第十章 上海・一九三一(昭和六)年 十月二十四日 保柴芳子

 昨日はろくに眠れなかった。桜井のことを思うと、とまらなかった。あのときもしマスクを外す勇気さえあれば、私はあのあと・・・・・・夢想を美栄子が破った。

「保柴さん、コーヒー淹れてきて。専門家でしょ」

 桜井が私の働いていた珈琲店の常連客だと知って以来、あてつけがましく命じるようになった。

 メンスがはじまりさえしなければ、昨日のうちに写真を娼館に持って行って、この女と娼婦みせこが同一人物かどうか確かめられたのに――。

「わかった」不満が声にでた。

 立ちあがった私を、美栄子はじろじろとわざとらしく見た。

 私の腹が出ているのは、筋腫が原因ということを、この女は知らない。歩きだしたら血が股間から豪雨のように流れ落ちた。布おむつをしていたが、十分以内にかえなければ洩れそうだ。鞄を持って出たら、どこへ行くのかと美栄子に誤解されそうだったが、かまってはいられなかった。化粧室に飛びこみ、急いでおむつ交換した。便器も手も人殺しでもしたように真っ赤に染まった。出血の勢いはとまらない。また三十分後にはかえなければならない。汚れた布の処置や、おむつが足りるかを考えただけでも頭が痛い。給湯室に向かいながらも、めまいがした。毎月これでは会社勤めは厳しそうだ。心がますます内に閉じこもる。こんなときに桜井が美栄子との約束で会社に来たらどうしよう。まともにふるまえない。

 給湯室のコーヒーは質が悪い。挽いてから何週間もたつ豆の粉。それでも器具を使い、店と同じようにドリップ式で丁寧に淹れるよう心がけるが、メンスで体がうまく動かないし集中できなかった。試飲すると、案の定まずかった。またいやみを言われると思いながら事務所の扉を開けた私は、息を引いた。

 黒服の男が、支社長室に侵入し、書類をひっかきまわしていた。美栄子は何をしているのかと思いきや、男の横でおろおろと、

「いったいどうしたの。支社長が戻って来たらどうするの」

 と言っている。それでようやく男が桜井だと気づいた。見たことのない黒い背広に黒ネクタイという葬儀屋のようないでたち。その上殺気立っているから青帮のように見えた。動悸が激しくなったが、今さら隠れるわけにはいかなかった。コーヒーを美栄子の机に置き、硝子越しに支社長室の様子をのぞき見たとき、

「あった」桜井が叫んだ。

「何が? その紙は何、竜之助さん」

「今から説明する」桜井は私に気づいた。

「ちょうどいい、あんたもこっちへ来い」

 怒ったような目だった。その下には凄いくまがあった。何を考えているのだろう・・・・・・。私は重い体を無理に動かして支社長室に移動した。

「蒲生はどうせすぐには帰らないから、心配はいらない」

 桜井は蒲生を呼び捨てにした。

「今ごろ、租界の有力者の間を尋ねまわっているはずだ」

「どうしてわかるの」美栄子が聞いた。

「俺は上海週報の記者だぞ。調べたんだ」

 記者とはいえ、桜井が伯母の仲間である蒲生を嗅ぎまわるはずはないのに、なぜ・・・・・・。

「はじめて来た日にこの会社は臭いと感じたが、その通りだった」

「この会社が臭い?」

「順を追って話すから落ち着いて聞くんだ。汎太平洋通商会社は日米合弁の貿易会社で、羅府に本社があるとされているが、そんな会社は亜米利加の貿易会社や船会社に問い合わせても誰も知らなかった」

「え」

「上海支社の資本金は三億ドルで、普通株一株当たり一ドルと銘打っているが、株券を実際に発行したかも確認できない。顧問弁護士は共同租界パブリング・ウェル・ロードに住むエルマー・F・ランデンとなっているが、その名前は電話帳に載っていなかった」

「ちょっと、どういうこと」

「上海の汎太平洋通商会社は今年の八月三十日に設立された。定款記載の会社設立者は上海在住のアンソニー・M・ランデン、マニュエル・G・ブラッセルと、羅府のジャック・F・ドーランとなっているが、このドーランは過去二十年間ハリー・チャンドラーの個人秘書だった」

「チャンドラー?」

「加州(カリフォルニア)の不動産王で、石油業界と密接な関係を持つ共和党保守派の指導者だ。フーバー大統領や歴代大統領のハーディング、クーリッジとも親しい。元秘書のドーランは今でもチャンドラーの事業に関わっている」

「大統領とつながってる人が、この会社の設立者?」

「ああ、この会社は亜米利加の政界と関係しているんだ。取引内容を見てもわかる。これがその書類だ」

 蒲生の机にあった紙を読みあげた。

「『九月二十九日――蒲生が契約をとったと大騒ぎした日だ――紐育市のメタル・オン社は、上海支社のジョン・ワーナーを通してわが社から、十月二十三日以前の上海発紐育向け最近船便にて出荷の上質中国産ウォルフラム鉱一千トンを買い付けた。オン社はこの契約条件履行のため、桑港(サンフランシスコ)のバンク・オブ・アメリカに、わが社宛合計一一〇万ドルを限度とする取消不能信用状発行の手配をした』」

「一一〇万ドル?」莫大な金額だ。具体的なことは私も知らなかったので驚いた。

「ウォルフラム鉱から精製されるタングステンは自動車、飛行機、工作機械などの製造に不可欠の金属だ。オン社の顧問弁護士は、同出荷を確保できるよう米国務省国務長官宛に手紙で懇願している。また蒲生の記録に『亜米利加最大のタングステン鉱山のオーナーであるネバダ社の社長セーゲルストム氏は、オン社と協力して、わが社との商談を行ってきた。セーゲルストム氏が本取引に関心を有しているのは、中国産ウォルフラム鉱をできるだけ獲得すれば、亜米利加の緊急需要に備えることができるからだ』とある」

