第十八章 上海・一九三一(昭和六)年 十一月十日 保柴芳子

 体をくるくると回される。上半身を逆さにさせられる。息つく暇もない。バンドはますます軽快にバンジョーをかき鳴らし、トランペットの音色を響かせ煽りたて、鏡のように磨きぬかれたオークの床の上で私は何度も転びそうになる。

 ここは仏蘭西租界の『エル・ドラドオ』。二流のダンスホールだ。川島芳子はタキシードに着がえ、私をリードしていた。上海国際ダンス競技会で男子の一等賞を獲得しただけあって皆の注目を集めているが、私はついていけない。その上、裾の短い旗袍で中年太りの体を露出しているから恥ずかしくてたまらない。

 けれど、それだけならまだ耐えられた。マスクが、なかった。素顔をさらすことを強要された。逆らえなかった。川島芳子は私をとことん絞りあげようとしている。殺されるかもしれない。

 ことの起こりは今日、『巴黎夢倶楽部』に連れて行かれたことにあった。

 青帮経営で日本人は入場不可とされるが、中国人の川島芳子は金璧輝という中国名で会員になっていた。女は男のエスコートがいるとのことで、川島は私とともに、なじみの中国人紳士二人と待ち合わせた。一人は三十代半ばで、国民政府の外交部副部長だった。もう一人は四十過ぎで、亡き孫文の息子、孫科だった。その威光によって私も会員でないにもかかわらず、中に入ることができた。

 二人が目当てのポーカーをしに行くと、川島は私を階上に連れて行った。二階のバーには、いくつもの個室があった。上海式に中間だけで上下が開いている扉から白人らしい女の組んだ長い脚や、中国人の布靴などが見えた。奥に進むと日本語が耳に入った。角の部屋で男が複数、小声で話していた。一人は小野長盛らしかった。あとの声には外国訛りがあった。

 川島はわざとよろけ、その部屋にぶつかった。扉が開き、テーブルを取り囲む男の頭が三つ見えた。

「失敬しました」

 三人が顔を振り向けた。日本人、白人、中国人――。日本人は案の定、小野長盛だったが、川島を見ると色を失い、目をそらした。白人は、背広を着た白髪白髭の老人だった。中国人は軍服を着た中年男性で、新聞で何度も見たことのある顔――蒋介石だった。とってつけたような笑みを浮かべ、

「金璧輝殿ではありませんか」中国語で言った。

 緊張する私をよそに川島は堂々と答えた。

「やあ、蒋先生でしたか。こんなところでお会いするとは思わず、ぶしつけな振る舞いをして申しわけありません」

 小野はうつむいていた。川島も知らぬ顔をして蒋介石と挨拶をかわすと まもなくその場をあとにし、階下のレストランに個室をとった。

「蒋介石を間近で見るとは思いませんでした」

 私が興奮を表すと、川島は舌打ちせんばかりに、

「あんなやつ、ただの盗っ人だ。若いときは清朝を倒す運動に加わり、今は中国全土を奪おうとしている。それより問題は誰といたかだ。見ただろう、小野を」

「はい、驚きました。もう一人の白人は誰でしょう」

「独逸の学者、カール・ハウスホーファーだ」

「学者・・・・・・?」

「専門は地政学だが、医学にも詳しい。もとは軍人で、日露戦後に日本で大使館附武官をしていた。蒋介石は日本の陸軍士官学校を出ているから、日本語が共通言語なんだ」

「三人はどういった関係なんですか」

「それをお姐ちゃんに教えたいがために、この倶楽部に連れて来た。いいかい、今から僕が話すのは、機密事項だ」

「なぜ私に・・・・・・」

「小野へのあてつけさ。僕の望みをかなえると約束した癖に、自分のことしか頭にない。腹が立ったから、あいつの計画を妨害してやる」

「私に秘密を話すことが、妨害に・・・・・・?」

「いいから聞けよ」

 川島芳子は、小野と独逸と中国との関係を、彼らが何を企んでいるのかを話した。

「お姐ちゃんに教えたのは、見返りがほしいからさ」

「見返り?」

「いい加減わかるだろうが!」

 テーブルを蹴りあげた。

「ギブ・アンド・テイクだよ。秘薬について話すんだ」

「・・・・・・秘薬?」

川島芳子はナイフをつかみ、刃先を私に向けた。

「僕は物心ついて以来、清朝の復辟だけを望んできた。頭のなかはつねに計画でいっぱいだ。実現するためには何だってやる。四年前蒙古の英雄の息子と結婚したのも、利用できると思ったからだ。だが役立たずとわかったから別れた。男に期待しても結局馬鹿をみるだけだ。自分で動くしかない。わかるか。僕の計画には、秘薬がいるんだっ」

