第十七章 上海・一九三一(昭和六)年 十一月七日 保柴芳子

「武官室へ行って、あいつを連れて来いっ!」

 川島芳子は呼び出した日本軍人を怒鳴りつけた。午後九時である。客間の様子は寝室の扉の隙間から見えた。

「あいつとは、誰のことでありますか」

 若い軍人は直立不動の体勢をとった。その顔には見覚えがあった。私が蒲生に雇われた日、刈屋珈琲店にいた客だ。あのとき満鉄社員や海軍少尉と来てえらそうにしていた陸軍少尉が、同年代の女におびえきっていた。名は和田勝利で、陸軍武官補佐官だと書蓮に聞いて知った。

 川島芳子は私製の日本陸軍の制服を着用し、腰にはピストルをぶらさげていた。

「あいつといえば、貴様の上司に決まってるだろうが」

「わかりましたっ。ただちに呼んで参ります」

 和田補佐官は敬礼して外に向かった。

 私は恐慌をきたした。和田の上司とは公使館附陸軍武官、すなわち小野長盛だ。宿命の敵が、今からここに来る・・・・・・。今まで一度も会ったことはなかった。ある深い理由によって憎み、復讐を企てているが、写真を見たことさえない。けがらわしい敵の顔など知りたくもない、作戦を実行するときに見れば十分だと思っていた。もっとも武官室に潜入していれば今ごろ見ていただろうが、川島芳子に拉致され、計画は頓挫していた。なのに思いがけずも、これから来る――まったく予想外だ。心の準備ができていない。体調も万全にはほど遠い。睡眠中にモルヒネの類を注射されたらしく、頭痛と吐き気がまだ残っている。寝台に横たわっていると、扉がふいに全開になった。

 川島が鬼女のような顔を覗かせた。

「そこを動くなよ。お姐ちゃんに立会人になってもらう」

「立会人・・・・・・?」

「これから客間で起こることを大人しく見物するんだ。扉を開けておく」

「何が起こるんですか」

「怖がらなくていい」うすら笑いを浮かべた。

「今から来るのは、お姐ちゃんも知ってる人だよ」

 小野長盛が私の知ってる人? からかっているのだろうか。

 やがて玄関の扉が開き、陸軍武官が入って来た。

「何でありますか」

 聞き覚えのある声だった。

「いいから中に入れ」川島が言った。

「失礼します」

 私の視界に男が入った。背広姿だが、坊主で見たことのある顔――信じられない・・・・・・この前の夜、川島と接吻していた、刈屋珈琲店常連の、お菓子のお兄さんと呼ばれる男だ。あの将校が、小野長盛とは――。伯母は気づいていたはずだ。黙っていたのは、将校の正体を知れば私が理性を失い勝手な行動に出ると考えたためか。いずれにせよ宿命の敵が今、身近にいると思うと全身がひきしまった。

 川島芳子は乗馬靴を穿いた脚を広げて椅子に腰かけ、股の間に洋剣を立て、はっしと愛人をねめつけた。

「貴様、昨夜月廼屋(つきのや・・・日本人経営の料亭)に行って何をしゃべった。言ってみろ」

 小野長盛は私に気づく余裕はなかった。愛人の前で萎縮しきっていた。

「言えったら!」

「・・・・・・」

「人中でなぜ出鱈目をしゃべる」

「すみません・・・・・・」

 普段とはまるで別人だった。陸軍武官は涙を流し、

「僕は、僕は、ただ・・・・・・」

 しゃくりあげ、

「皆に言いふらしたかったんです、僕たちの仲を・・・・・・君が本当に好きで、その気持ちを軍のため、日本のために・・・・・・」

 両手を振りあげ、愛人の脚にしがみついた。

「馬鹿っ」川島は洋剣ではねのけ、

「手をついて謝れ」

 陸軍武官は土下座した。あれが憎みつづけた敵とは・・・・・・。

「よし。だが許したわけじゃない。僕との関係を言いふらしたお返しに、貴様の恥ずかしい過去を人前でしゃべってやる」

 小野はきょろきょろと辺りを見回した。

「安心しろ。ここには使用人のほか、お姐ちゃんしかいない」

 川島は寝室を指差した。

 敵と視線があった。きまり悪げではあったが、赤く腫れた目に驚きは表れなかった。私がこの家にいることをあらかじめ知っていたらしい。やはり拉致は小野の命令だったのか。二人の関係を見ると、川島が勝手に動いたようにも思える。

