第七章 上海・一九三一(昭和六)年 十月二十三日

「ちゃんと消せって言ってんだろ!」

 朝なのにカーテンを閉めきったままの二階で、日本人将校は思いきり拳を机に叩きつけた。

「いつになったら終わるんだよ」

 昨夜、何者かが陸軍武官室の壁に落書きをした。

「コールタールで書かれているため、ペンキで塗りつぶしているところであります」

 若い陸軍少尉が答えた。

「コールタール?」

「はい、水では消せません」

 将校は坊主頭の血管を怒張させた。

「そもそもなぜ現場を押さえなかった。すぐに気づくべきだろうが。こんなものまで投げ込まれやがって」

 庭に袋が落とされていた。袋には、婦人の髪の毛が四人分、入っていた。

「警備は、貴様の仕事でもあるだろうが」

 将校は少尉を殴り倒した。

「立て、この野郎。何を笑っている。うふふふ、だと?」

「いえ、自分は・・・・・・」

「貴様が早く洗い落とさんから、主婦どもが外壁に集まって笑いだしたろうが」

「あ、あれは子どもを送り出した母親たちが、日本人小学校の伝達事項を話している声であります」

「うるさい、うるさい! 愚かな民どもがお上の苦労も知らずに朝から下らん暇つぶしをしやがって。あとで行って黙らせてこいっ」

「はい」

「今回の件は領事館に知られないようにしろよ。これは俺のヤマだ。この一か月、石原莞爾や土肥原賢二ら関東軍は奉天、長春、吉林を占領、錦州を爆撃し大活躍。今や満州新政府を樹立せんとさえしている。それに反して、こっちはどうだ? 蚊帳の外だ」

 上海公使館附陸軍武官・小野長盛は醜く歪んだ顔を近づけ、

「だが、上海で戦争を起こすのは、この俺だ。やつらに手出しはさせない。俺が、上海の王になる。そのためには、手段は問わない。関東軍を敵にすることもいとわない。必要とあらば、祖国だって裏切る」

「・・・・・・」

「おまえも同じ穴のむじなだ。今さら引き返すことはできん。いいな」

「・・・・・・はい」

「聞こえんぞ」

「はいっ」

「戦争を起こすには口実がいる。関東軍のやつらは自ら満鉄線を爆破し、支那軍のしわざと主張した。俺もやつらにならって謀略をしかけるが、失踪事件は格好の口実だ。俺の計画が成功するもしないも、この事件の鍵を握れるかどうかにかかっている」


 その夜、小野長盛陸軍武官を乗せた黒塗りの自動車は、アヴェニュー・エドワード七世にあるフランス風の大邸宅前で停車した。

 灯火に照らし出された広大な前庭。金看板には『Paris Dream Club 巴黎夢倶楽部』の文字。モーニング姿で黒眼鏡をした小野長盛は、大玄関の前で会員証を提示した。黒服の男が数人、取り囲んで身体検査をした。金の腕時計に目をとめると、うやうやしく礼をし、ボーイは丁重に奥の一室へと案内した。腕時計は、中国政府主席蒋介石から小野長盛への贈り物だった。

 大理石の廊下の先の扉が開き、甘い蜜の香りが鼻をついた。たちこめる白煙。ボコボコという水が泡立つような音。

 淡い琥珀色の電灯で照らされた部屋の中央には、細長い硝子の花瓶のようなものが置かれていた。そこからは管が四本伸びていて、それぞれの先端に人が口をあてていた。

 水煙草だった。水パイプとも言われ、上部の火皿に煙草を置き、その上に燃える炭をのせて吸い口から吸い込むと容器中の水が濾過され、音を立てながら器具内の水を通った煙が口の中に入る。今四人の男が車座になってパイプを共有し、煙を吐きながら言葉を交わしていた。

中佐が入ると男たちは軽く頭を下げた。四十代半ばの上質な長袍を着た中国人が二人。一人は長身で耳が大きい。もう一人は小柄だが尊大に構えている。あとの二人は背広を着たドイツ人だった。六十過ぎの細身で癖のある顔をした老人と、三十代の中肉中背で神経質そうな男だった。

