春の日、桜花の栞 その3
「本気で言ってんの……?」
詩織は、とんでもないカミングアウトをした美緒に確認した。
「本気……です……」
美緒は耳まで真っ赤になった顔を伏せて、消え入りそうな声で答える。
「そうです! 私と美緒は婚約者なのです!」
そしてケイティが話をややこしくする。
痛む頭を抱えながら、遙香はどんな言葉をかければいいのか考えた。平和だったひばりヶ丘のアパートは突如混沌に包まれて、もはや何が正解か――そもそも正解なんてものが存在するのかすら分からない。
遙香がひねり出せたのは、ただ一言だった。
「お、おめでとうございます……」
「Thank you!」
ケイティはそう言って、真っ赤になった美緒の頬にキスをした。あまりにも自然なキスにはこなれ感が出ていた。こなれたキスというのがいかにも生々しい。詩織もそれを感じ取ったようで、明らかに閉口していた。と言うより軽くヒいている。実母の女性としての面を見てしまったのだから無理もない。
「マジで……」
「マジです……」
放心した詩織の前で、美緒はケイティからキスの雨を受けている。なんともアメリカンな光景だ。何の変哲もない、池袋線沿線で起きている出来事とは思えない。
「By the way.ところで、ふたりも付き合ってるんでしたね!」
不意打ちのようなケイティの言葉に、遙香と詩織は思わず背筋を伸ばした。ケイティから愛情表現を一心に受けていた美緒も我を取り戻したようで、頬を紅潮――ケイティのつけたキスマーク含む――させたまま告げる。
「そ、そうよ。本題。このために帰国したんだから」
「And、式場探しです! 日本式のWedding Dressが着たいです!」
「け、ケイティ……その話は……」
「Oh、もしかして詩織にはSurpriseでしたか?」
「そうじゃないけど……!」
本題に入ると言いながら脱線を続ける二人を尻目に、詩織は遙香に告げた。
「うちの親が……なんかごめん……」
「ああ……うん……」
目の前で繰り広げられる
「とにかく、詩織! 全部説明して」
頭の痛くなる新婚カップルの会話を中断して、美緒は突っ伏したままの詩織に告げた。詩織は顔を上げることなく、面倒臭そうに語る。
「ハルとは一昨年の春に会ったの。そっからいろいろあってこうなった」
「そのいろいろの部分を説明してって言ってんだけど?」
「Uh……。私たちのイロイロ、先に説明しますか?」
「ケイティ……!」
話がまた脱線しそうだったので、遙香は説明を引き継ぐことにした。無論、これ以上話をややこしくしたくなかったので、援交の件だけはウソをついておく。
「偶然、詩織さんがナンパ男に絡まれてるところを目撃しまして。で、助けてあげたらその後も会うようになって、こんな感じです」
「WoW! 遙香はヒーローですね!」
会ったばかりの年下女性にナチュラルに呼び捨てにされて多少イラっときたが、グローバリゼーションという言葉でグッと呑み込んだ。
「つまり、貴女の方から手を出したってこと? 遙香さん」
美緒の冷たい視線が突き刺さった。おそらく美緒は遙香のことを「女子校生に手を出す下衆なロリコン」だと勘違いしているだろう。
「あ……えーっと……」
事実なので何も言えないが、誘ってきたのは詩織の方だ。答えに苦慮していた遙香に、詩織が助け船を出してくる。
「誘ったのはあたし。ハルはあたしに付き合ってくれてただけ」
「……本当に?」
「本当だってば」
疑ってかかる美緒に、詩織は顔を上げて吐き捨てた。そして一気にこの詰問を終わらせにかかる。
「ハルがあたしを助けてくれたの! で、あたしがハルに……一目惚れして、猛アタックしたんだって! もういいじゃんオトナはコドモと付き合っちゃダメとかそういうの! 自分だって19歳の時にあたし妊娠してるくせに!」
「う……」
美緒は返す言葉なく固まった。
事前に詩織から聞いた話では、美緒は年齢三十八歳。大学在学中に詩織を身籠もり二年間の休学の末出産、子育てしつつ大学院まで出たという剛の者で、現在は外資系企業で一部局を率いている。給料はおそらく、遙香の三倍は貰っているだろう。詩織に毎月仕送りできた理由を知って、軽くショックを受けたばかりだ。
反撃の糸口を探した美緒は、どうにかこうにか詩織を黙らせようとする。
「で、でも大学生と高校生は違うでしょ?」
「どっちも未成年じゃん!」
「Statesでは18歳が成人年齢ですよ」
またしてもケイティが話をややこしくする。ちょっと黙ってて欲しい。
「そ、そうよ! アメリカでは18歳で成人よ! だから私は問題ないの!」
「はあ!? バリバリの日本人がなに言ってんの!?」
「時代はgrobalizationなのよ!」
「都合のいいときだけアメリカ人のフリしないでよ! つーかその発音ウザッ!」
親子らしい同レベルのケンカに呆れていると、対面に座っているケイティと目が合った。
ケイティ。本名はキャサリン・ゼタ・ジョージアというギリギリの名前で、年齢は二十四歳。凹凸の主張が激しい顔の造型にボディライン、おまけに白磁の肌に緩いウエーブの金髪と、日本人の欧米コンプレックスを刺激してやまない美貌の持ち主だ。海外事情に疎い遙香でさえ名前を聞いたことがある大学のロサンゼルス校出身のまさに才色兼備で、現在は詩織の母・美緒の部下として若干怪しい日本語を駆使しながら働いている。
艶めかしい笑顔で微笑む姿はまさに洋物そのもので、遙香は思わずドキリとする。押し入れの中の段ボールにはそうしたDVDも入っているので余計にだ。
低レベルの言い争いを続ける母娘を無視して、ケイティは遙香の隣に腰を下ろした。そして、耳元で囁いてくる。
「遙香。美緒とSexしませんか?」
「な、なに言ってるんですか――」
突如としてとんでもないことを言い出したケイティは、遙香の反応などお構いなしに続ける。
「私、自分の好きな人が、他の人に抱かれてるトコ見るの好きです。最高に興奮します。でも、誰でもよくないです。遙香はキレイな人だから頼んでます」
「Really?
