第三章 江戸・一八一一(文化八)年三月 伊藤文(あや)

 桜の蒔絵の重箱に詰めるのは、芝海老の天麩羅、岩茸入りの卵焼き、それと鳥饅頭、公魚の雀焼き。最後に五種類の田楽。すべて箸で美しく盛りつける。体調が悪いことは忘れて慎重に、そう、その調子。

「あ・・・・・・」

「やっぱり倒したね、田楽。大事な弁当が一つ台無しになったよ。ほれ、奥さまがいらっしゃる」

「どうかしたのかい。まあ、田楽が崩れてるじゃないか」

「申し訳ございません、奥様。私の指導が行き届きませんで」

「女中頭のおまえが詫びることはない。悪いのはこの娘。天下の天茶屋に奉公して三年になるというのに、まったく使いものにならない」

 私は家事が苦手だ。今日は花見の仕度で人手がいるゆえ、台所にかり出された。

「うちが大店なのをありがたく思うんだね。どんな愚図にも役目が与えられるんだから。ただし、おまえが店に立つ日は一生来ないよ」

 私は葉茶屋に勤めながら、いまだ店に出るどころか、売り物の茶葉を目にすることさえ許されていなかった。

「ほら、早くこっちに来て煙草に火をつけとくれ」

 普段奥様の煙草の役の私は、急いで座敷に飛び、煙管に葉をつめたが、火をつけて手渡す途中でふっと力がぬけ、落としてしまった。

「ちょいと。人の晴着に火をつけるつもりかえ。よけたからいいものの。まったくいつにもまして抜けてるじゃないか。何か言ったらどうなんだい」

 血の道のせいだ。月事前からあちこちが痛み、貧血気味になる。今日は特にひどい。思いきって言った。

「実は奥様、朝から体調が悪うございまして、私がお供をすれば、ご迷惑をおかけしますかと――」

「何だって」

怒鳴ったのは奥様ではなく、お嬢様だった。年は私より二つ下の十六、今日のために母親が特別にあつらえた振袖をまとい、最前まで得意顔で手鏡を眺めていたが、突然口をはさんできた。

「供ができないなんて、言わせないよ。おまえ年上の癖に、わからないのかい。うちの花見はねえ、花が目的じゃない、天茶屋の威光を世に見せつけるのが目的だよ。供の数、衣装、弁当、すべてにおいて秀でていなければならないんだ」

「娘の言う通り。だからおまえ、一人でも欠けては困るんだよ。だけどほんに顔色が悪いようだ」

「お母様」

「いいから。ほれ、どこが悪いのか言ってごらん」

「それが・・・・・・血の道でございまして、下腹と頭が痛うございます」

「何、それならちょうどよい薬がある。ここに入っておる」

奥様は棚の箱を指差し、お嬢様に目配せをすると、

「うちの家伝の薬でね。私も病のときにいつも飲む。これを飲めば気分が良くなる」

 箱の中から紙袋を取り出して私に渡した。

「これが、薬・・・・・・ですか」

袋の中身は、丸薬でも粉薬でもなかった。茶葉だった。ただし普通の緑茶ではなく、一つ一つが針のように長細く、色も薄くて光沢があった。

「唐渡りの奇体な薬だよ。名は福安湯」

 奥様はそれを急須に入れ、湯を注いだ。

「ほうれ、煎じてやったから飲みな」

 湯気の立った茶碗を差し出した。さわやかな香り。濁りのない淡黄色の液。薬とは思えない。

「疑うのかい」

「お母様の言うことがきけないのかえ」

 私は仕方なく飲んだ。

「どうだえ、心地ようなってきただろう」

 親子は目を見交わして薄笑いを浮かべた。

程よい渋みと甘みが舌に残った。

 ・・・・・・やはり茶だ。親子はこれを薬だと言うが、何ゆえただの茶を薬として扱っているのか。

 三年いても、この家には解せないことが多い。あれは手代の佐五六に言い寄られたときのことだった。夜ふけで人気がないことをいいことに、佐五六は私を内蔵に連れ込み、手籠めにしようとした。俵の陰に無理矢理押し倒された私は、手に触れたものを佐五六の顔めがけて投げつけた。同時に自分の顔に振りかかったものを飲み込んでしまった。それは今見たのとはちがう普通の緑茶の茶葉だったが、しけた味がした。思わず「茶殻だ」と口にすると、佐五六はにわかにうろたえて私から離れ、俵を隠すように立った。不審に思い、茶殻がなぜ大量にあるのかと問うと、佐五六は主人が染物に用いるためだと答えたが、私は信じなかった。茶殻で染めた布など、この家で一度も見たことがなかったからだ。

