第十六章 江戸・一八二六(文政九)年四月 徳川家斉

 どちらにするか。正室か、側室か。

 かようなことを口にすれば、きっと民は、さすがは公方様、いい気なものだと笑うにちがいない。

 余は子を五十人以上作ったせいか、遊び暮らしていると思われている。

昼間から大奥に入っては湯殿で若い侍女に手をつけ、奥女中に絹の帷子を着せてもらって長局を練り歩き、目にとまったお半下の娘を片端から犯して云々と、ついこの間も恋川春町という戯作者が余の生活を想像して『遺精先生夢枕』なるけしからぬ春本を書き、世に出回らせたのを知っている。その内容にはあきれ返る。何もかも出鱈目だ。第一、余は大奥で入浴はできぬ。将軍の大奥での座所は入口そばの座敷と定められている。第二に女中たちが寝起きする長局などには行かぬし、行こうとしたところで勝手がわからぬから練り歩くことなどできぬ。仮に行けたとしても、お半下などというのは数人で大部屋に住まっているゆえ、どうすることもできぬ。そもそも、どうしたいとも思わぬ。女漁りなど、主義に反する。

 余は元来、節制家だ。朝は鶏鳴の頃より起き、苑中を散歩。朝食の膳に向かう際には、近侍の者に『三河記』や『秀忠日記』などを朗読させ、暇があれば古今東西の書物をひもとき、自ら詩を書くこともある。父上に諫言されてのちは大酒せず、三献のほかは飲まぬし、冬季いかに寒くとも二つの小袖と胴着のほかは重ねず、炬燵があっても用いることはせぬ。この三十八年政務を休んだことは一日とてないどころか、いかなる場にも遅れたことがない。

 乱れているのは、女たちだ。男を荷物と見せかけては大奥に運び込ませる者、芝居見物と称し出かけては役者と寝る者。ひそかに堕胎する者すらいることも知っている。側室たちが産んだ子がすべて余の子かどうかも疑わしい。

 だが余は何も言わぬ。言えぬのだ。誰にも憎まれたくない、誰の意にも沿いたい。

 側室を多く持ち、子作りに励んだのも、それゆえだ。余は将軍職につくとき、父上に命じられた。一橋家のため、少しでも多く跡継ぎをもうけるようにと。幸い肉体には恵まれているため、その方で困ったことはなかったが、どの女も心から欲したことはなかった。それでも抱くからには相手を悦ばせたいと思い、全身全霊でつとめてきた。

 そう、余はいかなる者にも快く過ごしてもらいたい。近習の者が余の髭を剃る際、あやまって肌を切れば、「退屈ゆえ、ちと自分で剃りたい」などと言って剃刀を奪い、自ら使う真似をし、「あ痛、顎を傷つけた。余は下手じゃのう」と笑って剃刀を返し、粗相を帳消しにしてやる。余が賞玩する牡丹を掃除の者が手違いで折ったときには、「これで木ぶりがよくなったのう」と褒めてやる。

 余はつねに周りに気を使う。人どころか、鳥や植物にさえも。

 鳩をいじめる烏が罰せられそうになれば、烏とて親もあれば子もあるとかばい、陽を遮る木が切られそうになれば、あれは由緒ある木だからと言って守ってやる。

 いささか病的だ。しかし、とめられぬ。いかに小さな恨みでも、かってはならぬ。さもなくば、たちどころに祟られる・・・・・・。

 将軍職についてから、亡霊を恐れぬ日はなかった。浚明院(前将軍家治)には家基という立派な嫡子があった。だが家基は十六のとき、鷹狩の帰りに突然苦しみだし、数日後に亡くなった。田沼意次が毒殺したという噂だった。余を後押しした田沼意次を、余は見捨てた。田沼は、余が将軍になった翌年、死んだ。

 以来、家基と田沼の怨念にいつ祟られるかと脅え、つまらぬことでも縁起をかついできた。たとえば御台所寔子が身ごもったときには、大奥の広敷添番(警護係)に三九郎という名の者がいたが、三九郎は産苦労と聞こえるので改名を申しつけた。また四(し)の字を口にすることを禁じた。松葉蘭が四本芽を出せば、「二本ずつ二箇所に芽を出しております」などと言わせる。落語の『四の字嫌い』を地でいく話だが、大真面目だった。死を避けるためには何でもした。

