春の日、桜花の栞 その2
「どうするの、しおちゃん……」
逡巡を続ける間も、母さんからの着信は鳴り止まなかった。おなじみのメロディを何度もループ再生するスマホには『スライドで応答』とご丁寧に表示されている。
応答はしたくない。が、放置したところで解決はしない。喩えるなら、夏休みの宿題を無視し続けるようなもの。「後でやる」を繰り返してだらだら引き延ばすと、後々酷い目に遭う。
覚悟を決めよう。息を吸い込んで、人差し指をスライドバーに乗せた。タッチを感知してアイコンの表示が変わった。だけど、スライドはしない。というより、スライドできない。そこまでの覚悟はまだできてない。
「出るの?」
ハルの声は耳に入らなかった。
とにかく、どうすれば母さんをごまかせるだろうと考えるのに必死で、傾向と対策をあらん限りに脳裏に浮かべた。それをああでもないこうでもないと打ち消していると、終いには何を考えていたのか分からなくなった。
なんせ、母さんの言いそうな一言に対しての返答パターンは数え切れないほどあって。運よく母さんに答えを返したところで、そこからも返答パターンは数え切れないくらいに分岐する。分岐、分岐、また分岐。その繰り返し。
何通りにも分岐する様は、まるで生物で習った系統樹。樹木はすくすく育って、とうとうあたしの頭は爆発した。
「ど、どうしよう……ハル……」
自分でも呆れるくらい、あまりにもあんまりな情けない声が出た。
「出るしかないんじゃない?」
「ひ、他人事みたいに言わないでよ! ちゃんと説明しないとハルだって危ないんだよ!?」
「じゃあ、ちゃんと説明すればいいだけだよ」
焦りまくるあたしとは裏腹に、ハルは至って冷静だった。オトナの余裕ってやつかもしれない。ただただムカつく。
「自分がなに言ってるか分かってんの!?」
「嘘をつかずに話すだけだよ? 簡単なことでしょ」
「でもそれじゃ……」
――説明に失敗したら、ハルと別れることになる。
そんな大事な局面なのに、どうしてそんなに冷静で居られるのだろう。
「大丈夫。無理だったら代わってあげるから」
そう言って、ハルはあたしの背中に手を回して寄り添ってきた。温かなハルの体と匂いが、ぐちゃぐちゃになった心に染みこんでいく。
「ね、しおちゃん」
「う……」
悔しいけど。悔しいけどこの時、ハルはやっぱりオトナなんだと思った。少なくともあたしがハルの立場なら、こんな風に冷静ではいられない。焦りに焦って、変に嘘を重ねて間違いなく自爆していたと思う。
「大丈夫だよ。私がついてるから」
「……その言葉、信じるから」
「最初から信じてるでしょ?」
「……そういうのズルい」
――信じてるに決まってる。だってハルだから。
背中を押されて、あたしの覚悟はようやく決まった。人差し指をゆっくりスライドして、スピーカーを左耳に当てる。
『詩織?』
電話口の母さんの声は、驚くほどフラットだった。怒って声を荒げる訳でも、驚いてまくし立てる訳でもない、素っ気なくて飾り気のない声。
思い出してみれば、母さんとの会話は昔からこんな感じだった。別段母さんの感情が薄い訳ではなくて、ただ感情を読み取るのに苦労する。きっと感情表現が不得意なのだ。あたしに似て。
「なに、母さん?」
あたしは平静を装って答えた。焦りを隠して、普段通りのクールな村瀬詩織として振る舞う。
『生きてはいるみたいね』
母さんは小さく息をついた。それが安堵のため息なのか、呆れなのか分からない。次なる言葉で牽制すべきだと思ったけど、何を言えば正解なのかと考える。結果、長考。気まずい沈黙だ。
『私、今どこに居ると思う?』
あたしの逡巡を見通してか、母さんはさっそく本題に入った。考えなくても分かる質問で、あたしを揺さぶろうとしている。
「どこだろ、職場?」
わざと間違えてみたけど、返ってきたのはたった一言だ。
『立川』
あたしの母さん――村瀬美緒は今、立川に居る。そしておそらく、一番の物的証拠であるもぬけの殻の408号室に居る。
母さんは、静かにあたしの言葉を待っていた。
さすがに隠し通すことはできそうもない。カラカラに乾いた喉で息を吸い込んで、あたしは負けを認めることにした。
「ごめんなさい!」
『何に対して?』
