第二十一章 上海・一九三一(昭和六)年 十一月十五日 小野長盛

 暗号が解けた。

 保柴芳子の言った通り、日本娘四人の失踪前の行動は五行説にあてはまった。

だが現れた言葉は、期待とはちがった。秘薬のありかではなく、名前だった。

 その名を持つ人物が、秘薬の鍵を握っている・・・・・・?

 もしそうなら、簡単には受け入れがたい。


 僕は秘薬の存在を子どもの頃から知っていた。最初にほしいと思ったのは十六のときだった。

 実家は千葉の葉茶屋だ。嘉永元年創業で四代つづいている。屋号は千茶屋。奥行のある二階建てで、一階の正面が店、一階の奥と二階が居住区間になっている。客が家の中まで入ることは滅多になかったが、僕が六歳のとき、見知らぬ中年の行者と若い女が夕食の席に加わった。二人ともほとんど口をきかなかった。行者は見るからに陰気だったが、陽気そうな女は話したいのを我慢しているようだった。食事が終わると行者は女を連れ、案内もなく奥に向かった。奥の間は立入禁止だ。僕は子どもながら止めようと追いかけた。すると肩を後ろから押さえつけられた。振り返ると、父が怖い顔をして立っていた。

 行者と女は奥の間に通され、そのまま夜になっても出てこなかった。何をしているのか気になり、こっそり襖の前に行った。何の物音もしなかった。いや、かすかに筆を走らせるような音と、紙がしゃりしゃりとこすれあうような音、女のすすり泣くような声が聞こえた。早く寝ろ。父に首根っこをつかまれた。明日になれば、いやでもあそこに入れてやる。怖くなり、ろくに眠れなかった。

 翌日も、奥の間の襖は閉じたままだったが、僕はもう様子を知ろうとは思わなかった。あの中にいつ放り込まれるかと思い、一日じゅうおびえていた。だが何ごともなく寝る時間になったので、ほっとして眠りに落ちた。

 夢を見てだいぶたった頃、突然体を揺すぶられた。起きろ。父の顔がラムプの光に浮かびあがっていた。夜中になぜ。いやがる僕を無理矢理歩かせ、奥の間に入れた。襖の外には父が仁王立ちしていた。逃げられなかった。泣き叫んでも張り倒されるだけだった。父は襖を閉めた。

 変な匂いが充満していた。線香ではないが、それと似たような。反魂香だとあとで知った。のどがつまり、むせた。行者と女はどこにいるのか、空気が妙に冷たく感じられた。真っ暗で何も見えなかった。いや、百目蝋燭に火が灯り、影が壁に伸びていた。仏壇に見知らぬ人の頭がのっかっていた。白目で歯をむきだし、真っ赤な舌を覗かせ、白茶けた頬に紅をさしていた。飾りたてられた髑髏だった。わっと叫びだしたかったが、声がでなかった。たった一人であの世に送り込まれたような気がした。髑髏の頭は漆色に塗られ、つやつやと光っていた。

 突如、大きな手が髑髏を覆った。蝋燭の光の中に行者が現れた。ぶつぶつと何か唱え、髑髏の後頭部をつかんで持ち上げた。すると、頭が開いた。脳みそのない空洞に、小さな巻物のようなものを行者は納め、頭を閉じた。その表に金箔と銀箔を一枚ずつ貼りあわせた。

「坊ちゃん」いきなり呼ばれた。

「あなたにも手伝ってもらいます」

 何を。声はのどの奥でつかえた。

「今のは最初の一枚です」

 別の声が言った。横を向くと、裸の女が立っていた。赤い光に照らされた豊満な体に黒髪が流れていた。子どもの目にもまぶしかった。

「三重、五重にするのです。いいえ、もっと。十三重、百二十重・・・・・」

「・・・・・・あのがいこつに、金紙と銀紙を、たくさん貼ればいいの?」

「そうです。でも糊が足りないので、今から作りますね」

 女は壁に両手をつき、丸い尻を突き出した。行者が着物をまくりあげ、屹立したものを剥き出して女に近づいた。

「しっかと見るんだぞ」

 父の声が聞こえた。襖の隙間から目を覗かせていた。僕は言われなくても、糊がどう作られるのか興味津々だった。

「もっと近づけ。そう、二人の間に立て。目をそらすな。千茶屋の男に生まれたからには、子どもの頃から学ばねばならん」

 行者の体の一部が、女の尻に差し込まれた。苦しげな声が洩れた。出し入れが繰り返された。行者は怒った顔をし、女は泣きそうだった。これで糊ができるのだろうかと思って見ていると、二人の間からきらきら光る液が流れ落ちた。泡が連なっているようで、しゃぼん玉のように綺麗だった。やがて行者は女の体から抜いたものを盃にあてた。白い液体が迸った。女の股間からしたたり落ちる透明の糊も同じ盃に保存された。この行者は不思議な糊を何種類も生み出す魔術師なのだと思った。

 甘酸っぱさと栗のような匂いのまじりあった糊を、僕は金箔と銀箔に塗りつけ、恐怖に震えながら髑髏に貼りつけることを繰り返した。五重にしたところで、ようやく奥の間を出る許可を与えられた。

 翌朝、行者と女はいったん帰った。しかしそのあとも夜になると現れては奥の間にこもり、交合を繰り返した。僕はたびたび父に起こされ、「糊」を筆で髑髏の頭に塗るよう命じられた。行者が来ないこともあった。そんなとき女と交わるのは僕の父だった。行者が来て母と交わることもあった。すべてが当然のように何年にも渡ってつづけられた。外に洩らすことは禁じられた。女も行者もたびたび入れかわった。行者はどれも陰気で、女はどれも若く健康的な体をしていた。弟も六歳になると、僕と同じことをさせられた。父を鬼のように恐れる子どもたちは決して逆らわなかった。だが十代になった僕は、大人たちのしていることが何だか気づかずにはいられず、両親の行為に疑問と嫌悪を抱きはじめた。表では立派な商人として振る舞っている彼らが、裏では何と破廉恥な振る舞いをしていることか。しかも彼らは十三歳になった息子にも女との交わりを求めるにいたった。


 千茶屋の初代には、父親が二人いた。どちらも真言行者だったが、実父――僕にとっての高祖父の方が、えらかった。密教と茶を融合させ、茶を薬に変えた。幕府の奥医師にとりたてられ、将軍に一時たいそう重んじられた。