「挨拶しないのか。二人とも」

 小野長盛は、いつも刈屋で見せる笑みを顔にはりつけた。

「やあ」

 私も店にいるときのように応じた。

「どうも・・・・・・」

 こんなはずではなかった。敵と出会ったら、あらんかぎりの憎悪をぶつけるつもりだった。だが今、この涙にまみれた情けない男の顔を見ても激情はわいてこない。

「こいつのことをもっと知りたいだろう。とぼけるなよ、お姐ちゃん。僕たちが夜中に接吻したところを覗き見した癖に」

「あれは、そういうつもりじゃ・・・・・・」

「いいんだ。こいつの泣き言を、たっぷり聞かせてやる。そこで耳の穴を広げろ」

 川島芳子は語った――。

 小野長盛は長男として生まれたが、子供の頃は体も性格も弱かった。大商家にふさわしい跡継ぎを持ちたがった父親は失望し、何かというと「こいつは出来損ない」と人前でけなした。それでいて何事も熱心に指導し、厳しくしつけた。いつも理想像と比較され、劣等感を植えつけられ、自分に自信が持てなかった。陸軍幼年学校には「鍛えるため」に入れられた。肌が白すぎるので「うさぎ」とあだ名をつけられ、いじめられた。大勢に取り囲まれ、殴られるのは日常茶飯事だった。同じような嫌われ者と仲良くしたら、その同級生が美少年だったことから男色と疑われ、徹底的な私的制裁を受けた。

「そのときの傷だ」

 川島は小野の左腕の裾をまくりあげた。切り傷の痕が見えた。

「腕に一つ。左の肩にも一つある。戦場でできた名誉の傷でも何でもない。いじめっ子にナイフで刺されたのさ」

 小野は頬を染め、もじもじしている。

「こいつは劣等感のかたまりなんだ。笑い声を聞くと、自分のことを笑っているのではないかと邪推する。それで癇癪を起こすんだから部下はいい迷惑だな」

 陸軍武官は怒りも睨みもせず、ひたすら川島の顔色をうかがっていた。小野長盛には常軌を逸するところがあるとは聞いていた。伯母が信頼筋から得た情報によれば、若いときには人妻と恋愛して箱根で心中をはかったこともあるそうだ。だから愛人の前で人が変わるのは、そこまで驚かないが、子ども時代の話はまったく意外だった。

私の思い描いてきた敵の像とはまるでちがう。

 正直、共感した。私も学校でいじめられ、家では母親に虐待されて育った。それもこれも敵のせいだと信じ、敵を倒すことだけを生き甲斐にしてきたのだが――小野長盛は、一個の弱い人間にすぎないのではないか。長い間の信念がぐらつきそうになる・・・・・・いや、これは罠かもしれない。復讐は復讐だ。放棄することは絶対にできない。確かに私はこの男に直接被害を受けたわけではない。しかしこの男の存在自体が、害なのだ。軍人だからではない。深い深いわけがある。繰り返す。この男がどんな人間だろうと、私には恨むだけの理由がある。


 花売り娘の手を払いのけ、赤い燈籠の下をくぐって堂々たる構えの楼閣に入り、円卓を囲んだ。川島芳子は長袍に馬褂、椀帽と黒眼鏡を身につけ、中国人の若旦那といった格好だ。小野長盛は皺の寄った背広、私は先日与えられた旗袍を着せられていた。

