のありのままの頭を見たことがあるが、髷を結えぬほど髪がなかった。そのためつねにつけ毛をしていたが、大御所様ご自身は五十を越えれば当然のことと考えていた様子だった。それをさも気に病んでいるかのごとく見せたのは、禿げを将軍家の弱味だと薩摩に思わせるためだった。島津重豪公は抜け荷(密貿易)を好き勝手に行うため、幕府を脅す材料を求めていた。将軍が禿げを隠しているという情報が入れば、その証拠をつかもうとするにちがいない。そう考えた大御所様は、配下の者に芝居を打たせた。
石塚宗廉も役者の一人だった。長崎であえて不審な行動をとらせて薩摩の隠密の気を引き、毛生え薬を作っていると思わせた。ただ毛生え薬が将軍のためのものだと信じさせるためには、石塚だけでは不足だった。将軍の侍医が必要だった。
そのため長崎に遣わされたおのれは、石塚と穴弘法寺で会い、夜ごと怪しげな光景を作り出した。すなわち禿げのある男どもを寺の周りに集め、堂内に呼び入れ、毛生え薬に見せかけた薬を頭皮に塗りつけたのである。薩摩の使いは狙い通り引きつけられ、石塚のあとをつけて寺に入り、中を覗き込んだ。だがその使いが誰かは知らされていなかった。桟の隙間からちらと顔が見えたとき、まさかと思い、それでも気になり障子を開けたおのれは、全身を震わせた。そこには惚れた女がいた。鳴滝塾にいることは知っていた。しかし隠密になっていたとは聞いていなかった。なにゆえ隠密になったのかという疑問は、十三年ぶりに会えた喜びにかき消された。伊藤文は、三十一になっても少年のような面影を残していた。ただどこか面やつれして、思いつめたような感じがするのに薄幸な人生がうかがえ、胸をつかれた。その瞬間、おのれの大御所様への忠誠は揺らいだ。
薩摩側は穴弘法寺を探って将軍が禿げと確信すれば、毛生え薬を開発し、それをもって幕府を操らんとするだろうと大御所様は予想していた。読みは外れず、文は薬を完成させた。あとはそれを薩摩側が江戸に運び、大御所様に使わせて、禿げの証拠にしようとするのを待てばよかった。だが、おのれはひそかに薬を盗み出した。惚れた女が、罠におちるのを黙って見ていられなかったのである。
本当は会って伝えたかった。だができなかった。文には男がいると知ったせいもあるが、それだけではない、人目につくのを恐れたのだ。石塚宗廉が失踪したのは、薩摩に拉致されたからではなかった。幕府の隠密に殺されたのである。敵である文に心を奪われていることが、ばれたせいだった。おのれも、同じ目に遭わないとは限らなかった。命は惜しくなかったが、思いを遂げるまでは死ねなかった。本心を悟られずに文を守るには、薬をなきものにするしかなかった。鳴滝塾には誰にも見られずに出入りできた。
薬は、蒼いぎやまんの壜に入っていた。本当に禿げに効くのかはわからなかったが、おのれは本物だと信じた。文の努力の結晶である。捨てるのは、しのびなかった。壜は金属製のふたで密封されていた。にぎりながら真言を唱えた。喫茶療法で茶葉の効果を高めるために真言を誦すときのように――。
結局、唐人に預けた。昔長崎で親しくなった商人ゆえ信頼できると思ったからだ。効果抜群の毛生え薬だから大切に保管してくれ、場合によっては唐に送って守ってくれと、かたく言い含めた。
ところが翌年、文は新たな薬を作って将軍に近づいた。おのれの働きは無駄になったのである。
江戸城の人となった文は、頬にも顎にも肉がつき、さわやかさは消えていた。目は妖しい光を放ち、ふてぶてしい感じが漂っていた。変わらざるをえない状況に追いこまれたにちがいなかった。これ以上、お上の問題に巻き込んではならぬ。そう思ったおのれは、あえて文を攻撃した。月水療法は騙りとわかったので、材料には事欠かなかったが、喫茶療法もいかさまという点では同じだったので、反撃されると弱かった。恐怖心を煽ろうと、病死した女中が大奥の物の怪に殺されたように見せかけたこともあった。
