第十五章 上海・一九三一(昭和六)年 十月二十八日――十一月六日 保柴芳子

 扉を開けると、十歳前後の小僧が立っていた。浮浪児だろうか、靴も服も泥だらけだ。無言で私に紙を渡し、踵を返した。

 紙には英語で「迎えのシボレーを仁記路に停めた。至急来られたし」と書かれてあった。

「待って。これ、誰からもらったの?」

 中国語で言ったが、小僧は振り返りもせず階段を駆け下りていった。

蒲生の筆跡ではなかった。首をかしげずにはいられなかった。私が陸軍武官室に潜入するのは明日のはずだ。急遽今日に変更されたのだろうか。

 確認しようにも蒲生は相変わらず外出中だった。犬飼美栄子が退職しようが、汎太平洋通商会社は通常通り営業をつづけていた。名ばかりの営業とはいえ事務所を無人にすることにはためらいがあったが、ひとまずメモの主が誰かを確かめに行くことにした。仁記路は会社のすぐ近くにある、サッスーンハウスと独逸倶楽部に挟まれた細い通りだ。日光が届かず、空気がひいやりとしていた。

 シボレーは確かに停車していた。近づくと運転席の窓が開き、背広と七三にわけた黒髪、若々しい肌が見え、

「乗りたまえ」

 日本語で言われた。男にしては高い声だった。やけに華奢な体つきだ。顔は薄化粧がほどこされ、頬も唇もほんのりと赤い――女だと気づいた。しかも見覚えのある人物のような気がしたが、思い出せなかった。

「早く」

 恐る恐る後部座席に入った。乗客は私一人だ。

「例の場所へ向かう」

 男装の婦人は言うなり発車した。ロイド眼鏡の亜米利加婦人も個性的だったが、この日本人も相当強烈だ。年はずっと下でまだ二十代のようだが、見事なハンドルさばきがあの婦人の仲間だと私に信じさせた。

 自動車は共同租界を西に走り、バブリング・ウェル・ロードに入った。ハルトン花園を越えたところで右折し、四つ目の角で左折し、日本陸軍武官室に入るはずだった。ところがシボレーは直進した。さらに三つ目の角で右折し、三階建ての洋館の前で停まった。

「着いた」

「ここはどこですか」

「僕の別邸」女は言った。

「別邸・・・・・・? あの、あなたはいったいどなたです」

「僕かい。川島芳子だよ」

 まさか、あの川島芳子・・・・・・清朝皇族粛親王の十四番目の王女で、本名は愛新覚羅顕 。粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり、日本で育ったことで知られている満州人だ。新聞で見た写真の上品で端正な顔と、反射鏡に映った顔は確かに一致した。

 銀鈴のような笑い声が車内に響きわたったかと思うと、外から扉が開き、何者かが私のスカートの裾をめくりあげた。太ももにチクリとした痛みが走った・・・・・・。


 ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』が流れている。今日もまた蓄音器のレコードが鳴り出すと同時に私は目覚めた。時計は例によって三時を差していた。陽はすでに高くのぼるどころか、傾いている。書蓮(シューレン)がいつものように私が起きたのに気づいて近づいて来た。手には琺瑯びきの洗面器。湯気が立っている。手拭を浸してしぼり、寝ている間もマスクを外さなかった私の額、耳の下、首をそっと拭う。目の端で揺れる前髪や、翡翠の耳環が何度も私の肌に触れそうになった。快感とは認めたくない。書蓮は私の身の回りの世話を受け持っている。パジャマから絹のワンピースに着替えさせられるとき、反対側の寝台に向きかけた視線をあわててそらした。

 広い部屋の左右の壁沿いには寝台が二つあった。入って左側のは大型で枕元の電灯から何から豪華で、右側のは小型でただ清潔というにすぎない。川島芳子は私に立派な寝台を与え、自分は小型のに寝ていた。

 この一見至れり尽くせりの待遇は何を意味するのか。注射で意識を失わせられて、この洋館に運びこまれてから七日目になるが、いまだわからなかった。

 狙いは何なのか。川島芳子の実父、粛親王は辛亥革命後も清朝の復辟のために日本と特殊な関係を結んだということを何かで読んだことがあった。養父の影響もあって、川島芳子も日本軍人と親しいらしい。

 敵側の人間にはちがいなかった。

 敵の懐の武官室に飛びこもうとしていた私は、その寸前に敵によってからめとられたのだ。仲間の計画が事前に洩れたのだろうか。やはり複数の特高に監視されていた・・・・・・だがそれならば、なぜ特高が捕えない。なぜ川島芳子が。

 狙いは秘薬か。秘薬と私の結びつきを敵側はかぎつけたのか。それにしては訊問もせず、一週間近くただ置いておくのは変だ。秘薬のありかを聞き出す以外の目的があるのかもしれない。