 ナイフが飛来し、後ろの壁に突き刺ささった。

「次は外さない。質問に答えるか?」

 背筋が凍りつき、頭が真っ白になった。

 私は密勒路の家のことを話した。二階にメンス中の婦人を入れて鴉片を吸わせ、寝台の馬桶に経血を流してもらうこと。溜めた経血を保存し、実験室である屋根裏で希釈振盪すること。

「要するにそこで作られる薬は試作品でしかないんだろ」川島は目をとがらせた。

「僕が欲しいのは本物だ。百年前、江戸から上海に渡り、清朝の役人が保管したという完成品は今どこにある?」

「・・・・・・わかりません」

「嘘をつくなっ。清朝の役人が持っていたということは、清朝の王女の僕のものも同然だ。吐かんとただですまんぞ」

 ここで川島芳子に教えるわけにはいかなかった。たとえ殺されても――いや、私は殺されない。川島だって人の子だ。幼い頃に祖国を失い、日本に連れられ、粗野な男の手で育てられた。恐ろしい言動の裏には、孤独と傷ついた心とがある。そう簡単に人を殺しはしない。

 それに川島は「小野の計画を妨害してやる」と言った。機密情報を打ち明けたのは、私に洩らしてほしいからにちがいない。私を生かして仲間のもとに帰す気があるということだ。少なくとも仲間と接触させるまでは、私は用済みにはならない。

「今日はこの辺にしてやる。そのかわり誠意を見せろ。マスクを外せ」

 私はやむをえず従った。

「ふてくされるなよ。可愛がってやるから」

 二流のダンスホールに連れて行かれ、人前で拷問のように踊らされるうち、ふたたび不安に襲われた。

 川島はぐっと私を引き寄せ、乳房をこすりつけるようにした。困惑顔を見て笑い、私の旗袍の裾に指をもぐりこませた。

音楽はバラードに変わっている。五色のライトがかわるがわる闇ににじむ。

 今は誰もが自分たちの世界に浸っているらしかった。すぐそばに女の組がいた。青い照明に染まった顔には見覚えがあった。驚きのあまり、声がでるところだった。犬飼美栄子だ。一か月ぶりに見た。桜井竜之助と結婚して家庭に入っていると思ったが・・・・・・。そもそも犬飼美栄子すなわち花坂みせこは世間では失踪したことになっているのに、こんな公共の場に顔を出すとは、どういうつもりか。

 美栄子が私の視線に気づいた。例によって眉間に皺ができ、妙な動きを示した。黄色い照明を浴びた皮膚が、砂に埋もれた人が起き上がるように徐々に盛りあがり、片足を上げて立ったようなかたちになった。それは文字だった。仮名でも漢字でもない。