「勝手に家具を処分したこと!」
『それだけ?』
「あと……引っ越したこと……」
『どこに?』
「……好きな人の……家……」
『他には?』
「……母さんに黙ってたこと……」
『後は?』
「…………母さんを……驚かせちゃったこと……」
フラットなのに詰問するような母さんの問いかけに、あたしの声はどんどん小さくなる。隣でハルが見ていてくれるからなんとか対応できているだけで、本心では何を言われるか戦々恐々だった。
『最後だけ違うわね、詩織』
違うと言われ、口を突いて出た「え?」だか「へ?」だか分からない疑問符に答えが返ってくる。
『驚かせちゃったじゃなくて、心配させちゃった、でしょ』
そう言って、母さんはほんの少しだけ声を弾ませた。そして――
『詩織、いま幸せ?』
思ってもなかった質問に、一瞬何を訊かれたのか分からなかった。
シオリ、イマシアワセ。
左耳から右耳へ抜けていった謎の言葉が、あたしが幸せかどうか尋ねたものだとしばらくしてから気づいて、ちゃんと返事した。
「……幸せだよ」
隣でスマホに聞き耳を立てているハルと見つめ合って、心の底の本心を答えた。すぐに恥ずかしくなって、お互いに顔を真っ赤に染める。あたしとハルは、まるで鏡みたいだ。
『好きな人は近くに居るの?』
「……居る」
『どんな人?』
ハルのことを伝えるには、何と言えばいいんだろう。高二の春に出会ってから今までのことを思い出して言葉を探した。援交相手や従姉妹じゃない、あたし達ふたりの関係を言い表せる言葉はこれしかない。
「ジグソーパズルの……隣合ったピースみたいに、カッチリハマる人」
『詩人ね』
いつだったかのハルと同じ反応をして、母さんは笑った。やっとまともに息を吸えた。生きた心地がした。
『その人に代わってくれる?』
「うん」
ただ、この時のあたしは完全に油断していた。母さんが笑ったことで許してもらえたものだと思い込んでいたから、一番重要なことが抜け落ちていることに気づかなかったのだ。
確かに、あたしは告白した。
勝手に立川の実家の家具を処分したこと。
引っ越したこと。
今は好きな人の家に居ること。
それらを母さんに黙っていたこと。
だけど、ひとつだけ抜け落ちていたことがある。
『うちの子が大変、お世話になっております。詩織の母親で、美緒と申します』
「こちらこそお世話になってます。支倉遙香です」
やや間が空いて、母さんは変な声を上げた。
『……んえ?』
「あ……」
あたしはハルと目を見合わせた。ふたりして、今になって、伝え忘れていたことに気づいたのだ。
――好きな人が女性だ、って。
『えっと……思ったより可愛らしい声だけど……遙香くん……でいいの……?』
「……ちゃん、です……」
『ちゃん、なのね……? くんじゃなくて……?』
「その、はい……お母様や詩織さんと同じ、性別の……」
『つまり、えっと……遙香さん……?』
「はい……」
『遙香さんは……女性……?』
「……はい……」
今度こそ、決定的に、気まずい沈黙が流れた。何も言い出せなくて押し黙ったのはあたしとハルだけじゃなく、母さんも。
女が三人集まれば姦しいと書くけれど、そうじゃない時もある。
『因果ね……』
母さんはぽつりと漏らすと、あたしにも聞こえるようにハッキリ言った。
『……住所を教えてもらえる? 今から行くから』
母さんの声は、元のフラットで、感情の読みにくい無機質なものに戻っていた。ハルがひばりヶ丘の住所を伝えると、そこで電話はブツリと切れた。
母と娘の感情の探り合い、二回戦の火ぶたが切って落とされようとしている。
***
「……どうぞ」
「……どうも」
ひばりヶ丘の狭いワンルームに、四人の女性がローテーブルを囲んで座っていた。元はひとり暮らしだった遙香の家に四人分の湯飲みなど用意があるはずもなく、差し出した粗茶の容器は見事にちぐはぐだった。
「Wow! これが粗茶ですか! 初めてです!」
それ以上にちぐはぐだったのは、詩織の母――美緒が連れてきた謎の白人女性だった。
洋物に出てきてもおかしくない凹凸のハッキリした顔立ちとボディラインは、昭和じみた遙香の部屋では明らかに浮いている。むしろバリバリの西洋人が流暢な日本語をこれでもかと話すのだから、浮くなという方が無理な相談だ。
