第二十章 江戸・一八二六(文政九)年五月 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
日本が誇る江戸城にはじめて来たが、まったく感動しない。
天気は申し分なかった。内堀に白鷺が集まっている。それを「白いカラスだ」と商館長スチュルレルが勘ちがいして叫ぶのが耳に入る。いつもならここぞとばかりに訂正してやるのだが、その余裕すらない。
本日五月一日、私は珍しく緊張していた。オランダ使節一行としてこれから将軍に拝謁するからだけではない。私には一行とは別の目的があった。無事に果たさねばならない。
使節は大手門に入った。衛兵の指揮官(百人御番頭)、二人の外人接待係、江戸在勤の長崎奉行高橋越前守に出迎えられた。越前守は私を見ると目尻に皺を浮かべ、心持ちうなずいた。私も目でうなずき返した。越前守は私の味方だ。そう思うと幾らか落ち着いた。
私たちは百人番所で一時間近く待たされることになった。赤い毛氈の上の長椅子に腰かけると、
「江戸城独特のお茶でございます」坊主が湯呑み茶碗を差し出した。
私は首をかしげた。歴代使節は緑茶を出されたはずだ。その茶は真っ黒だった。コッヒーではないのは匂いからして明白だった。
色白の坊主は傲慢そうな顔に愛想笑いを浮かべた。
「これは黒茶でございまして、神気を爽やかにし邪気を払う作用がございます」
黒茶は中国茶の一種だ。陽隆が頭に浮かんだ。奥医師陽隆は喫茶療法に中国茶を用いる。もしや私の目的に気づき、黒茶と称して毒を? あるいは眠り薬かもしれない。――いや、誰も倒れてはいない。どうやら茶を飲んでも平気なようだ。しかしまずかった。黴臭い上、変に甘い。今回に限ってなぜこんな茶をだされたのか・・・・・・。
動揺した状態で午前九時、将軍の御殿である本丸に通された。その大きな一階建ての建物に入ると、番所衆のほか、青白い坊主の延臣たちが待ち受けていた。その中で、ひときわ目立つ色黒の頭があった。男は陽隆と名乗った。緊張が高まった。商館長スチュルレルは、この五十代の権力ある奥医師に対し、「さすがは江戸城です。先ほど内堀で貴重な白いカラスを拝見致しました」と持ちあげるつもりで言い、自分の無知をさらけだした。陽隆は顔をしかめるかと思いきや、愉快そうに笑い、あれは白鷺だと教えた。以後控えの間への移動中、二人は旧知の友のように打ち解けて話している。実際、友人なのかもしれない。
だとすれば・・・・・・大きな障害となり得る。
私には蘭印政庁に与えられた秘密任務があった。長崎に赴任する前、四か月間滞在したバタビアで、総督ファン・デル・カペルレンに命じられたのである。
私は正体を隠すため、日本に行くにあたって、医者として必要な道具をそろえた。それらは日本人の心をつかみ、信用を得るのに役に立った。
多額の資金と資料は、出島商館を経由することなく直接私に渡されている。だからスチュレルも私の正体は知らないはずだった。
日本の政治機構、軍事組織までも詳細に調べあげることが私の使命である。それには江戸に長期滞在する必要があった。私は薩摩侯など何人かの有力者に自分を江戸城の奥医師に推薦してもらうよう働きかけた。彼らは依頼通りに動いてくれたが、幕府からは今のところ何の返事もなかった。幕府の許可が得られなかった場合に備え、江戸にいられる間にできる限り情報収集をしておかねばならない。
必要な情報は限りなくあったが、最重要なのは将軍に関することだった。将軍の体に秘密があることに気づかせてくれたのは二年前、鳴滝塾の塾生だった二人である。ソーレン(石塚宗廉)とアーヤ(伊藤文)だ。二人とも意図してヒントをくれたわけではなかった。
私はソーレンに出島の商館の外科医部屋をいつでも自由に使わせていた。塾生の中で唯一出島への出入りを許されている彼が幕府の隠密であることは、さまざまな観点から予測がついていたが、私は逆に利用するつもりだった。すると案の定というべきか、大胆にもというべきか、ソーレンは商館である薬の研究をはじめた。
その薬は将軍に結びつくものであるはずだった。隠密は将軍の密命を受けて行動するものだからだ。彼の研究内容から、将軍の体にある欠陥が存在すると推測できた。
