第四章 上海・一九三一(昭和六)年 九月二十八日 保柴芳子

 開けるのが、怖い。

 今日は入社日。ここは黄浦江沿岸のビルヂングの中。回転ドアを通り、赤い絨毯の敷かれた広間を渡ってエレヴェーターで七階に上ると、飴色の大時計の隣に、曇り硝子をはめ込んだ扉があった。

 一度開ければ、簡単には抜けられなくなる。

 けれど逃げるわけにはいかない。これまでの苦心を無駄にしてはならない。上海に来た目的を果たすための、これはほんの一歩に過ぎない。勇気をもって飛びこもう。幸い体調はほぼ戻っている。メンスの二日目にあたらなくて本当によかった。今日は五日目だから、出血はほぼない。まだ多少貧血気味だけれど、余分なものは大体出したあとだから、色々なところがすっきりしている。肌も若返った。マスクで皺は見えないから、二十代に見られるかもしれない。

 扉を開けた。若い娘がたった一人、奥の方でスカートの裾をひらつかせて、せわしく立ち働いていた。まだ二十歳ぐらいか。均整のとれた体に高級そうなワンピースを着、流行のパアマネント・ウエイブをしている。八年前に仕立てたツーピースに贅肉を押し込んできた私はすっかり気おくれを感じ、おずおずと声をかけた。

「あの、おはようございます」

 娘は私を見ると一歩下がった。顔がこわばっている。よくある反応だ。マスクに驚いたにちがいない。

「私、保柴芳子と申します。今日から、こちらで働くことになりました。よろしくお願いします」

 娘は元の位置に戻った。香水の匂いがぷんと鼻をついた。目も鼻の穴も大きい。どこかで見た顔のような気がするのは、私の思いちがいだろうか。

「ああ、事務の保柴さんですね」

「事務の」と言った声に見下した響きがあるのが気になった。

「あ、まあ」

 小さな声しか出せずにいると、一回り以上年上の私に対して遠慮のない口調で言った。

「今いらしたんですか」

 私は十時に来るよう言われたから、その十五分前に着いたのだが、初日から遅刻した気になった。

「・・・・・・すみません」

「申し遅れましたけど私、秘書の犬飼美栄子です。どうぞよろしく」

 年下でも自分の方が地位は上といわんばかりの態度だ。

「支社長は今、どちらに・・・・・・?」

「外出中です。朝事務所に電話があって自宅から直接顧客回りをするとか。私も今日入社したばかりで何も指示されていないんですけど、朝八時に来たので、自分から飾りつけをしてました」

「飾りつけ?」

「事務所を明るくするのも秘書の役目ですから。初日から能力を発揮してみましたけど、どうでしょう」

 主婦が新居を見せびらかすようなしぐさをした。

「支社長が帰ったら驚くと思いません?」

 室内は狭かった。女学校の校長室と応接室を合わせたほどしかない。中央に硝子の仕切りがあり、奥にマホガニーの机と重厚なソファ、手前に簡素な机が二つ。天井がとても高く、両開き窓を背景にしているので閉塞感はなかった。全体として格調高い雰囲気が部屋にはあった。

 それが、狂わされていた。そこらじゅうに花、花、花・・・・・・それも紙の花が、壁にも窓にもカアテンにまで貼り付けてあった。まるで子どもの誕生日会。あきれて見ているのを誤解して、

「気に入りました? あのカアテン、白一色で地味だったから、ピンクの花をいっぱいつけて花模様にしたんですけど力作でしょう。経費がかかると秘書失格だから、朝から問屋さんまで行って値切って大量に紙を買って、ここで折り紙して椅子に乗って高い所に貼りつけて、もう体じゅうが痛くて」

 やけにはりきっている。まるで新妻だ。でも奥さんにしては妖艶すぎる。社長の愛人かもしれない。

「本物の花も一つ買ったんですよ。支社長の机、見てください」

何の変哲もない一輪挿しの薔薇だった。

「細工がしてあるの、わかりません? これ花瓶の真中になかなか立ってくれないから、こうやって固定したんですよ。私って知恵があるでしょう」

 茎にひもが何重にも巻きつけられ、花瓶の外側に結びつけてあった。

 絶句していると、美栄子は不満そうに、

「保柴さんって落ち着いてますね。明治生まれですか」

「え、そうですけど・・・・・・」

「じゃあ支社長とほぼ同世代ですね」

「私はもっと下ですけど」

「でも大正生まれの私よりは、感覚が支社長に近いですよね。あの絵、いいと思うかどうか教えてください」

 硝子の向こうの壁に額縁があった。

「支社長、気に入ってくれるかな」

 私はいいとは思わなかった。極彩色の楽園の絵とでも形容したらいいのか。花畑の上を舞う羽の生えた子どもたち。金髪で青い眼で蝋人形のような顔をしていた。一言で言って少女趣味だ。