 高祖父は生涯独身だったが、ある後家と交わったことがあった。その後家が初代の母親だ。高祖母は江戸の商家に嫁いだが、夫との間に子はなかった。高祖母は法要ごとに家に招かれる僧侶を慕った。僧侶すなわち高祖父は四十を過ぎていても十分魅力的だった。二十八で後家になった高祖母は思いをとげたが、一度きりで別れた。高祖父が一時の過ちとして片づけたからだ。二人は子種を宿したことに気づかなかった。高祖母は田舎に戻り、若い行者と再婚した。半年後に生まれたのは高祖父の子だった。夫はそれを知っても実の子として育て、世間にもそう通した。自分の子に恵まれなかったためだろう。実父には一生息子の存在を知らせなかった。

 義父は立川流の真言行者だった。息子に奥義を伝授しようと幼い頃から教育したが、適性がないとわかると潔く諦め、商家へ丁稚奉公に出した。

 息子が番頭に昇格した二十八のとき、実父の髑髏が実家に届いた。実父の友人である行者が那智の海辺で朽ちた小舟とその上にへばりついた一個の死体を発見した。骨ばかりになっていたが、身に着けていたものから、数年前那智に行って以来行方不明になっていた友人が海で遭難し波に寄せられ流れ着いたものと確信した。行者は骨を実父の郷里である千葉の寺に運んだ。葬儀がはじまる前にその寺を通りかかった高祖母は高祖父との関係を打ち明け、髑髏をひきとった。荼毘に付さなかったのは、思惑あってのことだった。

 立川流の本尊大頭作成法によれば、男女の愛液を採取しては八年にわたって塗りつづけると、髑髏にすみついていたとされる生前の人間の三魂七魄が蘇る上、特別な力を持つとされる。高祖母は立川流の発展のためだと夫を言いくるめ、若い行者と女を使って、思い人の魂を蘇らそうとした。だが成功はせず、儀式は曽祖父へと引き継がれていった。息子は母親の遺言に従ったが、高祖父の霊魂が蘇ることはなく、当初の目的はしだいに忘れられ、商売繁盛の秘訣が儀式にあるように錯覚されていき、祖父の代にうつる頃には一家の伝統になった。やめて祟りがあるといけないからというのでつづけられたのである。

 二十世紀の近代教育を受けた僕には、古い時代の世迷いごととしか思えなかった。しかし父には逆らえず、髑髏の前で女と体を重ねるにいたった。けれど何度やっても放出はできなかった。心が拒否した影響だった。僕の体に問題がない証拠には、自分が望んだ場では首尾をとげることができた。役立たずと言われ、男らしさを身につけるために陸軍幼年学校に入れられた。帰省のたびに儀式を強要されたが、結果は変わらなかった。弟が儀式で認められるにつれ、劣等感がふくれあがった。出来損ないの烙印を消すため、僕は薬を手に入れようと決意した。

 一家にはもう一つ、受け継がれた言い伝えがあった。

 高祖父が奥医師だった頃、将軍はあることを患っておられたが、誰にも治せなかった。しかるに、ある秘薬が効果を発揮した。大奥の女が作った薬だった。

 女は江戸で万能薬痾拉勝丸を売り出して評判になったのが御台所の目にとまり、とりたてられた医者だった。長崎の鳴滝塾で学び、その秘薬は鳴滝塾で開発したものだった。

 高祖父は秘薬が盗まれそうになったのを救ったらしい。高祖父が鳴滝塾を訪れた日、曲者がしのびこんだ。高祖父が曲者を捕えると、女医者は大変感謝した。お礼の印として、秘薬の壜を一つ、与えた。高祖父はその薬が盗まれないよう呪法をかけた上で、唐人屋敷の友人に預けた。秘薬は支那に送られた。

――徳川将軍が重宝したのと同じ秘薬が支那にある。

 おそらく現存する唯一の秘薬だ。何に効く薬かは教えられなかった。僕は根拠もなく、精力剤だと思いこんだ。できるだけ早く手に入れて両親を見返そうと誓った。

 陸軍大学を卒業し、参謀本部支那班に所属したが、大陸に渡る機会はなかなか訪れなかった。三年後ようやく参謀本部付・支那研究生として北京に派遣され、秘薬のありかは上海らしいと突き止めた。そして去年、念願かなって上海公使館附武官として上海に赴任したが、父はその前年に六十二で死に、母もあとを追うように亡くなった。

 それでも執念は消えなかった。僕は秘薬の本当の効果を知った。それがより大きな目的のために役立つことも――。

 千茶屋の跡継ぎとなった弟は儀式には飽き飽きしていたらしく、国家のためと言いくるめると、祟りなど恐れることなく髑髏を僕に譲ってくれた。

 あとは秘薬を手に入れるだけだ。

 鍵はほぼつかんだ。例の暗号は解読した。刈屋珈琲店のマダムとその姪が言った通り、失踪した日本娘四人の行動には意味があった。

 失踪前、山田幸代は翠緑閣で鳥を放して亀を飼い、今井市子はジョージ・ホテルで赤い絨毯に黒いインクをこぼし、花坂みせこは桜花で読書をはじめて礼儀を失い、菅ケイは新興荘へ銅貨にみせかけた鉄製の贋金を預けた。

 鳥が亀に、赤が黒に、礼儀が読書に、銅が鉄に変わった。この変化を、保柴芳子のヒントにそって五行説にあてはめた。

 五行の配当表によると、鳥と亀は五虫に、赤と黒は五色に、礼儀と読書は五徳に、銅と鉄は五金に含まれる。

 五虫とは鱗、羽、裸、毛、介――すなわち魚、鳥、人、獣、亀のことだ。

 五色は青、赤、黄、白、黒。

 五徳は仁、礼、義、信、智。

 五金は錫、銅、金、銀、鉄。

 それぞれ上から木行、火行、土行、金行、水行にあたる。

 つまり羽(鳥)、赤、礼、銅は火行。介(亀)、黒、智、鉄は水行。

 四人の行動は火行から水行に変わった。五行の言葉でいえば、火を水が剋する水剋火、または、火が弱いために水の力が強まる火虚水乗だ。四つの店から一字ずつとると火虚水乗になることからしても水、すなわち水行の文字に注目すべきだと考えられる。