アーヤもそれを嗅ぎつけたことがわかった。彼女は薩摩の隠密に近い存在だ。薩摩侯は妾と思わせたがっていたが、私は見抜いていた。だからこそアーヤには鳴滝塾の研究室を好きに利用させることにした。月水を用いて子宮の病を治す薬を開発したいと言っていたが、ソーレンと同じ薬をハーネマンの理論を応用して作るつもりなのは察しがついていた。その目的は、薩摩侯が将軍の弱みを握ることだと考えられた。
情報によれば、薩摩藩の財政は火の車だ。原因は島津重豪侯が藩主時代、国元の開化政策を推し進めて施設を次々作ったせいとも、隠居しても浪費癖がやまないせいともいう。財政を補うためには、オランダとの密貿易をより自由に手がける必要がある。それには将軍の欠陥を知り、その欠陥を治療する薬を供給できるようになることが望ましいはずだ。将軍の弱みをつかめば、何でもできる。幸い幕府隠密のソーレンは薬を完成させることなく行方不明になった。
だがアーヤの実験も簡単には成功しなかった。にもかかわらず彼女は突然鳴滝を引揚げ、江戸で「万能薬痾拉勝丸」を売り出したかと思うと、三か月もたたずに大奥の人となった。御台所の信頼を得たのは、偽薬効果のためと考えられる。薬や医師に対する信頼などの心理作用によって症状が改善することはよくある。非科学的なハーネマンの理論に基づいて作った月水薬に効果があるとは思えないが、アーヤは将軍に対して、例の病に効く薬だと称して勧めたにちがいなかった。将軍がその薬を受け取ったとすれば、体に例の欠陥があることが証明される。詳細を知りたいと思っていた矢先、薩摩侯が私に接触してきた。
四月十一日昼、大森で待ち受けていた薩摩侯は私の前で痾拉勝丸を意味する言葉を口にし、私が反応を示すと中津侯を日本橋の宿にたびたび使者としてよこした。
十五日の正式訪問では、薩摩侯は自分の体にある欠陥が存在すると仄めかし、「義理の息子もどうやら同じ病にかかっておるらしい。それゆえ、あの薬をわしが試して効果があれば、奥を通して勧めようと思っておる」と言った。義理の息子が将軍で、あの薬がアーヤの薬をさすのは間違いなかった。
薩摩侯はなぜそれとなく私に情報提供するのか。私の正体を見抜いているとは考えにくい。だが少なくとも私が幕府の機密情報を得たがっていることには気づいているようだ。
薩摩侯の狙いはしだいにわかってきた。私に将軍の秘密をつかませようとしているのだ。それにしても、なぜ私なのか? 薩摩の隠密ではなく――。
答えは二つ考えられた。一つは、外国人なら発覚しても無関係を装えること。もう一つは、私を意のままに動かすためだ。私に将軍の秘密をつかませれば、恩を売ることができる。密貿易に思うように協力させられるというわけだ。言うことをきかなければ、幕府の情報を盗んだとばらすと言って脅迫し、いやでも従わせるつもりなのだろう。
実に恐ろしい老人だ。薩摩侯は一七九八年のヘンミーの怪死に関わっているとされる。ヘンミーは当時の商館長で侯と組んで密貿易をしていた。その年の江戸参府の際にも二人は会っていた。帰路の掛川の宿で両者はかなり興奮してやりあっていたという。おそらく貿易に関して何らかのトラブルが生じ、発覚することを恐れた薩摩侯が殺害したのだろう。
私も関われば、どんな災難をこうむるかわからない。しかし日本の最高権力者の秘密を知る機会を逃すわけにはいかなかった。
薩摩侯によると、将軍は秘薬を受け取った。だがそれを実際に体に取り入れたかどうかまでは把握できていない。ただ将軍は秘薬と一緒に『月水療法録』も受領した。アーヤがハーネマンの理論を元に著した、例の病の治療指南書である。将軍はその書に葵の紋を薄い金箔に隠し落款として入れたという。
その書を盗み出せれば、将軍があれを患っている証拠として使える。しかし保管場所が不明だった。
薩摩侯は娘の御台所に聞き出させようとしたが、うまくいかなかった。私は自分で探りだすしかない状況に追い込まれた。困ったときにすぐ思い浮かぶのが、高橋越前守の顔だった。
長崎奉行・高橋越前守重賢は私が一番の恩人と思っている人物の一人だ。私は越前守の特別なはからいで出島商館の外に出て鳴滝に塾を持つことができた。越前守はいつでも私の心強い味方だった。もっとも相手が幕府の役人である以上は、将軍の秘密を探る方法を相談するわけにはいかなかったが、今回彼は意図せずして私に活路を与えてくれた。
高橋越前守重賢が紹介してくれた人物に、最上徳内、間宮林蔵、高橋作左衛門景保の三人がいた。いずれも越前守の箱館奉行時代に部下あるいは上司だった人物で、北方地域の専門家である。日本の北方の地図も入手するよう蘭印政庁に命じられていた私は、江戸に着くとその三人に手紙を送った。