 梵字の阿字だ。美栄子の眉間に浮き彫りになった。腫れたように赤みがかった肉が、火焔のようにゆらめいた・・・・・・。

 そのとき美栄子の相手の顔が見えた。陳潔だ。陳潔がなぜ美栄子と。陳潔は私たちの仲間だ。しかし仲間がここに来ているということは――希望がわいた。

「如蘭(ルーラン)!」

 川島が叫んだ。陳潔たちがいる方とは反対を見ている。紫色の光を浴びてドレスを着た娘が、男と踊っていた。如蘭は山田幸代の源氏名だ。

「あの人、もしかして翠緑閣の山田幸代さんですか」

「そうだ。失踪したはずが、こんなところにいるとは。おい如蘭!」

 呼ばれた娘は顔をしかめた。眉間に皺ができ、美栄子同様、異様なかたちになるのを見たような気がした。

「おい、待てってば」

 逃げる幸代を追おうと、川島は私から離れた。すると私は別の手につかまれ、

「お相手願えますか」

 英語で言われた。声の主は、背の高いロイド眼鏡をかけた白人男――いや、女だ。男装しているが、あの亜米利加人婦人だ。婦人は私の腰を抱き、豪快にステップを踏んだ。

 川島が気づいて叫んだ。

「No!」

 婦人は無視し、私を出口に導こうとした。

 川島がつかみかかろうとした瞬間、地響きが起こった。異臭がし、白煙がたちこめ、ホール全体に広がった。悲鳴と叫喚があがるなか、

「ただの煙だよ」

 婦人は片目をつぶって私の手を引いた。奥の方で美栄子が噴射器のようなものを抱えていた。

「迎えに来るのが遅くなったね」

 婦人は通りに停めてあった自家用車に私を乗せるなり言った。アクセルを踏みこみ、急カーブを曲がったので後部座席の私は反対側に投げ出されそうになりつつ、

「いえ、そんなことは・・・・・・」

「計画の前日にいなくなったと聞いて正直焦った」

 反射鏡に映る婦人の表情は険しかった。

「本当すみませんでした。敵の罠に引っかかって・・・・・・」

「そうだろうとは思ってたけどね。ずっと証拠がつかめなくてさ。三日前やっと仲間が、あんたと敵が川島芳子と翠緑閣にいるのを発見したんで尾行と監視をはじめて、ようやく救出の機会を得たってわけ」

 眼光の鋭さは私への不満を表しているように感じられた。

「お手間をおかけしてしまって何と申してよいか・・・・・・でも私、敵の情報は入手しました。相当重要な情報です。皆さんの計画通り武官室に潜入できなかった償いに、少しはなるのではないかと・・・・・・」

「あとでじっくり聞かせてもらおう」

 自動車はさらにスピードをあげ、私は前のめりになった。どこへ向かうのか不安になったが、気軽に質問することをためらわせる雰囲気があった。深夜の道はすいていた。看板を下ろした白系露西亜人経営の宝石店やブティック、西洋骨董店。街頭の下で花売り娘が花を売り、露西亜人の物乞いがバラライカを奏でていた。『Kavkaz』、『D.D’s』――ナイトクラブのネオン。どうやら租界の一番街アヴェニュー・ジョッフルに入ったらしい。

「あんた、川島芳子のところにずっといたのか」

「はい」

「あんたの伯母さん、そりゃあ心配してたよ。計画のことがあるから、警察に届けるわけにもいかないし」

「伯母は、無事ですか」

「ああ。刈屋珈琲店は変わらず営業してる。あんた、二週間もよく耐えてくれた。悪く思わないでよ。私もこれで無事を祈ってたんだ」

意外な言葉だった。反射鏡を見ると婦人は照れ臭そうに髪をうしろにかきあげた。広い額が見えた。

「私の名刺」

抽斗から小さな紙を取り出し、後ろ手に渡した。表には「徳国弗福特設記者、斯美特蓮」、裏には「Correspondent, Frankfurter Zertung, Frankfurt a/m, Germany」とあった。

「私はアグネス・スメドレー。独逸の日刊紙『フランクフルター・ツァイトゥンク』の中国特派員をしている」

 亜米利加人らしいのに独逸紙の記者とは意外だった。

「英字紙の『チャイナ・ウィークリー・レビュー』や、『チャイナ・フォーラム』にもたまに原稿を書く。要はジャーナリストだよ、表向きはね」

仏蘭西租界でも軒々には排日、抗日のポスターが貼られ、スローガンが書かれてあった。左折し、幾つかの教会の横を通り過ぎると自動車を停め、スメドレーは私を連れて歩き出した。

 角に真新しい煉瓦造りの五階建てがあった。『L’Appartment Dubail』の文字が照らされている。夜でもボーイがエレヴェーターを動かしていた。四階で降り、三つ目の扉に鍵を差し込み、スメドレーは私を中へ入れた。