 水行の四字は介、黒、智、鉄。これを並び替えると黒鉄智介・・・・・・。

 黒鉄智介、その名を僕は知っていた。ある人物の筆名だ。その人が鍵とは、あまりに意外で受け入れがたかったが・・・・・・。

 しかし冷静に考えれば、あの男が秘薬のありかを知っていてもおかしくはない――。

暗号の解読によって、はっきりしたことがもう一つある。四人の日本娘があらかじめ組織的に動いていたことだ。

 事件が仕組まれた芝居だったとすれば、それぞれの勤め先に娘たちの筆跡で片仮名が一文字ずつ残され、組み合わせるとアラカツとなることも、失踪したはずの山田幸代とみせこがダンスホールに現れたことも合点がいく。

 四人を動した人間が誰かは、把握済みだ。


 刈屋珈琲店をはじめて訪れたのは昨年だった。上海に赴任して数か月がたった頃、北四川路に新しい店ができたというので訪れた。ただの店ではないと思いはじめたのは、水のことを聞いたのが契機だった。

 上海から千五百キロも離れている岷山地方の水を取り寄せ、特殊な処置を加える。岷山地方の清流のことは、高祖父も喫茶療法で触れていた。高祖父は唐代の茶書『茶経』から材を得た。マダムも岷江のことは同書で知ったと聞き、因縁を感じた。

 その上「特殊な処置」である。その内容が秘密であることからして十分僕の興味を引いた。

 秘薬と関連がありそうな場所のリストに、刈屋珈琲店を加えた。配下のD××を常連客にし、店の動きを報告させた。日支闘争同盟の溜まり場になっていることと、マダムの姪という店員が少々変わり者らしいということのほかは、当初これといった発見はなかった。

 そのうちに奉天で満鉄線が爆破され、その四日後に上海で日本娘四人が行方不明になった。

 残された文字を組み合わせるとアラカツになると気づいた瞬間から、事件の虜になった。アラカツといえば痾拉勝丸であり、痾拉勝丸といえば例の秘薬が連想される。犯人の狙いは何か。四文字は誰に向けたものか。寝ても覚めてもそのことばかり考えたが、いっこうにわからなかった。一週間近くがたち、刈屋を訪れ事件を話題にした僕は、マダムを試す気になった。

 その三日前、マダムの姪の就職先を知ったことも影響した。姪の保柴芳子は綺麗とはいえない中年女だ。おまけに陰気で、つねにマスクをし、仕事もできない。それを汎太平洋通商会社の支社長はわざわざ見に来て引きぬいた。汎太平洋通商会社は羅府に本社がある貿易会社で、上海支社はできたばかりという。気のきかない中年女を欲しがる支社長蒲生。姪をよりによって抗日運動で治安が悪化しだした河向こうで働かせようというマダム。どちらも妙だった。二人はD××によると、前もって何か取り決めをしていたらしい。マダムに対する疑惑はいっそう深まった。

 僕は四文字が何を表すか知らないふりをして反応を探った。するとマダムは、痾拉勝丸と口にしたではないか。「母は嘉永生まれで江戸時代にあった何でも治るお薬の話を、私が風邪を引いたときにしました」と聞いたときには、この女はひょっとして痾拉勝丸および秘薬を作った女医者の子孫ではないかと思い、大いに興奮した。

 だが子孫なら軽々しく薬の名を口にするだろうか、という疑問も起こった。

 いずれにせよ、女医者の子孫について調べる必要があった。

 それまでの秘薬に関する調査は、もっぱら行方にのみ向いていた。高祖父が支那に送ったということが念頭にあったので、高祖父の友人の足跡をたどるなど、大陸中心に行っていた。江戸にあったときのこと、秘薬を作った女医者のことは特に知る必要はないとみなしていた。

 それは間違いだと気づいた僕は、内地の友人、尾崎周明に調査を依頼した。周明は東亜経済調査局の理事長だ。東亜経済調査局は東京駅前の三菱の赤煉瓦の一角にある。もとは満鉄調査部の東京支社で、あらゆる資料をそろえ、機密情報活動も行っている。ひと癖もふた癖もあるインテリの「梁山泊」のようなところだが、周明はその中のお頭として台頭した。頭脳明晰で痩せた針鼠のような外見だが、笑うと愛嬌たっぷりになる。上海には出張でよく来る。前回は僕の配下をともない、刈屋珈琲店をはじめて訪れている。汎太平洋会社の支社長がマダムの姪を引きぬいたと僕に報告したのは、周明でもあった。

 痾拉勝丸を開発した女医者の子孫を調べてほしいと電信で依頼した。

 すると約十日後、東亜経済調査局から報告書が届いた。

 内容は以下だ。

 女医者は文芳を名乗っていたが、本名は伊藤文(あや)。寛政四(一七九三)年生まれで文政十二(一八二九)年、三十六歳のとき、長崎にて娘を一人授かった。名はフミ。フミは嘉永二(一八五一)年に二十二歳で文乃を産んだ。文乃は明治九(一八七六)年、芳を東京で出産。芳は明治二十九(一八九六)年、二十歳で文子をもうけた。代々一人娘だ。

 現在生きている文芳の子孫は、根本芳と根本文子(あやこ)の二人である。

 根本芳は五十五歳。十八歳で結婚。娘が八歳のとき、夫を日露戦で失い、東京神田で小学校教師をつづけながら女手一つで娘を育てるも、文子が十九歳になったとき突如家出。翌大正五(一九一六)年、千葉の我孫子町で経血を用いた保芽和(ほめお)療法をはじめた。この保芽和は明らかにホメオパシー理論に基づいた療法で、地元の貧困層を中心に少しずつ広がった。しかし十三年後の昭和四(一九二九)年、つまり一昨年根本芳は詐欺罪で逮捕。栃木囚獄に収監され、現在も服役中である。

 根本文子は三十五歳。東京の高等女学校卒業後、見合いを重ねるもうまくいかず、独身。母親の家出後は父方の姉を頼る。伯母の名は上条梓乃――その名を目にした僕は胸を躍らせた。

 子のない上条夫妻は、家業の薬屋を文子に手伝わせたが、大正十二年の関東大震災で伯父は死亡。店も倒壊したため、文子は職を転々としながら生計をたてた。母親が逮捕されても面会には行かず、昭和五(一九三〇)年、東京を出たきり、現在まで行方不明になっている。

