第十四章 上海・一九三一(昭和六)年 十月二十五日 保柴芳子

「暗い顔してると、怪しまれるでえ」蒲生は私を見上げた。

「あちこちに見張りが立っている気がして・・・・・」

「せやから、変装してるやん」

 長衫を着、首に白い布をまきつけている。スカーフのつもりらしいが、包帯にしか見えない。

「青帮の親分に見えるやろ」

 口に薔薇をくわえた。手は長い袖に隠れ、靴は裾を踏みつけていた。

「あの、立った方が」蒲生は高級ホテルの前だというのに、地面に股を広げて座っていた。

「堂々としてりゃいいやん」

「でも、目立ちますから・・・・・・」

 手島ら日支闘争同盟の三人が逮捕されたという電話が伯母からあったばかりだ。特高は伯母をマークしている。姪の私も監視対象になるはずだった。

 よりによってそんなときに伯母の仲間との顔合わせがある。仲間は白人の男女二人。大物だそうだ。面識のある蒲生が引きあわせてくれる。サッスーンハウスの前で待っていれば、迎えの自動車が来るそうだが――。

会社から歩いて二分のところにあるサッスーン・ハウスは、英国系ユダヤ人が二年前完成させたアール・デコスタイルの十一階建てで、五階から十階までがキャセイ・ホテルになっていて、バンド通りの西洋建築群のなかでもひときわ威容を誇っていた。ライトアップされた最上階の瑠璃瓦の三角屋根は天空のピラミッドのようだ。向かいのヴィクトリアン・ルネサンス様式のパレスホテルとの間に伸びるナンキン・ロードには、日曜の夜を豪華な気分で過ごそうと集まった各国籍の家族連れや恋人たち、彼らにたかる乞食や物売りでにぎわっている。誰もが楽しそうに見えるが、そうでない顔もあった。たとえば左の角に立つ背広の男。無表情で目つきが鋭い。

「あれ、特高じゃ・・・・・・」

「よっしゃ、まかしときい」

蒲生は舌をコロッと鳴らして立ちあがった。

「あ、ちょっと」

 蒲生は歩いて路面電車停留所に向かった。そこには中国人がいた。その男に蒲生は声をかけ、何やら話しはじめた。それから特高らしき日本人のところに行き、話しかけながら煙草を渡し、火をつけた。するとさっきの中国人が近づいて来て、蒲生の横からその日本人に煙草を一袋押しつけ、十銭払えと言った。

「不要(ブーヤオ)」

日本人は中国語で追い払おうとしたが、中国人は、

「それならなぜ今の煙草を吸った?」と大声で言いがかりをつけた。

「畜生、一杯食わせたな」男は日本語で言った。

「おまえのくれた煙草はこの支那人のだったのか」

 蒲生はすでにその場を離れていた。

「おいっ、待て」追おうとするのを中国人がすごい剣幕で押しとどめた。

「十銭払え。払わなけりゃ、ただじゃおかねえ」

 特高らしき男はあっという間に野次馬にとり巻かれた。

「行くで、今のうち」

 蒲生が私の腕を引いた。

 目の前に、黒い幌つきの自動車が停まっていた。ドアが開き、運転席からロイド眼鏡をかけた白人婦人が手招きした。乗り込んだ私たちに鷹のような目を投げ、発車した。婦人は一言も口をきかない。蒲生は何もかまわず私に日本語で話しかけた。

「さっきの中国人、使って正解やん」

「煙草の押し売りですか」

「そ。あいつらは標的を見つけては煙草を押しつけ、金を払えと脅迫する。逆らえば暴力。見境のない連中だから、ちょうどいいと思ったやん。たっぷり袖の下使って、あそこにいる日本人にたかってくれと上海語で頼んだやん。そしたら日本人嫌いのやつら、喜んで承知してくれたやん。俺があの日本人に吸わせた煙草はあいつらのものだから、ボコボコにされるで」

「What are you talking about?」白人婦人が聞いた。

 蒲生は今の話を英語で繰り返した。完璧な発音だ。さすが五か国語を話せると自慢するだけある。その癖、関西弁はいつになっても上達しないからおかしい。

「Good job!」婦人が返した。

自動車は勢いよく走った。車窓にネオンが流れる。『Kelly & Walsh』、『Watsons』、『Chocolate shop』・・・・・・。絹織物や金銀を売る店には華麗なウインドウディスプレイ。ナンキン・ロードは英米共同租界を東西に走る上海のメイン・ストリートだ。