「いやあ、ここは相変わらず別世界です」

 水煙草の輪に加わった小野長盛は英語で言った。

「そうさ」

 三十代のドイツ人、シーメンズ上海支社社員のハインツ・ヘーネがうなずいた。

「ここに来れば少なくとも時間は忘れられる。生き甲斐のない僕には不可欠の場所だ」

 そのとき部屋のどこからか呻き声がしたが、ドイツに研究所を持つ老学者、カール・ハウスホーファーは眉一つ動かさず、

「いったいここはどのくらいの広さなんだね」隣の中国人に尋ねた。

「七百坪です」大耳の中国人、杜月笙が誇らしげに答えた。

「馬鹿に広大だが、ぜんたい何がつまっているのだね。私は会員でありながら水煙草しか吸わぬから、いまだ知らぬのだが」

「ルーレット、バカラ、ポーカー、麻雀、その他世界各国のあらゆるゲームのテーブルをそろえております」

 杜月笙は上海一の秘密結社・青帮のボスだが紳士的に応じた。

「もちろん一流の西洋料理や中華料理をご堪能いただける場所もございますし、お好みに応じて阿片や婦人も提供しております」

「杜先生の経営するナイトクラブには必要なものが何でもそろっています」

 小野がおべっかを使った。

「日本人の私を今でも会員にして頂いて大変ありがたく思っています」

 杜月笙は悠然と煙を吐き、

「あなたは例外です。ほかの日本人は現在会員として認められません。反日運動は錦州爆撃以降、ますます過熱しています。抗日救国会などは対日経済絶交を宣言し、日系新聞に広告を出したり日本船に乗船しただけでも売国奴とみなし、極刑に処すと息巻いているぐらいです」

「そのさなかに例外とはいえ、日本人の僕を受け入れるなど、杜先生だからこそできることです」

 小野は煙にむせつつ、みっともないほどへつらった。

「杜先生の度量の大きさにはまったく頭が下がります。それに比べ、わが日本人ときたらどうでしょう。悪いのは自分たちにもかかわらず、ボイコットに激怒するわ、双十節の日(辛亥革命の武昌蜂起の日)に中国の対日経済絶交を武力でやめさせるよう日本政府に働きかけるわ。これでは中国人に憎悪されるのも当然です」

「確かに日本人居留民の行為は、中国側の抗戦意欲をいっそう高めています。そうですね、主席」

「われわれ南京政府はどうにか対日不抵抗方針を保っているが、今や総辞職か開戦かというところまで追いこまれている」

 主席と呼ばれた小柄な中国人――蒋介石が煙を吐きつつ応じた。

「だがその状態こそ、こちらの思う壺と言える。広州の国民政府の汪兆銘らは今が私を倒す好機とみているが、連中は政権を手に入れたところでどうせ何もできない。いずれ国民は私の真価を知る。そのときこそ、行動にうつるべき時期なのだ。それまでは中日関係がどれだけ悪くなろうが問題ではない」

「両国の緊張が高まることは、むしろ好ましいです。ただ国際社会の目につきすぎると面倒ですね」

 ヘーネが煙に目を細めながら言った。

「実際、国際聯盟の風向きは錦州爆撃を境に変わりました。アメリカが理事会に参加するにいたり、日中が戦争を起こさないよう圧力をかけはじめています。両国は平和的手段によって紛争を解決すべきだと」

「平和になっては困るのだ。世界大戦の敗戦によってわがドイツ軍は縮小され、参謀本部は廃止された。だがその精神と機能は、海外に拠点を移すことによって、ひそかに生きている。蒋介石将軍は三年前、わが国の将校を招いて軍事顧問就任を要請してくださった」

「ドイツ軍事顧問団に提供して頂く最新の兵器や戦術によって、わが中国軍は非常な進歩をとげています」

「こちらこそおかげで機能を維持できます。ただ肝心の実戦が足りません。中国が日本と戦争をしてこそ、われわれの力はより強化されます。ところが――」

 ハウスホーファーは小野に顔を振り向けた。

「また昨日、反戦ビラが投げ込まれたそうだな。文面は例によってドイッチェ(ドイツ語)だったのかね」

「いえ、それが今回は日本語で、ビラではなく落書きでした。こちらは陸軍武官室の壁を撮影した写真です。二種類の文があります。書き写しましたので、ご覧ください。ドイツ語訳と、中国語訳はこちらです」

 かつて日本のドイツ大使館附武官だったハウスホーファーと、日本の陸軍士官学校出の蒋介石は日本語がわかるので原文を読み、ヘーネと杜月笙はそれぞれ訳文を見た。

「一つ目は、例によって反戦文です」

 上部には次の文が書かれてあった。

――支那から手を引け! 侵略戦争反対! 日本軍隊は撤退せよ! 日本帝国主義打倒!

