第二十二章 上海・一九三一(昭和六)年 十一月二十三日 根本文子
豪華な花瓶に生けられた蘭の花。大理石の床に革の椅子。ジョージ・ホテルのロビーにはすでに全員集まっていた。スメドレーが近づいて行くと、いっせいに顔をあげた。入会式に参加するのは十人。フェルトの帽子にオーバーコート、無地のスカートに革の洋靴。皆、似たような格好をしていた。うち九人はサクラで三十代前後の婦人だが、一人だけ例外がいた。
女装しても、体型までは隠せない。ひと目で小野長盛だとわかった。あの陸軍武官がウエーブのかかったかつらをかぶり、顔を白く塗りたくって眉を細く描き、紅までさしていた。そこまでして秘薬が欲しいのか。
一週間前、ちらしを陸軍武官室のポストに投げ込んだ。「婦人のあなたへ。月経のお悩みを解決しませんか」。不特定多数に送ったように見せかけたが、小野のためだけに刷った。「江戸時代から伝わる秘薬があなたを救います。赤い実の会。会長上条梓乃」。敵が飛びつかないはずがなかった。それにしても自ら女に化けて来るとは。小野は鈴木直(なお)と名のって応募してきた。鈴木直は私の筆名だ。まったく人を馬鹿にしている。さすが陽隆の玄孫だけある。
今日こそ、決着をつける。この三十五年、ろくなことはなかった。今までどんなに頑張っても、何一つ報われなかった。怒りばかりがたまり、年とともに心は歪んでいった。私、保柴芳子――否、根本文子の人生には、ろくな喜びがありませんでした。だから神様、お願いです。作戦を成功させてください。そうすれば一切は変わる。どうしたって小野長盛を倒す必要がある。あの男は私の唯一の理解者かもしれないけれど、敵だから。怨む理由は今日、わからせてやる。
小野が顔をしかめた。スメドレーが勧めた珈琲を飲んだせいだ。百年前、シーボルトは江戸城で陽隆が作ったまずい黒茶を出された。今日、私はホテルの許可を得て自ら、胃痛をひきおこすほど苦い珈琲を淹れてやった。垂れ目に涙が浮いて、つけまつ毛が剥がれそうになっている。幸先がいい。厨房から顔をだし、スメドレーとウインクを交わしあった。案内役のスメドレーはまもなく一行を連れて二階へと向かう。
秘薬はゾルゲが持っている。今日の作戦の打ち合わせで三日前に会ったとき、怪白人男性の名がゾルゲだとはじめて知った。今回の作戦は必ずうまくいくと、黒鉄智介すなわち尾崎周明も太鼓判を押している。鼠に似ているが、心強い味方だとマダムは言った。唯一の気がかりは、メンスだ。いつはじまるか、わからない。
私も一行のあとについて二階にあがった。集会所にはサクラの会員が先に入っていた。合計二十人ほどの婦人が、演台の前の長椅子に腰かけている。全員組織の一員だ。中には犬飼美栄子もまじっていた。
失踪事件は芝居で、犬飼美栄子や山田幸代ら四人は仲間だったと、マダムは最近になってようやく打ち明けてくれた。マダムは伯母を装い、偽名の上条梓乃を名乗っているが、本名は根本芳で私の実の母親だ。娘を失踪事件に巻き込みたくなかったそうだ。
美栄子は防諜活動を行っていた。桜井竜之助と逃げたのは、汎太平洋会社の実態に恐れをなしたからではなく、敵に存在を嗅ぎつけられそうになったためという。天津に滞在したが、桜井は日支闘争同盟の一員として指名手配されていたため、私が川島芳子に拉致されていたころ、日本軍の憲兵に捕えられた。美栄子は別行動をとっていたので免れ、一人で上海に戻った。桜井が証拠不十分で釈放されたのが、十日前。上海に帰るなり刈屋珈琲店のマダムと接触、再び仲間と連絡をとりあい、活動を再開した。その間、美栄子と会ったかどうかは不明だった。
桜井は今、上階の孔雀ホールに控えている。共同租界警察官たちと一緒だ。租界警察を管轄する工部局参事と母が懇意だから、桜井は安全だった。憲兵に絞られただけに日本軍に対する嫌悪を高めた桜井は、私たちの事情を深く知らされなくても、陸軍武官小野長盛の逮捕には大いに乗り気で、並々ならぬ熱意をみせている。
私は一行とは離れ、会場の端に立った。私たちの後ろ盾も来ているはずだが、発見できなかった。
演台に蒲生出太郎が理事長の名目で登場し、二十九人のサクラと一人の女装軍人を前に講演をはじめた。
珍しく立派なネクタイと背広を身につけているが、お仕着せという感じはぬぐえない。おまけに声がうわずって、赤面している。婦人病に関する一夜漬けの知識をもっともらしく披露すべきなのに、柄にもなく緊張しているのだろうか。これでは小野に怪しまれる・・・・・・。不安になると、後ろ盾の言葉が思い出される。
「人間万事、気じゃよ。吾輩が昔、満州の山には四百億円眠っちょると触れ回ったら、大勢の男が一攫千金を夢見て大陸に渡りよった。金鉱は結局掘り当てられんかったが、大陸に根を張ったやつらは、日露戦の際、日本軍の目となり耳となった。四百億の夢が日本を救ったようなもんじゃ。四百億ちうたら、大戦後の独逸をカイゼルもヒトラーもコミにして丸ごと買える額じゃからのう。そんぐらいの夢は見んと。人間気がしっかりしてさえおれば、恐ろしいことは何もなか、ワハハハハハ」