 上条梓乃は、五十九歳。東京本所に生まれる。弟が一人いた。根本芳の亡き夫高雄である。明治二四(一八九一)年、十九で薬屋に嫁ぐも子宝には恵まれず、夫の仕事を手伝う。三十歳のとき義父母が死に、住居兼店舗を新宿に移した。大正五(一九一六)年、四十四歳で脳卒中を起こし、半身麻痺となる。関東大震災で夫を失い、浅草で小料理屋を営む独り身の実妹のもとに身を寄せたとされているが、梓乃の姿を実際に見た外部の人間は一人もいない。しかし妹は二階で梓乃が養生していると隣近所に思わせていた。昨年には姉はすっかりよくなり、長年の夢だった上海で店を起こすため日本を発ったと言いふらしていた。そのあと妹は急死した。

 僕は疑問に感じずにはいられなかった。卒中を起こして長年寝たきりだった人間が、六十歳近くになって突然治るだろうか。少なくとも後遺症はあるはずだ。だが刈屋珈琲店の上条梓乃は健康そのもので動きはしなやか、どこも麻痺している様子はない。

 もう一つの疑問。病み上がりの老婦人が、異国の地で起業しようなどと考えるだろうか。そもそも元手の問題がある。薬屋の財産は震災で失ったはずだ。妹が死んだあとならともかく、死ぬ前にどうやって大金を工面したのか。

 珈琲店は夫の計画だったとマダムは吹聴している。夫は元印刷工場の経営主で、上海に移住する直前、船で亡くなったと。娘二人は北海道と富山に嫁いだので、姪をかわりに連れて来たと。

 マダムは少なくとも四つの点で嘘をついていることが判明した。

 上条梓乃の夫は薬屋であり、関東大震災で亡くなった。

 夫婦に子はなかった。

 上海に向かったとき、姪は一緒ではなかった。

 上条梓乃の姪は根本文子のみだが、マダムの姪は保柴芳子と名乗っている。

保柴芳子は、偽名なのか? 保柴の年齢は根本文子に合致する。マダムの姪の写真を送って根本文子と同一人物か確認しようにも、マスクが邪魔だった。保柴芳子は人前では決してマスクを外さなかった。

 そこで僕は、保柴芳子の調査を依頼した。さらに同人と根本文子、および伯母の上条梓乃と母親の根本芳の容貌の特徴を聞き込んでもらうことにした。

 またマダムの写真を送り、東京にいた上条梓乃と同一人物か確認してほしいと頼んだ。写真は刈屋珈琲店の創業一周年パーティーに参加した際に撮ったものにした。


 回答は約半月後の十月下旬に届いた。

 それによると、保柴芳子の年齢に合致する同名の人物は、日本の戸籍簿には登録されていない。これで保柴芳子は偽名であることが発覚した。

 根本文子の写真は発見できなかったが、容貌の特徴は、失踪前に勤務していた会社の同僚への聞き込みでつかめた。それによると、身長は女にしては高い方で、五尺三寸(約一六〇センチ)。顔は小さいが、体型は小太り。腹が出ていた。目は二重、暗い印象。鼻は高くも低くもない。唇は薄く、やや出っ歯。

 保柴芳子を名乗る女の鼻と口はマスクでわからなかったが、眼と体型の特徴は根本文子に一致した。もっともそれだけでは決め手に欠けた。

 他方、上条梓乃と根本芳については、大きな発見があった。

 梓乃の調査は、同人が震災前までいた新宿で行われた。倒壊した薬屋を知る商店主が通りには大勢残っていた。だが彼らは梓乃の外見は覚えていないと言った。マダムの写真を見せ、これが上条梓乃かと尋ねても、わからないの一点張りだった。しかし目は「ちがう」といっていた。彼らは何者かに口止めされているようだった。一人だけ、商店街の仲間外れになっている古本屋の主人が、「これは上条梓乃ではない」とはっきりと答えた。東京にいた上条梓乃は小太りで頭も大きく、目は一重で、気の弱そうな顔つきだったという。上海の梓乃は若い頃の体型を維持し、髪を美しく結いあげた頭は小ぶり。整った顔立ちで、二重の大きな目はきつい性格をうかがわせる。念のため、写真の女を知っているかと尋ねると、この人は根本芳だと言った。

 マダムが根本芳? 根本芳は詐欺罪で服役しているのではなかったか。僕は動悸を感じつつ書類に目を走らせた。

 局員は神田で根本芳の知人にマダムの写真を見せ、これは根本芳かと尋ねて回った。案に相違し、誰も肯定しなかった。新宿同様、何者かに箝口令をしかれた可能性があったが、そうとも決めつけられなかった。根本芳が神田にいたのは三十代までであり、年をとってからの顔を知る者はいないようだった。

そこで千葉の我孫子町に飛んで手当たり次第にマダムの写真を見せると「これは先生だ」という老婆にあたった。その老婆によると、写真の女は保芽和療法で腰痛を治してくれた根本芳先生に間違いないという。

 胸が高鳴った。

 報告書を読み終えるとすぐ、収監されている根本芳について詳しく調べてくれと電信で周明に依頼した。

 栃木囚獄に行った局員が面会の手続きをとると、格子越しに根本芳を名のる人物が現れた。

 その女は、二重瞼で小顔という以外、写真の根本芳と同じところが一つもなかった。おまけに言葉使いが粗野だった。根本芳は小学校教師を長いこと勤めていたが、その女は教養をまったく感じさせなかった。念のためマダムの写真を見せたが無反応で、娘の文子が卒業した女学校の名を尋ねても答えられなかった。それ以上のことは面会時間の関係で確認できなかった。

 服役中の根本芳は偽者だ。

 官憲が承知だとすると、根本芳は権力によって保護されている? まさか。何のために裏で上海に行かせる必要がある。

 しかしマダムが本物の根本芳なのは間違いない。しかもその背後には強力な後ろ盾がいる。実際あれだけ贅沢な店を珈琲の売り上げだけでまかなえるとは思えない。いったい後ろ盾は誰なのか?

 今まではマダムが日支闘争同盟という左翼を保護していることからして、左翼系の強大な組織かもしれないと考えていたのだが、アカでは官憲を動かせない。汎太平洋通商会社の蒲生出太郎はどうか。マダムと前からつながりがあるらしい。いや、蒲生にもそこまでの権力はない。同社の設立者は米国大統領と関係のある人物だが。いくら大統領でも、日本の警察は動かせないだろう。するとやはり日本政府内の人物? あるいは軍の高官か? 