するとまず最上徳内が間宮林蔵をともなって日本橋の宿を訪れた。間宮林蔵は五十一歳とは思えないほど若々しく立派な体格をしていた。さすが樺太の海峡を発見した大探検家だけあった。今は江戸に転属し、勘定奉行村垣淡路守配下の普請役に出世したせいか、やや尊大な感じがした。大先輩の最上徳内の手前、最低限の礼儀は守っていたが、私が色々と熱心に質問しても、ろくな返事をくれなかった。外国人が嫌いだからでもあるのだろう。彼は幕命で択捉島に滞在していた頃、会所がロシア軍艦の襲撃を受けた際、一人強く攻撃を主張したというし、ゴロブニンが幽閉された折には誰よりも厳しく尋問したという。私に対する協力は、到底見込めそうになかった。
それに比べて最上徳内は、七十二歳になった今もヨーロッパに憧れているだけあって、私に好意を抱いてくれたらしい。彼はそのあとも毎日のようにやって来て、私から海外の情報を得るかわりに北に関するさまざまな情報を提供してくれた。さらに私がどこに行けば北方の禁制地図を見られるのかと迫ると、ある場所の名を答えた。
――江戸城紅葉山文庫。
そこには幕府にとって機密性の高い書籍が納められているという。つまり葵の紋が押された『月水療法録』も保管されている可能性が非常に高い。
だが外国人には近づくことさえ不可能な場所である。途方にくれていると、徳内が言った。
「紅葉山文庫のことは、高橋作左衛門に聞くとよいでしょう」
高橋作左衛門景保は幕府の天文方兼書物奉行であり、長崎奉行に紹介された重要人物の一人だ。彼もまた私の江戸到着後の手紙に応えて宿を訪れていた。
今年四十一歳の作左衛門は、父親の跡を受けて特に苦労もなく二十歳のときに天文方になった。天文方は地図作成と管理を統率する役職で、かつて徳内と林蔵は彼の配下で北方探検を行った。作左衛門は現場の人間に無茶な命令を出したり、部下の功績を自分の手柄にしたりする傾向があるようで評判はきわめて悪かった。さらに家来の娘を妾にしたり、オランダの舶来品を横流ししているという噂もあった。
何度か接するうちにわかったのだが、作左衛門は誤解を受けやすい人間だ。彼は自分を偽るということがない。欲求のままに動く。思ったことをすべて表にだす。育ちのためなのか、学問以外のことには気が回らない結果なのか。
根っからの学者なのは確かだ。作左衛門は語学の才にも恵まれ、ロシヤ語、中国語、中でも満州語に長じ、二十八歳のときに満州語の辞書三十余冊を作りあげた。天文台の火事ですべて焼かれ、六年の苦心が水の泡となっても挫けず、三年後には日本で最初の満州語辞書『満文輯韻』十八冊を作り上げ、幕府に献上している。独学で十余年かけて満州語学を打ち立てたことが認められ、書物奉行の兼任を命じられたのである。
書物奉行は、紅葉山文庫を管理している。
四月二十三日、私は作左衛門を宿に呼び寄せ、単刀直入に切り出した――使節の江戸城登城の際、紅葉山文庫を見せてほしいと。作左衛門はあっけにとられ、返事をしなかった。私は望みをかなえてくれたら、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』を手渡すと言った。その書は日本の北辺防備には不可欠な資料だが、日本にはまだないことを知っていた。
すると二日後、作左衛門はふたたび宿を訪れ、私を文庫に連れて行くと言った。
今日、私と作左衛門はこの江戸城本丸で落ち合うことを約束した。使節の将軍謁見後、彼が隙を見て私を連れ出す段取りだ。
陽隆のあとについて使節一行は、板を張った長い廊下を進み、角を幾つか曲がって、謁見の間――千畳敷といわれる大広間にたどり着いた。
上段には将軍の座が設けられ、使節の献上品が美しく積み上げられている。中段には大勢の高官連が座っていた。その中に作左衛門はいた。私に気づいて視線を向けた。目を合わせたことを周りに怪しまれないか不安になったが、陽隆はいつのまにか消えていた。スチュルレルも拝礼の予行練習のために移動するところでこちらに気を配る暇はなかった。ひとまず安堵した私は、周囲をじっくりと眺める余裕ができた。
大広間は庭に面し、光が満ちていた。床は白く、優れた畳の黄金の細い布で縁取られている。千畳敷は誇張にしても、おそらく四百畳は下らないだろう。豪奢な襖絵、欄間、天井などに施された巧みな彫刻、どれをとっても将軍の御殿にふさわしい。ヨーロッパの宮廷とは異なる趣があり、すばらしいの一言につきた。