 堂倌(タングワン・・・ボーイ)は川島を見ると、飛んで来て愛想を振りまいた。

「今日はどちらの妓になさいますか」

「陳宝玉に決まっているさ」川島は男のように声を低くして答えた。

「かしこまりました。こちらの先生(シーサン・・・旦那)は、いかがなさいます」

 小野にもみ手を向けた。

「ここだけの話、うちには日本人も朝鮮人もそろっておりますよ」

 答えようとするのを川島が遮った。

「いや、彼は彼女と二人きりになりたいそうだ。ゆっくりと上の個室でね」

 小野は寝耳に水といった顔になった。私も同様だ。

「ではお二方はお二階へとご案内致しましょう」

 川島はさっさと行けというように顎をしゃくった。何を企んでいるのか。拉致して以来はじめて私を外に連れ出した。それも陸軍武官と一緒に。川島は今日家に呼んだ愛人の謝罪の言葉を聞き飽きたような顔をして突然出かけると言い、私にも着替えさせ、小野とともに自動車に押し込めて深夜の街を走り出した。仏蘭西租界に入り、治安の悪いマレ地区の八仙橋に停まった。大通りの赤い燈籠の下に見えた看板は『翠緑閣』――失踪した日本人の一人山田幸代が働いていた茶館だ。「近々、某所に連れて行くから、そのつもりでいてくれたまえ」と一昨日、旗袍をもらったときに言われたが、某所とはここだったのか。茶館とは名ばかりで実際は中国人経営の娼館。川島は上客らしいが。それにしても目的は何・・・・・・。

 『花塢春深(とりでなすはなはるふかし)』という門額のかかげられた部屋に通された。紫檀の円卓に一輪挿しの蘭が飾られ、向かい合った椅子が二脚あった。娘姨(ニャンイ・・・仲居)が何も言う前から陶器に水をはった灰皿や、南瓜の種を盛った皿などを次々運んで来るので、小野も私も仕方なしに腰かけた。

 考えてみれば、これは敵を探る好機だ。普段は気の弱い私だが、いざというときの覚悟はできているつもりだ。けれど、どう進めたら・・・・・・。

沈黙がつづき、胃痛が強まったとき、

「八匹馬(バーピーマー)!」隣室の掛け声が耳に入った。

「七巧(チーチャオ)!」

 それにつづいて叫び声、笑い声がわいた。酔っぱらった男たちが拳(けん)を打っているらしい。罰杯用の酒をかわるがわる飲み干しては、床に転がしているようだ。

 私は苛立った。

「うるさいな」小野がつぶやいた。

「ええ」つい同意した。

「まったく、支那人はこれだから駄目だ」

 小野は吐き出すように言った。清朝の王女に頭があがらない反動のように、

「彼らは汚い、恥を知らない、君はどう思うかね?」

 敵の質問にもかかわらず、

「私も内地から来た当初は驚きました」

何の戸惑いもなく答えていた。中国人には好意を持っているつもりだが、なかなかなじめずにいたせいかもしれない。日頃思っていることが、すらすらと口から出た。

「日本人とちがって衛生観念が希薄ですし。鼻汁を壁でふきとったり、歩道で幼児に小便をさせたり、河岸のベンチに大便を放置したり」

 小野はうさぎのような前歯を出して笑った。

「だろう? 支那人は死体まで道に捨てる。臭って仕方がない」

「どうして何週間も放置しておけるのか不思議です」

「やつらは音にも鈍い。支那系百貨店は通りに音楽を大音量で垂れ流す。日本人なら耳を覆わずにいられないが、支那人は平気だ。やつらの無神経ぶりにはあきれるほかないよな」

「たまにうんざりします。雨の日に混雑した道を歩いていたら邪魔と言わんばかりに傘をなぎ倒されたり、交通巡査無視の黄包車に車輪で足を踏まれたり――」

 敵が相手というのに打ち解けた口調になっている。こんなふうに人としゃべったのはどれくらいぶりか。思い出せないほど久々だった。

「君とは気が合うようだ」

小野が言った。否定できない自分がいた。

「刈屋珈琲店で何度も顔を合わせていたが、話したことはなかったね」

「ええ」

「しばらく顔を見ないと思ったら、いい会社に就職したんだって。マダムが言ってたよ」

 伯母は今でも監視されているのか。あなたは私たちのことをどこまで把握しているのか。私が川島に拉致されたわけは何か。聞きたいことは山とある。

「私をなぜ――」

 問いかけたとたん、遮るように小野が言った。

「君の名前は芳子というそうじゃないか」

 顔の前で手を組み、私の目をじっと見つめ、

「僕は名前に『芳』がつく女と縁があってね。母親が芳(よし)。初めて交際した女の名も芳。そのあと夢中になった女は芳江。そして川島芳子だ。名前で選んでいるわけじゃない、縁のある女はたまたま皆同じ漢字を持つ」