・・・・・・いや、重要なのは、秘薬だ。

 秘薬を作った文芳の子孫は誰だかわかったのだ。根本芳と根本文子。芳は上条梓乃を名乗り、文子は保柴芳子を名乗っている――。

 監視の結果、自称保柴芳子は勤務中たびたび同じ場所に移動していることが判明した。D××が尾行、密勒路の隠れ家を発見して侵入。そこで月経中の女に経血を提供させているらしいこと、女たちは刈屋珈琲店で紹介されて来ること、経血を用いた薬の開発が行われているらしいことをつかんだ。しかし百年前の秘薬がそこにあるかどうかまでは確認できなかった。

 ちょうどその頃、失踪した娘たちの髪が武官室に投げ込まれた。壁の落書きに「文芳」の署名があったことからして、マダムが黒幕である確率が高まったため、落書きの解釈を頼むふりをして反応をみたところ、自称上条梓乃はあわてるどころか、聖書の引用にかこつけて「不義をなす者はいよいよ不義をなし」などとあてつけがましく言って対決姿勢すら見せたので僕は逆上し、強硬手段にでた。

 二日後、刈屋珈琲店に乗り込んで日支闘争同盟のメンバー三人を逮捕、礼儀も何も捨ててマダムを失踪事件の主犯と呼び、「薬はどこだ」と尋ねた。

 あの女は答えるかわりに、四人の娘の失踪前の変化に注目せよと言った。そこに秘密が隠れていると言わんばかりだったので調べ直したが、意味は解けなかった。しぼりあげるしかないと考えていたら、川島芳子が「保柴芳子」を拉致して、僕に引き合わせた。

 一対一で会うのははじめてだった。僕が川島に土下座したところを見られたのは屈辱だったが、敵意は感じなかった。好き嫌いの激しい自分が、保柴芳子には親しみを覚えたのである。警戒すべき相手にもかかわらず、自分と通じるものがあると認めざるをえなかった。相手も同じことを感じたようだった。僕はその気持ちを利用し、相手の心を開くのに成功した。その証拠に彼女は僕の前でマスクをはずした。

その鼻と口は、根本文子の特徴にぴたりと一致した。

 目と目をあわせた瞬間、たがいに相手の血筋を悟ったのを感じた。

 失踪事件について探りを入れると、保柴芳子は四人の失踪前の変化を読み解くヒントを口にした。

 敵は僕を秘薬に導こうとしている。そのためだけに失踪事件をでっちあげた可能性すらある。真犯人は文芳の子孫だ。

 しかし彼らの真の狙いは、依然として不明だった。

 なぜ僕に秘薬を与えたいのか。自称保柴芳子は口にした――「火虚水乗には、水すなわち月水が、火すなわち護摩に勝つ意味もある」と。

 水は文芳、火は僕の高祖父――陽隆の暗示か。

 百年前、文芳と陽隆は敵対関係にあった?

 小野家の言い伝えによれば、文芳は長崎で陽隆に助けられ、恩を感じたはずだが――。江戸城に入ってのちは、同じ医者として争ったのかもしれない。

 二人の間に何があったか知るため、東亜経済調査局に再度調査を依頼した結果、僕は重大なことに気づいた。

 それを伝え、知恵を借りるためにも、今日尾崎周明を呼んだ。周明は出張で昨日十一月十四日、上海に到着した。もうすぐ武官室に到着予定だ。

 しかしまさかその友人が、秘薬の鍵となる人物だったとは・・・・・・。

 黒鉄智介は、尾崎周明の筆名だった。

 周明は東京帝大時代、日本教会の機関誌『道』に黒鉄智介の筆名で、宗教に関する論文を発表していた。日本教会は、内村鑑三らと並んで基督教界の三村といわれた松村介石が創立した。基督教と儒教をまぜあわせた信仰を説いていて、周明も入会していた。

 周明は高校入学前に父親に勘当されたことで宗教に救いを求め、聖書を学んでいる。洗礼こそ受けなかったが、高校時代には基督教団体の会員と交際し、日曜ごとに教会に通い、説教を熱心に聞いていた。

 敵が暗号に聖書の文を使ったのは、周明の指示だったのかもしれない。

 だがあの周明が、敵側の人間ということがあり得るだろうか? 

 僕は冷静に考えた末、あり得るという結論に達した。

 聞きたいことは山とあるが、無論一番重要なのは秘薬のありかだ。何としても聞き出す。

 周明が到着するまでの時間が、気の遠くなるほど長く感じられた。


 武官室の応接室に、鶴のようにひょろ長い男が現れた。身長五尺九寸(一七九センチ)、体重十七貫(六十四キロ)、日本人離れした体型に背広がよく似合う尾崎周明である。僕を見ると、鼠に似た顔に笑みを浮かべた。

「やあ、遅れてすまなかったな」

「とんでもない。上海ですから、道に迷うでしょう」

 友人とはいえ八歳年上なので一応敬語を使う。

「いや、ここには何度も来てるんだから、言い訳にはならんさ」

「二十分ぐらい、大陸じゃ遅れのうちには入りません。こちらこそ大変な折に呼び出してすみませんでした」

「大変でもない。内地のごたごたはひと段落ついたといっちゃあ、ついた」

「橋本中佐も検挙されたとか」

「ほか十一人もだ。企業の倒産と失業、農村の困窮、国民が不況にあえぐ中、汚職をくりかえす政府を打倒せんとクーデターを企てたが、事前に露見して失敗した。新政府の大臣になりそこねたさ」

「しかし無事で何よりです」

「俺は裏方だったからな。首謀者ではなかったってことで免れた。でもみんな、諦めちゃあいないね。来年には国家改造の実行団体を作るつもりだ」

「国家改造ですか」

「国民を生活苦から救うんだ。今のままじゃいかん。害あるものは攻撃し、ぶっつぶさんと。理想はそれでこそ実現できる。大陸でも同じことが言える」

「満州の建国工作、だいぶ進んでいるそうですね」

「亜細亜復興のためには、横暴なる列強諸国を追い出して有色民族を解放せねばならん。亜細亜民族の協和――自分の思想が満州青年に浸透することを願う。俺は世界の道義的統一を目指している。ソクラテスは言った、『我々の求むべき所のものは、単なる生命ではなく、良き生命でなければならぬ』と」