「裏の画廊で見てひと目惚れしちゃって。一生懸命交渉して、安く売ってもらったんです。事務所に絵が一つもないのも殺風景だから、いいですよね」

「そうですね」無理に同意すると、

「よかった。やっぱり天使っていいですよね。キューピッドっていうんですか。ちがいはよくわかりませんけど、羽の生えた子どもって幸せな家庭の象徴って感じがします。黄浦江でたまたま西洋風の結婚式を目にしたことがあるんですけど、甲板の上に白い衣装を着た花嫁と花婿が天使の格好をした子どもたちと手をつないでいて・・・・・・ああいうのに私、憧れる。保柴さんの結婚式はどんなでしたか」

「私は、結婚してないので・・・・・・」

「うそ。保柴さんって今おいくつ」

「・・・・・・三十五です」

「へえ、三十五歳」

 馬鹿にしたように人を見上げ見下ろし、

「一度も結婚なさっていないんですか?」

 十九だった大正四年、札束を燃やして料理をさせる成金が話題になるなど、日本は欧州大戦による軍需景気にわいていて、私も新興成金と見合いをした。そのたびにヒステリーが起きた。母は呪いの言葉を吐き続けた、「あんたも結局、不幸」――。

「ええ、結婚は一度も・・・・・・」

「じゃ、お子さんもいないんですか?」

 東京の医者は私に言った、

「将来的に出産を希望されるなら、手術で筋腫を摘出した方がよろしいのでは。出血のない月経前にも貧血で倒れたということは、かなり症状が進んでいる証拠ですから。――お年がお年ですからね、早く決断なさらないと、完全に出産できなくなりますよ」

 眼鏡が冷たく光って見えた。

 私の体には子宮筋腫がある。癌とはちがい良性の腫瘍で命に関わるものではないが、月経が重くなったり、過大になって圧迫などによる障害が起こったり、不妊の原因になったりする。

「子どもがいないと年とったときに淋しいって近所のおばさんが言ってましたよ」

犬飼美栄子は無遠慮な発言を重ねた。

「人間的にも成長しないから、女は子どもを産まなきゃ駄目だって」

 この小娘は私が駄目な人間だと言いたいのだろうか。私がろくに口もきけないのは、三十五歳にもなって独身で毎日一人でご飯を食べているから会話の仕方を忘れたためとでも思ったのだろうか。

「あ、私のことを言ってるんです。早く結婚しないとなあって。もう二十歳なのに相手がいなかったので焦ってたんですよ。でも実は最近、出会いがあって。どんな人だと思います?」

 聞きたくもない。だが義理で合いの手を入れた。

「上海の人ですか」

「それが、それが。今、お茶を淹れますから、ちょっと待っててくださいね」

 美栄子はうきうきとした足どりで外の給湯室まで行って戻って来ると、お茶を机に並べ、

「さ、どうぞこちらへ」

 窓際の椅子に招き、私が座る間もなく勝手に話しはじめた。

「その人は日本人で、この前の土曜、桃山ダンスホールで出会ったばかりなんです。年上で四十ぐらいなんですけど独身で男前。日系週刊誌の記者なんですって。忙しいのに実は今夜、キネマを観に行こうと誘ってくれて、はじめてのランデブウをするんです」

