神崎のオトナ記念日

 これは詩織が卒業する前日。二月末のお話。


 きららウォーターの新人営業、神崎まどかは水のタンクを抱えて蓮華ヶ丘高校のカウンセラー室を訪れていた。対応する臨時カウンセラーの瀬名結衣は、ケーブルニットのセーターとマキシスカートという流行を微妙に追えていないもっさりしたファッションで、ソファにゆったり腰を下ろして葉巻を吹かしている。校内禁煙どこ吹く風だ。

「交換終わったんで受け取りのサインいいスか」

「あいよ~」

 気の抜けた返事をして、結衣は差し出された書類にサインをした。蓮華ヶ丘は包括契約になっているため、どれだけ水を使ったところで定額だ。カウンセラー室の水は二日に一回くらいのペースでなくなってしまう。

「元取る気スか、結衣パイセン」

「資源を有効活用してると言ってくれよ」

 結衣の私物と思われるエコバッグの中から、空のペットボトルが覗いていた。おそらく、余った水をあれに入れて持ち帰っているのだろう。典型的なケチ客だった。ただ、それを客に指摘すると面倒なことになると神崎は身をもって知っていたので、とりあえず溜飲を下げた。

「んじゃ、あーしは帰るッス」

「まーお茶でも飲んでけって。コーヒーでもいいけど」

「じゃ、コーヒーで」

「あたしの分も頼むわ」

 神崎は一瞬、訳が分からなくなった。

「え、今の流れであーしが入れるんスか?」

「別にいいじゃん。やったんだからさあ?」

 結衣は葉巻の煙を吐きながらニヤリと笑った。

 神崎は以前、このカウンセラー室で問題発言をして生徒の心に傷を負わせた過去があった。なんとか謝罪して事なきを得たが、それ以来、生徒と橋渡ししてくれた結衣には頭が上がらない。

 恩着せがましいのが腹立たしいものの、曲がりなりにも結衣は恩人だ。そして尊敬する先輩の友人でもあるので下手なことはできない。神崎は仕方なく、いつものカップに使い捨てのペーパードリップでコーヒーを入れた。

「どぞっス」

「サンキュー」

 もくもくと立ち上る葉巻の煙を間に挟んで、神崎と結衣はコーヒーを啜った。神崎は結衣の好みを知っている。ガムシロ2つとフレッシュ1つ、葉巻なんて吸うくせに結衣は甘党だ。

「葉巻ってうまいんスか?」

「吸ってみるか? ってまだ未成年だったな」

 吸い口を引っ込めようとした結衣を前にして、神崎は得意げに笑った。

「フフ。あーしだっていつまでも未成年じゃないスよ」

 神崎は財布から取り出した免許証を結衣に掲げた。

「あっははは、ひでー写真」

「そっちじゃねえスよ! ほらここ、誕生日のとこ!」

 ひどく写真映りの悪い神崎が指さした生年月日の欄には、平成十年二月二十八日生まれと書いてある。つまり、今日が二十歳の誕生日だった。

「なんとあーし、今日が二十歳の誕生日なんス! オトナ記念日ッスよ!」

「あっそ」

「もっとなんかないんスか!? ハッピバースデートゥーユーとか、プレゼントとかケーキとか!」

「あたしキリスト教徒じゃないしなあ」

「クリスマスじゃねえス!」

 けたけた笑う結衣に何を言っても無駄だと感じた神崎は時計を見た。時刻は十六時を過ぎている。このまま社用車を適当に飛ばして帰社、営業日報を書き終えた頃には定時になる。むしろこれ以上長居すると残業だ。

「あ、そろそろ時間なんで帰るッス。残業したくないんで」

「うし、じゃああたしも帰る。池袋まで乗せてって」

 結衣は短い筒の中に葉巻を入れてフタをし、荷物をまとめ始めた。交換したばかりのウォーターサーバーから水をペットボトルに移し替えることも忘れていない。やはりケチ客だ。

「乗せてくって、社用車に乗る気っすか?」

「他に何があんだよ、おんぶでもしてくれんのか?」

「仕事以外の人乗せちゃいけないんスけど」

「え~、いいじゃんか~。ハルも村瀬乗っけて帰ったことあったぜ?」

「パイセンがっスか?」

 憧れの先輩、支倉遙香も同じことをやったことがある。少し考えた神崎は、本屋で斜め読みした名前も覚えていない自己啓発書の一節を思い出した。


 ――もっと上手くなりたいなら、憧れの人の真似をしてみよう。


 つまり、仕事がもっと上手くできるようになるためには、憧れの先輩である遙香を真似すればいい。遙香が部外者を社用車に乗せたのだから、自分が乗せてもいい。むしろ乗せなきゃ遙香みたいにはなれないかもしれない。証明終了。