 敵は、秘薬に本当に効果があるかどうか知りたいのではないか。

 敵は私が秘薬を服用した人間だと、何かの折に感づいた。現時点で本来の効果は表れていないが、眉間の変化が手がかりになったと思われる。人の顔に見える皺が、私の額にもできたのだろう。私自身は痛くもかゆくもなく、確かめようがなかった。秘薬を飲んで以来、眉をしかめると異常な皺ができるようになったのは鏡を見て知っていたが、それが美栄子のように人の顔のかたちのようになるかどうかまでは、わからなかった。我を失ったときに浮かぶのかもしれない。秘薬の本来の効果とは全然ちがうものだが、あまり異様なものであるために敵側の注意を引き、秘薬の副作用か何かだと思わせた可能性がある。

 敵は、秘薬本来の効果が私の体に現れるのを待っている? それまで寝台に縛りつけるつもりか。初日に睡眠剤を打ち、以後ずっと私をめまいと頭痛で苦しませ、起き上がれない状態にさせているのも、そのためか・・・・・・。

 レコードは、ジャズ『ムーンライト・セレナーデ』に変わっていた。川島芳子は起床時に必ずレコードを同じ順番でかけさせるが、そのどれも題名に月がつく。よほど月が好きらしい。毎日午後三時に起き、夜になるにつれ生き生きとしてくる。一晩中ナイトクラブ、ダンスホール、キャバレーを何箇所もはしごして廻り、朝になると幽霊のようになって帰ってくる。この六日、例外は数えるほどしかなかった。

外出中、見張りと小間使いが私を監視する。私は本を読むか、寝台で寝るぐらいしかやることがない。深夜になると、湯園(タンユアン)売りが拍子木を叩く音が聞こえる。湯園は温かい煮汁に浮かんだ餡入りの団子で夜食として人気があるが、静かな街にカチ、カチという音が響き渡ると、寂しさをいっそうかきたてられる。

伯母は私の失踪を知ってどう思っただろう。仲間は私の居所がわかるだろうか。私は今敵中にある。入り方こそ計画とちがったが、任務は果たすべきだ。だがもう六日も萎縮しているだけで敵情はろくにつかめていない。

 ただ一つ、目にとまったことがあった。二日前、明け方に化粧室へ行く途中、廊下の奥で川島芳子が男と抱き合い、接吻していた。相手の顔はよく見えなかったが、知っている人物に似ている気がした。あの将校・・・・・・刈屋珈琲店でお菓子のお兄さんと呼ばれているあの男が、川島芳子の愛人かもしれない。贅沢な暮らしは将校の援助によるものか。見返りとして、川島は日本軍のスパイをしている可能性が高い。

向かいの寝台が恐ろしいものに思われ、私はまともに見ることもできない。そのまま客間に行こうとすると、

「おはよう」声がかかった。

 川島芳子は背広に着替えていたが、寝たまま小間使いの千鶴子に髪を梳いてもらっていた。

「調子はどうだい」

「お蔭さまで、何とか・・・・・・」

 へつらい笑いがつい浮かぶ。川島は寝足りた花びらのように血色のいい顔をしていた。

「食事を一度も一緒にとれなくて残念だよ。お姐ちゃん」

 また私をそう呼んだ。初日に言われた――「奇遇だな、僕も君も芳子。同じ名前だ。君の方が年上だから、お姐ちゃんと呼ばせてくれ。僕のことは、よっちゃんと呼べよな」。よっちゃんなんて言えない。

「・・・・・・すみません」私は謝った。

「大丈夫。人前でマスクを外したくないんだろう。これからも配慮するさ」

 川島は私が食事やお茶をするとき、周囲を衝立で囲ませ、誰にも見えないようにしてくれる。

「千鶴子、僕の食事を頼む」

 小間使いが去ると、川島は私の目をじっと見つめた。

「僕はお姐ちゃんを理解している。刈屋珈琲店のことを気にかけているんじゃないか」

 どきっとすると同時に、メンスでもないのに下から血があふれだした。体調不良のせいか。自前の下着ではないから漏れそうだ。

「外で聞いたところ、マダムは君を必死で探している。だが警察に届けてはいない。もう一週間が経つのに、その気配もない」

 警察に知られるとまずいことでもあるんだろう、と言いたげだった。

「お姐ちゃん、隠しごとはしないでくれ」

 ディーン、ディーン・・・・・・通りで流しの売ト者が弦をはじいている。泣きながら訴えるような、慕いながら怨むような響き。股から赤い雫が、落ちた。

「顔は仕方ない。でも、心まで隠すのは酷いとは思わないかい」

床の雫は二滴になった。

「さらけ出してくれ」

 いきなり寝台を降り、私の両脚に抱きついてきた。体温が背広を通して伝わった。全身がしびれたように動かなくなった。指がももをつたい、スカートの中に入った。

「やっぱりメンスか。下着は僕がとりかえよう」

 私を見上げ、

「気にするな」

 硬直している間に、汚れた下帯をはずされ、新しい肌着を装着された。昔の母と同じことを人にさせていることに気づき、愕然とした。恥ずかしくて耐えられない思いだった。

 千鶴子が川島の軽食を運んで来た。部屋で行われていることを見ても、主人の奇矯な振る舞いには慣れているのか、動じた様子はなかった。チョコレートビスケットと生クリーム、マフィン、紅茶の入ったバスケットを小型の寝台に置き、同じものが客間にあると私に伝えた。

