月水療法譚

吉津安武

序章 上海・一九三二(昭和七)年 一月二十三日

 三十代半ばの日本人女性の死体が流れていった。

 死体はまだ新しかった。手足の皮膚の白変と漂母皮形成の具合からすると、河に浸かってまだ一日以上は経過していなかった。

 その遺体は救命胴衣の下に経帷子、手甲脚絆、足袋に草履といった白ずくめの死装束を着用している。

 冬の陽は傾き、茶褐色の河を弱々しく照らしていた。広大な黄浦江の流れは一見ゆったりとしているが、二、三十センチも入ると渦を巻いた急流である。その証拠に、死体はどんどん下流へと押し流されていった。

 岸に並んだ柳の葉は落ち、荒涼とした光景が広がって人気もなかった。今にも戦争が起こりそうな気配を察し、日本人居留民はほとんどが引き揚げ、中国人の多くも河向こうの租界に避難していた。

上海事変勃発五日前だった。

 日章旗を掲げた軍艦大井をはじめとする駆逐艦五隻は、波を泡立てて上流の埠頭に進んでいた。寒そうに身をすくめている甲板の兵たちは、近くを通り過ぎていった遺体には気づかなかった。

 死体は下流の岸に漂着した。長い髪を漂わせていたが、頭頂部のみ丸く剃られていた。濁った水が女の開いた口にあふれ、小太りの体が波に洗われている。

頭皮が六箇所、直径一センチほどの円型にくり抜かれていた。黒鉄色の死出虫がたかり、六つの穴の肉をつついた。虫は顔の上にも這い回った。

眉間には、ある一つのかたちが、浮き彫りになっていた。傷痕ではない。皮膚が自ら盛り上がってできたもののようだった。

 泥水の中のガスがぷすぷすと音を立てた。するとふいににぎやかなジャズのメロディーが寒風にのって届いた。日中の険悪な状況をよそに英米共同租界やフランス租界は、今日も普段と変わることなく、埠頭に並ぶ建築群に華々しく灯をつけていた。

下流から百トンばかりの貨物船が一隻、近づいてきた。舷側に英国旗を掲げている。 貨物船を引く水先案内のタグボートのパイロットが死体を発見した。無線通信で通報を受け、警察が出動した。

 女の遺体は共同租界警察の舟艇に引き上げられ、上流へとさかのぼっていく。

 額に浮かんだかたちに、びっしりと死出虫を貼りつかせたまま――。

 照明の下、それは筆でなぞったように黒々と光り輝いた。


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