 にもかかわらず、斉衆は死んだ。

 もっとも息子をなくしたのは、はじめてではない。これまで二十六人中十四人が鬼籍に入っている。だが多くは嬰児で、親子の接触はほとんどなかった。斉衆は十五歳だった。余がこの目で元服を見届けたと思った矢先に死んだ。あの行く末頼もしかった息子が・・・・・・。斉衆が疱瘡にかかったと知ってから、できることは何でもした。江戸城最高と信じる二人の医者もつかわした。しかるにあの者どもめは――。

 十数年前、日啓と出会ったときは、救世主が現れたと思った。日啓は初対面で余に家基と田沼の怨霊がとりついていることを言いあて、怨霊払いを申し出た。余は言われるまま江戸城内に祈祷所を設け、怨霊退散の法華経を唱えさせた。日啓は側室お美代の実父で野心あふれる破戒僧とは知っていたが、そんなことは余にとって問題ではなかった。怨霊の正体を言い当てたことがすべてだった。日啓をすっかり信用し、弟の陽隆をも受け入れた。余が心地すぐれぬ折に陽隆が作った唐の緑茶、福安銀針を飲むと元気が回復したゆえ、奥医師にとりたてた。

 兄弟は少年の頃、日蓮宗の智泉院の役僧だったが、弟は二十歳で真言宗の宝生院にうつったという。そのため兄弟で宗派がちがう。ただ同業者ゆえか二人の関係は密接らしかった。仲がいいというより、兄が弟を従えていた。

 一歳ちがいの日啓と陽隆は対照的だった。兄は四人の子を持つが、弟は出家の身を保っていた。五十を過ぎても男前なのは共通しているが、色白で全体的に脂ぎった感じの兄に対し、弟は色黒でひきしまった体躯をしている。兄は口がうまく追従笑いを絶やさぬが、弟は寡黙で滅多に表情を変えない。それでもお美代が産後の体調がいいのは叔父のおかげと吹聴したので、大奥の女中は競って喫茶療法の信者になった。

以来三年あまり、陽隆は奥医師の花形だった。それを変えたのが、一年前の文政八年、大奥に入ったお芳だった。

 元の名は文芳という。浜松町に店を開き、月水を用いた痾拉勝丸なる薬を売り出したことで薩摩藩邸にとりたてられ、月水療法を生み出した女医者であった。それに薩摩藩出の御台所寔子が目をつけ、お芳と名づけたのである。女が奥医師になった例はないため、表向きは御台所附き中臈として、大奥に月水療法を広めさせた。

お美代に対抗したものにちがいなかった。寔子は女中たちの母親的存在で雅量に富むが、若い側室が大奥の勢力となって傲慢に振る舞うのは我慢ならなかったようだ。

 以来大奥は、御台所寔子派と、側室お美代派の二派にくっきりと分かれた。医者同士も競いあった。陽隆が茶の作り方なら、お芳は化粧水の作り方を講習して張り合った。結果、陽隆派だった女中の半分が、お芳派に乗り換えた。

 余はどちらも優秀な医者と信じていた。さればこそ斉衆の治療をまかせた。二人の薬があれば治ると思っていた。しかし水疱は全身に広がった上、斉衆は息絶えた。

 お美代は言った――、

「お芳の薬さえなければ、斉衆様は助かったのでございます」

 寔子は寔子で陽隆が悪いと決めつけた。

 無論どちらかに責任を負わせねば気がすまぬ。余は斉衆の死にかつてない衝撃を受けた。深い悲しみと怒りが腹の底に渦巻いている。

 ただ、お美代と寔子、どちらにつくかを決めかねていたのである。

 阿蘭陀使節謁見の準備を口実に返答を避けようとすると、お美代は言った。

「蘭人ごとき、ひと月でもふた月でも待たせればよいではありませぬか。それより不幸を招いた者を罰する方が先でござります」

 確かにお芳はもともと信用ならなかった。最初に会ったときのことは、よく覚えている。余が近習の者の案内で大奥の庭を逍遥していると、寔子が女中を連れて現れた。それが話に聞くお芳であることは、一瞥してわかった。年の頃は三十二三、上背があり、色白で面長、奥二重――あらかじめ耳にしていた特徴とほぼ一致した。ちがったのは目だった。かの女は澄んだ目を持つと、かつて石塚宗廉は言った。しかし余が見たときは、よどんでいた。その目は妖しい光を放ち、ぞっとするような印象があった。余はお芳のそばに行くと、牡丹を指さし、試すように言った。

