第3話
気が遠くなるくらいの階段を降り続け、地表について外に出ると、ネズミは一刻も早く水を飲みたくて、あちこち見回して水道を見つけた。蛇口からポタポタと落ちていた水滴を目ざとく見つけ、ネズミは全速力で駆け寄った。蛇口をひねると、最初は濁った水が出たが、次第に透明になった。ネズミは自分の体積と同じくらいの水を飲みそうだった。手に水を受けて、鼻先を突っ込んで飲んだ。アンドロイドは、その様子をしばらく眺めていた。
––はあ、生き返った。やっぱり、水がないと生きれないな。危なかった。階段を降りていたら、自分が干上がりかけているのを途中で思い出したよ。
息もつかずに水を飲んでいたネズミは、手を振って水を降り飛ばし、大きな息をついた。
––水が出てよかったですね。家の水道は、出ませんでした。
アンドロイドは、少し申し訳なさそうだった。しかし、空のボトルを三本、リュックから出すと、出しっぱなしの水をボトルに詰め始めた。
––こうしておけば、しばらくは持ちますね。また、水が出る場所があるといいんですが。ないときは、ここに戻って来れば、また得られることを祈りましょう。
三本目のボトルの蓋と蛇口の栓を閉め、アンドロイドはネズミに言った。
––長い旅になるかもしれません。
アンドロイドが見つめた先は、ツタや蔓植物、ブロックや側溝を押しのけて光を得るこの生存競争に参加することに決めた雑草たち、そして、それまでは優遇してもらっていたが、もう姿良く生きることを放棄した街路樹たちが混然とする、でたらめな植物相の群生だった。
アンドロイドが水をリュックにしまう間、ネズミはチーズをかじって顔を洗い、毛づくろいをして身なりを整えていたが、ふと顔を上げ、
––長い旅って、お前、俺と来るのか?
動きを止めてそう言うと、アンドロイドは、
––仕方ないですね。そして、私も、事実を知りたいような気がします。
と言った。
––そりゃいいな。俺も、仲間がいるのが好きだよ。
ネズミはそう言って、水を見つけたせいだけではなく、何度か飛び跳ねた。
植物が覆い尽くしたビル群の間を歩いていくと、ネズミが言った。
––変だな。森を歩いているなら、虫や鳥、獣が気配を潜ませているはずだろ。何も起きないな、ここ。
––仕方ないのかもしれません。水と光がないし、鳴き声や羽音、生きている音などの、命の連絡もありません。植物は、花が咲いて実がなり、種ができるのが命をつなげる術だと思いますが、動物なしでそれができるのが、今できるのか、または数代先なのか、分かりませんね。今、季節を、何度めぐったのか、私には判別できません。
––そうだな。花が咲いていないな。アリでもいたら、葉が動く気配もあるかと思うけど。それすらいないや。
ネズミはそう言うと、アンドロイドより先に、たたっと駆けていき、上半身をぐっと起こして空気の匂いを嗅いだ。
リュックを背負ったアンドロイドがゆっくりネズミに近づいていくと、ネズミは肩をすくめ、前足を地面に着いた。
––なんの気配もしないなあ。
空を見上げると、ビルと、縦横無尽に走る緑の隙間に青があった。
やがて歩いて行くと市街地を抜けた。高い建物がなくなった分、のしかかって来るような緑の重苦しさはなくなっていき、代わりに、人が住まなくなって荒れた家が立ち並ぶようになった。庭、屋根、入り口の門扉に植物が茂り、住居のスペースいっぱいに、あふれんばかりになっていた。水槽にぎゅうぎゅうに詰め込まれた、海藻のように見えた。
果樹が植えられた家が、実が成ってそのままに放置され、実の重さで枝がしなっていた。大きめのオレンジのような実は、ちょうど食べごろに熟しているようだった。
塀を越え、ひときわ実がついて道路に垂れ下がる枝に、ネズミが飛びついた。一つむしると、枝が実一つ分軽くなり、少し上にあがった。
––これさ、いくつかもいで持って行こうよ。
アンドロイドに言うと、アンドロイドは同意し、五つほどさらにもぎ取ってリュックに入れた。
その途端、樹が二人に話しかけた。
––あの、実を持って行くのはいいんだけど。
はじめは周囲を見渡したネズミとアンドロイドだったが、樹がかすかに揺れているのを見て、話しかけてきたものの正体が分かった。揺れているというか、とても細かく振動しているといってもいいかもしれない。その細い動きが、全体的に見るとゆったりと揺れているように見えるのだ。ネズミとアンドロイドが一緒に樹を見ると、樹は、途中で切った言葉をつないで話し出した。
––最近はこの家に誰もいないし、この通りも誰も通らない。別に私は、何の手入れもされなくても、たまに雨が降って昼と夜さえ来れば実を生らせることができるからいいんだけど、誰もいなくて不思議だったの。あなたたち、何が起きたか知ってる?
––知らない。俺たちがいたところもそんな風だったよ。だから、何が起きたのか、原因を調べにいくところなんだ。どこに行ったらいいか分からないけどね。
ネズミが言った。
––私は丈夫だからいいけれど、この庭には繊細な、毎日人が様子を見ないとすぐに枯れてしまう花もあってね。もうだめになってしまった。どうしたのかしらね。虫がたくさんきたら私も少しくらいは困るんだけど、今はその虫もいないのよ。一匹もね。土の中の微生物もいないのかしら。土の下の、賑やかさもないのよ。
ネズミとアンドロイドは何も言えない。
––これからあちこち行くからさ、何か分かったら伝えに来るよ。ここ、きっと俺たちの帰り道になるから。少し時間がかかるけどね。
ネズミが慰めるように言うと、樹は安心したように、振動を緩やかにした。
––そうしてくれると有難いわ。あのね、実を食べたら、種をそこに撒いて行ってくれないかな。前は鳥が実を食べて運んでくれたんだけど、今は鳥もいないの。種から芽が出たら、私の意識もそこに根付いていくから。どこでも、土と水があればいいの。あとは、光がすこし。
––分かった。
––そっちのアンドロイドさん、同じ人じゃないと思うけど、私も見かけたことがあるわ。私のうちにはいなかったけど、とても優しいって誰かが言ってた。
––ありがとうございます。
アンドロイドが言った。
––気をつけて行ってね。ここの庭にも水道があるわ。覚えていて。
––ありがとう。
二人はお礼を言って、また歩き出した。
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