白扇を使いながら、老人はこうも言った。
「将来の日本は毛唐と同じような唯物功利主義一点張りの社会になるにきまっちょる。そげな血も涙もなか社会に対しては、それ以上の権謀術数と、それ以上の惨毒な怪線を放射して対抗するだけじゃて、ウホホホ」
後ろ盾の存在が今までどれだけ心の支えになったことか。老人の上海の別宅は、文芳の後ろ盾・島津重豪が住んでいた薩摩藩下屋敷と同じ位置にある。陸戦隊本部から北西に四・二キロで、茶館『翠緑閣』のすぐそばだ。一か月前から滞在しているそうだが、今回はまだ一度も会えていない。蒲生のかわりに演説をしてくれれば素晴らしいのに、どこにいるのか。
小野長盛はかつらの髪を背もたれに垂らし、目を閉じていた。寝ているように見える。これから大仕事をしようという人間が、どういうつもりか。私たちを油断させようという魂胆か。
講演が終わって、進行係がマイクの前に立ち、医師との面談の順番を告げた。面談は「新会員」一人ずつ客室で行う。小野の偽名鈴木直は一番最後に呼ばれた。むろん医師は偽者で面談は方便だから、サクラの九人はそれぞれ五分もかからずに済み、一時間以内に小野の番がきた。
医師役のゾルゲは、秘薬を見せ、盗む機会を与えるはずだ。
集会所の近くにある客室二〇八号室に小野が入るのを見届けたとき、誰かが私を呼んだ。桜井だった。上階にいるはずなのに、どうしたのだろう。美栄子をともないつつ私の目を見つめ、話があると言った。逃亡と拘留でげっそりやせてはいたけれど、目には温かみがあった。しかも私に語りかける何かが湛えられているように見えた。
いつの間に部屋をとったのか、二〇八号室の隣室に美栄子と私を入れた。
「作戦はこれからが本番だ。おたがいに信頼し合わなければ、うまくいかない」
私たちを向かい合わせ、
「誤解を解いてやれ」
美栄子の肩を叩いた。
「しばらく二人きりにしてやる」
桜井が部屋を出ると美栄子は話しはじめた。秘書としての言動はほとんどが演技だった。あなたを軽んじることを言ったのは、本心からではなかった。ごめんなさい。謝ることはもう一つ。私と桜井さんの交際も芝居だった。結婚も敵の目をくらますための方便。あなたの気持ちに気づいていたのに、傷つける真似をして本当に悪かったと思っている。
心からの言葉かどうか疑わしかった。桜井との関係もどこまで信じていいのか。交際は嘘でも、二人の間に何もなかったという証拠はない。そもそも桜井と一緒にいたのが怪しい・・・・・・どうでもいいではないか。桜井への思いはとっくに断ち切ったはずだ。
「彼には気をつけてくださいね」
美栄子は真顔を向けた。やはり私を近づけたくないらしい。適当にうなずき、私は先に部屋を出た。
ちょうど小野が隣室を出たところだった。背中は快活に見えた。秘薬を盗んだのだろう。体のどこかに隠し持っているにちがいなかった。
そのまま逃走しないよう、要所要所で私服の警官が目を光らせている。小野は婦人らしい足どりで進んだ。私はそのあとにつづいた。足音は絨毯に吸い込まれた。
医師との面談を終えた者は上階に移動し、会長に面会しなければならない。
案内人スメドレーが、謁見の間へと通じるエレベーターに小野を乗せた。私もあわてて飛び乗った。川島芳子にもらった旗袍を着ている。小野の目が見開かれた。私はマスクをしていなかった。素の自分で戦いに挑む腹を決めていた。百年前、文芳は陽隆にやられたが、今日、やる側とやられる側が逆転する。シーボルト事件に関わる人物構図にあてはめれば、小野はシーボルト役でやられる側に、私は陽隆役でやる側になる。シーボルトは陽隆によって将軍謁見の間へと案内された。
赤い実の会会長の謁見の間は、ジョージ・ホテル三階の大広間。入口の扉が左右に開かれた。スメドレーが小野を送り出す。私は小野のあとから中に入った。
広間というよりオペラハウスのようだ。舞台があり、天井は二階分の高さで、ドーム型。孔雀の絵が描かれている。そこからダイヤモンドをつなげたようなシャンデリヤが吊り下がり、つやつやとした床を照らしていた。椅子はないが、千人は収容できる広さだ。階上には彫刻を施したバルコニーもある。オペラハウスとちがうのは、片側の壁に大きな窓が並び、一階のプールを見下ろせることだ。
舞台裏とバルコニーには租界警官が何人も潜んでいる。桜井竜之助も、そのどこかにいるはずだった。
目に見えるところでは壁沿いに、ボーイを装った警官が間隔を置いて立っていた。シャンデリヤの下には蒲生が待機している。
会長はまだいなかった。蒲生は小野に儀式の予行演習をさせると、外に出た。
まもなく会長御成りの合図があり、小野はスカートを広げ、床に蟹のように這いつくばった。その横に私は腰を下ろした。