 下着をかえ終わっても川島は離れなかった。指を、体じゅうに這わせた。反応をうかがう目は、私の眉間に注目しているように感じられてならなかった。


 翌日午後五時、川島芳子はふいに寝室に現れた。

「お姐ちゃん、ちょっといいかな」

 ついに訊問がはじまるのかと思ったら、川島ははにかむような微笑を浮かべ、

「僕からのプレゼント」

 包みを差し出した。

 私は目を丸くした。

「開けてご覧」

 包装紙を広げると、淡紅色の生地に刺繍の施された裾の短い旗袍と、同じ布で作られた靴が入っていた。

「気に入ってくれたかい」

 いきなりどうしたというのだろう。

「こんな高価なもの・・・・・・頂けません」

 どんな裏があるかしれなかった。

「遠慮するな。お姐ちゃんの寸法をこっそり測って仕立屋に突貫で作らせたんだから」

 昨日私の体に触れたのは、そういうわけだったのか。それにしても真意はつかめない。

「僕の純粋な気持ちだよ。受けとってくれないのかい」

「・・・・・・ありがとうございます」

「ちょっと着てみてくれ」

 仕方なく従った。着られるには着られたが、私の体型に旗袍は似合わない。大きな腹と肉のついた腕と脚が目立ってみっともなかった。川島は薄笑いを浮かべ、

「それで外に出てくれるね」

「え」

「ハハ、今すぐにとは言わないよ。僕が誘ったときにさ」

「私を、外へ・・・・・・?」

「近々、某所に連れて行くから、そのつもりでいてくれたまえ」

 某所とはどこなのか。聞く暇も与えず川島は言った。

「実はもう一つ、贈り物がある。こっちの方が、お姐ちゃんは好きかな」

 受けとったのは雑誌『新青年』だった。大正十四年二月の米英新作家紹介号。鳥肌が立ったのは、寒さのためだけではなかった。

「六年前の古本だけど、内山書店に売ってて面白そうだったから買ったんだ」

 上海の内山書店にこんな雑誌は置いていないはずだった。内地からわざわざ取り寄せたとしか思えなかった。

「どの短編もよかったよ。失敬と思いつつ、先に全部読んじゃった」

 目次を指さした。

「特にこの『実験魔術医』が気に入った。自称医師二人が競い合う話でさ」

 顔がこわばるのを感じた。

「訳も読みやすい。訳者は鈴木直――『ただし』と読むのか『なお』か。性別未詳。女かもしれない」

 動悸が強くなった。

「作者は英国人エフ・ウヰリアムズとあるが、この作家は本当は実在せず、日本人の創作だと言われているらしい。読んだら感想を聞かせてくれよ」

川島は唐突にすり寄り、甘い声をだした。

「にゃおにゃお。お姐ちゃん、これを着てると猫みたいだ。僕は猿も好きだが猫も嫌いじゃないぞ」

 くすぐられ、もがくと押し倒された。脇腹に指が這い回る。笑いが意志に反してとまらず苦しい。

「猫ちゃん、猫っ」

 嗜虐的な光を帯びた川島の目は、私の眉間を覗きこむように見ていた。

 

 いくら囚われの身でも、いや、そうだからこそ、相手に貸しを与えたままにするのは危険だと考えた。お返しをしなくては。高価な旗袍に見合うものは用意できないが、猫なら喜んでもらえそうなので、書蓮に頼んで川島の外出中に拾ってきてもらった。

 白く小さな、目の大きい小猫。猫に特別な興味のない私でも胸がときめくほど可愛らしい。

 バスケットに入れてリボンをつけた。朝帰宅した川島が寝室に入るなり、差し出した。

「これ、私からです」

むくんだ蒼白い顔に驚きが表れた。

「この前色々頂いたので、そのお礼に・・・・・・」

 猫は主人をじっと見つめ、甘えたように鳴いた。川島は無言で抱き上げ、寝台の脇の抽斗(ひきだし)からひもを出し、首に巻きつけた。首環にするのだろうと思った。小猫はごろごろと喉を鳴らし、主人にこすりつく。川島は窓を開けた。バルコニーに連れて行くのかと思った瞬間、ひもの端をつかみ、縛った猫を振り回した。異様な悲鳴があがり、花瓶が割れ、額縁が落ち、電灯が砕け散った。川島はぶんぶん振り、はずみをつけると、窓の外へ放り投げた。小猫はバルコニーを越え、三階から墜落した。

「いるかっ! あんなもの」

 川島は叫んだ。

「二度と僕に贈り物しようなどと思うなよ」

 声を出そうにも出なかった。震えがとまらなかった。

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