だが文は大奥を出ることなく将軍の心をつかんだ上、禿げの治療法を書いた『月水療法録』を献上した。その書に大御所様が葵の紋を入れて保管したと知った薩摩公はシーボルトに盗ませ、将軍の弱味をにぎった気になったが、すべては大御所様の筋書き通りだった。薩摩公はそのことが原因で、いずれ叩かれる結果になるのを、おのれは知っていた。だが一方で大御所様が、おのれをも陥れようとしていたことまでは気づかなかった。
原因は、将軍家の十三男、斉衆様の死にあった。
斉衆様は文政九年春、痘瘡を患った。大御所様が治療を託したのは、おのれと文の二人だった。最初の診察のとき、すでに斉衆様の顔には豆粒状の丘疹が所狭しと生じ、体にも広がりつつあった。その時点で助かる見込みはなかった。いかに優れた医者が看たところで手遅れだった。まして、おのれや文のいかさま療法では何の役にも立たないのはわかりきっていたが、今更そのようなことは口に出せなかった。将軍の命令通り、それぞれの薬を与えるしかなかった。七日後、斉衆様は高熱を発した。さらに二日後、呼吸困難に陥り、亡くなった。
大御所様は最愛の子を失った恨みを晴らそうとした――。
シーボルトが江戸をたった七日後、将軍はおのれと文に御前試合を行わせた。斉衆様がなくなった理由について論争させ、負けた方を江戸追放に処すという。
大御所様の真意を知らなかったおのれは、好機だとみなした。将軍はいずれ薩摩公を叩くための最後の策を実行する。薩摩の隠密でいる限り文もまきこまれ、最悪命を犠牲にさせられる恐れがある。しかしそれ以前に江戸追放になれば、島津重豪公も文を見放し、薩摩とは縁が切れるだろうから、命に危険が及ぶ心配はない。そう考え、文のために何としても勝とうと決めた。
御前試合は大奥の広間で行われた。
われわれは左右にわかれて対面。左に御台所側、右にお美代の方側の面々が控えていた。やがて「御成り」の声とともに将軍が現れて座すと、緊張は頂点に達した。文はやけに落ち着いていた。眠そうでさえあった。顔がむくみ、瞼が赤く腫れていた。寝不足になるほど入念に準備したのかと思い、不安になった。
試合開始の合図がかかるなり、おのれは舌鋒鋭く攻撃した。
「拙僧の茶を服用したとき、若様のご病状に異常はなかったが、汝の薬を服用しつづけたことで高熱を出された。汝の薬が悪化させたのではないか」
文は眉一つ動かさなかった。少しも気負いのない、人を馬鹿にしたような声で、
「あれは好転反応でした。私の薬は症状を抑えつけるものでなく、症状をだしきれるように後押しするものです。ゆえに服用すれば一時的に悪化することはあります。けれどもそれは快方に向かっていることの証でした」
「若様を最期まで苦しめた高熱が、快方の証だったと?」
目で「これは汝を思うての芝居」と伝えたかったが、文はおのれと一切目を合わせなかった。
「症状は生き方をあるべき姿に戻そうとする生命原理の表れにすぎませぬ。ゆえにある症状を取り去るには、一時的にその症状がより強く現れるようにする必要があります。熱があれば、さらに熱を出させる働きのあるものを体に入れねばなりませぬ。同種の法則によれば、二つの作用が似ている場合、より強いものは、より弱いものを消します。日の光が、弱い行灯の光を消し、味方の太鼓の音が、敵の銃声を消すように、毒をもって毒を制するのです」
「与えた毒が強すぎれば、生命を奪う。本末転倒の結果を導いたのではないか」
「ほかの薬と混ざることがなければ、熱はいずれ下がり、息切れも起きなかったはずです」
「これは都合のよい。拙僧の茶のせいにするとは。もし汝の薬のみを用いていれば、息切れも好転反応と言いわけしたのであろう」
「さようなことはあり得ませぬ。私の薬はまことの毒とはちがいます。確かに元の成分は毒性がありますが、繰り返し薄めています。薄めて振ることで薬の副作用が減るとともに効力が増すのです」
「繰り返し薄めれば、ただの水になる」
文は心持ち腰を動かした。
