第一章 上海・一九三一(昭和六)年 九月二十四日 保柴芳子

 マスクをし、深呼吸してから店に入ると、あの客がまた来ていた。

 私をひたすら目で追っている。なぜ見るのか。店員の癖にマスクをしているから? それとも女として・・・・・・? いや、私はくたびれた中年女だ。突き出た腹と、垂れた胸は上品な制服を台無しにしている。束ねた黒髪はまだ艶を失ってはいないけれど。

 客は純情な青年などではなかった。髭面のむさくるしい四五十代の男で、角ばった体を椅子にそり返らせていた。薄汚れた背広を着ている。私が珈琲を運ぶと、熊みたいな顔に薄笑いを浮かべたのが目に入った。一瞬、私服の憲兵かと疑った。関東軍は一週間前、満鉄線を爆破されたといって挙兵し、奉天をはじめ満州の大都市を次々占領した。中国軍は爆破などしない、日本の謀略だ、横暴を許すな、打倒日本の声が、上海にもあふれている。抗日運動を取り締まるため、憲兵が街に出ていることは考えられる。しかし憲兵なら、隣の席の日本人が軍を批判しているのを放っておくとは思えない。ではいったい、この男は何者か。

 蓄音機はベートーヴェンのピアノ三重奏『幽霊』を流していた。私はあえて耳を傾ける。粘りつく視線を気にしまいとつとめる。棚から本を取り出す。中国の古い茶器が載っている。一つ一つをじっくりと眺める。テーブルは二つしか埋まっていないから忙しくはない。新たに客が来ない限り、振り返るまい。

「ほらっ」

 マダムの声が飛んできた。視線の先をたどると、四人組の机からグラスが一つ落ちそうになっていた。

「割れたらお客さんのせいじゃなく、うちの責任。何度言えばわかるのよ」

 カウンター越しに私を睨みつけた。マダムの格好は今日も隙がない。美しく結い上げた髪。胸の前にしっかり留めたリボン。五十五歳という年齢を感じさせない入念に施された化粧。威圧感がある。

「すみません・・・・・・」

「いいから早くさげて来て」

 一瞬ためらった。歩くと血がどっと流れ出す。メンスの二日目。私のは並みの量ではない。特製のおむつをしていても、洩れそうで気になる。例の客の視線を避けながら、話に夢中になっている四人の間に手を伸ばして空のグラスを取ると、

「そのマスク、いいかげん外したら」

 四人組の一人――上海日報記者の手島重夫が例によっておどけた口調で話しかけてきた。

 私は首を横に振るので精一杯。三十五歳になっても人が苦手だ。人の視線は私を突き刺す。自己防衛のためにはマスクが欠かせない。けれども、

「俺も見たいな、あんたの顔」

 そう別の声に言われた瞬間、心が動いた。声の主は、上海週報社の桜井竜之助。四十過ぎで独身、親分肌の桜井に、私はひそかに恋を感じていた。開襟シャツから褐色の肌と逞しい筋肉が覗いている。

「その気になったら、言えよ」

 女を酔わせる声。けれども応じるわけにはいかなかった。謎の客の目もあった。

「ご、ごめんなさい・・・・・・」

 蚊の鳴くような声でやっと言うと、学者の王学文と中国外兵委員会所属の楊柳青が日本語で、

「でもあなた暑いでしょ。顔が蒸れるよ」

 とからかったが、次の瞬間さっと顔色を変えた。

 扉から三人の日本人が入って来た。一人は満鉄社員の制服を着た四十半ばの男、あとは二十代の若者で、一人は紺の詰襟の海軍の制服を、もう一人はカーキ色の陸軍の軍服を着用していた。

 四人組は急に読書をはじめ、黙りこくった。謎の客は相変わらず私から視線を外さない。

「いらっしゃいませ」

 マダムはいつも通り声を張り上げた。軍人たちは我が物顔に狭い店内を見渡した。入口の正面奥にカウンターがあり、左手の壁沿いにテーブルが四つ、右手にはカウンターと平行に五つあった。右手の奥二つ以外は空いていたが、三人はカウンターに座ろうとした。

「こちらは常連さんの専用席です」マダムが遮った。

 カウンターの上には磨きこまれた大倉のカップが幾つも吊り下げられ、赤い電灯の光にきらめいていた。そこからはマイセンやセーブル、ロイヤルコペンハーゲンといった西欧の王室御用達のカップがずらりと陳列された棚が見える。