 ひょっとすると、茶殻を売り物に出しているのではないか――。

 この福安湯といい、主人一家の振る舞いを思うと、疑念はふくらむばかりだ。

酷な扱いを受けても耐えられたのは、名の知れた葉茶屋と思えばこそだった。けれども、その大店が不正で成り立っているとしたら・・・・・・見過ごす気にはなれない。

 私はこれでも武家の血を引く娘。母の祖先は山内但馬守成道の子、対馬守一道である。豊太閤に仕え、関ヶ原の戦いで西軍についたため浪人して商人になったが、武士の教育は子孫に受け継がれた。息子に恵まれなかった母は、素質のない姉のかわりに私に五歳から読み書き諸芸のほか、人に頼んで武芸を仕込ませた。

 私の家は決して貧しくはなかった。父は偏狭な性格な上、酒飲みだが、腕のよい大工だったので稼ぎは悪くなかった。だが四年前、中風を患い、四十七歳にして寝たきりになった。おまけに酒で借金を作っていたことが発覚。その一年前には姉が鎌倉の両替屋の主人と離縁して息子とともに実家に帰っていたので、たちまち家計は成り立たなくなり、母は造花の内職をしだした。姉は洗濯の仕事をはじめ、私は十五で奉公に出た。

傲り高ぶった親子に馬鹿にされているうち、仕返しをしてやりたくなった。

佐五六を問いつめれば、何がしか探りだせるかもしれない。天茶屋の花見は女だけで行くのが習わしだが、毎年手代が一人世話役兼護衛役としてつくことになっており、今年も佐五六が行くことになっていた。あの男に近づくのは嫌でたまらないが、覚悟を決めた。今日は絶好の機会といえる。 


 上野の桜は今を盛りと咲き乱れていたが、あまりに眩しく、花々の白さは攻撃的にさえ感じられる。

 頭痛は増す一方だ。それだけでもあの福安湯が偽の薬だったとわかる。神経が苛立ってならない。ほかの下女に話しかけられても、ぶっきらぼうに答えてしまう。これではますます嫌われるとわかっているが、私は普通のおなごとはちがうという気持ちが邪魔をする。

 男が相手の方が気楽に話せる。そのせいで佐五六のように勘ちがいする者が出るのだ。

 佐五六は芝生のここかしこに花筵、毛氈を敷き、綸子の幔幕を木の枝に張り巡らせて囲うよう女中頭に指示されていた。私は道具係に従ってあちこちを飾り立てねばならず、話しかける機会は一向になかった。

 まもなく奥様やお嬢様が天鷲絨窓の駕籠に乗って到着した。二人は、列をなして迎えた私たちをあとに従え、金糸銀糸五彩華やかな着物を見せつけるように歩き出した。周りが皆振り返るのに気をよくして、「はて綺麗に咲いたわねえ」などと間抜けた声で感想を言いあって座につき、供の者たちを周りに侍らせた。

そしてこれからが本番、幔幕で外から見えないのをいいことに、すまし顔の奥様も、弱冠十六歳のお嬢様も、下女も一緒になって酒をたらふく飲み、料理を飽きるまで食い散らした。皆してずぶろくに酔って口三味線で歌い出し、花も忘れて肩を下げ脚を投げ出し、たった一人の男佐五六を右から左からからかいだしたところで、例によって狐拳がはじまった。負けた下女が衣を剥がれ襦袢一枚になるたび、歓声があがった。奥様も新調の衣装を土にまみれさせて大騒ぎ。すると普段はおかたい女中頭が田楽の味噌を顔に塗って、滑稽踊りをはじめた。

