第十二章 上海・一九三一(昭和六)年 十月二十五日 上条梓乃

「いらっしゃいませ・・・・・・まあ今日は珍しくお連れ様がご一緒で」

 全部で六人。小野長盛は見知らぬ男たちをぞろぞろと従えて入って来た。六人は背広でいずれも目つきが鋭かった。

「皆さん将校さんのお仲間でいらっしゃいますか」

 正面のテーブルに案内しながら愛想よく聞いたが、男たちは無言だった。

「全員ぶれんど珈琲ね」小野が言った。

「将校さんはマンデリンじゃなくてよろしいんですか」

「マダムの手間を少しでも減らさないと。これを食べてもらえないだろう。ほら、甘納豆。取り寄せたんだ」

 甘納豆は大好物だ。

「ま、ありがとうございます。これはまたどういった風の吹き回しで」

 内心不気味だった。

「刈屋のお客さんに味わってほしくてね。内地の味を」

 深夜のことで、ほかには一組しかいなかった。小野は奥の席を見た。日支闘争同盟の三人がいた。手島重夫、王学文、楊柳青だ。

「あの人たちは、日本人だよな?」

「私があとでお配りしますよ」そう言ったが、

「いや、自分で配る。僕はお菓子のお兄さんだからね」

 書き物や読書に夢中なふりをしている中国人二人と日本人一人に小野は声をかけた。

「内地の甘納豆です。よろしければどうぞ」

「・・・・・・どうも」手島がうつむき加減のまま、差し出された袋に手を伸ばした。

「よくお会いしますね」

「え、そうですか」

手島はぎくりとした顔になった。小野はうすく笑い、

「いつもは四人でいらっしゃいますよね」

 桜井竜之助がいなかった。

「そんなこともありませんが・・・・・・」

「ささ、遠慮せずにどうぞどうぞ。何を書いてらっしゃるんですか」

 小野はのぞきこむように見た。

「字がうまいですね」

 手島が甘納豆を口に運んでいる隙に、小野は紙を奪いとった。

「あの、大したものじゃありませんので」

「見られてまずいことでもあるんですか」鋭い目を向けた。

「そういうわけでは・・・・・・」

 伝単は棚にしまってある。

「へえ、実に立派な字だ。せっかくですから、僕の友人にも見せてよろしいですね」

「あ、ちょっと」

小野は勝手に眼鏡の男に渡した。その男はにこりともせずに受けとった紙にルーペをかざし、一字一字丹念に観察すると言った。

「間違いありません。一致します」

 それからが早かった。五人の背広が立ち上がって、手島たち三人に飛びかかった。突然のことで私は声も出せなかった。気づいたときには三人は手錠をはめられていた。

「手島重夫、楊柳青、王学文、貴様らを治安維持法違反で逮捕する」

 痩身の唇の曲がった男が告げた。

 やはりそうきたかと思った。こうなることはどこかで予期していた。それでも言った。

「治安維持法違反だなんて、そんなことをする人たちじゃありませんよ」

「そうだ、僕たちは逮捕されるような覚えはない。話があるなら署に呼び出せばいいじゃないか。こんなところで暴力をふるわれたんではたまったもんじゃない」

「冗談でも何でもない」小野はがらりと態度を変え、

「貴様らは日支闘争同盟のメンバーだ」

「馬鹿馬鹿しい」

「しらばくれても無駄だ。貴様の筆跡と、九月二十八日に陸軍武官室に投げ込まれた伝単の筆跡が一致した」

 眼鏡の男を示し、

「この男は筆跡鑑定を専門にしている。あとの五人は特高の刑事。王と楊が仲間であることは、彼らの調べでわかっている。領事館警察の下に思想犯を取り締まる上海特高警察があるのを知らんとは言わせんぞ」

「・・・・・・」

「連れて行け」

 三人は特高たちにひったてられて行った。蓄音器は彼らの好きな『セビリアの理髪師』の陽気な歌曲を流しつづけていた。

 小野がカウンターに歩み寄った。

「自分は例外とでも思っているのかね、マダム」

 なぶるような目を向け、

「あの三人と親しくないとは言わせないぞ。ここで伝単を書かせていただろう」

「いいかげん珈琲をお飲みになったらどうです」

「質問に答えないところを見ると、書かせていたんだな。単刀直入に聞く。失踪事件の主犯はマダム、あんただろう?」

「・・・・・・いくら将校さんでも、あまり失礼なことをおっしゃるなら私も黙っていられませんよ。軍の高官の方が私に従ってくださるのはごぞんじでしょう」

「高官というのは土肥原や板垣のことか。僕がやつらを怖がるとでも? なめるな! 答えるんだ。薬はどこだ」

「何のことです?」

「薬といえば、あれに決まってるだろうが」

 答えはわかっていたが、わざと言った。

「痾拉勝丸のことですか」

「とぼける暇があったら、質問に答えろ。あの薬はどこだ?」

「私が知るわけ、ないじゃありませんか。捜索の結果、何も見つからなかったんで八つ当たりですか」

「言っておくが、見当はついている。前回、バンドの一ビルヂングに怪しい動きがあったと僕が言ったのを覚えているか。われわれが目をつけたのは、汎太平洋通商会社。あんたの姪が就職した会社だ」

 得意げな視線を、私ははね返した。

「へえ、そうですか。私は的外れのように思うんですけどねえ」

「何」

「いえね、将校さんには申し訳ないんですけど私、あの解釈は見当ちがいだった気がしましてね。黄浦江沿岸にこだわるよりも、四人の娘さんたちの失踪前の変化に着目した方がいろいろわかるんじゃないかって思えてきたんですよ」

「なぜ今ごろそんなことを言う」

「失踪前の娘さんたちには、些細だけど重要な変化があったはずです」

「特別な変化はなかったと聞いている」

「警察は見逃しているのでしょう。もう一度よくお調べになったらいかがです。そうしたら、薬とやらにも近づけると思いますよ」

「・・・・・・何を企んでいる」

「結果がわかったら教えてください。私は逃げも隠れもしませんから」

「・・・・・・覚悟しておけ」

 小野長盛は飲みかけのコーヒーに六人分の代金を沈ませて帰った。

 私は甘納豆を床に叩きつけた。

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