 入口のすぐ右側に一部屋あり、つきあたりの窓に面して二部屋並んでいた。

「私んちだ」

 左の奥の部屋に案内し、

「喉が渇いたでしょ。今日はもう、人がいても飲めるね?」冗談ぽく言った。

うなずくと、温めたミルクを運んで来た。

「疲れてると思って、体にいいものにした」

 牛乳は苦手だが、思いきって飲むと、優しい味がした。ふかふかのソファ。柔らかい光を発する電気スタンド。温かく広がる紅色のカーテン。スメドレーは一見怖いようだけれど、川島とはちがって包容力がある。チェスターフィールドに火をつけ、私にも一本勧めた。煙草は普段吸わないが、一服すると、だいぶ落ち着いた。

 やがてあの白人男性がベルを鳴らして訪れた。

「オートバイを飛ばして来た」

「あんまり無茶しないでよ、この間事故を起こしたばっかりなんだから」

「はいはい」

 斜視の目が私に向いた。

「今日はマスクをしてないので一瞬誰かと思いました」笑って、

「無事で何より」私の手をかたく握った。

「あなたが拉致されながらも敵の重要情報を手に入れてくれたと聞いて大変うれしく思っています。早速ですが、内容を聞かせてください」

 私は意気ごんだ。

「敵は例の秘薬を確実に欲しがっています」

「敵とは、小野長盛のことですね」

「はい。ですが川島芳子によれば、秘薬そのものを必要としているのは小野ではなく、別の人物だそうです」

「それは誰」スメドレーが尋ねたが、白人男性が言った。

「待ってください。川島芳子がなぜあなたに情報を? 清朝の王女であるあの婦人は小野の愛人で、日本軍の手先のはずですが」

「川島芳子の望みは清朝の復辟です。にもかかわらず小野長盛は自分のことしか考えていないので嫌気がさし、腹いせに彼の謀略を妨害してやりたいと言っていました。それで私に小野の秘密を話す気になったそうです」

「なるほど。しかし鵜呑みにはできませんね。何か裏があるかもしれません。彼女の情報が正しいかどうか確かめる必要があります。とりあえず聞いたことを教えてください」

「小野長盛は、ある特定の人物のために薬を手に入れ、見返りを得ようとしているそうです」

「特定の人物とは?」

「小野には定期的に密会している人間がいます。国民政府主席の蒋介石、蒋介石と結託している青帮のボス杜月笙、独逸人学者カール・ハウスホーファー、独逸企業シーメンズ社幹部ハインツ・ヘーネです」

「その四人の中に、秘薬を心から欲している人間がいるのですか」

「いいえ。本人は独逸にいるそうです」

「独逸に?」

「ハウスホーファーとヘーネは仲介者のようです」

「その二人には、独逸軍事顧問団のパーティーで何度か会ったことがあります。顧問団は三年前蒋介石によって招聘されて以来、中国軍を訓練し装備を近代化するのに協力しています」

「最近は経済面にも活動領域を広げていると聞きました」

「だから問題なんです」男性は眉根を寄せた。

「独逸軍はヴェルサイユ条約によって骨抜きにされ、飛行機や戦車を持つことさえ禁止されたはずなのですが、独逸政府内にひそかに軍の機能を潜りこませたり、あらゆる工夫をして参謀本部の精神と機能を引き継いでいます。ソビエットや中国と秘密軍事協定を結び、相手国の重工業を支援し、将校を教育するかわりに、新しい武器を開発し、技術を習得できる場を提供させているのです」

「軍事顧問団がその例だよね」スメドレーの言葉に荒々しくうなずき、

「そう、顧問団には去年第二党に躍進したナチ党の将校も多数参加している。ハインツ・ヘーネもその一人だ。シーメンズ社はナチスの巣窟になっている。シーメンズはここ最近、中国に武器や工業製品を輸出するかわりに、タングステンを輸入している。そのためタングステンを亜米利加に輸出して平和工作を進めるというわれわれの作戦を妨害する要素の一つになっている。先日ようやく大野が船腹を確保し、一部は出荷できたが、先方を満足させるには到底足りない。このままでは亜米利加が日中戦阻止のために本腰を入れることはないだろう」

「ナチスが狙っているのはタングステンだけではないそうです。近々政権を握ると言われているアドルフ・ヒトラーの信頼厚い人間が、ある特別な薬品の入手のために上海に派遣されているという情報があります。ある特別な薬品とは、すなわち秘薬のことと考えられます」