 こういうところが僕と合わない。行動は右翼的だが、思想に左翼的なところがあるのが、敵と通じているのではないかと疑わせる要因だ。周明は笑顔を消し、

「こんな話を聞くために呼んだわけじゃないんだろう。俺に話ってのは?」

探るような目を向けた。

「周明さんの理想を聞いたあとだと、自分の問題がちっぽけに思えて、何だか話しにくいですよ」

「いや、おまえの問題は俺の問題でもある」

 これまで僕は自分の秘密を包み隠さず周明に打ち明けていた。

「例の文芳に関することなんだろう」

「あたりです。頭脳明晰な周明さんの判断を仰ぎたいと思いまして」

「お世辞はいい。で、何が聞きたい」

「まず僕の見解から話します。調査を見て色々考えた結果、刈屋珈琲店のマダムとその姪と称する女は、徳川十一代将軍家斉の治世に大奥で医師を勤めた文芳の子孫だと確信するにいたりました。つまりマダムは根本芳であり、保柴芳子は根本文子であると」

「それは前にも聞いた。栃木囚獄の根本芳が偽者という裏がとれりゃいいんだがな」

「その問題はひとまずおいて、二人が文芳の子孫という前提で考えた結果、僕はある結論に達したんです」

「どんな結論」

「二人は失踪事件の犯人です」

「その事件ってのはつまり、九月に上海で日本人婦人四人が失踪した例のやつだな」

「ええ、でも実際には失踪ではなく、失踪を装った芝居だったようです。すべてはマダムが仕組んだんですよ。目的は、陽隆の子孫である僕を秘薬に導くことです。地理の一致がその証拠になります」

「地理の一致?」

「江戸と上海の地図を見比べて気がついたんです。江戸におけるある地点と、上海におけるある地点が一致することに」

「完全に重なるのか」

「多少のずれは生じます。ですがそれぞれ、ある起点からの距離と方角は完全に一致しました」

「ある起点?」

「表を作ったんで見てください」

 渡した紙を周明はいつもの癖で首を傾けて読んだ。


 【上海】             【起点からの距離】 【江戸】

日本陸戦隊本部            〇(ゼロ)     江戸城

ジョージ・ホテル           東に一㎞      長崎屋

上海特務機関             北東に八百m    宝生院

刈谷珈琲店 および娼館・桜花     南に一・五㎞    江戸在長崎奉行高橋重賢邸

根本親子の経血実験所         南東に二㎞     文芳の薬局

茶館・翠緑閣             北西に四・二㎞   薩摩藩下屋敷

汎太平洋通商会社および錢荘・新興荘  南に三㎞      薩摩藩中屋敷


「左が上海、右が江戸。それぞれ起点となる場所は日本陸戦隊本部、江戸城。そこからの距離と方角が一致する場所が、上海と江戸で似た役割を果たしていると思いませんか」

「ふうむ、全部がそうではないが、大体においてそのようだな。江戸城と宝生院は陽隆のいた地点、日本陸戦隊本部と上海特務機関は陽隆の子孫であるおまえに関わりのある場所だ。薬局は文芳、経血実験所は根本で対応している。翠緑閣や新興荘は失踪事件の現場のようだが?」

「根本は故意に江戸と一致する地点でことを起こしたのではないでしょうか。汎太平洋会社にしても、マダムがその位置に作らせたということは十分ありえます。根本文子と蒲生支社長の関係は、薩摩藩中屋敷における文芳と島津重豪の関係にあたると言えなくもありません。蒲生には島津重豪ほどの力はないので根本の後ろ盾は別にいると思われますが。いずれにせよ根本が上海に江戸の配置を再現せんとしたのは間違いなさそうです」

「しかしなぜ刈屋珈琲店を長崎奉行高橋重賢邸と一致する場所に作ったんだ。重賢邸は文芳ゆかりの地ではなかったはずだろう」

「その点が疑問です。ジョージホテルに対応する長崎屋もですが」

「長崎屋に文芳が入ったという記録はない・・・・・・が、待てよ」

周明は何やらひらめいたという顔をした。

「文芳はシーボルトの門下生だった。シーボルトなら長崎奉行とも長崎屋とも大いに関係がある。長崎奉行高橋重賢はシーボルトの協力者で調査活動を保護していた。長崎屋は、江戸における阿蘭陀使節の常宿でシーボルトが一か月以上泊まっていた」

「シーボルトが関係あるんでしょうか」

「文芳と陽隆の江戸城追放のきっかけとなった将軍世子の死は、シーボルトの江戸滞在期間中に起きたはずだ。おい、根本親子の意図がわかったかもしれん。資料があるだろう。見せてくれ」

 前に調査局から送られた江戸時代の資料を渡すと、周明は、

「やっぱりそうだ。文政九年、四月十日、シーボルト江戸到着。四月十六日、徳川斉衆死。シーボルトの江戸滞在と、斉衆の死に直接関係はない。だが、将軍の息子の死は、阿蘭陀使節の江戸城登城を五月一日まで延期した。その間にシーボルトは、将軍の秘密の鍵となる書物が保管されていた紅葉山文庫の管理者である書物奉行・高橋作左衛門景保と接触。五月一日、江戸城に登城すると作左衛門の手引きで紅葉山文庫に侵入して書物を盗み出した。その書物こそ、文芳が著した『月水療法録』で、×××の治療法が書かれていた。将軍はその本に葵の紋を薄い金箔に隠し落款として入れていた。将軍の体にあの欠陥があるという充分な証拠だった」

 唇が異様に赤く光って見えた。

「五月十八日、使節は江戸を出発、シーボルトは書を長崎に持ち帰った。二年後、その書を阿蘭陀に送ろうとしたのが見つかりシーボルトは逮捕される。考えてみれば、それまではあまりにもことがうまく運びすぎていた。いくら紅葉山文庫の管理者・高橋作左衛門が協力者だったとはいえ、外国人が絶対に入れないはずの場所に侵入できたのは異常だ。将軍家斉はシーボルトにわざと盗ませたと考えられる。何のためか。目の上のたんこぶ、岳父の島津重豪に対して、間接的に圧力をかけるためだ。