「うス! じゃ乗ってくださいッス!」

「さすが神崎! いやー、ハルはいい後輩持ったよな~!」

「恐縮っス!」

 神崎の短絡的な思考は、完璧に短絡的な答えを導き出したのだった。


 *


 オフィスの近くで結衣を下ろし、オフィスに戻った神崎は営業日報を直属の上司である遙香に提出した。

「パイセン、ハンコお願いしまッス」

「はいはい」

 手を止めて、神崎の書いた日報を読む。日報と言えばさも仕事をしているようだが、書いてある内容はほとんど夏休みの日記のようなものだ。今日どこどこで何をした。結果はどうだったか、明日は何をするか。

「ん?」

 日報に目を落とした遙香は何かに勘づいた。そして昨日、一昨日とページをめくって、がっくりと肩を落とした。

「神崎さん」

「まどかでいいッスよ! あーしとパイセンの仲じゃないスか!」

「……神崎さん」

 頑なに苗字呼びをやめない遙香に内心ツラいものがあったが、神崎は黙って先輩の言葉に耳を傾けた。

「昨日と一昨日と、書いてることが一緒なんだけど?」

「そースか?」

「そうすよ」

 遙香の指先が日報をめくる。『明日の業務目標』欄には、三日連続で「明日もがんばります」と書いてあった。

「確かに」

「確かに、じゃなくてさ。これ手抜きでしょ……」

「だって書くことないんスよ、仕方ないじゃないスか」

「それはそうかもしれないけどさあ……。……まあ、いいや」

 遙香はそれ以上言葉を告げず、今日の日報に確認の判を押した。なんだかんだ言うが、遙香は神崎の活躍を認めてくれる。『支倉』の朱印が並ぶと、先輩に認められているようでなんとなく嬉しい。

「ていうか、蓮華ヶ丘行ったんだ?」

「はいッス。結衣パイセンとコーヒー飲んだッスよ」

「しかも客先でコーヒー……」

 遙香は微妙な顔をして、少しだけ声のトーンを落として続ける。

「……結衣、何か言ってなかった?」

「はあ、特に何も」

 遙香の顔がほんの少しだけ赤くなったような気がしたが、気のせいだろう。神崎は鞄を持ってタイムカードを切った。そして、提示を過ぎてもオフィスに残る全員に聞こえるように、大声で挨拶する。

「じゃ、お疲れさまス!」

 適当な返答を背中で受けて、神崎はオフィスを後にする。雑居ビルのエントランスを抜けた神崎は、目の前に先ほど別れたばかりの女性の姿を見留めた。

 結衣だ。

「遙香パイセン待ちっすか?」

 結衣は首を横に振ると、ニヤニヤ笑い出した。

「お前、今日がなんだろ? だったら付き合えよ、オトナの遊びにさ」

「なんスかそれ?」

「どうせぼっちバースデーだろ? だから今日はあたしのオゴリだ、飲みニケーションしようぜ!」

 ぼっちバースデーがどうも引っかかるが、否定しようがない事実だ。こういう性格なので誕生日を祝ってくれるような――うっすらした人間関係の――友人が居ない神崎は、親以外に誕生日を祝ってもらったことがない。しかも憧れの先輩の友人に。

 神崎は、感動した――

「マジすか! オゴリっすか!?」

 ――特に、オゴリという部分に一番感動した。

「じゃー、めくるめくオトナの世界に行くぞーッ!」

「うっス、着いてくッス!」


 *


「お待たせしました、生ビールと特製から揚げです!」

 内古閑うちこがと胸元に名前のある店員が、ジョッキとから揚げを運んできた。子どもの頃から『ビールはイッキ』だと悪い手本を学んでいた神崎は、人生初のビールを一気に喉に流し込んだ。苦いがイケる。