 反応をうかがうような視線を向けつつ、南瓜の種をほうばり、

「君には恥ずかしいところを見られたから、この際正直に打ち明けるが、僕は川島芳子に本気で惚れている。だから芸妓などと遊びたいとも思わない。川島ほどいい女はいない。悪魔的なところも、すべて魅力だよ。あんな女にはもうめぐり会えない。だから何をしても許す。豪奢に暮らしたいと言えばその通りにしてやる」

 酔ってるわけでもないのに小野は語った。

「では、ご結婚を・・・・・・?」

「はは、それはない。おたがい束縛は苦手だ。川島芳子とはあくまで個人として付き合っていきたいと考えている。僕はもう三十七だが、家庭という言葉を聞くと身の毛がよだつんでね。自分の育った家を思い出すんだ。結婚して子どもを作ったら幸せだと思ってる野郎の気が知れないよ」

 思わず相手の目を見かえした。私と同じ価値観を持った男が、よりによって敵とは。

「君もずっと独身と聞いたが」

「はい」

「婦人だと焦らないかい」

「いえ、私も結婚したいと思ったことがないので・・・・・・」

「ほう、それはまたどうして」

「私も幸福ではない家庭に育ちました。母が癇の強い人で、少しでも不満があると私にあたって暴力を・・・・・・一人っ子だったんです。それで過大な期待をかけられて・・・・・・」

「そうだったのか」垂れ目の奥が光った。

「それじゃ君も、子どもを持ちたいとは思わないだろう。自分と同じ目に遭わせるんじゃないかと考えて」

「ええ、うまく育てられるとは思えません。自分が親にされたことを、してしまう気がして」

話し出すととまらなかった。

「私は自分のような不幸な人間を作りたくなくて、出産しないと決めました。子どもの頃何度も『あんたのせいで私は何もできない』と母親に言われて、『だったら産まないでほしかった』と胸の中で繰り返し叫びました。親の都合で生まれたのに、苦しめられるのは馬鹿げている、こんな腐った根はいらない、断ち切った方がいい、そうとしか思えません」

 私は南瓜の種を口にし、噛み砕いた。

「ほう・・・・・・」

 顔をじろじろ見られ、ようやく異変に気づいた。私は小野の前で、無意識のうちにマスクを外していたのである。

 あろうことか、私は敵に心を開いてしまったのだろうか・・・・・・。共感したのは認める。小野長盛も自分も、性格のねじまがった偏狭な人間だ。この男が戦争を起こしたい気持ちもわかる気がした。結局は周りを見返したいのだろう。だがそのために多くの命を犠牲にしようという神経は到底理解できない。