小野が私の方を見ようとした瞬間、舞台袖から真っ赤な着物姿の会長すなわち私の母がしずしずと現れ、幕の前の座布団に正座し、
「鈴木直」
重々しい声を放った。小野は練習通り頭を伏せ、微動だにしなかった。母は時代がかった口調で言った。
「面をあげよ」
小野は顔をあげた。
「汝は婦人病を治したいか」
「はい」小野は甲高い声を出した。
「入会を希望するか」
「希望します」
「ならば儀式を行う覚悟はあるか。言われた通りのことを行う覚悟じゃぞ」
「・・・・・・あります」
「聞こえぬ。覚悟がないならば、できるまで閉じこめるがよいか。――答えよ、覚悟はあるのか、ないのか」
「あります」張り上げた声は地声に近かった。
私は旗袍の割れ目に手をすべりこませた。股間の布をつかみ、引っ張った。ついに長年の怨みを晴らすときがきた。
「左を向け」
母の指示通り体を動かし、私と対面した小野の顔に亀裂が走った。
私の手は、血塊がこびりついた内臓のようなものをつまんでいた。
「それを口に含め」母が命じた。
経血をたっぷりと吸った込め玉を、敵の面前につきつけた。メンスになるか気になったのは、このためだ。予定通りはじまったときは、ほっとした。
「血を吸うのじゃ」
小野は体を硬直させた。
「どうした。覚悟はあると言ったではないか。尊い経血だ。吸えぬものに会員の資格はないぞ」
小野は仮面を捨てたように敵意のこもった目を私に向けたが、にわかに軍人らしい決然たる態度で血みどろの布をひっつかみ、口中に放り込んだ。
鼻の穴が大きく広がり、目に涙がにじみ、喉がひくひくと動いた。
宿敵はこらえきれぬようにおくびの音をさせ、口から出した。
「終わりました」
受けとった込め玉の色は、確かに薄くなっていた。
「しからば洗礼を授ける。横になれ。顔を上に」
訝しげな表情を浮かべつつ、小野は従った。二重顎がかたくなっている。必死で屈辱をこらえている顔。その上に私は下着を外した状態でまたがった。
「ボーイ」たちの視線も気にはならなかった。たまりにたまった怒りと憎悪につき動かされていた。
股間から赤い雫がしたたり落ち、私を睨む小野の目に命中した。
敵は目を閉じた。への字に結ばれた口は、無言の抵抗を表しているようだった。子ども時代さんざんいじめられただけに、こういう状況には慣れているのかもしれない。
子宮に渾身の力をこめた。経血が滝のようにあふれ、鼻の穴をふさいだ。開いた口にも容赦なく浴びせた。
小野は激しくせきこんだ。赤い液と唾液にまみれた顔を眺め下ろし、私は言った。
「礼を述べよ」
「・・・・・・あ」
喉の奥に、赤い泡ができた。呑みこんで、敵はむせた。
「言わぬと、終わらぬぞ」母が追いうちをかける。
小野は経血を口から吐きだし、吐きだし言った。
「・・・・・・あり、がとう、ござい、ます」
「よし。次は体じゃ」
一面の窓が「ボーイ」たちによって開かれた。寒風がどっと吹き込んだ。
「池に飛び込んで浄めよ。はよ窓に寄れい」
小野は起き上がって膝を進め、外を見下ろした。
一階下のプールが初冬の夕陽を反射して真っ赤に輝いていた。いや、赤いのは夕陽のためばかりではない。血だ。プールには大量の血が注ぎ込まれていた。文字通り血の池だ。しかも凍るように冷たい。
「裸で飛びこまねば、会員と認めぬぞ。いざ、服を脱げ」
小野はためらった。
すると下から恨むような女の唄声が聞こえだした。
・・・・・・帰命頂礼血ぼん経 女人のあく業深ゆへ 御説玉ひし慈悲海
渡る苦界のありさまは 月に七日の月水と 産する時の大あく血
神や仏を汚すゆへ 自と罸を受くるなり 又其悪血が地に触て
つもりて池となり 深が四万由旬なり 広も四万由旬なり
八万由旬の血の池は みづから作地獄ゆへ 一度女人と生れては
貴せん上下の隔なく 皆この地獄に堕なり 扨この地獄の有さまは
糸あみ張て鬼どもが わたれ渡れと責かける 渡はならずその池に
髪は浮草身は沈み 下へ沈ば黒がねの 觜大きい虫どもが
身にはせきなく喰付て 皮を破りて肉をくひ すみや岸へと近よれば
獄卒どもが追いだす 向ふの岸を見わたせば 鬼どもそろふて待いたる
哀女人のかなしさは 呵嘖せられて暇もなし 寄くる波の音きけば
山も崩るゝばかりなり 岸に立たる顔見れば 娑婆にて化粧し黒髪も
色も変て血に染り 痩おとろへて哀なり 食を好ば日に三度
血の丸かせを与へけり 水を好ば血をのませ 娑婆にて作し悪業ぞ
呑や呑やと責かける 其時女人のなく声は 百せん万の雷の
音よりも又恐ろしく 娑婆にて作し悪業が 思ひやられてかなしけり・・・・・・
プールの周りに女たちが輪をなして合唱していた。
「汝のほかは全員飛び込んだ。女なら、できぬことはあるまい」
小野は脂汗を浮かせた。
「服を脱ぐのでありますか」軍人口調が飛び出した。
「脱げぬ理由があるのか?」
「いえ、そうでは・・・・・・」
だが小野はコートに手をかけようとさえしなかった。母が合図を送ると、「ボーイ」四人が小野を取り囲み、体を押さえつけた。かつらが外され、坊主頭が現れるなり、