「あーし注文いいッスか?」

「おー、適当に頼んで。あたし生もう一杯」

 言われた通りに好きなものを頼もうとした神崎だが、結衣と好物のセンスがまるで合わない。パクチーサラダはダメだと言われ、焼き鳥は塩以外認めないと言われ、挙げ句、セロリは嫌いだと言ったら「に謝れ」と怒られた。オゴリなのに。誕生日なのに。記念日なのにである。嘆かわしい。

「誰っスか、まさよしって」

「ああ? まさよし知らねえとかお前何のために生きてんだよ。店員さんは知ってますよね、セロリのまさよし!」

 結衣が尋ねた店員は、心ここにあらずと言った表情だった。

「ほら、知らないじゃないスか。結衣パイセン老害ッスね」

「誰が老害だ、あたしはまだ25だぞ」

「四捨五入したらババアじゃないスか~!」

「確かにな~!」

 二人はケタケタ笑いながら叫んだ。お酒はとても楽しい。気の合う人間と飲むととてもいいものなのだ。日頃の言いにくいことも思いきり吐き出せる、お酒の魅力に病みつきになる。

 宴席の話題は、必然的に遙香の話になっていった。


「パイセン聞いてくださいよ~。あーし、遙香パイセンみたいになりたいんスよ~」

「お前もレズなの?」

「ちげーっスよ! そういうんじゃなくて!」

 酔いが回って、呂律も若干怪しい。何とか思考の糸を繋いで、神崎は言いたいことを一言で言い切った。

「あーし遙香パイセンに憧れてるんス。パイセン綺麗だし優しいし仕事できるしおっぱいデカいし、ぶっちゃけ完璧じゃないスか。なのになんか謙虚っつーか控えめっつーか。そういうトコまで含めて完璧っつーか……。あーいう人になりたいし、頼りにされたいんスよ、あーし」

 憧れている先輩・支倉遙香に一人前だと認められたい。神崎まどかの想いは、要約するとそんなところだ。

「完璧か。お前にはそう見えんだな~。人見てねえなあ、神崎は」

 だが、結衣はハイボールのグラスの縁を指でなぞりながら笑った。そしてすぐ笑顔を消して、グラスの氷を見ながら告げる。

「あいつはさ、優しすぎんだよ。優しくならざるを得なかったのかもしれんがな」

「どういうことスか?」

 焼き鳥串の根元に残ったレバーを器用に食べて、結衣は続ける。

「アイツが女好きってことは知ってんだろ? で、どうやらそのきっかけを作ったのはあたしらしいんだな。高校ん時だからもう八年くらい前になるか」


 初めて聞いた遙香のエピソードを、神崎は黙って聞いていた。

 遙香と結衣、そして共通の友人の茜音で、キスゲームをした時の話。何の気もない遊びのキスだったはずが、遙香はそこで自分の性嗜好に気づいてしまったらしい。そして八年もの間、結衣の面影を追い続けていたという。


「すげーっすね、遙香パイセン……」

 あまりに想像のできない世界で、神崎にはそんなことしか言えなかった。今、神崎が一緒に飲んでいる結衣は遙香の初恋の人で、彼女をレズにした元凶。だがその結衣は、男性と婚約している。「恥ずかしいから」と薬指には嵌めず、指輪はケーブルニットの内側にペンダントトップとなってぶら下がっている。

「アイツが八年間、どんだけ苦労したか考えたことあるか? 女が好きなんて言い出してみろ。みたいに言い出すヤツが出てくるとも限らんだろ」

「……そっスね。キモいって言ったことは反省してるッス」

「ま、自分の考えをねじ曲げる必要はない。ただ、傷付くヤツが居るってことは、念頭に置いといた方がいいだろうな」

 短く言葉を切って、結衣は最初の話に戻った。


「ハルはきっと、相当苦しんだ。あたし達が想像できないくらい、苦しい恋をし続けた。だからこそ、人の苦しみには敏感なんだろう。なるべく他人を苦しめたくなくて、ハルは今のハルにならざるを得なかった、ってワケだ。お前、ハルに怒られたことあるか?」