 島津重豪は将軍の岳父という立場を利用してやりたい放題をしていた。幕府の金の使いこみもそうだが、密貿易もその一つだった。重豪が海外交易を自由に行うためにシーボルトに接触していると気づいた将軍は、この関係を利用して岳父にお灸をすえてやろうと決意し、勘定奉行村垣淡路守や石塚宗廉にシーボルトの動きを逐一報告させた。村垣の本職は将軍家の御庭番だ。人気者の医官を嫌っていた商館長スチュルレルもよき協力者となった。かくしてシーボルトははめられ、逮捕された。関係者も連座させ、将軍は岳父の心胆を寒からしめるのに成功した。

 さよう、すべては将軍家斉の罠だった。このいわゆるシーボルト事件で文芳は直接被害を受けたわけではない。だが文芳の子どもの父親はシーボルトの通詞だったため投獄され、病気になって死亡した。

文芳の子孫はそのことを恨み、意趣返しを企んだ。それでおまえに秘薬を盗ませ、シーボルトと同じ目に遭わせようとしている。ちがうか?」

 周明の読みに驚き、そうかもしれないと思った。

「でも変じゃないですか。将軍の子孫をはめるならわかります。なぜ僕なんです。そりゃ僕は陽隆の子孫です。確かに陽隆は文芳と対立する立場にありました。だけど二人はシーボルト事件前に、江戸城を追放されています。原因は将軍の世子、斉衆です。二人は斉衆の病を治せませんでした。将軍はどちらかに責任をとらせようとして二人に論争をさせましたが、結果的にはどちらも有罪としたんです。

 つまり、陽隆が文芳を不幸にしたというような事実はなかったわけです。復讐されるようなことは何もしていないと調査報告書にも書いてありましたよね」

「ああ。だが、われわれには関知できない出来事があったのかもしれん」

「そんな・・・・・・高祖父が非道なことをしたというんですか」

「それはここで考えてもわからん。だが、見えてきたことがある。復讐の方法だ。俺の頭には今、ある構図が浮かんでいる」

「構図って何です」

「人物の図式だ。紙とペンをとってくれないか」

 何のことやらわからぬまま帳面と万年筆を渡すと、

「まず江戸時代の人物についてだが、文芳の経歴を振り返って考えるに、彼女を支えた人間には、シーボルト、島津重豪、御台所寔子などがいた。一方おまえの高祖父である陽隆側には、姪のお美代の方、お美代の方の言いなりの将軍家斉、商館長スチュルレルなどがいたと言える。対応させると――」

 紙にすらすらと表を書いた。


 【文芳側の人間】     【陽隆側の人間】

御台所寔子       お美代の方

島津重豪       徳川家斉

長崎奉行高橋越前守重賢   勘定奉行村垣淡路守定行

高橋作左衛門景保   石塚宗廉

シーボルト       スチュルレル


「こうなる。一つの勢力と勢力が対立していた構図がそこには歴然としてあった。文芳の子孫は、シーボルト事件とそっくり同じ図式で、おまえを罠にかけると同時に、おまえの上にいる人間の力をもひしごうとしているのかもしれん。江戸の人物構図に、上海の人物をあてはめて考えてみよう。まず、おまえの側の人間だが――」


 【江戸時代】 【上海一九三一年】

陽隆側の人間 小野長盛側の人間

陽隆 小野長盛

徳川家斉 ヒトラー

お美代の方 川島芳子

勘定奉行村垣淡路守定行 ハウスホーファー

石塚宗廉 団隼人

スチュルレル 蒋介石


「同じ行の人物を対応させた。上と下、それぞれが似た役割の立場にある。おまえの子飼いのスパイの本名は団隼人で合ってたな?」

 周明がD・・・・・・団の名前まで覚えていることに驚きつつ、

「ええ、よくご存じで」

「次に敵側の人物構図だが――」


文芳側の人間 根本親子側の人間

文芳 根本親子

島津重豪 X

御台所寔子 Y

長崎奉行高橋越前守重賢 汎太平洋会社支社長蒲生出太郎

高橋作左衛門景保 Z

シーボルト V


「記号が多いですね」

「俺には敵の現状がよくわからんのでな」

 とぼけているのかどうか表情からは判断できなかった。

「上海特務機関長のおまえの方がわかるんじゃないか」

 僕が敵をどこまで把握しているのか試しているのかもしれなかった。しかし正直に答えた。

「そうですね、Xの島津重豪ほどの権力を持つ人間、すなわち根本親子の後ろ盾は、いまだわかりませんが、ほかは心あたりがあります。

まずYから。御台所にあたる人物は、文芳ならぬ根本親子の支持者でなおかつ、お美代の方にあたる川島芳子と対立する婦人ですよね。川島芳子の手から根本文子を救い出した白人女がいます。アグネス・スメドレーという亜米利加人です。独逸紙の特派員をしていますが、それは表向きで、裏ではコミンテルンとつながっているという噂があります」

「スメドレーなら知っている。印度人革命家を通して知り合った。じゃ、Yはスメドレー」

 躊躇なく名前を記入し、周明は言った。

「言われてみれば、彼女はCommunist International、 共産主義インターナショナルのメンバーの匂いがする」

「根本親子も組織に入っているでしょうか」

「正式なメンバーではないだろう」

「コミンテルンといえば、Vのシーボルトにあたる男もそうかもしれません」

「誰のことだ」

「独逸倶楽部によく出入りしている自称・独逸人学者です。大戦経験者とかで独逸軍人にとりいるのがうまいのですが、僕は臭いと感じています。上海には学術研究のために来たと言っていますが、軍の高官と飲み歩いてばかりですし情報収集が目的じゃないかと。スメドレーと会っているところを目撃したこともあります」

「根本親子とは、どう関係している?」

「十月以降、刈屋珈琲店を何度か訪れています」

「ではVはその自称学者だな。名前は?」

「それより周明さん、僕が今いちばん気にかかるのは、このZ、高橋作左衛門景保にあたる人間ですよ」

 思いきって言った。

「これにあてはまる人間は、あなたじゃないですか」

「どうして」

「幕府の高官だった作左衛門は、紅葉山文庫の管理者で、シーボルトを秘密の書物へと導きました。周明さん、あなたは満鉄という軍の機関の高官です」

「何が言いたい」

「秘薬のありかを知っているのではないですか」

「ほっほう、そうきたか」

「マダムに与えられた暗号を解いたら、黒鉄智介の名が出たんですよ。黒鉄智介はあなたの筆名です。周明さん、あなたが秘薬の鍵なんでしょう? 僕は高橋作左衛門の邸の位置を調べました。江戸城から北東へ三キロ。それを上海にあてはめると、起点の陸戦隊本部から北東へ三キロにあたる地点には、あなたの上海での常宿・東洋旅館がありました」