「筆跡は、以前投げ込まれたビラと同じでした。両方とも日支闘争同盟の反戦分子のしわざにちがいありません。彼らは例の失踪事件にも関わりがあると考えられます。昨夜は庭にこんなものが投げ込まれていました」

 小野は巾着袋を見せ、糸で束ねられた四本の黒髪を取り出した。

「こちらの同封の紙に、『花坂みせこ、菅ケイ、今井市子、山田幸代の髪の毛』と書いてあります。落書きと同じ筆跡であることからしても、失踪事件の犯人は、日支闘争同盟の人間だと推定できます」

「そいつらの要求は日本軍の撤退?」ヘーネが尋ねた。

「そうとは限りません。といいますのも、後半にまた意味不明の文がつづられていましたので」

 小野は下の文を示した。

――おのが衣を洗ふ者は幸福なり。彼らは生命の樹にゆく權威を興へられ、門を通りて都に入ることを得るなり。

「ふむ、また聖書の抜粋か。前回のビラにはヨハネ黙示録二十二章から引いた文が、ドイッチェで書かれてあった。確か、『河の両岸には生命の樹があり、十二種類の実を結び、その実は毎月実る』だったな。その解釈は前に君に聞いたが。犯人はまたも薬の存在を強調したがっているようだな」

「ええ、犯人は何らかの意図あって日本軍に『薬』の存在を示し、手に入れさせたがっていると考えられます」

「なぜだ」蒋介石が聞いた。

「失踪した婦人たちの勤め先に残された文字を時系列順に並べるとアラカツになります。内地の調査結果が出まして、日本に昔、アラカツ丸という薬があったことがわかりました。アラカツ丸は百六年前、すなわち一八二五年に江戸で文芳と名乗る女が売っていたものだそうです。文芳は、秘薬を作ったとされる人物です。その文芳の名が、昨夜武官室の落書きの下に、署名されていました」

 小野は壁の写真の下部を示した。

「主犯は秘薬に関わりがある者のはずです」

「君はすでに前回、主犯は見当がついていると言った。やはりその人物か」

「その可能性が高いです」

「その人物は日支闘争同盟に属してはいないのだろう?」

「はい。ですが、同盟の人間を利用しているのは間違いありません」

「あたりがついているなら、なぜ取り調べない?」ヘーネが苛立ちを表した。

「確証がありませんので・・・・・・」

「そいつは薬の存在を仄めかしているんだよな。そういえば、秘薬が日本から上海に渡ったのは、百七年前の一八二四年――」

 ヘーネは思いついたように言った。

「秘薬はアラカツ丸?」

「それが、ちがいました。アラカツ丸は大衆向けの薬だったんです」

「何だ。それなら犯人が秘薬を持っているとは限らない。秘薬の所在はいったい、いつわかるんだ」

「・・・・・・申し訳ありません」

「しっかりしてくれたまえ。一八二三年から六年間、日本に滞在したドイツ人学者の残した資料には、秘薬は長崎で作られたあと、中国上海に渡ったと確かに記されてあった。だからこそ、われわれはドイツから派遣されてきた。閣下が秘薬を必要とされているからだ。そのことは小野君、君もわかっているだろう。早く手に入れてもらわねば困る。結果を出せなければ、閣下は君を援助できない」