 神崎は首を横に振った。どれだけ記憶を思い出しても、遙香に怒鳴り散らされた経験はない。お小言はいくつか貰ったが、怒られたことにはカウントすらされていない。

「ハルは誰かを傷つけたくない。だから優しく完璧な女だと思われる。で、なんでもかんでも頼まれて貧乏くじを引きまくる。そういうヤツなんだよ」

「あーし、遙香パイセンにめちゃくちゃ頼り切ってたっス……」

「だろうな。お前と蓮華ヶ丘に来た時のハルの顔を見てりゃ、すぐに分かるよ」

 神崎は、言葉がつかえた。胃からこみ上げてくる申し訳なさを何とか飲み下す。

「あたしが女もイケる人間だったら、アイツも苦労しないで済んだかもしれない。実際、あたしだって考えたさ。あたしがハルを恋愛感情として愛せたら、あいつの苦しみを癒やしてやれるんじゃないかって……」

 一呼吸置いて、結衣はゆっくりと言葉を吐いた。それが漏れそうな嗚咽を必死に堪えていることは、神崎にも分かった。

「でもな、自分にウソはつけないんだよ……。どんなにアイツのことが好きでも、あたしにはハルを愛せない……」

 結衣は泣いていた。テーブルの上にぽたぽたと雫がこぼれ落ちていた。

 神崎には、何故結衣が泣いたのか分からなかった。ただ、結衣の涙が遙香を思ってのことだということは、神崎にも分かった。

「遙香パイセンは愛されてるっスね」

 結衣は鼻水をすすって、明るく笑った。

「……当然だろ。あたしの、一番の親友なんだから」

 神崎は、何かがこみ上げてくるのを感じた。押しとどめようにも押しとどめられず、それは神崎の口から吐き出された。

「あーしも遙香パイセンのこと……」

 神崎は酩酊した思考の中で気づいた。

 今、自分の体をこみ上げてくるものは、涙ではない。


 ゲロだ。


「どうした? つーかお前まさか……」

 結衣の制止も虚しく、神崎の口から噴火した。

 その後の顛末は、神崎の記憶にはまるで残っていない。ただ、テーブルを片付けてくれた内古閑という名前のスタッフの苦々しい笑顔だけが神崎の記憶に張り付いていた。


 *


 翌朝。ひどい二日酔いの状態で出社した神崎は、メールの確認も何もかもをほっぽり出してデスクに突っ伏した。隣のデスクに居る遙香が「一応聞くけど」と前置きして尋ねてくる。

「どうしたの、神崎さん」

「昨日……飲み過ぎて……」

 昨晩、池袋の居酒屋からどうやって帰ったのか、神崎にはさっぱり記憶がなかった。自宅の玄関で目を覚ました神崎は、急いで身支度をして出てきたばかり。当然胃の中は空っぽだが、何か食べるという気にすらならない。

「はあ……」

 遙香のため息が聞こえて、申し訳ない気持ちがまたこみ上げてきた。別のものもこみ上げそうになったが、もう胃の中は空っぽだ。吐き出せるものは何もない。

「どうせ何も食べてないんでしょ? これでも食べたら?」

 神崎は、突っ伏した後頭部に何かが乗せられたのを感じた。重たい頭を持ち上げて、頭に乗ったものを見る。しじみのカップ味噌汁だ。

「なんでしじみ……」

「しじみのお味噌汁は二日酔いに効くの。まあ、民間療法だけど」

「おばあちゃんの知恵袋……」

「誰がおばあちゃんか」

 神崎のカップ味噌汁を取り上げると、遙香はウォーターサーバーでお湯を注いだ。お手製のカップ味噌汁と割り箸を添えて、神崎の目の前に出す。

「それ食べて頑張って」

 結衣の言う通り、遙香は優しい。でも結衣はひとつ間違いを犯していると神崎は思った。

 遙香が優しいのは、誰かを傷つけたくないからじゃない。

 遙香が優しいのは、遙香だからだ。たとえ遙香が神崎の嫌うレズビアンだろうが、遙香が神崎のことを嫌っていようが、遙香は優しいのだ。

「遙香パイセン……う……うおえ……うええ……」

「こ、ここで吐いちゃダメだから! ほら、立って、神崎さん!」

「うう……う……」


 女子トイレで背中をさすられながら、神崎は思った。

 自分が目指したいのは、やっぱりこういうオトナの女性だ。綺麗で優しくて仕事できて優しくておっぱいは……デカくならないかもしれないが、遙香のような人間になれたらいい。

「遙香パイセン……、一生……ついていくっス……うおえ」

「つ、ついてこなくていいから!」

「いやッス……あーし絶対、パイセンみたいな人間になるッス……か……ら…

…」

 ――お酒の魔力は恐ろしい。しばらくお酒は控えよう。

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