「いいえ。薄めれば、その物の持つ固有の波動を水に転写できます。固有の波動とは、物質から解放された魂のようなもので、病の根本原因に直接、純粋に働きかけることができますゆえ、病を根本から治すことができるのです。人の体には五段の層があります。上から薬害層、病気層、基本層、根本体質層、そして一番下に病気の土壌である魔耶層があります。生きている体の中ではつねに生命原理と、有害な魔耶の力が闘っております。生命原理が勝った状態が健康で、魔耶が勝った状態が病ゆえ、病を治すには魔耶の波動に働きかけねばなりませぬ。私の薬には、生命原理を助ける目に見えぬ波動があるため、できるわけです」
「その波動とやらが存在する証拠は? 色は? かたちは? 言ってみよ」
「目には見えませぬ」文はまた座り直した。
「重さもありませぬ。しかし度はございます。度は、そのものの性質と言い換えられます。あらゆる生物、植物に独自のかたちが与えられている通り、この世に存在するすべてのものには、そのものをほかのものと区別する波動がそなわっています。それは神から授けられたもので、物質的な体を支配し、統御しています。波動は、単純実体と言い換えられます。単純実体は、物質の最も内なるところに存在するものですが、活性化すると、度が高まり、その機能が表に出ます。病でいえば症状がそれにあたります。病の本質が症状ではないゆえんです。病の本質は単純実体なのです」
「単純実体など汝の妄想にすぎぬ」
「よく考えて下さりませ。森の木々がたがいに場所をゆずり合っているのは何ゆえか。星と月と日がたがいに干渉せずに動くのは何ゆえか。すべては単純実体の働きです。あらゆる単純実体は起源をさかのぼっていくと、至高の存在――神に行きつきます。創造主は、宇宙のすべてのものを秩序ある状態に保っています。単純実体は神の力をそなえているのです」
「創造主? 切支丹の発想ではないか」
「・・・・・・」
文が言葉につまった隙におのれは畳みかけるように言った。
「神は一つしか存在しないという考えは切支丹のものだ。日本の仏神は一つではない。如来はあまねく存在している。『一即多、多即一』と言う言葉があるごとく、万物もまたそれぞれが如来である」
「私の論は、切支丹とは何の関係もございませぬ」
「それならそれでよい。しかし汝の論は根本から誤っている。そもそも病は内部から生じるものではない。悪霊のたたりや悪業の報いから起こるものである」
「悪霊のたたり? それこそ妄想でございます」
「さように思うのは、汝が根源的に無知だからだ。悪霊や報いは現に存在する。ゆえに呪法の働きだけが一切の病を治すことができる。秘密真言を念誦すれば、鬼魅退散し、衆病も忽然として治癒する」
「根拠はあるのですか?」
「ただ今から説明する。秘密真言が効くのは何ゆえか。真言が大日如来の真実の言葉ゆえである。大日如来とはなにか。お日様の仏ではない。お日様の力を超えた、現象界のあらゆるものを包含する存在、いわば、宇宙そのものである。といっても大日如来は伝説の神でも仮空の人物でもない。はっきりとこの世に実在する生命体である。
その生命体は、物質である体と、心の働きとからなっている。つまり大日はわれわれの身体と同様なのである。したがって大日の体とわれわれ人間の体と少しも不相応なところはない。姿の面から見ても、言葉の働きと心の動きを表現することを見ても、われわれ一般の人間とまったく同様である。
ただわれわれ衆生とちがうのは、大日如来はあらゆるものと心が一つで、すべての場所に自由に行くことができ、すべての生き物さらには万事の中にあまねく行き渡っていること、さらには限りなく高い人格を持った仏陀という点にある。大日如来はこの世を救済する力を備えている。ゆえに大日と一体化すれば、悪霊が退散し、病は治るのである」
「それがまことならば、誰も医者を必要とはしませぬ」
「誰もが容易に大日と一体化できるわけではない。一体化するには、昼夜に精進努力し、心を大日と同様な深さと広がりに近づけねばならぬ。さようなことは患者には難しい。ゆえに茶を用いる。茶を前にしてわれわれ修行僧が手で印契を作り、真言を唱える。すると茶は特別なものに変わる。その茶を患者に与えれば、加持の威徳の力が発揮され、病が治るのである。『虚空蔵求聞持法』にいう、陀羅尼を誦しながら加持すべしと。『この相を得己りぬれば、すなわち神薬となる。もしこの薬を食すれば、すなわち聞求を獲て、ひとたび耳目に経るるに文義つぶさに解す』」