「あちらへどうぞ」

 マダムは入口に近い下等の席を示した。若い軍人たちは文句を言いかけたが、年上の男にたしなめられ仕方なさそうに移動した。

「ご注文はお決まりでしょうか」

「レモンチーを三つ」

 陸軍の若者が言うと、マダムは冷ややかに、

「当店にレモンチーなるものはございません。ぶれんど紅茶でよろしいですか?」

「え?」

「紅茶にレモンを入れるのは亜米利加ではじまった邪道な飲み方です。うちは本場英国式ですので、ミルクしか入れません」

 若い軍人はむっとした様子だったが、中年の満鉄社員がうなずいた。

「じゃ、三人ともミルクで」

 マダムは冷笑を浮かべ、

「ぶれんど紅茶三つ、ミルクありで」

 これが正しい注文の仕方と言わんばかりに繰り返した。

 気に入らない一見客が相手だとマダムは腕をふるいたがらず、私に厨房を任せる。メンスで重い体を無理に動かして私はカウンターの奥に回る。鍋に水を入れ火をかけ、ミルクを用意し、棚からカップを出し、沸騰した湯に茶葉を投入する。鍋が濃く染まるまで待つ。一級のアールグレイ、ダージリン、アッサムのまじりあった香りが貧血気味の私の神経をとぎ澄ませた。すると三人組のひそひそ声が耳に入った。

「上海で日本人が四人も失踪したってな。今日で三日になるそうだが、いまだ手がかりがつかめんというのは本当かい?」

中年の満鉄社員の問いに、陸軍の若者が答えた。

「はい。記事になったので居留民がだいぶ騒いでいます」

 うなずいた陸軍は小声で言った。

「いずれの現場も英米共同租界内のようだが、捜査は共同租界警察と日本領事館警察が合同で行っているんだな?」

「はい。ですから捜査状況はある程度、聞いています」

 思わずマダムを見ると、「落ち着きなさい」と目で合図された。

「いずれにせよ同一犯のしわざにちがいありません。犯人は支那人に決まっています」

「自分もそう考えます。やつらは奉天事件の腹いせに、若い日本人婦人たちを襲ったんです」

 若者二人は怒りを表したが、年配の男は冷静だった。

「英語でshanghaiというと、酒や麻薬で意識を失わせて船に連れ込むことを意味する。上海では毎日無数の誘拐事件が起きている。四人のような職業についていた娘がさらわれるのは珍しいことではない。本来なら表面にも出ず片づけられる出来事だが、記者がさも抗日運動と関係があるかのように書き立てたものだから騒ぎが大きくなった」

「ですが四人の安否は気になります」

「いったいどこに連れ去られたんでしょう」

中年男は細長い腕を組み、考え込んだ。会話が途切れた隙にマダムが目顔で促した。私は勇を鼓して、お盆に乗せたものを運んだ。

「失礼致します。こちら紅茶のミルクと砂糖になります」

 満鉄社員の痩せた針鼠のような顔が向いた。

「君、風邪?」

「いえ、その」答えにつまると、陸軍青年が、

「聞こえんぞ、おばさん。もっとはっきりとしゃべらんか」

「す、すみま・・・・・・」

「そのマスクは何だ。ましな女給はいないのか、このカフェエは」

「ちょっと、お客さん」

マダムが近づいて来た。踵の高い靴に、ワンピースのひだを優雅にふり動かし、耳環を揺らして、

「今、何とおっしゃいました?」

「このカフェエに、まともな女給はいないのか」

「失礼ですけど、うちは日本で流行のいわゆるカフェエではございません。従って女給という名の娼婦も置いてはおりません。当店はフランスでいうキャッフェ、れっきとした珈琲店です」

「紅茶も出すだろうが」

「これだから無知な一見さんは困るんです」

「何を」

 海軍の若者はいきりたった。中年の男がとめる間もなく、

「貴様、さっきから大人しく聞いとれば。この制服が見えんかっ」

 マダムは落ち着きはらって、

「見えますとも。お客様は海軍特務少尉さんでいらっしゃいますよね。襟章でわかります。当店にはお客様の上官にあたる方々がたくさんお越しになりますので。皆さん常連で、大変親しくさせて頂いております。軍の高官の方々は開けていて、うちの流儀をよくご理解下さいますし、私の意見もよく聞いてくださいます」