「それじゃ何かい。この俺が意図的にその位置にある宿をとったというのかい」

「ええ、敵は江戸の場所に合わせて活動拠点を作っているはずですからね。周明さん、僕はあなたが連中の後ろ盾かもしれないとさえ思っているんです」

「おいおい小野、いくら俺の心が広くたって、言っていいことと悪いことがあるぞ。いいか、仮に俺が秘薬の鍵としてもだ。敵ということはない。まして敵の後ろ盾などありえん。第一、東亜経済調査局の理事長といえども栃木囚獄に偽の囚人を置けるほどの力はない」

「そうかもしれませんが・・・・・・」

「信用しろ。前から言っている通り、俺はおまえの計画を応援している。日本政府や軍中央を裏切ろうとしていることもだ。やつらが何だ。俺たちが新しい理想をこの世界に打ち立てるんだ。そのために独逸の力を借りることに俺は賛成している。独逸は亜細亜に植民地を持たない。敗戦によって欧州で孤立した独逸を味方につけ、支那事変を引き起こすことで英米仏の白人勢力を駆逐し、亜細亜を開放するのだ。理想のためにはおまえへの協力は惜しまない」

「今の言葉、僕を秘薬に導くという意味に受けとっていいですか。周明さんは今、秘薬の鍵ということを否定はしませんでした」

「そう急ぐな。まずは敵の企てを把握せにゃならん。もう一度確認だ。連中はシーボルト事件の図式を反転させて復讐しようとしている可能性が高い。上海でシーボルトにあたる学者の名は何と言う?」

「Sorge・・・・・・リヒャルト・ゾルゲ。情の厚そうな、露西亜的な感じのする男です。莫斯科(モスクワ)のスパイかもしれないとハウスホーファーに言っても、とりあってもらえませんが」

「ゾルゲか・・・・・・」目の奥を光らせた。

「よし、Vはゾルゲ、Yはスメドレーで決まりだ。一回全部書き出して確認しよう」


 【江戸時代】 【上海一九三一年】

やる側

陽隆 小野長盛

徳川家斉 ヒトラー

お美代の方 川島芳子

勘定奉行村垣淡路守定行 ハウスホーファー

石塚宗廉 団隼人

スチュルレル 蒋介石


やられる側

文芳 根本文子

島津重豪 X

御台所寔子 スメドレー

長崎奉行高橋越前守重賢 蒲生出太郎

高橋作左衛門景保 Z

シーボルト ゾルゲ


「XとZは保留だが、大体こうなる」

「やる側、やられる側というのは?」

「シーボルト事件において、陽隆側はやる側、文芳側はやられる側だった。それぞれの人物に、上海で似た立場にある人間をそのままあてはめると、右のようになる。だがこの表は正しくない。なぜなら根本はシーボルト事件で文芳側がやられたことを、そっくりそのまま陽隆の子孫であるおまえにやり返そうとしているはずだから」

「根本親子はやる側となってシーボルト事件を再現するつもりだと・・・・・・?」

「ああ、近いうちに一芝居打ってくるにちがいない。根本の復讐劇、題して『シーボルト事件』上海公演といったところだな。シーボルト役は小野、おまえだ。シーボルト事件では徳川家斉がシーボルトに禁制の品を盗ませて罠にかけ、岳父の島津重豪を追い落とした。今回は根本の後ろ盾であるXが、おまえに秘薬を盗ませることで、背後のヒトラーに圧力をかけるって筋書きだろう。俺の役はさしずめ高橋作左衛門景保だ。何しろ秘薬のありかを知っている」

「やっぱりそうなんですか。どこにあるんです」

「あわてるなと言ったろう。シーボルトと同じ目に遭いたいか」

「でも秘薬は必要です」

「おまえを連中の思い通りにはさせん」

「ありかを教えないと言うんですか?」

「そうじゃない。おまえは秘薬を手に入れる。しかし罠にははまらない」

「どういう意味です」

「秘薬は、白人が持っている」周明は唐突に告げた。

「汎太平洋通商会社の顧問弁護士、エルマー・F・ランデンだ」

「え。ランデンは実在するんですか?」

「ああ、実在する」

「なぜ彼が持っていると?」

「ランデンの本名は、リヒャルト・ゾルゲだ」

「本当ですか、周明さん、ゾルゲを知ってたんですか」

「コミンテルンのことを調べているときに、やつの存在を知った」

 それならなぜさっき言わなかったのか。

「シーボルトは阿蘭陀人に化けた独逸人だったが、ゾルゲは独逸人に化けた露西亜人の可能性がある」

「ゾルゲはやっぱりコミンテルンの一員なんですか」

「それは、はっきりとせん。ただ百年前、シーボルトが日本の将軍の秘密をつかもうとしていたのと同様、やつがヒトラーの秘密を欲しているのはまちがいない」

「ゾルゲの居所はどこなんです? 教えてください」

「わからん」

「わからない?」

「だがゾルゲが秘薬を鞄に入れて持ち歩いていることと、一週間後の月曜、ジョージ・ホテルに現れることは知っている」

「確かですか。彼が秘薬を持ってジョージ・ホテルを訪れる?」

「二十三日に、ある催しがある」

「催し?」

「俺がそのことを知っていて、おまえに伝えるのを見越して根本は暗号解読のヒントを与えたのだろう。秘薬を餌にしておまえをホテルにおびき寄せ、シーボルトがやられたことを仕掛けるために。そうだ、きっとやつらは二十三日に復讐劇を実行する」

「秘薬を盗めば、向こうの思う壺ですか」

「いや、連中の裏をかく。秘薬はちゃんと頂戴しつつ、企みを逆利用するんだ」

「逆利用?」

「江戸時代の二の舞を味わわせてやろう」

「ゾルゲを捕えるんですか」

「ああ、今度はシーボルト事件ならぬゾルゲ事件になるぞ」

「しかし彼らがコミンテルンという証拠はないですし、どうやって」

「今から話す」

 僕は大いに乗り気になったが、周明が敵側かもしれないという疑いは捨てなかった。

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