「言葉を唱えるだけで茶を神薬に変えるなど、いくら修行僧とてまことにできましょうか?」
「弘法大師の『声字実相義』に言う、『五大に皆響有り』。五大にはみな声があり響きがある。この世の一切の音響は五大を離れない。つまり大日如来を離れないという意味で、音響はすべて大日の活動と言える。ましてありがたい真言である。真言は一語にたくさんの意味を持ち、重く奥深い。真言の響きが茶に神秘なる力を与えるのは、確かである」
「真言がそれほど効くのならば、患者の体に直接浴びせた方がよろしいのでは?」
「茶を用いるのには理由がある。山や谷に茶の木が生えれば、その地は神聖であると言われる。古来天竺や唐土では茶を貴び重んじている。茶は霊験あらたかなものなのである。また茶には苦味がある。『尊勝陀羅尼経』の『破地獄法秘鈔』によれば、『一に肝臓は酸味を好む。二に肺臓は辛味を好む。三に心臓は苦味を好む。四に脾臓は甘味を好む。五に腎臓は鹹(塩辛い)味を好む』とある。苦味をとれば心臓が強くなる。茶には苦味がある。ゆえに茶を喫すれば健康になる。心臓は諸臓の王であり、心臓の調子がよければ、万病を除き治すことができるゆえに、心臓を強くする茶に真言を与えれば百万力となる」
「心臓が苦味を好み、肝臓が酸味を好むなどと、なぜわかるのですか?」
文の顔は蒼白だった。おのれは自信を得て、
「万物は木火土金水の五行から成り立っている。世界は五行によって読むこともできれば、変えることもできる。五臓も五味も五色もこの世のあらゆる事象は五行にあてはまる。たとえば水行は、腎であり北であり冬であり黒であり鹹である。火行は、心であり南であり夏であり赤であり苦である」
「苦味のあるお茶ならば、万病を防げるとおっしゃるのですね」
「さよう」
「ならば、悪霊退散の祈祷は不要でございましょう」
はからずも一本とられそうになり、
「あいや」おのれはあわてて、
「祈祷は必要、というのは・・・・・・茶は元来清浄なものではあるが、扱い方を間違えれば、毒になることもある。たとえば茶を煮立てる水だが、江戸の井戸の水をそのまま使ってはならぬ。きれいに見えても、悪鬼が潜って毒を蓄えていることがある。ゆえに真言を誦して邪気を払わねばならぬ。それも茶に合わせた真言を。茶の苦味は心臓にあたり、心臓は南方にあたる。南方は宝生仏にあたり、虚空蔵菩薩にあたる。すなわち宝部である。宝形印を結んで吽字の真言を唱えて祈祷すれば邪気は完全に払われる。それでこそ茶はまことの薬となる。拙僧の論はどこも矛盾してはおらぬ」
「私は心臓が痛んだ折、あなたのお茶を飲みましたが、いささかも効きませんでした。何ゆえでございますか?」
「『三密加持すれば速疾に顕わる』という。加持とは如来の大慈悲心と、衆生が如来を仰ぐ心との関わりをあらわす言葉である。つまり服用する者に大日を信じる心がなければ、御利益はないということだ」
「若様の病が悪化したのは、信心が足らなかったためだと申すのですか」
「と、とんでもござらぬ・・・・・・」
おのれはうろたえ、是非もなく声を張り上げた。
「若様は御利益を受けるべきお方であらせられた。しかるに汝の薬が、拙僧の浄い薬を穢し、効験を無にしたのである」
文の眉が動いた。
「神の力は、私の薬にこそ働いております。なのに穢れと・・・・・・?」
「汝の薬は、月水で作られているではないか。穢れそのものだ」
「異国では、月水を表す語の多くには、清純といった意味が含まれています。月水は命の源と考えられたためです」
昂ぶった声で、
「いにしえの西洋の学者、プリニウスは月水を発生のもとになる物質であると申しました。天竺では太女神の月水の浸みたと伝えられる布は治癒の呪力を持つものとして尊重されています。月水は神聖なのです」