 顔をあげ、

「タングステンだけではない。ある薬も取引に使われている可能性がある」

 私を睨むように見た。

「その書類が見つからないのが残念だ」

 今、わかった。桜井が昨日密勒路の家に来たのは調査が目的だったと。接吻しようとしたのは、ごまかすためだった。私が好きだからではなかった。一緒にハイアライに行ったのも壜のことを知るためだった。うぬぼれたのは、間違い・・・・・・。

 桜井は薬のことにはそれ以上ふれず、美栄子に向かって、

「とにかくこの会社は普通じゃない。汎太平洋会社はおそらく日米政府の工作のために便宜上作られたものだ」

「政府の工作?」

「日中関係が悪化するなか、日本政府は稀少品を出荷することで、亜米利加に見返りを求めていると考えられる。日本政府は関東軍とちがって戦争は望んでいない。中国が開戦にふみきれば終わりだが、日本が亜米利加と結べば、中国に開戦は無謀だと思わせることができ、戦争は避けられる。だから日本政府は表向きは民間会社からということにして亜米利加の欲しがるものを輸出し、米政府との関係を強化しようとしているのだろう。ただ現時点では輸出できていない。それで蒲生は船腹確保のため必死になって有力者の間をかけずりまわってるんだ」

「じゃ、蒲生支社長も政府の関係者ってこと?」

「その点ははっきりしない。蒲生出太郎は亜米利加と日本を何度も往復したことがあって加州の石油業界では有名らしい。妻とは去年離婚。BOIに要注意人物とされているようだ」

「BOI?」

「Bureau of Investigationの略称で亜米利加の捜査局のことだ。目をつけられた理由はわからない」

 伯母とのつながりまでは、桜井はさすがに口にしなかった。

「とにかく蒲生は普通の人間じゃない。だから美栄子、こんな会社は一刻も早くやめた方がいい」

「いきなり言われても」

「この会社は政府の平和工作のために作られた。開戦を望む人間が、その実体に気づいたら、間違いなく攻撃する。最悪事務所ごと吹き飛ばされる危険だってあるんだぞ」

「でも、実体を知られるとは限らないでしょう」

「俺が知ったぐらいだ。いつ何が起きるか。身を守るためにはここを離れるしかない」

「待って、待って、すぐには頭の整理ができない」

 美栄子の焦りようは芝居には見えなかった。

「考えてる暇はない。選択肢は一つ、ここを出る、だ」

 桜井は真剣だった。偽装交際と思ったのは誤りだったようだ。――そうか、美栄子を守るために、この会社の実態を伯母に無断で探ったのか。

「保柴さんもだ」とってつけたように言った。

「無理にいることはない」

「ちょっと竜之助さん。二人で話したいんだけど。重要なことを決めるんだから」


 私が化粧室に行き、おむつを取りかえて戻っても二人はまだ話し込んでいた。そのあと抱きあったのが見えた。

コーヒーを一気飲みしたら、カフェインに鉄分を奪われた感じで気持ち悪くなった。

 紙の花が机に舞い落ちた。窓から風にのって日本の軍艦マーチが聞こえる。黄浦江に停泊中の駆逐艦が流しているのだろう。二人は突然出てきて、私の前に立った。

「美栄子は会社を辞める」

「私たち、結婚するの」

 あっけにとられて声が出なかった。

 桜井の顔は真っ赤だった。

「あんたもまともな道を選べよ」

「私は辞めません」

危険も何も承知で蒲生に雇われたのだ。その目的のために人生を賭けてきた。これまでの努力を無にするわけにはいかない。

「残念だ」そっけない口調だった。

「俺がいろいろ探ったことは言わないでくれ」

「ねえ竜之助さん、子ども何人作りたい?」

「うーん、三人」

「男の子が何人?」

「男が二人で、女が一人だな」

「私は女の子二人がいい」

「じゃ四人作ろう」

 二人は幸せそうに笑った。桜井が平凡な家庭を持ちたがるとは・・・・・・幻滅した。気持ちが急速に冷めていった。もともと大して好きではなかったのだ。見かけに眩惑されていた。孤独な一匹狼と信じ、この人となら理解しあえると思い込んでいた。私の運命の人は存在しないのだろうか――。

 美栄子はあっさりと退職願を書きあげ、蒲生の机に置いて婚約者と去った。桜井は密勒路の家に昨日置き忘れた上着のことを最後まで口にしなかった。美栄子の前ではできなかったのだろうが、私と二人になる機会はあったのに言わなかったところをみると、取り返す気はないらしい。私はもう用済みだから、接触するのも嫌ということか。


 その夜、私は盗んだ写真を娼館『桜花』に持って行った。複数の従業員が、写真の美栄子を指さして「みせこだ」と口をそろえた。

 伯母に伝えた。失踪したことになっている娘が、どういう経緯で汎太平洋会社の秘書になったのかを聞きだそうとすると、

「あんたは知らなくていいわ。それより自分のことに集中して頂戴。明日の晩、顔合わせがあるでしょう」

「蒲生さんにも言われた、白人二人に会わせるって。どんな人たちなの」

「名前はまだ言えない。両方大物で、平和目的の活動を行っている。反軍の点で一致するから、協力しあうことになったの」

「私たちの正体は知らないんでしょう」

「でも私たちの本当の目的は教えたわ」

「また勝手に・・・・・・信頼できるの?」

「彼らなら大丈夫。教えた方が間違いないし、いざというときに力を借りられる。だから何か頼まれたら、必ず引き受けなさい」

「頼まれるって何を」

「明日になればわかる」

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