「ヒトラーが?」男性は目をむいた。

「あれを?」

「秘薬は百年前、上海に渡りましたが、日本で作られました。当時日本に滞在した独逸人医師のシーボルトが、その存在を後世に伝えた可能性があります」

「ありえない話じゃないね」スメドレーが身を乗り出した。

「ヒトラーにそのことを教えたのは、ハウスホーファーじゃないか。あの爺さんは、東洋と医学に詳しい」

「確かに。ハウスホーファーは、ヒトラーに『わが闘争』を書かせた一人と言われている。いわばヒトラーの知能顧問だ。彼の研究所は、独逸参謀本部でもある」

「表向きは地政学研究所だけどね。私は伯林時代、あそこが出している史学雑誌に研究論文を提出したことがあって、あの爺さんとも会ったけど、温かみに欠けた人だったよ。女を認めたふりをしたのは、私が亜細亜に詳しいからに過ぎないってわかった。亜細亜神秘主義の権威で日、中、朝鮮語を話せるといっても、基本的には差別主義者。ヒトラーの悪扇動的な考えも、ハウスホーファーが吹き込んだんだろう」

「秘薬をヒトラーが求めているなら、むしろ好都合だ」白人男性は頬を紅潮させた。

「あの男は今独逸で最も勢いがある。失業と飢えに苦しんできた独逸の大衆は、自分たちの望む姿をあの男の中に発見した気になっている。だが、その男に、秘薬を必要とするほどの問題があるとわかったら――」

「大いに利用できる」

「ああ、外見を重視するナチスの党首の肉体にあの欠陥があるとわかれば、ファシストの新興を押さえつけられ、世界の流れを大きく変えられ、われわれの目的を達せられるかもしれない」

 青い目を爛々と輝かせ、

「秘薬をナチスに盗ませよう。ヒトラーにあれがあるという証拠になる」

「盗ませるだけじゃ駄目でしょ。秘薬がヒトラーのもとに届くところまでつかまなきゃ」

「もちろんだ。難しいだろうが、不可能ではない。ともあれ、まずは上海で盗ませなくてはな」

「小野長盛を使ってはどうですか」私は言った。

「小野を巻きこまなければ意味がありません。あくまで川島芳子の情報ではありますが、あの男はナチスのために薬を探し回っています。自分が上海の王になるために、国を裏切ってでも独逸を味方につけたいんです。独逸軍事顧問団は、蒋介石に対日戦を勧めています。それで小野は蒋介石にも接近しているんです」

「卑劣きわまりない男だね」

「とめなければいけません。あの男は上海を手に入れるために、戦争を起こそうとしています。ただ、陸軍中央は戦線の拡大は望んでいないため、援軍は期待できません。だから独逸をあてにし、ナチスの欲しがる薬を必死に求めているんです」

「その点は、利用できますね」

「実はもう餌は投げました」

「餌とは?」

「例の日本人婦人失踪事件に関する暗号です。四人の失踪前の変化を読み解くと、秘薬へと導く言葉が現れます。ヒントを与えた時点では、私は小野と独逸の関係は知りませんでしたが、功を奏しそうです。小野はじき暗号を解きます。そして秘薬を手に入れ、ナチスに渡すにちがいありません」

「じゃあ私たちは小野を監視すればいいのか。そしたらナチスがヒトラーに秘薬を送るところもおさえられる」

「はい。それに小野が秘薬が盗めば、窃盗犯として逮捕することもできます。伯母の後ろ盾が工部局(共同租界行政局)の英国人参事たちと親しいので」

「これは近々マダムも呼んで作戦を練った方がよさそうですね。スメドレー、どうかな?」

「賛成する。ところでマダムといえば、」スメドレーは私に視線を向けた。

「あんたの救出作戦を考えたのもあの人だよ。『エル・ドラドオ』に煙をまいたのは、マダムの雇い娘だ」

「あ、私それについて聞きたかったんです。あの娘は犬飼美栄子・・・・・花坂みせこじゃありませんか。失踪した娘の一人です。もう一人、山田幸代もあのときホールにいました。川島芳子が知り合いで幸代の源氏名を呼んでいたから間違いないと思います」