「やい、小野長盛!」母は大喝を浴びせた。
「観念せい」
小野は衣装を剥ぎとられつつあった。
「汝は刈屋珈琲店の時計が何ゆえ十時五十分でとまっているか、知りたがっていたのう。教えてやるから、聞くがよい。今から百五年前の一八二六年五月二十五日、われらの先祖・文芳は、汝の先祖・陽隆と江戸城で対決した。判定が下る前の十時五十分、文芳の胸に生涯刻まれる出来事が生じた――」
そのときの模様を私が語った。一語一語に積年の思いをこめた。
「わかったか!」母が叫んだ。
「われら文芳の子孫は代々この恨みを胸に刻んできた。陽隆の血をつぐ汝に、罪ほろぼしをさせてやるわっ」
あとは敵の体から秘薬が出るのを待つだけだった。「ボーイ」たちが小野の下着に手をかけた。幕の裏で制服警官たちが、今にも飛びださんと構えているのが目に見えるようだった。
だが次の瞬間、信じがたい言葉を耳にした。
「・・・・・・ない!」
「ありません」
「秘薬がないというのか」
「どこにも、発見できません」
「そんなはずはない。もう一度よく探して」
すると、
「大変です!」裏口から仲間の女が飛びこんで来た。
「何。どうして今入って来るの」母は言った。
「緊急事態が起きまして。そちらに行ってお話しします」
「駄目、戻って」
女は聞かずに舞台へあがり、何ごとかを伝えた。母の顔色が変わった。刹那、
「動くな」
警官たちが幕の裏から飛び出し、いっせいに母と私に短銃を向けた。
「抵抗すると撃つぞ」
「ちょっと。標的はあっちよ」
小野は狐の髭のような笑い皺を頬に浮かべ、顎をしゃくった。すると周りの「ボーイ」たちが小野に敬礼をし、四方に散った。と見る間に、扉から桜井竜之助が入って来た。
「ああ、いいところに。助けて頂戴」母が言った。
「わけがわからなくて」
「根本芳、根本文子。犬飼美栄子殺害容疑で逮捕する」
桜井が告げた。背後に控えていた警官たちに、私と母はとり巻かれた。
「何言ってるの。根本って誰よ。桜井君、あなた週刊誌記者なのに、どうして」
「大人しくしろ」
私たちは手錠をはめられた。
「あなたたち、正気? 私が誰か工部局参事から聞いてないの。桜井君、説明しなさいよ」
「ここにいるのは全員、領事館警察官です。僕は警備を任されましたが、租界警察官は呼びませんでした」
「領事館警察? なぜ」
「僕は週刊誌記者ではありません。刑事です」
桜井は手帳を突き出した。脳天を叩かれたような衝撃が走った。
「外務省警察特高課、団隼人・・・・・・」
「桜井竜之助の名で潜入捜査をしていました」
「じゃ日支闘争同盟に入ったのは・・・・・・。天津で逮捕されたというのは・・・・・・?」
「偽装です」
母は小野を示し、
「あの男の側だったの?」
「これまで身分を伏せていたことはお詫びします。でもそれはお互いさまでしょう、根本芳さん、文子さん」
「だから根本って誰のこと」
「しらばっくれても証拠はあがっています」
「・・・・・・殺しはしていないわ。私たちが美栄子を? 死んだってことも今聞いたばっかりなのに。まったく身に覚えのないことで逮捕なんて狂気の沙汰」
「犬飼美栄子は、二階の客室の寝台に横向きになっていました。全身を縄で縛られ、額には傷痕がありましたが、死因は窒息死とみられます。口に血液を浸した布が突き込まれていました。あなたたちは同様の布を小野中佐の口に無理矢理入れさせましたね。ここにいた警官が目撃者です。しかも遺体の顔面には黒鉄色の虫が這っていました。あなたがたが好きな血盆経の場面を再現したんでしょう」
「冗談じゃない。私たちが殺す理由がない。美栄子は大事な仲間だったんだから・・・・・・あなたは悲しそうじゃないのね、桜井・・・・・・団刑事。交際したのは、情報収集のためだったの?」
「悪あがきはよすんだ」団は語調を変えた。
「証拠はまだある。被害者のスカートの物入れに、折りたたんだ便箋が入っていた。私にもしものことがあったら、上条梓乃を名乗る根本芳と、保柴芳子を名乗る根本文子を追及してほしい。二人の属す組織に、私は脅されて入会させられ、失踪したふりをさせられた。世間を騒がせた失踪事件は、二人が打った芝居だと警察に伝えようとしたら、命を狙われるようになった、と書いてある」
「その手紙を見せて」母は言った。
団は便箋をぱっと広げ、すぐに閉じた。
「なぜちゃんと見せてくれないの。手書きではなくタイプ打ちだったけど、美栄子が書いたって証拠は?」
団は答えなかった。
「偽造したんでしょう。・・・・・・最初からはめるつもりだったのね」
「いい加減にしろよ。貴様には失踪事件の容疑もかかっている。美栄子の額にあったのは、ただの傷痕じゃない。刃物で文字を刻んだ痕だ」
射抜くように母を見た。
「梵字の阿字。同じ字が山田幸代、今井市子、菅ケイの三人の額にも見られた。三人は先刻領事館警察が保護した。全員、傷は貴様がナイフでつけたものだと証言している」
