春の日、桜花の栞 その1
国際線の到着ゲートは、この日も大勢の人々で賑わっていた。
平成三十年、二月二十八日。
手押しカートにスーツケースを満載した旅行帰りの者、バックパックひとつ背負った外国人旅行者。スーツを着込んだビジネスマン。ここは日本でもっとも人種のサラダボウルである場所、成田空港第二ターミナル。
その群衆の中に、彼女は居た。
「相変わらず、醤油臭い国ね」
エントランスに着くなり、彼女は鼻をひくつかせてそうつぶやいた。
年齢は三十代後半。高いヒールを見事に履きこなし、リズミカルな音を立てて肩で風を切って歩く。ストライプのブラウスにスキニーパンツを合わせただけという飾らないシンプルな出で立ちが、逆に彼女の印象を華やかなものへと昇華させる。立ち居振る舞いがアクセサリーになっているようなものだ。
「Hey Mio!」
呼び止められて振り返ると、同じくパンツスタイルの白人女性の姿があった。白人女性は、足の速い彼女に追いつこうと小走りをした後のようで、呼吸と長い金髪を大いに乱していた。どうやら急ぎ足が過ぎたらしい。謝罪代わりにおどけてみせて、今度は歩調を合わせて歩き出す。
「So.Where do we go?」
「ん、会っときたいのが居てね」
歩きながら問いかけてきた白人女性に、彼女は日本語で返事をする。郷に入れば郷に従えとばかりに、先ほどまでの流暢な英語を日本語に切り替えた。
「Ah.Your daughter――娘ですね。名前、たしか……」
そんな彼女の様子に倣って、白人女性も言語を切り替える。ただし、仕草は母国であるアメリカ式そのもの。眉間を摘まみ、眉根を大きく動かして、思いだそうと努めている。
「答え知りたい?」
「No! I guess……思い出します。ah……」
英語混じりの怪しい日本語で考えながら、二人のキャリアウーマンはタクシーに乗り込んだ。運転手に目的地を伝え、高速道路を西へ向かう。車内では、白人女性がいまだ眉間に皺を寄せてうんうん唸っていた。
「はい残念、時間切れ」
「Sorry,give up……です、
彼女――美緒は、スマホのロック画面を傍らの白人女性に見せた。気だるそうな表情の少女が、ひときわ気だるそうにピースサインをして映っている写真だった。
「Wow! カワイイです!」
「詩織よ、村瀬詩織」
二人を乗せたタクシーは、成田を離れ、西へひた走る。
目的地は立川駅徒歩十五分のマンション、408号室。
「何事もなければいいんだけどねえ」
そうつぶやいた詩織の母親――村瀬美緒は、胸中にある心配を強引に押し込めて、車窓から見える田園風景に目を遣った。
***
池袋のロフトで四月始まりの手帳を買った。ハルは「もっとカワイイのにしたら」とあたしが選んだ黒革の手帳に注文をつけたけど、一目見て気に入ってしまったのだから仕方がない。
あたしは時短とか効率とかそういう言葉が好きだ。なるべく無駄は省いて質素でいたいから、女性向けのカワイイ――裏を返せば装飾過多な――手帳より、遊び心など微塵もない質実剛健で面白みに欠けるものでいい。あたしが手帳に求めるのはスケジュールを書き付ける機能であって、カワイさや面白みじゃない。あたし自身、カワイイものがしっくりこないからってのもあるけど。
――なんてことをハルに説明したら「しおちゃんはオトナだね」と笑われた。ハルはからかったつもりだろうけど、正直に言うとちょっとだけ嬉しかった。
この春、あたしはようやくオトナ世界へ一歩を踏み出す。あたしのと色違いの、ピンクの手帳を買ったハルに少しでも早く追いつきたい。だから黒革の手帳は、ハルに似合うオトナになりたいあたしの決意の証。そして、ハルが胸を張ってあたしを愛せるようにするための証。そんな誓いを立てたくて、まっさらなビジネス手帳の冒頭にあたしは日付を書き入れた。
平成三十年、二月二十八日。
第一志望だった池袋の大学に、あたし――村瀬詩織は合格した。
つまり、あたしの
「……親権者の同意って必要なんですか?」
同じ日。場所は、大学構内の新入生向け手続きコーナー。
「え、だって未成年ですよね?」
資料とあたしの顔を交互に見やり、大学職員のオジさんは「たはは」とオジさんらしく苦笑して言った。