 海軍少尉は狼狽し、

「これは、とんだ失礼を致しました」

「私からもお詫びさせて下さい」

 満鉄社員も頭を下げた。

「まあ、お顔をおあげになってください。私どもの流儀をわかって頂ければそれでよろしいんですから」

「いや、まったく、北四川路にこんな高級な珈琲店があるとは今まで知りませんで、お恥ずかしい限りです。この二人は教え子なんですが、まだまだ至らないところがありまして」

「あら。軍人さん方はお客さまの生徒さん?」

「ええ、私は東京で塾を開いていた時期がありまして、そのときの。一般に犬猿の仲と言われる陸軍と海軍が一緒にいるのは、そういうわけです」

「なるほど。お話、ゆっくり聞かせて頂きたいですけど、紅茶が冷えないうちにお出ししませんと。さあ今から英国式に淹れてご覧に入れましょう」

 マダムの合図に従って私はミルク入れと金の縁取りの白いティーカップをテーブルに並べていった。カップのどれもが空なのに客は驚いた様子だ。これが本式と言わんばかりに、線の細い銀色のティーポットを掲げた私は、最年長の満鉄社員の脇に立ち、

「ミルクを先にお入れになりますか?」決まり文句を口にした。

 男は禿げあがった額を傾けた。

「え、ミルク? ミルクをこの空のカップに・・・・・・?」

「そうです」マダムが口を挟む。

「先に入れた方が紅茶とうまく溶け合って味が引き立ちます」

 三人はおずおずとミルクを先に入れた。

 ティーポットの銀の把手は三人分の紅茶の温度を伝えてやけどしそうに熱かったが、私は我慢して一つ一つのカップに向け、できるだけ上品に注ぎ入れていった。琥珀色の液体が弧を描いて流れ落ち、白い液体とまじりあって甘い香りを広げていく。

 海軍少尉は今さらのように気取って足を組もうとした。弾みでテーブルの氷水が跳ね上がって数滴こぼれ散った。それをこっそり軍服の袖で吸いとったのを誤魔化すように、

「女給さんにも、先程は失礼を申しました」

「女給ではございません」すかさずマダムが注意した。

「店員とお呼びください。ちなみにこれは姪です。風邪は引いておりません」

「は・・・・・・」萎縮して言葉につかえる若者のかわりに、

「ほほう」鼠男が世慣れた調子でひきとって、

「姪御さんでしたか」

「はい、私の弟の娘です。東京で長く働いていたんですが、三年前うちが上海で店を開くと言うと興味を示したものですから連れて来ました。私には娘が二人いますが、一人は北海道、一人は富山に嫁いでるもんですから、この姪が同行してくれて助かりましたよ」

マダム――伯母はそろそろおしゃべり好きの本性を発揮しだした。謎の客が耳をすましていると思うと気が気でなかった。

「ではこのお店は、姪御さんとお二人ではじめられたんですか」

 鼠男はミルクティーを口に運びつつ合いの手を入れる。

「本来は三人の予定だったんですけれど、主人が上海に来る途中で亡くなったものですから」

「それは、お気の毒に・・・・・・」

「船で心臓発作を起こしたんですよ。馬鹿な人です。夢にまで見た土地を目の前にして」

「夢にまで見た」

「ええ、主人は大学卒業後に家業を継いで印刷工場を経営していましたが、子ども時代から支那に憧れていたようで、一度旅行で訪れてからますます思いが強くなりまして、内山書店のような文化人が交流できる場を俺も上海に作るんだと言ってはりきっておりました」

「それで珈琲店を。しかし御主人の志をよく引き継がれましたな」

「引くに引けなかったんですねえ。主人が死んだからって船は内地に引き返しゃしませんし、財産のほとんどはこの店につぎ込んでしまったあとでしたから」

「慣れない場所でご苦労なさったでしょう」

「幸い上海は日本人が多くて、居留民団のようなしっかりした自治団体や、邦人の同業組合が充実していますから、皆さんに助けられて何とかなりました」

「確かに蘇州河の北側の虹口(ホンコウ)は長崎県上海市といわれるだけありますね。旅館に畳が敷いてある、神社がある。牛丼屋、天麩羅屋、餅菓子屋と何でもそろっている上に、日本人客専用のシアターまでできたというんですから」