「まったくの出鱈目。私は傷なんかつけていないわよ。そもそもあれは、ただの皺だった・・・・・・」
「証拠を否定しても無駄だ。連行しろ」
「待って! 殺人事件のアリバイはある」
はめられたのにアリバイが何になろう。そう思ったが、母は時間を稼ごうとしているのだと気づいた。後ろ盾はこの建物のどこかにいるはず。このことを聞きつけたらすぐにやって来て、助け舟を出してくれるにちがいない。
「証明しますから教えてください。美栄子が殺されたのは何時ですか」
「午後三時五十分から四時二十分の間だ」
「その時間なら、私は舞台裏の控室にいました」
「証明できる者は?」
「ここにいるお巡りさんたちよ。あなたたち、私が控室に入ったのを見たでしょう?」
答える者はなかった。
「貴様が控室にいたのを見た者はいない」
「どうして嘘をつくの」
「言いたいことはすんだか」
後ろ盾が現れる気配はなかった。
「待って、待って、待ちなさい。あの子はアリバイを証明できるはずよ。午後三時五十分から四時二十分の間、どこで何をしていたか教えてやりなさい」
記憶をたどった私は愕然とした。
「その時間、私は・・・・・・」美栄子といた。そうは言えなかった。
「桜井さ・・・・・・団刑事と一緒にいました」
「刑事をアリバイに使おうとはいい度胸だ。俺とどこにいたと言う」
「二階の客室です。二○九号室でした。あなたが私を呼んで中に入れました」
「俺はこのホールにいた。皆が知っている」
「・・・・・・私をあの部屋に入れたのは、アリバイを消すのが目的だったんですか。あなたは、はじめから目的があって・・・・・・」
ことが見えた気がした。美栄子が「彼には気をつけてくださいね」と言った意味も――。私は我を忘れた。
「あなたが美栄子と交際したのは、美栄子をスパイするためだった・・・・・・でも美栄子もあなたの正体を疑いはじめ、邪魔な存在になった。だから消すことにした。ついでに私たちをはめる道具に使った。つまり、美栄子はあなたが殺した。ちがいますか」
「口を慎め」
「刑事を犯人扱いしおって、ただではすまんぞ」
周りの警官が怒鳴りちらした。団は無言だった。私を睨んではいたが、目の奥には無限の憂いがたたえられているように見えた。けれども彼は突き放すように言った。
「二〇九号室は、美栄子が殺された現場だ。犯行時刻にそこにいたという発言は、自白とみなす」
「私はやってません」
「そうよ、私たち二人はやってないわ」
「誰も二人とは言っていない。容疑者は三人だ」
「え」
「もう一人、共犯者がいるな。蒲生出太郎やスメドレーのことじゃない。彼らは重要参考人として署に呼んだ」
「じゃ、誰・・・・・・」
「現場には男物の鞄があった。持ち主は、隣室で医者を装っていた外国人と判明した」
獣のようなうなり声が外から聞こえた。入口の扉が開き、日本人が十人がかりで一人の白人を取り囲んで入って来た。
ゾルゲだ。手錠をかけられていたが、獅子のような髪を逆立て、全身で抵抗していた。
「大人しくせんか」
怒鳴った若者は陸軍武官補佐官和田勝利、その反対側にいる青年は陸戦隊の海軍特務少尉星五平だった。二人とも尾崎周明に連れられて刈屋珈琲店に来たことがあるが、小野長盛子飼いの人間にはちがいない。
ゾルゲは私たちに気づくと若干冷静になったようだった。
団が告げた。
「リヒャルト・ゾルゲ、貴様を犬飼美栄子殺害容疑で署に連行する」
小野が独逸語に訳した。警官に用意させたのか、軍服を知らぬ間に着用していた。
信じたくなかった――シーボルト事件の構図を逆転させて復讐するはずが、百年前と同じやられる側になったとは・・・・・・。
小野が得々とした顔を向けた。そのときだった。
「Wart(ヴァルト・・・待て)!」
舞台から声が飛んできた。皆いっせいに振り返った。
幕の奥から現れたのは、黒い帽子に黒い背広を着た白人三人。一人はカール・ハウスホーファー、もう一人はハインツ・ヘーネだ。
三人目の男が舞台中央に立った。黒眼鏡をかけているため顔はわからなかったが、鼻の下に切りそろえた黒い髭と、白人にしては小柄な体格はどこかで見た覚えがあった。
男は拳をふりあげ、
「Wart, Wart, Wart!」狂ったように繰り返した。
その声としぐさが、ニュース映像で見たあの人物を思い出させた。
「閣下・・・・・・」小野がつぶやいた。
「まさか、この上海にいらっしゃるとは・・・・・・」
天皇陛下に拝謁したかのように紅潮した上官の顔を、和田、星、団が訝しげに見つめた。
口髭の独逸人は、早口で何かわめきちらした。
「ゾルゲはわれわれの大切な友人だ。日本の警察が、独逸人を独逸大使館の許可なしに連行することは許されない」
通訳しつつ、
「閣下がゾルゲの味方をなさるとは・・・・・」小野は困惑を表した。
「ゾルゲのアリバイはわれわれが証明する」ハウスホーファーが日本語で告げた。