「これはもう弱っている。見ても仕方あるまい」

 するとお芳は、

「花はあわれでございます」臆する風もなく言った。

「女も色が衰え御寵遇がつきれば、この牡丹のようになりましょう。けれども人は、御用に立てれば華やぐものでござります。それゆえ御用に立つときが見どころと申せましょう」

 花にかこつけて自分を贔屓にしてほしいと仄めかすとは、なかなかの才女とは思ったが、嫌な印象の方が強かった。にもかかわらず余は、

「さてもさてもよく申した。牡丹がなければ今の言葉を聞くこともなかった。実にありがたい」

 気づいたら心にもない言葉を口にしていた。まるで操られたようだった。お芳には人を惑わす力がある。

 はじめから不吉とは思っていた。お芳は「お止し」に通じる。元の名は文芳だが、本名は伊藤文と言い、二年前まで鳴滝塾にいたことも石塚宗廉の報告でわかっていた。伊藤文は二十四歳で薩摩藩江戸屋敷にとりたてられ、長崎に行く以前は薩摩にいた。薩摩の隠密かも知れぬ女。それを大奥に入れることにははじめから抵抗があった。そもそも月水を治療に用いることからして穢れに通じている。大奥でお芳がいかように女中たちから月水を集め、いかように扱っているのか。想像すると嫌悪の情はふくらむ一方だった。

 だがお芳は余の欠陥を治すすべを知っていた。御台所からそのようだと聞くなり、余はひそかにお芳を呼びよせた。体の秘密を知られるのは避けたかったが、治したい思いには勝てなかった。治療法を書面にするよう命じると、お芳は『月水療法録』として一冊の本にまとめ、献上した。目を通した余は半信半疑ながら、その薬を作らせた。

 かつて多くの医師が挫折した。蘭方医の石塚宗廉を隠密として長崎に送り研究させたこともあったが結局成功しなかった。陽隆もこればかりはうまくいっていない。

 しかし、お芳の薬には効果が感じられた。

 余は『月水療法録』をこの上もなく貴重なものとして、紅葉山文庫に保管した。

 余の評価が月水療法に傾きだしたことがわかると、お美代はそれまで以上にお芳を退けんと懸命になった。お芳に面と向かって「正式な奥医師でもない分際で」と罵ることも稀ではなかった。

 お芳も黙ってはいなかった。「お美代の方様は本名をフセとおっしゃる。下町育ちで野原を駆け回っておられた。あの方が十二歳の頃、ともに踊りを習った私が申すのだから間違いはない」と言いふらした。

 お美代は激怒したが、否定はしなかった。お芳の話はまことだった。お美代の素性は卑しい。長兄は僧侶、次兄は旅籠屋の主人、妹は浄通院住職の妾である。お美代はそれを感じさせない才気と美貌に恵まれていたが、余は心を奪われたことはなかった。ただ美代は「見よ」ゆえ無視できず、仏に仕える者の娘でもあったので特別に目をかけたのである。

 にもかかわらず、斉衆は死んだ。

 陽隆の茶も効かなかった。あの男はやはり信じられぬ。ここ数年、大奥ではお半下がふいに姿を消し、役人総出で調べても見つからなかったかと思うと、幾日目かの晩に意外な場所から死体となって出てきたということが重なった。いずれも発見される前にどこからともなく「あたしはここ・・・・・・」というしゃがれ声が聞こえたのを番人が耳にしていることや、女が入れるはずのない御天守台の下などで発見されたことから物の怪のしわざとされた。そのたびに余は脅え、日啓に激しく祈祷を唱えさせたものだが、あれは陽隆が殺したという噂があった。祈祷をさずけると称しては、女中を井戸に連れ込み、逆らった者は罰しているという。噂がたったのはお芳が大奥に入って以降のことだから、中傷だろうと思っていたが、斉衆の死んだ今、陽隆に対する疑惑は深まった。

 さりとてお芳に肩入れするわけでもない。あの女が余の必要な薬を作れることは別問題である。斉衆に与えた疱瘡の薬が効かなかったのは事実だ。

・・・・・・どちらも許せぬ。

 もはやこれまでの余ではない。斉衆の死が変えた。

 この際、目障りな者どもはまとめて成敗してくれる。

 近々、一芝居打つ。すでに駒は、余の思惑通りに動いている――。

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