 陳列窓に鶏や家鴨の丸焼きが吊り下げてある店の前で停車した。白人婦人は無言で降車し、先頭立って歩いた。背が高い。中年だが、茶色のツーピースを着た体はすらりとしている。手に持った短いステッキをふりながら、大股で店に入って行った。

 『杏花楼』と書いた古びた看板の下をくぐり、朱と緑で塗りたてた幾つもの部屋の横を通る。餃子や小籠包、貝柱の湯(タン・・・スープ)の匂い。客のほとんどは中国人だ。

 白人婦人は奥の部屋の扉を開けた。うす暗い電灯の下に、一人の白人男性が座っていた。三十代半ばだろうか。鳶色のふさふさの髪、青色の鋭い目、厚くて官能的な唇。一度会ったら忘れられないような迫力があり、私は圧倒された。

白人男女の名前はわからなかった。誰も名乗らなかった。私たちは黙って握手を交わした。すると何か大きな力に包まれたような気がした。信頼できる人たちだと感じたからかもしれない。

 ボーイが注文を聞き、大理石のテーブルに象牙の箸と茶碗、魚の煮つけや青淑肉絲などの皿を並べた。

 私がマスクを外さず、ひょうたん型の老酒の壺を持って酌ばかりしていると、

「食べないのか」婦人が亜米利加訛りの英語で言った。

「すみません。・・・・・・風邪がうつるといけませんから」とっさにそう言いわけをした。

「それなら、あんたの分、皿にとってあげるよ」

 困っていると、

「無理してマスクを外さなくてもいいですよ」

 白人男性が言った。斜視なのか、目の焦点がずれていた。

「あなたのことはマダムから聞いています。あなたたちの本当の目的も――復讐ですね。私の主義にはちょっと合わないけど、あなたたちの敵が日本軍参謀の小野長盛で、反軍という点でわれわれと一致するので、手を結ぶことに決めたんですよ」

「Thank you, sir.」声が震えた。

「例の秘薬は大いに利用できます。問題は、その存在を知った敵が、欲しがるかどうかです。もし心から欲しがれば、それは敵の決定的な弱点になります。弱点をつかんでこそ、敵を倒すことが可能になる」

「私も、そう思います。秘薬は今どこにあるんでしょう」

「私がマダムから預かりました」

「あなたが・・・・・・?」

「現在は安全な場所にあります。心配はいりません。必ず守ります」

 白人男性は真顔を向けた。

「ところで、あなたに聞きたい。敵方に潜入する覚悟はありますか」

「は?」

「小野長盛が秘薬をどの程度欲しがっているか、あなたに直接探ってほしいんです」

「秘薬を欲する者がいることは、あんたに偽の壜をハイアライに持って行かせたときにわかったやんけど、あのとき襲ってきたのは青帮で、小野が関与しているかは不明のままやん。計画のためには、肝心の小野がどこまで入れ込んでいるか確かめる必要があるんやて」

「潜入って、どこにするんですか」

「日本公使館附武官室」

「え」

「覚悟はあるのか、ないのか」婦人が迫った。

「何か頼まれたら、必ず引き受けなさい」と伯母に言われていた私は「ある」と答えた。

 亜米利加人婦人が潜入計画を説明し終えると、白人男性は私の手をしびれるほどかたく握り、自信に満ちた重々しい口調で言った。

「By and by, one step and one step.」

 亜米利加訛でも英国訛でもないことに私は今さらのように気づいた。この男性はどこの国の人なのだろう。仏蘭西人? 独逸人? それとも露西亜人?

 国籍不明の怪白人男性は一人一人の顔を見つめた。

「日中開戦は何としても回避せねばなりません。私の使命は、庶民を侵略戦争から守ることだと思っています。亜米利加を使った平和工作の進展具合はどうですか?」

「まだ頓挫しています」蒲生が答えた。

「ボイコット騒ぎでタングステンを出荷できないので、連日有力者を尋ね歩いていますが・・・・・・もちろん今月中には何とかします」

「よろしくお願いします」

 三人はさらに満州事変についての状況判断、事変後の上海の変化、黄浦江に停泊中の各国軍艦やその性能について話し合った。私は聞くので精一杯だった。

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