 あわててマスクをつけようとすると、

「そのまま。動かないで」

 小野は太い指を宙に浮かせた。

「じっくり見たい」

 くいつくような目をして、

「ふむ。こうして見るとやはりマダムに似ているようだ。君の名は芳子。マダムの名は?」

「梓乃ですが」

「そうだったな。芳がつかないのを意外に思う。マダムは君のお父さんのお姉さんだったね」

 小野は両手を合わせ、糸のように目を細めた。

「母方の系統だと思っていたよ」

 心臓が波打った。

「なぜですか」あえて聞いた。

「君はお母さん似だろうからね」

 動悸が高まった。小野は私の正体に気づいている――ならば、こちらも。勇気をふるい起して言った。

「将校さんは、お父上のご系統でしょうね」

 小野の顔がさっと筋ばった。目と目が衝突した。瞬間、互いが何者かを暗黙のうちに理解しあったのを感じた。

「うむ、これは・・・・・・」ふいに小野は私の額に視線を集中させた。

「なるほど、本当だ・・・・・・」

「どうかしましたか」

「君の眉間にできる皺は不思議だ。どんどん変化する・・・・・・」

「いったいどう変化を」聞かずにはいられなかった。

「まるで・・・・・・あっと。消えた」

 扉を叩く音がした。

「お待たせ致しました。白毫銀針でございます」

 堂倌が盆を掲げて入って来た。

 円卓にグラスを二つ並べ、それぞれに針の細さの茶葉をさらさらと落とし入れた。胴色の薬缶の口から熱湯がそそがれた。茶葉は湯の海を泳ぎ、水面にあるいは底へと動く。

 小野長盛は何ごともなかったように言った。

「刈屋では君山銀針をよく頂くが、今日はちがうものをと思ってね。君山が黄茶の代表なら、白毫は白茶の代表。月光によっても萎凋するとされるほど繊細なんだ」

 マスクをした私はやや落ち着いて、調子を合わせた。

「月光と聞くと川島さんが頭に浮かびます。いつも月光のレコードをかけていらっしゃるので」

「ああ、だから僕は白毫だな。ははは」

「将校さんはお茶にお詳しいですが、中国の緑茶の中では、何がお好きですか」

 探る質問を発した。敵は眉をぴくりと動かしたが、笑顔を崩すことなく、

「それはまあ、龍井だろう。緑茶の代表だからね」

「意外です。てっきり、福安銀針かと思いました」

 ここぞとばかりに反応をうかがったが、

「そうかね」

 小野は軽く受け流し、

「あ、堂倌、待ってくれ」中国語で言った。

「例の話、この婦人の前でもう一度繰り返してくれないか」

 老人は袖の下をたっぷりつかまされると、笑みをたたえた。

「かしこまりました」

「四人の日本婦人が失踪してから、じき二か月になるのは知ってるだろう」

 小野は私にあらたまった口調で切りだした。

「警察の捜査は暗礁に乗り上げていた。しかし最近、君の伯母さんがアドバイスをくれてね」

 私の目を覗きこむように見た。

「君の伯母さんは言った――四人の失踪前に何らかの変化がなかったか、もう一度よく調べれば手がかりをつかめるはずだと。そこで再び聞き込みがなされた。結果、それぞれの娘には失踪前、ごく些細なことではあるが、変化があったことがわかった。ここ翠緑閣は失踪した一人、山田幸代が勤めていた店だ」

 小野は私に探りを入れだした。口をはさむ隙を与えず、

「この支那人は、幸代が姿を消す六時間前の行動を記憶している。那、請説吧(じゃ、頼む)」

 堂倌はうなずいて口を開いた。

「あれは、あの妓が最後に店へ来た九月二十一日のことでした。ここでは如蘭(ルーラン)と名乗っておりましたが、断りもなく店の鳥籠から小鳥を離しまして、叱られておりました。そのあと、彼女はどこからか亀を拾ってきまして、これを小鳥のかわりにしてくださいと言いました。亀と鳥では大違いなのに何を考えているのだろう、と思いましたが、例暇(リージャー・・・月経の婉曲的な言い方)のたびに店の飾りを勝手に変えることで有名な娘でしたので、またいつもの癖が出たくらいに考えて、あのときはさほど気にしなかったんでございます」

「ありがとう。また何かの折、お願いするよ」

 堂倌を下がらせると、小野は捜査官のような顔をし、

「これを読んでほしい」

 いつ用意したものか、鞄から書類を取り出して見せた。

「ほか三軒の聞き込みの結果だ。証言者が外国人の分は、原文の横に和訳がある」

 はやる胸を抑えて私は読んだ。

「・失踪者・・・・今井市子 勤務地・・・『ジョージ・ホテル』 証言者・・・英国人婦人同僚

『そういえば失踪する前日、市子がロビーの赤い絨毯を汚すということがありました。その朝、化粧室で会いましたとき市子はメンスの二日目と言ってましたし、前々から〝私は普通より重いから、いつ粗相するか不安〟と聞いていたこともありまして、はじめ絨毯にできた染みを見たときは、血かと思ったのですが、黒いインクの痕だとわかりました。市子が別室からカウンターに運ぶ途中で絨毯につまずいてこぼしたんです。汚れを落とすのが大変でした。私が覚えているのはそれくらいです』