「粗茶はへりくだって言う表現よ」
「Oops。Japanese humble formsでしたか。すみません」
美緒が注意すると、謎の白人女性はぺこりと頭を下げた。頭は下がっているのに、彼女の存在は天井を突き破って夜空に達さんばかりに浮いている。まさに天井知らずの浮きっぷりだった。
この状況は、遙香にも想定外だった。とは言え、詩織に大丈夫だと約束した手前、いつまでも黙っている訳にはいかない。
営業仕込みのキャラクターに表情と心を切り替えて、とりあえず雑談を試みる。
「えっと……ニューヨークは寒いですか?」
だが、相手が相手だ。教科書の例文みたいな質問しか出てこない。当然返事も――
「はい。寒いです」
――と、分かりきったことだ。当たり前だ、アメリカも日本も季節は冬なんだから寒いに決まっている。しかも返事を返したのは美緒ではなく、謎の白人女性だった。あなたには言ってないという言葉を呑み込んで、なんとか話題を繋ぐ。
「いつこちらに着いたんですか?」
「今日のお昼です」
「フライトは何時間くらい掛かりました?」
「14時間です」
「うわあ、大変ですね」
「はい。大変でした」
「えー……」
まるで話が続かない。しかも答えるのは白人女性ばかりで、ちらりと横目に見た美緒は、詩織に視線を向けてだんまりを決め込んでいる。
仕事のできそうな人だ。それが、遙香が美緒に対して抱いた第一印象だった。詩織とは顔こそ似てはいないものの、まとった雰囲気や、あまり感情を表に出さないところは血を分けた親子らしい。
つまり、ふたりは似た者同士だ。似ているからこそ、無言でにらみ合っている。それは喩えるならば剣豪同士の立ち会いだ。間合いを探り合い、隙あらば斬ろうと剣呑たる空気感を漂わせている。正直、居心地が悪いことこの上ない。頼むから、無闇やたらと緊張感を走らせないでほしい。今すぐ泣き出したい気持ちを抑えて、遙香は必死に営業スマイルを張り付ける。
その時、にらみ合った剣客がようやく動いた。先に動いたのは詩織だった。
「その人、誰」
やや空いて、詩織の一言に反応したのは白人女性の方だった。
「Hi。私、美緒のco-work partner……一緒に働いている、キャサリンです。ケイティって呼んでください」
白人女性――改め、ケイティは右手を差し出した。それが握手の合図だということに気づいた詩織は、おずおずと手を握る。
これ以上会話の糸口を逃すまいと、遙香は握手しながらケイティに尋ねる。
「お、お二人は同じ職場の同僚なんですか?」
「Oh! そうです、同僚です!」
どうやらケイティは美緒の同僚らしい。仕事上の人間関係とプライベートを区別しないあたりは、オープンなアメリカ気質のなせる技だろう。少なくとも遙香は、職場の同僚とプライベートを充実させたいと思わない。特に神崎は。
だが、ケイティはとんでもないことを付け足した。
「でも、仕事以外でも、美緒とはpartnerですよ?」
「はい……?」
詩織と二人揃って、美緒とケイティをまじまじと眺めた。
詩織をまっすぐ見つめていた美緒の視線が、少しずつ真下に落ちていく。短めのボブカットの隙間から覗いた耳は、充血して真っ赤になっていた。
「日本語では違うんですか? Partner's mean is――」
「Stop! ケイティ。私から説明するから、ちょっと待って……!」
美緒は真っ赤になった顔を持ち上げて、歯切れ悪くつぶやいた。
「ケイティは私の……再婚相手……です……」
血は水よりも濃いとはよく言ったものだ。そもそも、そういう血や遺伝子があるかどうかは分からないし、あったとしても子々孫々に残すのは一筋縄ではいかないだろうが、つまるところはそういう話だった。
「それ、アメリカンジョークってやつ?」
詩織に向かって、美緒は頭を下げた。
「内緒にしてて……ごめんなさい……」
この親にしてこの子あり。赤面して震える美緒と、口をあんぐり開けた詩織を交互に見やって、遙香は頭を抱えた。
「Sorry.粗茶のおかわりもらえますか?」
勝手に煎れて飲んでくれ――。
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