 四十ぐらいの週刊誌記者・・・・・・私の思い人、桜井竜之助が頭に浮かんだ。桃山ダンスホールは桜井の親友、手島の会社の近くにある。まさかと思ってすぐに打ち消した。

「彼と結婚できたらいいと思うんですけどね。保柴さんも桃山に行って踊るといいですよ。きっとまだ間に合いますから」

 よけいなお節介だ。踊れないのにダンスホールなど行くわけがない。第一そんな暇はない。

 カアテンが風に揺れ、紙の花びらが音をたてた。河の匂いがする。窓の外には青空と海のように広がる黄浦江が見渡せる。水上には無数の小さな戎克や舢板。それらと比べものにならないほど大きな列国の商船や軍艦。船上にはためくユニオンジャック、三色旗、星条旗、日の丸。汽笛の音が響き渡り、客船が桟橋についた。吐き出される外国人を群がる黄包車が奪い合う。客を乗せた俥は、赤いターバンを巻いた交通整理の印度人に怒鳴られながら、路面電車がボーリング玉の転がるような音をたてて走るバンド通りを横切っていく。それとは別の黄包車が一台、角から曲がって来て、真下に停止した。客は乗っていなかった。俥を置いた車夫はこのビルヂングに入った。


 私には宿命の敵がいる。名前は小野長盛、三十七歳。肩書きは複数ある。上海駐在参謀本部附中佐、公使館附陸軍武官、上海特務機関長。要は日本陸軍参謀だ。軍人だから敵なのではない。職業は関係ない。私はまだ一度も会ったことはないし顔も知らないが、ある深い理由によって、心底憎んでいる。復讐するために伯母と上海に来た。伯母も私同様、直接的な関わりはなかったが、小野を生涯の敵と考えている。強敵だから、それに匹敵する大物の力を借り、計画を立てた。失踪事件もその一つだ。ついこの間、上海で四人の日本婦人が行方不明になったが、あれは伯母が起こした。ただし私は詳しいことを聞かされていない。伯母は後ろ盾やほかの仲間と勝手にことを進める。私に与えるのは、命令だけ。この会社にしてもそうだ。伯母は言った、敵に餌を投げると。あんたを引き抜いた蒲生支社長は仲間よ、従いなさい。後ろ盾とちがって蒲生さんは私たちの真の動機は知らないけれど、目的は同じ。小野長盛を排除したがっている。


 しばらくすると事務所の扉が開き、驚いたことに車夫が入って来た。

「支社長!」美栄子が叫んだ。

「その格好、どうなさったんですか」

 半裸に汚いズボンをはき、床に泥の痕をつけている。汎太平洋通商会社、Pan Pacific Trading Companyは、羅府に本社を置く日米合弁の貿易会社だ。蒲生出太郎は上海支社の支社長ということになっていた。その支社長が車夫の格好をして、

「あっつい、あっつい」

 私に目で挨拶しながら、汗をふきふき奥の席に座ると、美栄子が胸毛から目をそらしつつ差し出した手拭いを受け取った。

「中国人学生が多い所に行ったんで日本人とばれると面倒だから、車夫になりすまして出て来たんやん」

「まあ、人を乗せて俥を引いて来られたんですか」

「いや、乗せろと呼びとめられてもハイヤーと言って無視して駆けて来たやん。ああ、疲れた。飲み物がほしいやん」

 関西人でもないのに語尾にやたらと、「やん」をつけるのは蒲生の癖らしい。

「今すぐお茶を淹れて参ります。ところで社長、部屋の中が華やかになっているのにお気づきになりましたか。飾りつけ、私が一人でしました」

「そうかそうか」

 蒲生は見もせず、黒い受話器をとった。

「この絵、いかがです?」

「あと、あと」

 秘書を追い払った蒲生は、英語で電話の相手とやりとりをはじめた。交渉がうまくいかぬらしく苛立った様子で机上の花瓶をいじりだし、ひもをほどいて薔薇をつかみ、机に放り出した。と、よほど喉が渇いたのか、花瓶を口に持って行き、中の水を一気に飲みほした。ちょうど水をグラスに入れて戻って来た美栄子はそれを見て硬直し、はっきりと顔をしかめた。眉間に皺が刻まれた。年寄のように深い皺――。私は息を引いた。皺は複雑な模様を描いた。それは人の顔のように見えた。ふいにとっぴな考えが頭に浮かんだ。

 この娘は、ひょっとして失踪した娘の一人ではないか。

 娘四人はあの薬を服用した、と聞いている。その薬さえ飲めば、体のある部分に絶大な効果が現れるという秘薬だ。伯母はその秘薬を入手したあと、真偽のほどを確かめるため、四人で実験をした。正確には私も入れて五人だ。