「神聖なる江戸城で異国を持ち上げるとは、それこそ穢れだ」
「あなたは、あらゆるものが大日如来そのものだとおっしゃいました。ならば月水も尊いはずでは?」
「・・・・・・『血盆経涌出縁由垂手』にいう。『女人ト生レタレバ、後生菩提ノ心薄ク、嫉妬、邪念ノ念ハ深シ。ソノ罪ガ結ンデ経水トナリテ月日ニ流レ溢レテ地神ハ申スニ及バズ、アラユル神々ヲケガスユエ、死ンデ後ハ是非ニコノ地獄ニ無量無辺ノ苦ヲ受ケネバナラヌ』。月水は魔障にほかならぬ」
文の満面が朱に染まった。
「その話ならば、あなたに聞かぬとも知っております」怒りを抑えた口調で、
「確かに月水は毒かもしれませぬ。月水は病と共鳴します。体に病があれば、毒物の波動が月水にしみこみます。けれども、それゆえにこそ薬になるのです。毒であればこそ、毒を制する。私は疱瘡患者には、より強い疱瘡にかかった女人の月水を薬として与えます。月水にしみこんだ毒物の波動が、患者の体内の病の波動を打ち負かすがゆえに、若様もご回復なさるはずでした。されど、あなたが下手に毒を祓おうとしたために、治るものも治らなかったのです」
「ちがう、汝の与えた毒が強すぎて患者の体を弱らせたのだ。そもそも月水を薬に用いることからして誤りだ。血は病、死、怨霊と同じ穢れである。穢れは妄語同様、人を苦しめる」
お冬の思い出に三十年以上苦しめられてきたおのれは、我を忘れた。
「女人もまた穢れ、修行しても、仏にはなれぬ。救われたければ男子になるしかない。龍王の娘である龍女は、見事な玉である宝珠を釈迦に奉った。そのおかげで男子に変じて成仏したのである。もっとも普通の女人には『変成男子』はかなわぬ。それゆえ茶が必要なのだ」
「いいえ」文も声を張り上げた。
「『変成男子、龍女成仏』など、殿方の生み出した妄想にすぎませぬ。殿方は強いと信じたいのです。心の底では女を畏怖しているのです。女を知らぬ殿方ほど月水を激しく恐れると申します。あなたもその反動で拒否しているにすぎぬ」
そう言って座り直した文の座布団から畳に何か黒いものがしみ出した。血だ。月水が洩れたのだ。本人は気づいているのか、いないのか、平然としていた。たちまちおのれは悪寒に襲われ、
「汝は月水の忌を知らぬか。血気のある女を集めて囲い、穢れの障りがないようにする。その場所を忌屋、仮屋などという。知らぬとは言わせぬぞ。月事の女が晴れの場に出るなど、もってのほか」
文の顔からさっと血の気が引いた。
「・・・・・・仮屋など、ごく一部の田舎で行われる風習にすぎませぬ」
「一部ではない。重い忌として国の隅々まで行き渡り、厳しく守られている。それだけ女人は罪が深い。女身垢穢、是非法器」
文の額に筋が走った。
「そこまで申すのなら、よろしい。月水が薬だと、この場で明かしてみせようぞ」
眦決して両膝を広げ、裾をかきひらいた。
居並ぶ面々は、あっと息を呑んだ。
白いむっちりとした太ももの間に黒い茂みが垣間見えた。そこに文は指をつっこみ、何やらぐいと引っ張り出した。
真っ赤な内臓だった。親指ほどの大きさで、脈打つかのごとくてらてらと光っている。黒い斑点の浮いた尾鰭のようなものが垂れ、雫をぽたぽたと落としていた。
「月水をたっぷり吸った込め玉です」
尾鰭に見えたのは、布に貼りついた血のかたまりだった。その下に文は口を持っていき、雫を大口開けて飲み込んだ。
「ああ、おかげで、めまいが治りました。ハハハハハッ」
怪鳥のように笑いながら、文ははじめておのれと目を合わせた。血まみれの歯がお冬と重なって見えたとき、
「やめい!」将軍の大音声が耳に飛び込んだ。
判定は勝者なしだった。二人とも江戸追放になった。はじめから大御所様がそのつもりだったことは、あとで知った。兄もお美代も、鼻つまみ者となった身内をかばうどころか、率先して退けた。
しかし文と一緒になる好機ではあった。ともに江戸を去ろうと思えばできた。それをしなかったのは、おのれの心に迷いが生じたためだった。文がお冬に見えてしまった。文への思いよりも、血に対する嫌悪の情が勝ったのか?