・失踪者・・・菅ケイ 勤務地・・・錢荘『新興荘』前 証言者・・・広東人荘主

『やっばり言うしかないか。失踪前の変化といえば、ケイが銅貨を預けようとしたことだよ。おたくら日本人から見ると、うちは通りに小さな窓口を張り出した、ただの両替屋のように見えるかもしれんが、これでも預金や貸付はもとより荘票(手形)の発行も行い、外商銀行との取引もある大手だからな、銅貨なんてケチなものを預ける客などまずいない。だがうちの前にいつも立っていた日本人野鶏のケイのやつが、忘れもしない失踪直前の九月二十一日の晩、銅貨ばかり百枚出したんで俺は目をむいたね。しかもそれが何と全部贋金だったんで、いやあ肝を潰したよ。匂いと音でわかったんだ、銅ではなく鉄だと。

 いったいどういう了見でこんなものを作ってうちに預けようとしたんだと問いつめてやったら、ケイのやつ泣きだしちまって何も話してくれなかった その日ケイは女のあの日だと言っていたから、そのせいで気が変になっているのかと考えて許してやった。白状すると、俺もケイとはただの関係じゃなく情があったから、泣かれると弱いもんでね。あいつ、無事でいるでしょうか』」

 その次を読むのが一番緊張した。

「・失踪者・・・花坂みせこ 勤務地・・・娼館『桜花』 証言者・・・日本人婦人館主

『みせこはほかの娘とちがって気品があって、とても礼儀正しかったんだけど、失踪する一週間前頃、急に言葉使いがぞんざいになってねえ、私に敬語ぬきで話したのが忘れられない。メンス中だと稼げないので周りに八つ当たりする娘がよくいる。みせこもその週ちょうどあれだったけど、だからといって態度に出すような娘じゃなかったから不審に思って、問いつめたのよ。そしたらまあ何よ、夏の終わりから急に勉強し出して、難しい本を読むようになったって話。それで周りが馬鹿に見えて、へりくだる気がしなくなったと生意気言うから、私あきれてはり飛ばしてやった。そしたらその翌朝、店先に血で文字の書かれた紙と、髪の毛の束が落ちていたでしょう。あの髪質とウエーブのかかり具合で、みせこのだとすぐわかったわ。さらわれたってわかるとねえ、前の日に厳しく叱りすぎたから、私が悪かった気になったわよ』」

 書類から目を離すと、小野は言った。

「四人とも失踪前は月経中だった。それは新発見と言える。だが失踪前の行動は、注目に値するとは思えない。幸代は翠緑閣の鳥を放して亀を拾い、市子はジョージ・ホテルの赤い絨毯に黒いインクをこぼし、ケイは新興荘に銅貨ならぬ鉄製の贋金を預け、みせこは桜花で読書をはじめて礼儀を失った。これが何の手がかりになる」

本気で言っているのかどうか見分けがつかなかった。

「マダムはわれわれに的外れなアドバイスをしたのではないかね? それもわざと」

 試されているのは確かだ。

「四人の行動は、一種の暗号だと思います」

 私は言った。小野が本当に変化の意味に気づいていないのであれば、ヒントを与えなくてはならない。

「暗号? どういうことだね。四人はあらかじめ自分がさらわれることを知っていたとでも言うのか」

「おそらく知っていたと思います。それぞれの行動は、ある図式にあてはまります」

「図式? 説明してくれたまえ」

「私の質問に答えて頂けるなら、説明します」

 ややおいて、陸軍武官は答えた。

「君が暗号を解けば、質問に応じる」

「どんな質問でも、答えて頂けますか」

「いいだろう」

「約束してください」

「ああ、約束する」

 小野は真顔でうなずいた。

「では説明します。まず私は、四つの店の名からそれぞれ一字ずつとると、ある言葉が作られることに気づきました。桜花の花(か)、新興荘の興(きょう)、翠緑閣の翠(すい)、ジョージ・ホテルのジョー(じょう)。合わせると、かきょうすいじょう――『きょう』の『う』を省くと、かきょすいじょう。つまり、『火虚水乗』になります」

 四字を紙に書き、

「意味はご存じですね」反応をうかがった。

 敵は一度首をひねったが、

「火虚水乗というと、あれだな、火が水に負けるというような意味だろう」

「そうです。火が弱いために水の力が相対的に強まって火がさらに弱められることをいいますが、その意味自体はここではあまり問題ではありません。重要なのは、火虚水乗が五行説に基づいていることです」