「彼は十五時五十分から十六時二十分の間、私たちと一緒にいた」
ゾルゲの顔に表れた驚きが、証言が嘘であることを示していたが、小野は観念したように手錠を外させた。
ゾルゲは喜ぶよりも舞台に向かって何やら訴えた。私たちを示し、この二人も無実だから釈放してほしいと懇願しているらしい。だが男は頑として首を縦にふらなかった。
そこに扉が開き、羽織袴の老人が入って来た。ステッキをつき、だるまのような顔に笑みをたたえていた。
「杉山先生・・・・・・」
後ろ盾だった。私たちはすがりつくように言った。
「助けてください」
杉山茂丸は舞台に一瞥をくれ、
「なるほどのう」声を張り上げた。
「いっぱい食わされたわい」
口髭の独逸人は「あれは誰だ」という顔をし、ハウスホーファーに質問した。
「吾輩も年をとったのう。昔じゃったら、こうはいかんかったが、こっちの負けじゃ」
「何をおっしゃるんです」
「われわれの負けじゃと言うておる。ばってん、終わりじゃなか。ここは罪を逃れようなどという心は出さず、先方に着いたら善悪となく正直明瞭に申し立てをするのじゃぞ」
「いざとなったら助けてくださるんじゃなかったんですか」
「考えが変わったんじゃ」
「私たちは無実なのに見捨てるのですか、先生」
「根本芳、文子、見苦しいぞ。事に当たりては沈断不退の行ないをなすを要とす。もう一度その意味を考えい」
杉山茂丸はそう言い放つと、舞台に向かって、
「どうも閣下先生、お邪魔しもうした」
日本語で言い、悠然と去って行った。
ゾルゲは私たちの放免を執拗に要求したが追い出された。警官は母を先に連行した。
「おまえはあっちだ」
私は和田と星に両脇をつかまれ、舞台上へ引っ張りあげられた。警官は全員母と一緒に去っていた。独逸人たちは幕の裏にふたたび姿を消していた。大広間は奇妙な静寂に包まれていた。小野が団とともに私の背後に立った。
「今から幕があがる」
何をされるのか。不安で息がつまりそうになったとき、
「根本文子を放せ」
声が耳に飛び込んだ。後方に背の高い男が立ち、銃を構え、小野の頭に狙いを定めていた。
「なぜ・・・・・・」小野が言った。
男は尾崎周明だった。今日帰国すると聞いていたが、私たちの危機を聞いて駆けつけてきてくれたのか。
「俺はおまえの味方だった」
尾崎周明は言った。私は耳を疑った。
「それならなぜ僕に銃を・・・・・・」
「おまえはやり過ぎた」
「何を言ってんです」
「おまえは俺に今日の計画を全部は話さなかった。だから協力した。根本側の味方のふりをつづけ、嘘の情報を流しもした。大義のためと信じたからだ。しかし犬飼美栄子殺しはちがう。おまえがしていることは単なる弱い者いじめだ。自分の生命を他人の生命の上に実現していくという考えは白人至上主義と同じだ。さあ、根本文子を解放しろ」
「でも、周明さん――」
「黙れ。撃つぞ。星、和田、さっさと彼女を放せ」
私の腕を二人は放した。
「手錠を外せ」
団が私に近づきかけたときだった。舞台袖から銃をかまえた警官が十数人、袈裟がけの僧侶五六人とともに突入してきた。事態を把握する前に狙いを定められた尾崎は銃を奪われ、私はふたたび押さえつけられた。
「惜しかったな、周明さん」小野は得意満面だった。
「あんたの裏切りは、織り込み済みだよ」
尾崎周明は震える唇をかんだまま睨みつけた。
「そこの二人も拘束しろ。和田と星は寝返った」
小野は警官たちに指図した。
「それと根本文子を縛れ。手錠だけじゃ足りん。団、貴様がやれ」
団は重い足どりで私に歩み寄った。目を合わせず、私を立たせたまま、ゆっくりと縄を巻きつけていった。
「おまえ、その女に惚れてるな」小野が言った。
団の動きが一瞬とまった。
「・・・・・・は?」
「顔が赤いぞ。見りゃわかる。僕に忠誠を誓った身ゆえ、自分の気持ちを犠牲にした。そうだろう」
胸が躍りたった。
「いいえ」団は私を見て言った。
「この人に特別な思いを抱いたりはしません」
刃物で突き刺されたような痛みが全身を貫いた。
「本当か」
「はい」
「ならもっときつく縛れ。息ができないほどに」
「・・・・・・わかりました」
団は小野に答え、縄を容赦なく手首足首にくいこませていった。終わると尾崎、和田、星の三人を連行する警官たちを率いて去った。その顔は周りに遮られて見えなかった。
私は縄で縛られた体を僧侶に押され、ふたたび幕の前に立たされた。
「いよいよ、お坊さんたちの出番だ」小野が言った。
私をどうするつもりか。問おうとすると突然シャンデリヤの光が消えた。
闇が落ち、幕があがる気配がした。白い煙がたちこめ、私はむせた。
いったい何ごと・・・・・・。
奥に赤い光があった。百目蝋燭が六本灯され、一個の髑髏を照らしていた。頭頂部に貼られた金箔銀箔が光をはねかえし、巨大な電球のように輝いていた。眼窩に玉をはめ込まれ、私を睨むように見ている。周りには山海の珍味を盛られた金の盆や、水の入った銀盃が供えられていた。