 何が「弁当が一つ台無しになった」だ。何が老舗の葉茶屋だ。所詮、大名屋敷に出入りするほどの店ではない――。

 そのとき佐五六が用足しにでも行くのか幔幕を出たので、私は急いで追いかけた。

「あれ、これはこれは、誰かと思えば文。嬉しいね。この前のつづきをする気になったのか」

 酒臭い体を近づけてきた。

「何です、その顔。白粉など塗られて」

「妬いてんのかい。おまえずっと一人でつまらなそうにしてたな。安心しろ。確かに天茶屋は美人揃いだが、綺麗ならいいってもんじゃねえ。そこへくると、おまえにゃ独特の魅力がある。どうだい、俺の女になってくれるかい?」

「それは・・・・・・」

「なんだ、ほかに好いた男でもあるのか?」

 一人、気になる人はいた。実家の近所の豆腐屋の次男。つらいことがあると思い出す。だが、私は首を横に振った。

「いません」

「それじゃ、この前のつづきをするか」

「その前に一つ、お尋ねしたいことが。内蔵の茶殻、あれはまことに染物に使うものですか?」

「・・・・・・おまえ、なぜ急にそんなことを聞く」

佐五六は一気に酔いが覚めたような顔になった。

「聞かれてはまずいことなのですか。どうか教えてください、佐五六さん。あの茶殻には別の使い道があるのではないですか」

「さあ、それは・・・・・・」

「じれったいですね。はっきり申しましょうか。茶殻は新しい茶葉にまぜて売り物に出すものなんでしょう」

「おまえ、何てことを言う。こんなところで聞かれたらどうする」

「やっぱりそうなんですね。佐五六さん、どうかまことのことを話してください。でなければ私、お誘いを受けるわけには参りません」

「そいつは困る。ええい、話してしまいたいが・・・・・・駄目だ。下女に話したと知れたら、俺の首が危ない」

「ならば、私たちは終わりです」

「いや、待て。わかった、こうしよう。今夜の亥の刻、こっそり内蔵に来い、な、いいな」

「私の知りたいことを教えると約束して頂けますか」

「おまえこそ、教えたら、俺の誘いをちゃんと受けろよ」

「おや、佐五さんに文」

 振り向くと、女中頭がそばに立って酔眼を向けていた。

「こりゃまあ、二人で。これ文、おまえ、見かけによらずやってくれるねえ」

「誤解です」

「誤解なもんか。おまえに罰を与える。あそこで皆の茶をもらって来い」

「え」

「向こうに、お茶をただで配っている男がいるだろう。皆の分をもらっておいでってんだよ。大量だから私が頼んだんじゃ嫌がられるだろうけど、おまえなら男を丸め込めるだろ。佐五さんをたぶらかすぐらいだ」

「そんな、ちがいます」

「つべこべ言ってないで、さっさと行って来い。三十五人分だよ。一つでも欠けたら、佐五さんと密会してたって言いふらしてやる」

 私はしぶしぶ従った。先に行くと人だかりがあり、輪の中心で、大柄の男が湯をわかしていた。羊羹色の破れ着物に緒切れ草履をはき、深編笠を真深くかぶっている。浪人かと思えど、大小は差していない。得体が知れない感じだが、口上を朗々と唱えていた。

「この茶さえ飲めば、誰でも元気になれる。この風炉の足に書いてある通りだ」

 釜を火にかけて湯をわかす風炉が台上にあった。銅製の鼎のような三本足の一つに、文字が彫り込まれている。「體均五行去百疾」とある文を男は指差し、

「『体は五行を均しくし、百疾を去る』。五行とは、万物を生ずる五元素のこと。五元素とは、木火土金水だ。風炉は金属でできていて、水が入っていて、火がかかっている。風炉で木を燃やせば、灰すなわち土となるから、風炉には五行が均しくそろっている。百疾は肝心脾肺腎の五臓から起こるが、風炉には万物の元である五行が備わっているから、どんな病でも治せる」