なんでそんな日本語だけは知っているんだこの女は。
「そういうのいいから!」
「ええ、もったいないです! 遙香もSwapingを知るべきです! 私、詩織とSexしてもいいですよ?」
「しっ、しおちゃんは誰にも渡しませんから!」
全力で叫んでしまった言葉は、当然詩織の耳にも入っていた。さっきまで口角泡を飛ばす勢いで美緒と言い争っていた詩織の顔は、怒ったものから急激に真っ赤になる。
「は、恥ずかしいこと言わないでよバカハル!」
「だ、だってこの人が!」
必死にケイティを指さして抗議すると、ケイティは遙香の手を掴んで自分の胸元に押し当てた。恐ろしくハリのある質感を遙香が手のひらに感じた瞬間、詩織と美緒の表情が凍り付く。
「なにしてんのハル……」
「わ、私は何もしてないって!」
弁解しようにも、ケイティの握力は強かった。手首を掴まれた遙香の手はほとんど動かすことができず、ハリのある弾力を否応なく味わうハメになる。
「ケイティ、あなたいい加減に……」
「フフ! 美緒のJealousy、ゾクゾクします……!」
そしてひばりヶ丘のワンルームは、喧々囂々の混沌に包まれた。誰が誰に対して何を抗議しているのかまるで分からず、「違う」「そうじゃない」と往年のヒットソングの文句が乱れ飛んだ。
混乱。混沌。狂乱。そろそろ日付が変わろうとしている時間帯に巻き起こったどうしようもない競演は、案外簡単に収まった。
『うるせえぞ!』
隣人のたった一発の壁ドンで、高まったボルテージは一気に冷えた。冷静さを取り戻した一同――自由奔放なケイティを除く――は、居住まいを正して本題へ戻る。
「……とりあえず、詩織は遙香さんは付き合っていて、一緒に住んでる。もう立川に戻るつもりはないのね?」
確認してきた美緒に詩織は即答した。
「ないから。あたしはハルと暮らす。……これからもずっと」
「遙香さんは、それでいいんですか?」
美緒の言葉に、遙香は頷いた。
「お許しをいただけるなら、詩織さんと暮らしたいです」
言い終わってから、これが「娘さんを僕にください」的な決まり文句だと気づいて、急に緊張してくる。言ってしまった後になって、詩織と生きていくことへの責任を痛感した。
将来は、順風満帆とはいかないだろう。世間の風当たりはなおも強い。
だけど――
「大変なこともあるとは思います。ですが、詩織さん……いえ。しおちゃんと一緒なら大丈夫です」
すぐに顔を伏せたので一瞬しか見えなかったが、詩織の瞳はわずかに潤んでいた。それが悲しみの涙でないことくらい、遙香にも分かる。
「……分かりました。うちの詩織を、よろしくお願いします」
美緒は観念したように微笑んだ。その言葉を聞いて、詩織は遙香の胸に顔を埋めた。小さく震える詩織の頭を撫でながら、遙香は決意を固める。
「よかったね、しおちゃん」
小さく頷くと、詩織はおもむろに顔を上げて、美緒に告げた。
「……結婚おめでとう、母さん。と、ケイティさん」
「……ありがとう」
こうして、二組のカップルは滞りなくお互いを認め合うことができた。
「そう言えば詩織、大学は?」
思い出したように告げた美緒に、詩織は素っ気なく答える。
「合格したよ」
「学費払うからメールして。振り込んでおく」
「ん」
あんなに悩んでいた学費問題は、一瞬にして解決した。先ほどまで熱のこもった言い争いをしていたとは思えないほどの飾り気のないシンプルな会話に、遙香はやはりこの二人は血の繋がった親子なのだと呆れつつも可笑しくて、ようやく笑うことができた。
明日は詩織の卒業式。笑顔で高校生活を終える詩織を見届けよう。
そう約束して、遙香はひばりヶ丘を後にする美緒達を見送った。
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