全身の毛穴があわだった。壇の脇の椅子に、独逸人三人が控えていた。小柄な独逸人は黒眼鏡を外していた。アーモンド型の大きな青い目・・・・・・写真や映像で見たアドルフ・ヒトラーにちがいなかった。
「あの通り、秘薬は手に入れさせてもらったよ」
小野が私に言った。髑髏の右側には、見覚えのある蒼い壜が置かれていた。
ゾルゲの鞄から盗んだのだろう。敵がゾルゲを殺人犯に仕立てるために美栄子殺害現場に鞄を置いたとするなら、鞄ごと盗んだということだ。実行したのは小野ではなく、警官だった。だから私たちの目にとまることなく、ここに置くことができた――。
本来なら今ごろ小野は逮捕されているはずだった。それがまったく逆の立場にある上、秘薬まで奪い取られた・・・・・・。
これまでの苦労は何だったのか。この十五年の文字通りの血と汗、すべて無駄だったというのか。
股間から大量の血があふれだした。
床の血だまりに僧侶が注意を奪われた隙に、走り出した。縄は足の動きにあわせて、ほどけていった。見かけはきつく縛ったが、内側から力を入れると結び目がほどけるようにしたと団が去りぎわに教えてくれたのだった。
手錠で不自由な手を動かし、壇上の壜をつかんだ瞬間、ヒトラーが血相を変えて立ちあがった。とっさに左手で蝋燭をつかみ、突っこんで来たヒトラーの頭にあてた。
「閣下!」
帽子に火がつき、みるみる燃えひろがった。だがヒトラーは帽子を脱ぐのをためらった。小野が誰よりも先に駆けつけ、自分の袖で炎を覆った。飛び火するのもかまわず叩いたが、炎は完全には消えない。
ヒトラーはたまりかねて帽子を脱ぎ捨てた。現れた後頭部を見て、皆息をのんだ。ハウスホーファーとヘーネが自分たちの帽子を差し出したが、二人のむきだしになった頭は空気をさらに凍りつかせた。
その間に私は右手で壜を割り、髑髏の頭上にぶちまけた。
振り向いた独逸人たちは愕然として色を失った。
「残念だけど、あとの祭りですよ」
自分のものとは思えない言葉が口から飛び出した。私は理性を失っていた。
「その頭、世間が知ったらどう思うかしら。金髪碧眼主義のナチ党党首だってのに」
独逸人の後頭部はどれも惨めなものだった。
「砂利禿げ! 不精な人間が草むしりをした裏庭みたいな頭って意味ですよ。普段はつけ毛で隠してたんでしょう」
ハウスホーファーが青筋を立てて通訳した。ヒトラーの目がかっと見開かれた。
「毛生え薬が欲しくなるのも当然ですね。でも最高に効く薬はこの通り、なくなりましたので」
空き壜を投げつけようとしたら、後ろから僧侶に羽交い絞めにされた。ヒトラーが不気味な笑みを広げ、私に独逸語で何か言った。
「ありがとう」小野が訳した。
「お蔭で手間が省けた。おまえはわれわれにかわって髑髏に必要な液をかけてくれた。礼を言う。あとはこうするだけだ」
ヒトラーは片手で髑髏をつかんで秘薬をまぶしていき、片手で私の頭を撫であげていった。
「いい形状だ。ジンオウの一号にふさわしい」
意味不明だったが、悪寒が全身に走った。
「人に黄色と書いて人黄という」小野が註釈した。
「『受法用心集』にいう、『人身の頂の十字のところに六粒のあまつひあり。此の人黄は是れ衆生の魂魄なり』」
「つまり、人間の魂魄がかたちになったものだ」ハウスホーファーが付け足した。
「閻魔天の眷属である荼吉尼(ダキニ)天は、人の死を半年前に通力によって察知し、その人の肉を食らうというが、その荼吉尼天が美味として好むのが人黄とされる。人間の頭頂部にあるが、これを千人分集め、練り上げたものが儀式を完成させるのには必要なのだ」
「儀式・・・・・・?」
「おまえは人黄提供者、第一号だ」
突如、地鳴りのような響きが足元から伝わってきた。いや、地鳴りではない。僧侶の一人が床に座し、真言を唱えているのだった。
「ついに念願が叶います、ひいひいおじいさま」
壇上の髑髏に小野は話しかけた。
「われわれは秘薬を塗ることに成功しました。あとは、赤白二諦だけです。これから行います儀式によって、今から八年後、おじいさまは復活されるはずです。そのあかつきには神通力がわれわれのものになるでしょう」
髑髏の背後から白い煙が勢いよく立ちのぼりはじめた。壇上にはいつの間にか、巨大な図が掲げられていた。人型の記号のようなものが五色に分けて描かれている。頭が黄、胴が黒、手が白、右足が赤、左足が青といった具合だ。しかしそれは文字だった。梵字の阿字だ。蝋燭の光に照らされ、阿字は髑髏とともに生き物のごとく輝きだした。
恐怖にしびれそうになった瞬間、押し倒され、床に仰向けにされた。手錠のはまった手を振り動かし、全力で抵抗したが、僧侶たちに押さえつけられ、身動きがとれなくなった。
「おびえるなよ」
小野が私の腰にのしかかってきた。片手にきらりと光るものを掲げ、さっと振り下ろした。私は目を閉じた。太ももに冷たい感覚が走った。