「親御さんと一緒に来ていただけると同意の手間も省けるんだけど、学生さんお一人ではね」
「でも、お母さん――母は海外赴任中で」
「事情があるのは分かるよ、でも電話なりメールなりで確認を取らないといけないんだよね。そういう決まりなもんで」
オジサンは曖昧な表情で笑っていた。困っているのか、バカにしているのか、もしくはその両方か。だけど、そんなのは些細なことだ。ずっと先延ばしにしてきたあの事に比べれば。
「絶対に、母に連絡して、説明しなきゃいけませんか?」
「まあ、そうなるねえ」
オジさんの生温かい最後通牒に、あたしの背筋は冷えて固まった。
なぜなら、あたしは母さんに何も説明していない。
受験する大学の名前も、合格したことも、立川のマンションの家財道具をすべて処分したことも、海外逃亡を企てたことも。そして、ハルとの生活のことも。
何をどう話せばややこしくならないで済むだろう。試しに「入学に親権者の同意が必要だから」とだけ言ってみたら、母さんがどう動くだろうか。これまでの経験から、シミュレーションしてみる。
――ダメだ。そんなことを言い出せば、母さんは仕事を放り投げてでも帰国するに違いない。娘の一大事だとかなんとか言って。あの人はそういう人だ、普段居ない分、こういうところで点数を稼ごうとする。
じゃあ、洗いざらい全てを話すべきか。未成年なのに社会人と交際していて肉体関係もあってついでにひばりヶ丘で同棲していて、しかも相手は女性だと。
――これは絶対にダメだ。一歩間違えばハルの立場が危うくなる上に、母さんもショック死してしまうかもしれない。
あたしの逡巡を読み取ったのか、オジさんは相変わらずのへらへら笑いで申請書を突き返した。
「まあまだ時間はあるから、よく話し合ってね」
却下。村瀬詩織の入学は、認められません。オジさんは短く言葉を切って、「次の方どうぞ」という決まり文句であたしを新入生の列から押し出した。
正門を出てすぐ、池袋駅西口の大通りであたしは途方に暮れた。ハルの職場へ行く訳にも、いつもの喫茶店で時間を潰す気にもなれず――もちろんその場で母さんに電話するなんて絶対にできなくて――そのままひばりヶ丘行きに乗り込む。
急行・飯能行き。時間を潰したいときに限って、すぐに家に着いてしまう電車があたしを待ち受けていた。
「じゃあ、手続きできなかったの?」
皿に盛ったから揚げを摘まみ上げてハルは言った。
帰って早々ベッドに倒れ込んだあたしに料理をする気力は残っていなくて、晩ご飯は見事なまでの手抜きになった。水菜とアボカドを切って混ぜただけのサラダとレンチンのから揚げを黙々と頬張って、あたしは答える。
「母さんに説明しないとなんだけど……」
「やっぱり言ってなかったんだ」
黙って頷いた。沈黙は肯定の合図。
「どこまで話してるの、お母さんには」
「なにも」
ハルは一瞬、ギョッと目を見開いた。すぐさま表情だけは取り繕ったけど、好物のから揚げをテーブルに落とした様子から判断するに、そこそこ驚いているっぽい。
「そっかあ……」
「ごめん」
落としたから揚げを口に運んで、ハルはゆっくり咀嚼した。ローテーブルに向き合ったまま、黙々と晩ご飯を胃の中に詰め込んでいく。
母さんを説得するには、どんなシナリオを組み立てればいいのだろう。そんなことで頭がいっぱいのあたしの耳に入ったのは、ハルの小さなつぶやきだった。
「授業料とか入学金はどうするの?」
入学手続きの際、入学金と少なくとも半期分の授業料を振り込まなければならない。公立ならそこそこ安く済むけれど、私立大だとなかなかの額になる。
「貯金してた仕送りがあるから、それ使うつもり」
正直、金銭的な不安はなかった。こうなることを見越して、母さんからの仕送りを節約していた。入学手続きで貯金はほとんど消えてしまうけど、大学に入れば――ちゃんとした――バイトもできる。だから大丈夫。
安心させたくてそのことを話したら、ハルは意に反して大きなため息をついた。
「そうじゃないでしょ、しおちゃん」
「なんで?」
ハルは箸を置いてまっすぐあたしの目を見た。ベッドの上ではあんなにえっちで欲しがりなのに、たまにこういう真剣な顔をする。綺麗でカッコいい、あたしが憧れてるオトナの顔だ。