「必ず、期待にこたえます。主犯とおぼしき人間の監視はつづけているのですが・・・・・・」

「われわれも、行っています」杜月笙が声を張り上げた。

「主犯とその仲間と思われる者どもはもとより、秘薬らしき壜がハイアライでジョンソンと称する肥ったアメリカ人に渡って以降、そいつの監視もおこたっていません」

「しかしそのアメリカ人が持っている壜は、おそらく偽物だろう」

「同感です」小野がうなずいた。

「犯人の一味は監視に気づいて、わざと目立つ場所で壜の受け渡しをしたと思われます。自分たちが秘薬を持っていると匂わせるために」

「やつらが君を薬に導こうとしているのはわかった」蒋介石が言った。

「だがその意図は何だ。戦争阻止か?」

「真の狙いは、いまだわかっていません」

 すると杜月笙が、

「われわれ青帮は今朝、組織を総動員して街を探って参りました。その結果――」

指を鳴らした。

 奥のカーテンがサッと引かれた。

「こいつを拾いました」

 天井から全裸の男がつるされていた。両手を頭上で縛りあげられ、死んだように目を閉じている。床におびただしい血痕があった。胸と膝の皮膚を剥がれ、血を流した体は紙のように弾力を失っていたが、まだ三十代らしかった。青帮の男に傷口をナイフでつつかれると呻いて瞼をあげた。

 杜月笙が目顔で催促すると、部下が言った。

「貴様は日支闘争同盟の一員だな?」

 中国語をヘーネのために杜月笙が英語に訳した。周囲の変化に気づいた男は、目を見開き、あえぎつつも答えた。

「そうだ。俺は、日支闘争同盟に属している」

 発音には日本語訛りがあった。

「日本陸軍武官室の壁に落書きしたのも、貴様か」

「そうだ。――なぜ中国人が責める」

「口を開くのは質問に答えるときだけにしろ。貴様の名は?」

「副島孝史(フーダオ・シャオシー)」

「日本人だな。仲間の名は?」

「・・・・・・」

「さっさと吐け!」

「・・・・・・死んでも言うか」

「こいつは名前と所属以外は吐こうとしません」

「もっと痛めつけたらどうです」小野長盛が言った。

「しかしこれ以上やりますと・・・・・・」

「同じ日本人の僕が責任をとります」

「そうおっしゃってくださるなら、遠慮なくやりましょう」

「いい退屈しのぎになる」ヘーネが背もたれから身を起こした。

「私が訊問してもよろしいでしょうか」

「どうぞ、お願いします」

 副島は小野が近づくなり、目をむき、言った。

「おまえは・・・・・・」

 その名を口にしようとしたとたん、小野の拳が肉にくいこんだ。

「ひざ、膝が・・・・・・」

「やめてほしければ吐け。貴様は誰に使われている」

「・・・・・・何のことだ」

「日支闘争同盟は失踪事件に関わっているだろう。主犯は誰だ?」

「・・・・・・」

「言え、言わんと睾丸を抜くぞ」

「知るか」

 小野は杜月笙を見た。杜月笙は部下に合図を送った。青帮の男はナイフの刃を睾丸にあて、えぐった。血が噴出し、凄まじい叫び声があがった。

目前の光景にヘーネは口ほどもなく青ざめたが、ハウスホーファーと蒋介石は目を爛々と輝かせた。小野も薄笑いを浮かべ、

「どうだ、吐く気になったか」

 副島は目を吊り上げて耐えていた。

「主犯は誰だ」

「・・・・・・」

「質問を変えよう。貴様たちの本当の狙いは何だ。なぜ薬の存在を知らせようとする。答えろ!」

 副島の目は力を失っていた。

「おい、命は惜しいだろうが。惜しければ吐け! 薬はどこにある」

副島は意識を失っていた。

「おい、薬はどこだ。おい!」

「どうやらお陀仏のようです」杜月笙が慣れた顔で言った。

「こうなったら青帮のやり方で処分しますが、皆さんよろしいですか」

 四人はうなずいた。

 青帮の部下は縄を調整し、瀕死の副島を適当な位置に下ろした。つづいて青竜刀を手にとり、頭上にかまえ、勢いよくふりおろした。ぎゃっという断末魔の叫びと、ごぼっという異様な音が同時にし、首が胴体から切り離され、床に転がった。

切り口はぴくぴくと痙攣し、肉からどす黒い血を噴出させた。

「ハッハッハッハ」

 小野は狂ったように笑い、血の海に浸した箒を宙でぐるぐると回し、副島の胴体に飛び散らせた。

 ヘーネは口をおさえて化粧室にかけこんだが、ハスホーファー、蒋介石、杜月笙は黙々と拍手をした。

 