目を開けた。短刀が股の間に突き立てられていた。旗袍の一部が切り裂かれている。腰の周りが赤いのは、経血のせいだ。体は無傷だった。
小野は引き抜いたナイフを懐におさめ、
「人黄はあとだ。先に必要なのは赤白二諦」
男の印を出し、旗袍の裂け目にねじこんだ。
「やめてください」
小野は紅の残る唇をきっと結び、出陣する武士のごとく厳かに、自分のものを出血中の股間に挿入した。
「やめてったら・・・・・・」
痛みが下腹を貫いた。男性との経験ははじめてではない。八年前の震災直後、カフェエの女給をして稼ぐしかなかった頃、一夜限りの関係を何度か結んだ。けれどこんな人前で、しかも敵に犯されるとは・・・・・・。
地の底から湧くような真言はつづいていた。
いくら叫んでも、誰も助けてはくれない。ヒトラーたちが冷然と眺めているのが、視界の片隅にうつった。小野はゆっくりと出し入れをはじめた。
「やめて」
「好きでしていると思うのか、ええ?」白粉の剥げかかった顔を近づけた。
「閣下の命令だから仕方なくしている。でなければ誰がおまえなど。川島芳子に鍛えられていなかったら、使いものにならなかったろう」
怒張したものをこれみよがしに入れてくるのが悔しく、歯を食いしばった。
「これは儀式だ。高祖父の髑髏に、われわれの液を塗らねばならない」
「液って何です」
「われわれには優秀な日本人の血が流れている。どちらも将軍の奥医師の血を引いている、と閣下はおっしゃった」
生臭い息をふりかけつつ、
「しかし僕は知っている。おまえの高祖母は山師だった」
「何を――」
小野の舌が口をふさいだ。口紅と経血のまじった味。吐き気をこらえ、必死でふりほどいた。
「何を根拠にそんなことを」
言ったとたん、小野は旗袍の上から胸の突起をつまみあげ、腰の動きを早めた。
「いいか、よく聞け」
体から力がぬけていった。
「美栄子の額には梵字の阿字があった。あれは刃物で刻まれたのじゃない、皮膚の内側から浮き彫りになったものだ」
「どうして・・・・・・」
「美栄子は、秘薬を飲まされていたのだろう?」
小野は股間を強く突き刺した。
「あの薬に、そんな力はない、のに・・・・・・」
つけまつ毛をゆらして笑い、
「そうだ。百年前、文芳が作り、日本から支那に渡った薬は、秘薬でも何でもない。ただの水だった」
「水なんかじゃ・・・・・・」
「いや。おまえも母親もわかっていたはず。薄めた月水など、何の効果もないと」
「ああ、それは・・・・・・」
「わかっていたのだな?」
「認めるか」小野は腰に一段と力を入れた。
「認めるなら、人黄の件は再考してもいい」
「認め、ます・・・・・・」私は必死で息を整え、言葉をついだ。
「効果がないとわかっていて、なぜ壜を求めたの?」
「文芳が作ったのは水に過ぎなかったが、高祖父の呪力があれを本物の秘薬にした」
「嘘・・・・・・」
「嘘ではない。おまえたちは高祖父によって代々呪われたと思っている。高祖父の呪力を信じているということではないか」
返事は言葉にならなかった。独逸人も僧侶も視界から消えた。
「見ろ、壇上に掲げた図を。あれは『五色阿字観想図』だ」
小野は息を荒くしつつ、呪文のようにつぶやいた。
「阿字とは何か。人が最初に口をきくとき発する音には必ずアの音が含まれる。阿は一切字の母。一切実相の源。すなわち宇宙の根源。髑髏に性液を塗るとき、ただ塗るのではなく必ず阿字を思い浮かべる」
私はあえいだ。
「阿字を観想しながら本尊大頭作成法を行えば、この観想図は髑髏と重ねあわせたとき、最終的には金色になる。金色は不滅の色だ。本尊大頭作成法には単なる肉身の再生のみならず、生死を超越した世界の支配さえも可能とする力が秘められている」
全身が脈打った。蝋燭の光がぼやけて広がった。壇上の文字と髑髏が重なって見え、阿字が金色に光り輝いて頭上いっぱいに広がり、闇のなかで踊るようにうねりだした。すると、声が聞こえた。
「許してくれえ・・・・・・許してくれえ・・・・・・」
耳もとでささやいている。
「おのれは・・・・・・おのれを、偽っていた・・・・・・」
小野の声ではなかった。目を見開いた。私の上に坊主頭がある。それは先ほどと同じだ。だがその顔は変化していた。垂れ目が切れ長に、白い肌が褐色に・・・・・・小野よりずっと締まりのある男らしい顔――。
「私だ、陽隆だ・・・・・・」
切れ長の目が近づいた。瞳孔に映し出された顔を見て、息をのんだ。相手の目に映っているのは、私ではなかった。髪を島田に結った若い女・・・・・・端正な少年のような顔立ちをしている。
「文芳」男はそう呼んだ。
「おのれは、おまえに、言わねばならぬ。まことのことを・・・・・・」
体の奥から熱い波が伝わった。鼓動は虚空に鳴り渡り、甘い匂いがしだいに大きく 強烈になっていった。
・・・・・・私は根本から間違っていたことを知った。
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