「失踪事件の娘が? 私は何も知らされてないけどな。誰が味方かも、噴射器が動くまでわからなかった」

「味方といえば、今朝、日支闘争同盟の桜井竜之助が逮捕されたそうです」

「え、本当ですか。どこで」

「楊樹浦です」

「楊樹浦って虹口より北の中国人街の・・・・・・?」

「中国人の友人の家に身を寄せてたらしい。でも特高に見つかったんだね。外出したとたん捕まったって」

「なぜ・・・・・・」

桜井には愛想を尽かしていたとはいえ、逮捕にはさすがに衝撃を受けた。

「美栄子はどうして無事なんですか、一緒にいたはずなのに」

 私は美栄子が汎太平洋通商会社の秘書をしていたこと、桜井と結婚すると言って辞表を出したことなどを話した。

「あの娘は本当に味方なんでしょうか。桜井だけ逮捕って・・・・・・美栄子が密告したんじゃ」

「詳細はマダムに聞けば、わかるだろう」

「私が聞いても無駄です。伯母は重要なことは何も教えてくれません。いまだ子ども扱いされているので」

「そうかな」

「伯母に言わせれば、子どものいない人間は、年をとっても一人前とはいえないそうです」

「それじゃ私も半人前だ。あんたと同じ三十代後半で独身。おまけに過去三年、精神科の世話になってる」

「ミス・スメドレーが?」

「ああ。私にも心を病んで起き上がれなかった時代があるんだよ」

「信じられないです」

 スメドレーは語った――亜米利加の貧しい家に生まれ、子どもの頃は働きながら勉強し、十六歳のとき教員試験に受かったが、母親が亡くなり、飲んだくれの父親が頼りにならなかったため、弟妹を養おうと会社員になったこと。型にはまった勤めは合わず、何度も転職を繰り返しながら放浪し、やっとの思いで師範学校に入り、そこで知り合った男と十九歳で結婚したこと。二年で離婚し、紐育の大学に合格、世界大戦中に印度の民族運動家たちと付き合ったことで独逸のスパイ活動を援助したと言いがかりをつけられ、投獄されたこと。戦後、貨物船の給仕女となって独逸へ渡り、伯林で印度の亡命独立運動家と知り合い、八年間同棲したこと。

「愛していた。でも彼の貴族的な生活感覚や、男尊女卑の思考には、どうしてもなじめなかった。私たちは貧しかったのに、彼はいつでも家に大勢客を泊めた。印度人留学生を集団で受け入れたりしたんだ。彼らの世話は私一人に押しつけられた。毎日大量の食事を用意し、冬に凍りそうな水につかって大量の洗濯をこなさねばならなかった。彼の運動を援助するためとはわかっていたが、休む暇はなく、金はたまるどころか減る一方で借金までするはめになり、心労と疲労とで私はどんどんおかしくなっていった。それである朝、急に起き上がれなくなったんだ。動くことも話すこともできず、ひたすら眠りつづける日がつづいた。何もかも忘れたくてもできず、自殺未遂までした。でも今じゃこうやって堂々と生きている」

 苦労に鍛え抜かれた顔がそこにはあった。

「あんた、自信持ちな。価値観なんて人それぞれ。私は弱い者の味方。応援するよ」

「心強いです」

「まずはゆっくり休みな。疲れがたまると、ろくなことない。あとで私が送っていくよ」

「家に帰って問題ないでしょうか」

「敵はしばらく追ってこないだろう。小野には宿題を与えたんだし、川島はあんたを帰す気があったようだし。第一マダムが首を伸ばして待ってるよ」

「・・・・・・そうですね」

「マダムには立派な後ろ盾がついていますから、敵も簡単には手出しできないでしょう。こちらの作戦が決まったら、ちゃんと伝えますよ。あなたにも役目を与えるつもりです。大丈夫、私がついていれば作戦は決して失敗しません」

「あんたの自信過剰は、ヒトラーといい勝負だよ」

「そうとも。なにせ人類に役立つ大事業を成し遂げられるのは、自分以外にいないと思っているからな」

男性は獅子のような髪を波打たせて笑い、

「私が腕一本動かせば、ヒトラーの暴走をとめられ、中国も日本も戦争の悲惨さを味わわずにすみますよ。私にも妻子はないが、だからこそできることがあるのです」

胸を張った。

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