 敵の瞳孔が大きく開いた。

「五行説なら知っている。万物が木火土金水の五元素から成り立っているという支那の古代思想だ」

「はい。その思想では、あらゆるものに五行が割り当てられます。季節でいえば、木行は樹木が成長する春を、火行は光り輝く夏を、土行は万物を育成する季節の変わり目を、金行は収穫の季節の秋を、水行は冷たいことから冬を象徴するとされます。そういった連想がすべてに働くので、たとえば東南中西北の五方では南が火、北が水に配当されます。

 四人の行動もこの五行説にあてはまります。たとえば今井市子の行動は、五行説の五色に沿っています。赤い絨毯に黒いインクをこぼしました。五色は青赤黄白黒ですが、赤は火行、黒は水行にあたります。赤が黒になったことは、すなわち火が水になったことになり、火が弱まり水が強まるという火虚水乗に沿った行動といえます」

「ふうむ、なるほど、では山田幸代が鳥を亀に変えたというのも、火虚水乗に沿った行動なのか」

「一つ一つ確かめれば、ある暗号が浮かびあがるはずです」

「その暗号とは?」

 教えるのはまだ早かった。

「五行の配当表を見ないと、正確なことは言えません」

「君は暗号を解くと言った」

「申し訳ありません」

「まあ、いい。ここは支那だ。五行説の本はどこでも手に入る」

「では私から質問をしてもよろしいですか」

「いや。君は約束を守らなかった。したがって質問には応じられない」

「図式は約束通り説明しましたが」

「僕は『君が暗号を解けば、質問に応じる』と言った」

「・・・・・・別の暗号なら解けます。マダムに聞いたところ、失踪事件の一週間後に武官室に伝単が投げ込まれ、独逸語で『河の両岸には生命の樹があり、十二種類の実を結び、その実は毎月実る』と書かれてあったそうですが、『十二種類の実』が本当は何を意味するか、私にはわかります」

「今さらという感じだが、一応聞こうじゃないか」

「私は『生命の樹』とは黄浦江沿岸のものではなく、婦人の暗示にちがいないと思います。婦人に毎月実る実といえば――男の人の前で口にするのは憚りがありますが、毎月起こるメンス、すなわち年に十二回生じる経血です」

「そうだろうと思ったよ。失踪した娘の勤め先に残された文字を組み合わせるとアラカツになるので、江戸時代にあった痾拉勝丸を調べたら、月水つまり経血をもとに作られた薬だとわかった。伝単を投げ込んだのが犯人の一味ということも判明した。しかし犯人の意図はいまだ不明瞭だ。古い薬の存在を日本軍人に知らせることに何の意味がある?」

「陸軍のなかには『薬』を欲しがっている人物がいるのではないでしょうか。それも相当の権力を持つ方のはずです」

 陸軍武官は目をそらし、

「江戸時代の薬などインチキに決まっている。まして経血でできたものなど、誰が欲しがる」

 うそぶいた。

「そういえば――」私は今思いついたような顔をして言った。

「火虚水乗には、水すなわち月水が、火すなわち護摩に勝つという意味もあるのではないでしょうか。護摩とは、真言宗の儀式でやる護摩焚きのことです」

 小野の目に閃光が走った。

「・・・・・・君はさすが、マダムの姪だ」意味深長な笑みを浮かべ、

「ほかの人間が思いつかないことを考えつく。君たちは、よく似ている。特に――」

 立ち上がり、私を見下ろした。

「頭のかたちが。もっとも君の方が二十歳若いぶん、十分つまっているだろう」

「何がですか」

 小野は答えずに手をかざし、私の頭頂部に触れようとした。とたんに扉が音たてて開いた。

「貴様! よくも・・・・・・」

 川島芳子が酔眼をすえて立っていた。小野は手を引っこめ、

「ちがうんです、これは――」

「貴様は試験に落第した」

「どうか話を聞いてください」

「うるさいっ、貴様は信用できん。出てけ!」

 小野を追い出すと、川島は空いた席に倒れ込むように座り、

「清朝の復辟に協力しろと言っているのに、あいつは所詮自分のことしか頭にない。小野に限らん。軍人など結局そんなもんだ。汚い連中さ」

 両手で円卓を叩き、

「僕は僕で動く」酒臭い顔を私に近づけた。

「お姐ちゃん。いいことを教えてあげよう」

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