一人一人に茶碗を手渡し、茶葉を次々落とし入れていった。

「これがまた、ただの茶葉じゃない。唐渡りの福安銀針だよ。緑茶だが、日本茶とはまた別の、上品な味だ」

 白磁の茶碗を私も受け取った。中の茶葉を見て驚いた。長細い針のようなかたち、銀色の光沢。今朝奥様が見せたのと同じものだ。

「しかも拙僧が栽培し、摘み、製造した。こう見えておのれは僧侶。茶葉一個一個にふれるたび秘密真言を念誦した。ゆえにこれを喫すれば、心身に宿る邪気はたちどころに退散し、一切の病は癒える。名づけて福安湯。これぞ喫茶療法だよ」

 福安湯・・・・・・奥様は私を欺いたわけではなかったらしい。

「淹れ方も唐式なら、飲み方も唐式だ。まず茶葉が茶碗の中で湯を吸って、生きもののごとく動くさまを眺める。次に、湯が好みの色に染まった頃合いを見はからって飲む」

 男は風炉の湯を、見物の茶碗へ順々に注いでいった。一度浮いた茶葉は直立して底に沈み、揺らいだ。

天茶屋の不正を暴きたい思いは揺らがない。私は今夜必ず佐五六から真実を聞き出す。皆に感づかれずに二人で会うためには、女中頭の機嫌をとっておかねばならない。

「このお茶、三十五人分、頂きたいのですが」私は言った。

「は?」

 男の顔が向いた。笠の下に陽が差しこんだ。細い目が見開かれ、削いだような頬にぱっと赤みが差した。年は三十半ばだろうか。

「何人分だって」

「ご迷惑とは存じますが、私あちらに幔幕を張っております天茶屋の者でございまして、三十五人分ご用意頂ければ、お礼は十分に致します」

 男はにわかに態度を変え、

「けっ、天茶屋」

 吐き出すように言った。名店を嘲るとはただ者ではないと感じたが、

「どうか、ご用意頂けませんか」

「なあ娘さん、後ろがつかえてんだ。この茶が飲みたいんなら自分で並べと伝えろ。おまえさんの分はやるから。ほら、どいたどいた」

 私は懐の金子を半分、男の鼻先に突きつけた。奥様から帰りに煙草を買うよう言われて渡された金子だった。

「これだけ払いますから三十五人分ください」

男の目がつりあがった。

「足りないというなら、もっと出しましょうか」

 持っているだけの貨幣を投げ出すと、腕をつかまれた。男は満面朱に染め、私を睨みつけたが、ふっと腕を放すと貨幣をかき集めて懐に入れ、突然走り出した。

「おい、わしらの茶は?」

 騒ぎたてる人びとを振り返りもせず、深編笠の男は天茶屋の幔幕に向かった。私は夢中で追いかけた。

男はいきなり幔幕を開いた。

 奥で馬鹿笑いしていた女中頭が気づいて言った。

「おや、あんたは。皆様、天茶屋ご一行様に注文の品が届いたようですよ」

 奥様がゆでだこのような顔に笑みを広げた。

「まあ、宝生院のお坊さん。今日ははるばる上野まで私たちのために、福安湯を持ってきてくれたのかえ」

 その顔めがけて男は貨幣を投げつけた。

「おぬしらにやる茶はない」

「あれえ」

「ちょいと、何のつもりだい」

男は土足で毛氈に踏み込み、

「や、やっ」

片っ端からものをひっくり返しては放り投げた。

「きゃあ、佐五さん」

護衛役は逸早く腰を抜かしていた。

「危ない」

 立ちはだかった私に、男が膳を投げつけた。私はとっさにそばの枝を構えて膳を受けとめ、投げ返した。

 膳の角が男の額を打った。

「・・・・・・」

 男はにわかに踵を返して去っていった。

 天茶屋は男を捕えようと日本橋の宝生院に使いを出したが、住職に追い返された。僧侶は町奉行ではなく寺社奉行の管轄ゆえか自身番に届けを出しても埒は明かなかった。花見の席で狼藉を働いたぐらいでは捕えるのは難しいとのことだった。

 それにしても男が何ゆえ天茶屋を襲ったのかが私は気になった。奥様は福安湯のお得意らしいのに――。

裏を知ろうにも、私は暇を出された。花見の騒ぎを引き起こした責任をとらされたのである。すると佐五六は私からあっさりと手を引いた。

茶殻の真の使い道は、つかめぬままとなった。

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