第九章 上海・一九三一(昭和六)年 十月二十三日 保柴芳子
「朝からずっとあの状態だよ」
美栄子が言った。同僚になって一か月。一回り以上年下なのに私を見くびり、敬語を使わなくなった。自分の席から、硝子の向こうを覗き込む。
蒲生支社長が机の上に仰向けになっていた。シャツからはみ出た太鼓腹が、いびきと連動して上下する。
「見苦しい上にうるさいったらありゃしない」
眉間の皺が動く。相変わらず人の顔に見えるが、この頃では別のものにも見える。文字だ。漢字でも仮名でもなく、亜剌比亜文字のような・・・・・・。
「いくら思い通りにならないからって、ふて寝しないでほしいよね」
「何があったの?」私は知らないふりをして尋ねる。
「一か月前にとれたと騒いでた契約があるじゃない。あのとき支社長、何とかっていう特殊なものを買い付けさせてね、ええと・・・・・・」
穴だらけの知識を披露する。
「詳しくは言えないんだけど、紐育(ニューヨーク)に本社がある会社に、船便で今日までに出荷予定だったのに、船がないからさ」
排日ボイコットのため、上海における日本の貿易はほとんど停止していた。船腹不足で出荷を遅らさざるをえない。非常に重要な取引だったため、さすがの蒲生も途方に暮れていた。
「だけどふつうは心配ごとがあったら寝られないよね。いい気なもんじゃない。こっちはこんな忙しいのに」
大量の紙の花作り。ほかに仕事のない美栄子は、飾りが汚れたといっては、いちいち作り変えていた。この頃では私にも手伝わせる。私は暇ではなかったのだが、断れなかった。
「ちょっと保柴さん、もう少し丁寧に折ってくれる? そんなんじゃ飾れない。ね見て、こう、こうやるの、こういうふうに端と端を合わせて。ちがうちがう、こうだってば。そんなに難しい?」
桜井が私に付き添ってハイアライに行った日からずっと敵意を感じる。あれ以来彼が私に優しくふるまうことはなかったけれど、美栄子は本能的に不穏なものを嗅ぎとったようだ。私の思いにも気づいているふしがあった。私は男に好かれる年でも容貌でもないが、だからといって安心はできないと判断したのだろうか。
朝私が挨拶しても無視することがある。勝手に掃除当番を決めて雑巾がけをさせ、蒲生のごみ箱の位置が少しずれただけで「支社長が怒っていたから気をつけて」などと嘘ともまこともつかぬ注意を浴びせたりする。
「年とっても、駄目な人は駄目だね」いやみがはじまった。
「今朝も市電で中年の婆アが鞄を押してきてさ。頭にきた、あの不細工」
「婆ア」も「不細工」も私へのあてつけにしか聞こえない。この二つの言葉を、美栄子は何かと口にする。若さと外見だけが取り柄の女らしい。
失踪した娼婦みせこと美栄子が同一人物という考えを私は捨てていない。だが本人に確かめる勇気は依然としてなかった。これまでにわかっているのは、フランス租界の外れの下宿に住んでいるらしいということだけだった。
この娘の話題は恋人のことばかりだ。何かにつけて自慢する。桜井はテニスもゴルフも得意で特訓してくれるだの、ダンスが好きで新しいステップを仕入れては自分と試したがるだの、レコード収集が趣味でクラシックから流行歌まで幅広い曲を聞かせてくれるだの。
「彼と写真館で撮ったんだ」
聞こえないふりをしたが、美栄子は目の前につきつけた。
「見て、ダンスホールの帰りだったの」
美栄子が桜井と笑顔で並んでいる。正視できない私に、勝ち誇ったように言った。
「私たちの記念」
・・・・・・この写真を、娼館『桜花』に持って行けたら、美栄子がみせこと同一人物かどうか確認できる。
写真を盗む方法を考えようとしたとき、蒲生が起きあがって私を呼んだ。
午前十一時。さわやかな秋晴れにもかかわらず、密勒路は静まり返っていた。
普段は陽だまりで刺繍をする中国人の老婆や、靴を縫う女中たちをたくさん見かけるが、誰もいない。家々は扉を閉め切っていた。週に何度か、午前中の数時間、向かいの屠場で牛や豚が殺される。今日はその日にあたった。五階建ての蜂の巣状の窓は、血と水の生臭い匂いを漂わせていた。
おかげでうちの臭いを誤魔化せる。実験に使用する液体を処理するには絶好の時間だ。赤煉瓦の家に入った私は早速作業にとりかかった。蒲生に言われた仕事があとに控えているため、急がねばならなかった。桶のふたを開けると、むっとする臭いが鼻にまつわりつき、体にしみこんだ。なかのものを移しかえるうちに気分が悪くなる。それでも作業を終え、一階のソファで庭を眺めると、おのずと空腹を感じてきた。
ちょうど正午で向かいの屠殺も終わったようなので窓を開け、空気を入れ替えた。
この家は落ち着ける。余慶坊の住まいは、今でもなじめない。虹口北部の住宅密集地に借りたひと間。部屋はそれなりに広かったが、伯母と二人暮らしなのが息苦しかった。朝晩しか顔を合わせなくても、監視されている感じがつきまとう。
ここなら解放感を味わえる。
雲南ハムを挟んだサンドイッチとコーヒーの昼食をすませてまもなく、玄関のベルが鳴った。