 伯母によると、四人は「失踪」前、私と同じ日に薬を飲まされた。その日から今日でちょうど一週間。しかし秘薬の効果はまだ一度も表れていなかった。そのかわり、眉間に変化が生じた。鏡を見たとき、顔をしかめたら、美栄子と同じように複雑な皺ができた。秘薬との関連性ははっきりしないものの、副作用のように思えてならない。肝心な部分には効かず、おかしな皺ができる。私と同じ現象が表れるということは、美栄子もあの秘薬を飲んだ一人、すなわち失踪した娘である可能性が高い。

 失踪事件は復讐計画の一部とはいえ、私は具体的なことを教えられていなかったから、四人の顔は知らなかった。だが行方不明のみせこと美栄子、名前も似ている。花坂みせこは源氏名だ。犬飼美栄子は花坂みせこかもしれない。二十歳前後の日本人という点も一致する。もしかして伯母は何か考えがあって「みせこ」をここに・・・・・・?

でも、世間では失踪したことになっている娘を、人目にさらすようなことをするだろうか。伯母に聞いたところで教えてくれないのは、わかりきっている。

 美栄子の正体を確かめたい衝動にかられた。かといって本人に直接問う勇気はない。事件の記事を美栄子の机に置き、反応を見るというのはどうか。それだと私が置いたとすぐにばれる。何のためにそんなことをしたのかと聞かれたら面倒だ。では帰社後に尾行するのは? 気づかれない自信はない。

駄目だ。今は集中しなければ。よけいなことをして、そのせいで計画が台無しになることがあってはならない。

美栄子が不満そうに花瓶を片づけたとき、電話を終えた蒲生が硝子越しに私を呼んだ。

表向きの指示を出したあと、小声で言った。

「使いに行ってくれ」

 伯母にあらかじめ聞いていたので、どこへ行くべきかは、言われずともわかった。

 ビルヂングを出ると、南の税関の時計台がウェストミンスター・チャイムを鳴らして十一時を告げた。ポマードで金髪をかためたロシア人水兵たちが笑いながら通り過ぎたバンド通りを私は北に向かって歩き出した。背広から葉巻の香りを漂わせる英国人、サリーから茶色い脇腹を露出した印度人婦人、尖端に針のある棒と布袋を持ち、巻き煙草の吸殻を拾っては箱におさめて売り歩く煙草拾いさえも、私のマスクを見るとはっとした様子で退いた。外国ではマスク着用者を滅多に見かけないから、何かの菌の持ち主とでも勘ちがいして、本能的によけるのだろう。

 だが私はほとんど気にならない。ここ英米共同租界の中心地には、あらゆる人種がいるから、人と異なるのは当たり前だ。上海を南北に流れる黄浦江と、東西に流れる支流の蘇州河。その蘇州河を境に共同租界は二分割できる。南は英国人が築き上げた繁華街。北は郊外で日本人が多い。その多くは滅多に蘇州河を渡らない。河向こうは外国だと言って区別する。日本人は上海にいても自分たちだけでかたまって閉鎖的で、私には窮屈だった。年々増えているとはいえ三万人しかいないから狭い社会だ。何をするにも皆一緒という感じで、少しでもはみでたことをすると白い眼で見られるのが嫌だった。引っ込み思案にもかかわらず、異人種だらけの河向こうの方が、私には居心地がよかった。刈屋珈琲店や自宅のある虹口よりも自分らしくいられる気がする。もっとも身の危険はつねにつきまとうため、マスクのせいで避けられるのはかえって好都合だ。

 秋だというのに沿岸のプラタナスの緑がまぶしい。

「エンホ、アンホ!」

 桟橋で隊列を組んだ苦力たちが、監督に鞭打たれながら掛け声をあげ荷卸しをしている横で、最新のファッションをまとった白人マダムたちがバスケットを下げ、珍しい種類の愛犬を散歩させるパブリック・ガーデンと、バッキンガム宮殿に似せて作った門が金色に輝く英国総領事館を越え、ガーデン・ブリッジに出た。チェック模様のスカートを穿いた歩哨の英国人兵士が片手に銃を下げ、直立不動の姿勢で立っている。交代時間がくると独特の交代劇を演じるので見物客が集まり、路面電車が立ち往生するほど混雑するが、今はそれほどでもない。この蘇州河に渡された長い鉄骨橋を渡った先が虹口だ。