「どうして一言相談してくれなかったの?」
「え?」
「お母さんに相談できなかったのはしょうがないかもしれないけど、せめて私には言ってほしかったよ」
テーブルを離れたハルは、戸棚の中から預金通帳を取り出した。パラパラとめくり、額面をあたしに見せる。突然ハルが通帳を持ちだした意図が分からない。
「や。でもお金あるし、自分のことだし」
「しおちゃんのことだからでしょ。お金の話なんてしたくないから、私も訊かなかったけど」
「ハル、もしかしてあたしの学費を払う気でいたの?」
「そうです」
そう言って、ハルは少し怒った。今度はあたしがから揚げを落とす番だった。
「全額は無理でも少しくらいは協力させてよ。社会人なんだもの」
ハルはそこまで経済的に余裕があるワケでもないのに、多少無理をしてでも助けてくれる。基本的にハルは優しいのだ。優しいけど、あたしの気持ちはあまり考えてくれていない。
「協力なんてしなくていいって」
「そういうワケにもいかないでしょ」
あたしは、ハルの申し出が悔しかったのだ。経済的に自立したオトナになりたくて自力で支払おうと決意したのに、当然のように否定されたから。
ハルにとってあたしは、まだ子どもなのだ。たった七歳しか違わないのに、いつまでもあたしを子ども扱いしている。
「あたしはもうオトナなの、自分のお金で払うから!」
「それはお母さんのお金であって、しおちゃんのじゃないでしょ」
痛いところを突かれて狼狽えた。ハルの言う通り、あたしは今まで自分の力でお金を稼いでいない。援助交際中だって、稼いでいたというよりハルからお小遣いを貰っていたようなものだし。
それでも何か言わないと気が済まない。
「あたしが節約して貯めたの! だからあたしのでしょ」
……だなんて、子どもじみた負けず嫌いを発揮して自己嫌悪に陥る。自分でも無理筋な道理だってことくらい分かっている。分かっていても反抗してしまう。
「お金がなくなったらどうするの?」
笑わないハルにあたしは宣言する。
「だからバイトして稼ぐって言ってるじゃん」
「授業料はいくら?」
「知らないし」
「知らないはずないでしょ」
「もういい、ハルには教えないから」
食事もそこそこに、あたしはベッドに横になった。枕に頭を埋めて、ハルと顔を合わせないようにする。スネてるみたいでカッコ悪いけど、あたしは子どもなんだから逆ギレでもして居直るしかない。ハルを嫌いになった訳じゃないけど、今は話をしたくない。
「しおちゃ~ん?」
「……しおちゃんは居ません」
「居るじゃん」
「放っといてよ、ハルのバカ」
ハルを許せない気持ちと、自分を許せない気持ちに挟まれて、あたしは布団にくるまって岩みたいに体を丸めた。このまま寝てしまおうと瞼を閉じた時、布団越しにくぐもった音が聞こえた。あたしのスマホだ。
「しおちゃん、電話だよ」
ハルはあたしが怒ってることすら無視して、平然とした様子だった。子どもがスネてるだけだと思ってまるで相手にしてくれない。それにムカついて、あたしも無視を決め込む。デフォルトの着信音は、そのうち途切れる――
――はずだった。
「出た方がいいんじゃない?」
あれから一分近く、コール音が鳴り続けている。電話口の相手は相当辛抱強いのだろう。
「……誰から?」
布団の中からスマホを寄越せとばかりに腕だけ出して尋ねる。たぶん、名前もロクすっぽ覚えていないクラスメートか、優姫さんだろう。明日の卒業式で木下先生にサプライズを仕掛けようとかそういう類の話だと思う。
だけど、ハルは予想外の人物を挙げた。
「お母さん」
「え……」
布団結界から飛び出して、ハルの手からスマホをひったくって画面を確認した。アドレス帳の登録名、お母さんがあたしを呼んでいる。
「ヤバい……」
驚くべきは、電話番号を使って電話を掛けてきたことだ。海外通話料金が高いからとアプリの無料通話しか使ってこなかった人が、アプリではなく電話を掛けてきている。その意味は一つだ。
「お母さん、日本に戻ってきてる……」
ハルのから揚げがまたひとつ落ちた。
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