蒲生に聞いた予約時間通り、客は訪れた。
流行遅れのカーディガンに薄汚れたシープスキンの靴。ひと目で陳潔とわかった。蒋介石の元妻だが、気おくれは感じない。私より不幸な人。夫に捨てられ、存在を否定され、世間に見放され、入水自殺までしかけた。二十代半ばとは思えない暗い目。
私は無言で迎え入れた。
「痾拉(アーラ)」と陳潔は言った。
合言葉だ。それだけ口にすれば、自分からは何も話さなくていいと客は伯母に言われて来る。刈屋珈琲店で選ばれた客が、ここを紹介される。訪れるのは、孤独な年増婦人。
私は荷物と上着を預かった。上着といっても薄いカーディガンだが、少しでも身軽な格好になってもらう習わしだ。階段を上り、二階に案内する。昼でもカアテンをおろした部屋。天井からつるされた彩燈が、蚊帳とそのなかの寝台を照らしている。寝台は紫檀で唐草模様が透かし彫りされ、金銀の象嵌や青貝の螺鈿がはめこまれてある。紅漆の布をかけた大きな枕、黒光りする敷物。夏場にはひんやりした感触の快い獺虎(ラッコ)の毛皮の上に、陳潔を横にさせた。
「今日はあれの何日目ですか」中国語で尋ねると、
「二日目です。だから来ました」陳潔は答えた。
「馬桶(モードン・・・木製の便器)をお使いください」私は寝台の下を指した。
「では今から安らぎをお運び致します」
寝台の横の長方形の台に盆を乗せ、幾何学模様の象牙の小壺のふたを開けた。馥郁たる香りが流れ出る。なかには煙膏といわれる褐色の水あめ状の液体が入っている。生鴉片に水を加え、煮つめて練膏状にしたものだ。盆には煙管や豆ラムプなど、鴉片を吸うための七つ道具が置いてあった。
客は寝台で寝ながら不安のない世界に飛べる。上質のものは決して安くないが、代金は要求しない。お金のかわりに、うちが必要なものを提供してもらう。
「馬桶をお忘れなく」
念押しして部屋を出た。いったん屋根裏に行き、粉末Cに異常がないことを確認してから一粒だけとりだし、混合液五百滴の中に溶かして、敵を思いながら希釈と振盪を繰り返した。さらにその溶液で粉末Aを数粒湿らせ、密閉した壜に入れ、第三段階の印をつけて粉末Dとして保存した。
馬桶には期待以上のものが残されていた。陳潔が帰ってまもなく、玄関のベルが鳴った。いったい誰。今日の予約は一人だけのはずだ。覗き穴を見た私は心臓が飛びでそうになった。開けてはならないのに、扉を開けずにはいられなかった。
「痾拉」そう言って桜井竜之助は照れたような笑みを浮かべた。
「どうして・・・・・・」
合言葉を知っているのか。なぜここへ。様々な疑問が一度にわいて言葉にならなかった。私の心を読みとったように桜井は言った。
「蒲生さんに聞いて来た」
「え」
「詳しいことは中で。ここに立ってると人目につく」
つい、中に入れた。
「蒲生さんは桜井さんに何て・・・・・・?」
「そうそう、伝言をことづかってたんだ。俺もほかのお客と同様に扱うようにって」
蒲生にそんなことを言う権限はない。ここは男子禁制の場だ。伯母の紹介なしには女でも入れない。桜井の入場が許可されるわけがない。伯母は日支闘争同盟の人間には真の目的は秘密にしている。桜井はこの家の存在さえ知らされていないはずだ。
ならば、なぜ――。
「美栄子には内緒で来た」
その一言が、私をうぬぼれさせた。桜井は私のあとをつけてきたにちがいないと思った。本当は私が好きで、会いたくて我慢できなくて、この家の前まで来て、陳潔が入ったのを見て合言葉を真似た・・・・・。
「では、上着をお預かりします」声がはずんだ。
「ここに入った人には、そうしていただく習わしですので」
受けとるときポケットをつかんだ私は、かたい紙に触れたのを感じた。紙ではない、写真だ。美栄子と撮った写真だと直感した。これを盗めば・・・・・・。一人になったときに・・・・・・だが二階にあがらせるわけにはいかない。伯母が知ったら、ただではすまない。
「甘い匂いがするな」桜井は室内を見渡した。
「鴉片だろう」
「まさか、ちがいます」
「いや、俺にはわかる」
鴉片が社交の道具として使われる中国に長年いることを思えば、不思議ではなかった。
「そうか、そういう場所か。いくらだ」
「いえ、あの・・・・・・」
「これだけあれば、足りるか」紙幣を出した。
「吸わせてほしい」
「え」
視線がからみあい、桜井の唇が近づいた。
「君の唇を・・・・・・」
熱い息が、瞼にかかった。マスクを外されそうになった瞬間、私は無意識に彼の体を押しのけていた。
桜井は顔をこわばらせ、
「忘れてくれ、俺はここには来なかった」
そう言って去って行った。
上着を衣桁に残したまま――。
ポケットには、予想通りの写真が入っていた。これを娼館『桜花』に持って行けば、美栄子がみせこと同一人物と確かめられるというのに、喜べなかった。
私は接吻を逃がした。
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