 対岸の独逸領事館、亜米利加領事館、日本総領事館に目を走らせた私は、気を引きしめた。尾行されている気配はなかったが、見逃しているだけかもしれなかった。背後には、せかせかと歩く鳥打帽に絣の着物姿の日本人と、立ちどまって手鼻をかみ、電柱で拭きとっている中国人らしき長衫姿の男が見えた。

橋を渡りきった私は目的地にすぐには向かわず、英国系アスターハウス・ホテルを右手に見つつ、左に迂回して一つ目の角を右に曲がり呉淞路に入った。さすが北四川路につぐ虹口の大通りだけあって、日本語の看板が目に入らないときはない。『井筒屋服店』、『白鶴』、『くすりや 仁寿堂』。『錠剤わかもと』の広告では『新時代の胃腸強壮栄養剤』として、紙の紳士が『此の外国で日本薬品が大流行とは我が日本人の肩身が広いよ』と宣伝している。実際中国人が買いに来ていた。いくら日本人街といっても中国人の方が圧倒的に数が多い。日中の仲が険悪になっても、まだ両国の人間は普通に共存して、日常生活を営んでいた。

 十字路を渡り、三角市場を通り抜けた。東洋一と言われるこのマーケットには八百屋、肉屋、果物屋などが並び、日本内地から直送される魚をはじめ、世界各国の食品が売っているので、河向こうから自家用車で買い出しに来る白人などもいて朝は大変な活況を呈すのだが、今は大半が午前中の営業を終えて空になった棚に水をかけて洗ったりしていた。空腹だったので、まだ開いているロシア人経営のパン屋を見つけて黒パンを一つ買い、外に出ると広場にお好み焼きの屋台があったので、それも一つ注文した。かまぼこを多めにつけてほしかったが、相手が日本人だとかえって要求しづらく、我慢した。たればかり多いお好み焼きを乗せた新聞紙を片手に持ち、向かったのは並木道。英国風に煙突の立った赤煉瓦の二階建てがつづく。昼食どきのせいか、住人の姿は見当たらない。どの家も小さな芝生の庭があり塀で囲ってある。そのうちの一軒に私は裏口から入った。

 いつも通り無人だった。真っ先に屋根裏に上り、AとBに異常がないかを確認しに行く。むっとした匂いが鼻をついた。蒸し風呂のような暑さだ。小さい窓が一つあったが、閉め切っていた。黒いカアテンもしてある。太陽の光は避けねばならない。しかし熱と湿度は不要ではなかった。

 ラムプに火を灯し、低い天井に頭をぶつけないよう注意しながら、壁沿いの棚に近づき、壜を一つ一つ手にとった。液体A、粉末A、粉末Bとも無事だった。

第二段階に入る前に、一階の応接室に降りて腹ごしらえをした。窓を開け、テーブルでジャムを塗りつつ庭を眺める。黒パンは酸味がほどよく、お好み焼きは海老に歯ごたえがあっておいしかった。この家は私の住みかではないが、来る時間次第では落ち着く。明日も一人だったらいいけれど。犬飼美栄子と食事をともにする事態だけは何としても避けねば――。

 時計が一時を打ったのをしおに屋根裏に行って机にラムプを置き、粉末Bの入った壜を開け、中から一粒だけ取り出した。これを蒸留酒一に対して蒸留水四で混ぜた混合液五百滴のなかに溶かし、そこから一滴だけ新しい壜に移す。そこに百滴の強いアルコールを加え、壜をコルク栓で閉める。それを手に持ち、羽毛をつめた麻袋に百回、強くぶつける。

 百回・・・・・・いつも途中で挫折しそうになる。漫然と振ったのでは、必要条件は満たされない。一つ一つの音に音楽家が魂をこめるように、一回一回に全身全霊を捧げねばならない。暑さに耐えながら、私は振りつづけた。

最後の一回が終わった瞬間、何もする気がなくなったが、気力を振りしぼって百回振った壜の液体を、粉末Aの粒に湿らせ、すばやく吸いとり紙の上にまき、別の壜に入れた。栓をしっかりしめ、溶かしたワックスで壜の口の隙間を埋め、Cとラベルを貼った。

 液体Aは、すでに完成していた。見た目は秘薬そっくりだ。一輪挿しの花瓶のようなかたちをした青い硝子壜に入っている。

それを持ち帰り、私は蒲生に渡した。

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