商館長はオランダ国の正式の代表とは認められていないため、下段の板の間に通された。その連れである私たちはさらに下がって、廊下で見るかたちだ。そこからでは将軍の身体的特徴を確かめたくても到底無理だった。
やがて将軍御成りの合図があり、私たちは日本流に座った。この日はまた剣を帯びたり、時代がかった金の飾りひものついた衣装を身に着けたり、ただでさえ窮屈だったため慣れない姿勢は耐えがたく、ひそかに足をくずしてマントで隠す輩もいた。
頭を伏せるうち、将軍が簾の向こうの玉座につく気配がした。
「オランダ・カピタン!」
ふいに伝奏者の声が響いた。
スチュルレルは板の上に一匹の蟹のように這いつくばり、微動だにしなかった。数分後、将軍は立ち去った。私たちはその影すら見ることはかなわなかった。
あっけない儀式のあと、使節はたくさんの高官から挨拶をうけた。その中には書物奉行もいた。作左衛門とさりげなく言葉を交わそうとした瞬間、陽隆に移動を命じられた。
金メッキを施した歩廊に導かれ、私たちが入らされた部屋には、丸い頭の近臣たちがずらりと居並んでいた。それぞれが私たち一人一人のそばに寄って質問をした。私の担当は陽隆だった。老獪そうな顔が近づく。私は身構えた。陽隆は通詞を通して私の姓名を尋ね、ついで年齢を尋ねた。私が答えると、鋭い目を光らせて形式的な質問を重ねた。それだけで解放された。だが私は、厳しい訊問を受けたあとのような疲れを感じた。人を見透かすような陽隆の目つきが脳裏に灼きついていた。
正午頃、使節は城内の一番奥にある将軍の世子の御殿、西の丸へと向かった。作左衛門も御用と称してついてきたが、接触する機会は一向に訪れなかった。本丸の御門、蓮池門を出て、紅葉山霊廟を正面に見ながら左に折れ、坂下御門からいったん城外に出ると、一本の大きな道が通じている。右側につづく広い濠に沿って歩いていくと、江戸の美しい町並みと江戸湾を一望できる二重橋がある。そこを渡り、御書院門をくぐると、ようやく西の丸玄関に出た。約四十分の道程だったが、スチュルレルは将軍謁見で早くも疲れたのか、歩く間ずっと不機嫌で、私が日本人と話そうものなら嫉妬心をむきだしにして邪魔をしてきた。
西の丸には将軍の世子はまだ戻っていなかった。私たちは広間へ通され、作左衛門とは引き離された。さらに拝礼の練習のために呼び出された商館長に付き添い、私も世子の名代という二人の重臣に挨拶しなければならなかった。それが終わるとふたたび玄関で幕臣たちに好奇の目でじろじろと見られ、次々と差し出される紙や扇子にオランダの文字を書いてみせる羽目になったが、それにまぎれて作左衛門と接触できそうだった。そう思った瞬間、陽隆が現れ、われわれを西の丸大奥に導いた。そこでは女性たちに乞われるまま西洋のアクセサリーを披露することになった。が、隙ができたのは、そのときだった。陽隆が女性たちの世話に追われている間に、作左衛門は何気なく私に話しかけ、一緒にその辺をぶらつくふりをして西の丸裏御門まで出た。門番が二人いたが、天文方の威厳を示して「シーボルト先生を霊廟に案内する」と言うと、あっさり通された。
ついに、私は禁断の地に足を踏み入れた。紅葉山文庫はまさしく将軍のコレクションの宝庫だった。そこには貴重な地図が山とあった。求めていた葵の紋入りの『月水療法録』を私は手に入れた。
これには、×××の治療法が詳細に記されている。私は世界の誰も知らない事実を握った。日本の将軍は×××である。西洋の書は何でも蛮書とみなす幕府の将軍が、ドイツの理論書を原典とした本を大切に保管していたことからも明らかだ。この未公開の資料が、オランダ王立博物館の至宝となることは間違いない。私の胸は激しく高鳴った。
ところが二週間後、私の江戸滞在延長が不許可となった旨が、幕府より伝えられた。
なぜ・・・・・・私が紅葉山文庫に侵入したことは、ばれたはずがなかった。薩摩侯は私を売っても得にならないはずだから洩らすとは考えられない。作左衛門はなおさらだ。言えば自身の破滅につながる。ではなぜ幕府は急に私に冷たくなったのか・・・・・・。
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