答えを知ろうと、おのれは五十六歳にして、ふたたび諸国行脚をはじめた。今度は進んで深山幽谷にわけ入り、厳しい修行にも耐えた。その間にも村垣淡路守との連絡は絶やさなかった。江戸城で唯一親しかった淡路守は勘定奉行だが、本職は公儀隠密だった。おのれの知りたいことを教えてくれた。
淡路守によると、伊藤文は江戸を追放されたあと薩摩に見捨てられ、情人だった中山慶之助を頼って長崎に戻った。シーボルトにも再会、ふたたび鳴滝塾に住み込み、翻訳などをして暮らした。ところが二年後、倒れた。文の子宮には血塊があった。三十五になったその年には、塊は赤子の頭よりも大きくなっていた。シーボルトが嫡出手術にあたった。
その四か月後、文政十一年八月九日(一八二八年九月十七日)、暴風の影響で、阿蘭陀に出航予定だったコルネリス・ハルトマン号が長崎湾で座礁すると、役人が待ち受けていたように積荷改めを行い、葵の紋入りの書と禁制の地図類を発見。シーボルトを幽閉した。同人を紅葉山文庫に案内した天文方の高橋作左衛門景保も江戸で召し捕られた。
翌年一月には、江戸参府同行者が続々手鎖をかけられた。中山慶之助も例外ではなかった。
その頃文は中山の子を身ごもっていた。だが通詞兼医師でシーボルトと親しかった中山は奉行所に引き立てられたまま帰ってこなかった。
二か月後、高橋作左衛門が獄中で病死。シーボルトには国外退去及び再入国禁止の処罰が下された。
これによって薩摩侯の力を間接的にせよ、ひしぐという大目標を達成した大御所様は、関係者を次々放免。中山慶之助も牢から出された。
文はすでに臨月を迎えていた。血塊の手術で腹に傷があり、りきめぬため、帝王切開するしかなかったが、シーボルトは依然として幽閉されていた。中山が執刀。全身全霊を捧げ、赤子をとりあげた。文もことなきを得、三十六歳にしてはじめて母親となった。
だが獄中生活で体を弱らせていた中山は病に倒れ、あっけなく死んだ。文は子の父親を失った。
そのあと、どうなったかは、情報源の村垣淡路守が天保三(一八三二)年に亡くなったため、わからない。長崎を訪ねたが、文の消息を知る者とは出会えなかった。
あれから十余年――。
時代は変わった。薩摩公も大御所様も鬼籍に入った。兄の日啓にも終わりが近づいている。
兄はおのれが江戸城を去ったのちも、権勢をほしいままにしていた。寺に美僧を集め、祈祷と称しては大奥女中を寝間に導くなど、好き放題をしていたが、代がわりした今、天保の改革を進める老中水野忠邦は必ずや厳罰に処すだろう。おのれの長年の恨みは晴らされる。
心残りは、文のみ・・・・・・。
生きていれば、もう五十近くになっているだろう。もし会えたら、伝えたい。文が鳴滝塾で作った薬をおのれが盗み、唐人に渡したことも、その薬が今唐にあることも。
雪はやまぬ。山は白い湯気を吐くかのごとく煙り、輪郭も定かではない。最後にこもったのが熊野の山だったのには、わけがある。
平安時代、和泉式部は詠んだ――、
熊野へ詣でたりけるに さはりして奉幣かなはざりけり
晴れやらぬ身の浮雲のたなびきて 月の障りとなるぞ悲しき
月の障りを憂えたのだが、その夜権現が現れ、
もろともに塵にまじはる神ならば 月の障りもなにかくるしき
と返歌を与え、参詣が叶ったという。
熊野権現は、信不信を問わず、浄不浄を嫌わぬ。
おのれには悔いがあった。穢れを受け入れられたならば、江戸を出る際にも思いをとげられたかもしれぬという悔いが――。
今年の冬、熊野の岩屋にこもり、早朝から真言を唱えつづけた。口にするものは山に自生する草木と川の水のみ。途中で猪に襲われた。傷ついた右の足指が腫れ、痛み、行の妨げになったゆえ短刀で切り落とした。気を失ったが、目覚めるとまた行をつづけた。心が研ぎ澄まされていくのを感じた。百日目、ようやく穢れを穢れと思わぬ境地に達した。
しかし体は死臭を放ち出し、死は目前に迫っていた。それゆえ、舟を出したのだ。人を蘇らせるという言い伝えのある那智の海に。
おのれは吹雪に身をさらしつつ、真言を唱えつづけている。寒さは限界を超え、印を結んだ両手の感覚はすでにない。
これは最期の賭けである。
今こそ、一念を多劫に延ばすとき・・・・・・
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