「あら、将校さん」

 刈屋珈琲店のマダムは、とってつけたような笑顔を見せた。

「一か月ぶりにいらして、まあ驚いた」

 言葉とは裏腹に予期していたような感じがあった。毎晩午後十時過ぎには来店するはずの四人組がいないのがその証拠のように思われた。

「はい、お土産」

 小野長盛は怖いくらいの笑みを浮かべ、包みを渡した。

「もうこんな気を使って頂かなくてもよろしいのに、すみませんねえ、いつもいつも――これは・・・・・・」

 マダムの顔がこわばった。真っ赤な実の串刺しが六本、並んでいる。山査子だが、小野は意味深長な視線を投げて一本つまみ、実を食いちぎった。

 マダムは串刺しでべとついた手に目をやって、

「今お手ふきを用意しますね。少々お待ちを」

 奥へ行こうとするのに、

「いや、いらない。ほら」

 手の平をカウンターの木目になすりつけ、小野は残った汚れを舌で舐めとった。

「これでぴかぴかになった。マンデリンを頼むよ」

「・・・・・・かしこまりました」

「今日は調査経過を報告しようと思ってね、マダム」

 豆を挽く手が一瞬止まった。

「閉店まで時間がないだろうから手短に話すよ」

 小野は一方的に話しはじめた。

「伝単の文は、『河の両岸には生命の樹があり、十二種類の実を結び、その実は毎月実る』だった。『河』は黄浦江、『生命の樹』は犯人の隠れ家を意味するというマダムの解釈を僕は警察に伝えた。領事館警察はその解釈にもとづいて租界警察と合同で、黄浦江一帯の捜索を開始した。沿岸の木、桟橋、倉庫、船を一つずつくまなく調べ、一か月間監視をつづけたが、それらしき場所は発見できなかった。ところが最近、バンドの一ビルヂングに、怪しい動きがあってね」

「怪しい動きとは?」

「詳細はまだ言えない。とにかくアラカツが手がかりになった。失踪した婦人たちの勤め先に残された文字を時系列順に並べるとアラカツになると僕が言ったら、マダムはアラカツ丸という薬が江戸時代にあったはずだと口にしたね。内地の調査で、実在したことがわかった」

 小野は手帳を開いて見せた。

「アラカツ丸はこの通り、痾拉勝丸と書く。文政八年――一八二五年頃、江戸の浜松町四丁目の薬屋で万能薬として売り出されていた。婦人受けがよく評判だったが、なぜか一年で閉店したそうだ。店主は女で、文芳と称していた」

「ぶんほう、ですか」初めて聞いたような顔をした。

「そう、だから驚いたんだよ。昨夜、うちの壁に落書きされた反戦文と暗号文の下に、この署名を見たときは」

 小野は写真を見せた。壁の下に「文芳」の文字が小さくあった。

「今朝撮ったんだが」

 マダムの目を覗きこむように見た。

「下に聖書の抜粋らしき文があるだろう。写真では見にくい。メモをとった」

 小野は紙を広げて見せた。

――おのが衣を洗ふ者は幸福なり。彼らは生命の樹にゆく權威を興へられ、門を通りて都に入ることを得るなり。

「聖書で同様の文があるか調べてくれないか」

 淹れたてのコーヒーを小野の前に置いたマダムは棚から聖書を出すと、

「やはりヨハネ黙示録二十二章です」

 その部分を詠うように読みだした。

「『この書の預言の言を封ずな、時近ければなり。不義をなす者はいよいよ不義をなし不浄なる者はいよいよ不浄をなし、義なる者はいよいよ義をおこなひ、淸き者はいよいよ淸くすべし。視よ、われ報をもて速かに到らん、各人の行爲に隨ひて之を興ふべし。我はアルバなり、オメガなり、最先なり、最後なり、始なり、終なり、おのが衣を洗ふ者は幸福なり。彼らは生命の樹にゆく權威を興へられ、門を通りて都に入ることを得るなり。犬および咒術をなすもの、淫行のもの、人を殺すもの、偶像を拜する者、また凡て虚僞を愛して之を行ふ者は外にあり』」

 人を殺すもの、にことさら力を込めた。

「けしからん。平和主義者の戯言じゃないか。そんなものは無視だよ、無視」

 小野は匙に砂糖を山盛りにし、珈琲に落とした。

「問題は一番下の署名だ。歴史上まったく無名の女の名を、犯人はなぜ使った。犯人は文芳とつながりのある日本人にちがいない」

 垂れ目がじろりと向いた。

「文芳について調べれば、主犯の狙いはおのずとわかるだろう」

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