「これだけ日本の店が増えるのも、何かあっても陸戦隊が助けてくれるという安心感があるからでしょうな」

 海軍が誇らしげに言うと、マダムは一瞬眉を寄せたが、

「ま、この界隈に日系旅館や料理屋が多いのは、近くに日本海軍武官府や陸戦隊租界本部があるためなのは事実ですね」

「朝日、毎日新聞のビルヂングもありますね」陸軍が口をはさんだ。

「少し行けば甘栗太郎も、日本人小学校も」

「お客さん、この辺りに詳しいじゃないですか。その割にはうちに長いことお気づきにならなかった。北四川路の刈屋珈琲店を知らなければ、上海ではもぐりですよ」

「大変申し訳ありませんでした」

「あら、今のは冗談ですって」

「ハハ、こいつは冗談が通じませんから。しかし刈屋珈琲店のミルクチーは最高ですな、おまえたちもそう思うだろ?」

「うまいです」

「うちは何でも一流を追求しておりますので。水もそうです。上海の黄浦江から汲みあげられる水道水は黄色く濁って臭みがあるから決して使いません。奥地から運んだ水に、特殊な処置を加えているので旨みがあります」

「特殊な処置とは?」

「それは残念ながら、秘密です」

「そんなことを言われたら、よけい気になるじゃありませんか」

「うちに何度も通ってくださったら、わかるようになりますよ」

「まったくマダムにはかないませんな。本当、よく見ると壁の浮世絵、植木の春蘭、鉢の景徳鎮、この店は何でも一流とよくわかります」

「浮世絵は喜多川歌麿です。一流のものが一流の文化人を育てると主人が申しておりました」

「あの柱時計も、すばらしいですが――」

 入口から向かって右手奥には古びた柱時計があったが、黒い振り子は動いていなかった。

「十時五十分で針が止まっているのは、何か意味が?」

 聞かれたとたん伯母は、例によって不機嫌になった。

「お客さまのご想像にお任せ致します」

 あっけにとられている客を置いて厨房に戻り、私に顎をしゃくった。三人組の飲み水を追加しに行き、帰りに砂糖を下げて来いというのだ。カウンターを出たとたん、おむつに血があふれかえった。頭が朦朧として酔ったように足がふらついた。水差しを必死で支え、三人のグラスに水を入れたが、つかんだはずの砂糖入れは手を滑り落ち、大量の砂糖がテーブルにぶちまけられた。

空気が凍りついたのを感じた。

「申し訳ございません」伯母が飛んで来た。

「早く掃除して。一流店が聞いてあきれると言われる」

 何から手をつけていいかわからない。頭がくらくらする。

「ぼうっとしないで。まったくいい年して、結婚もしてないし子どももいないから、気がきかなくて」

一番傷つくことを言われ、体がよけいに動かなくなった。

「まあマダム、服も汚れていませんし、そう気になさらずに」

「今すぐきれいに致します――何突っ立ってんのよ」

 鉛のような体を動かした瞬間、後ろから押しのけられた。見ると、いつの間に席を立ったのか、謎の客が突然私の前に割り込み、

「はい、どいてどいて。みんなはん落ち着いてくれやん」

 おかしな関西弁を使いながらテーブルの上のカップを勝手にとって、

「何だ貴様」

 誰何されるのもかまわず、一つずつ軍人たちの膝上にのせていった。何より驚いたのは伯母がそれを黙って見ていたことだ。こぼれた砂糖のほか何もなくなったテーブルを、

「こんなもん、こうすりゃすむやん」

 男はひょいと持ち上げ、扉の外に運び、

「ほいさっ」

 軽々と逆さにし、砂糖をいっぺんに払い落とすと、

「一丁あがりっ」

きれいになったテーブルを元通り設置した。唖然としている皆をよそに、

「ところであんた、気に入ったやん!」

男は私に言った。

「明日からうちに来てくれ」

「・・・・・・はい?」

「あんたを雇いたい」

「でも、あの・・・・・・」

 何が何だかわからなかった。振り返ると、

「話はついている」伯母が客の前もかまわず言った。

「明日から、蒲生さんのところで働きなさい」

 蒲生・・・・・・?

 男は茶褐色の鼻の横の大きな黒子を動かし、小さな紙を手渡した。

「うちの名刺やん」

社名を見て、ようやく納得がいった。

「昨日今日とあんたを観察して決心がついたやん」

 軍人たちの訝しげな視線が肌に突き刺さった。

 気のきかない中年女が引き抜かれるのには、特別な理由がなくてはならなかった。

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