閑章

30日 土曜日の有明と日比谷さん

「ちょっと人多すぎない……?」

「なんつーか、スゴいね……」

 12月30日、土曜日。時刻は午前11時。

 遙香と詩織は、人と会う約束で有明のランドマークである逆三角のイベント会場を訪れていた。池袋で乗り込んだりんかい線直通の埼京線はすし詰め状態で、改札を抜けたふたりの額にはほんのり汗がにじんでいる。

「しおちゃん、ホントにここで待ち合わせなの?」

「そのはずなんだけど……」

 話はクリスマスの翌日、26日まで遡る。


「ねえハル、30日って空いてる?」

 いつものローテーブルに勉強道具を広げた詩織が、ベッドに寝転がる遙香に尋ねる。

 ひばりヶ丘の遙香のワンルーム、東向きの部屋。聖夜の一件で帰る家がなくなった詩織は、元の鞘に収まるように遙香の家に転がり込んでいた。以前と違うのは、なし崩し的な同棲ではないこと。

「空いてるけど、どうしたの?」

「優姫さんがハルと会いたいってさ」

「日比谷さんが?」

 日比谷優姫。詩織と同じ、蓮華ヶ丘高校に通う高校三年生。真面目な委員長気質の彼女には、かつて詩織に告白して見事に玉砕した過去がある。しかも、遙香とは詩織を――形の上では――奪い合った恋敵だ。

「恨み節のひとつでも言われるのかなぁ……」

 遙香は露骨に項垂れた。なんせ日比谷は、挑戦状を叩きつけたり詩織の行方を話さなかったりと、遙香を嫌っている節がある。詩織への裏切りを考えれば自業自得なのだが、とは言え遙香には合わせる顔がない。

「正直、行きたくないかも……」

「なんで?」

 仮にも日比谷を振ったことなど微塵も感じさせず、詩織はきょとんとした顔で尋ねてくる。遙香は面食らってしまった。

「いろいろあったし、気まずいでしょ……」

「あたしが好きなのはハルなのに?」

「う……」

 聖夜以来、詩織がふとつぶやく「好き」の言葉が、遙香に突き刺さるようになった。これまでの罪悪感とは正反対、ストレートに愛されていることがひしひしと伝わってくると、とても気恥ずかしい。嬉しいことなのだけれど。

「大丈夫、あたしも行くし。むしろついてかないと心配」

 詩織は真っ赤になった遙香の顔を見ながら、口角を片方だけ上げて笑った。

「ハルって女子高生と平気で寝ちゃう人だし。あたし以外に手出しちゃダメだよ?」

「そ、そんなことしないからっ!」

「じゃ、『会っても平気だよ』、っと」

 詩織が手早くメッセージを送ると、すぐに返信が来た。ぽよん、という間抜けな音の後で、詩織は首をひねって告げた。

「ハルの身長とスリーサイズ教えて、だって」

「なんで!?」

「さあ……」


 そして、今日が約束の日。場所は有明、国際展示場。

 この日行われているのは、お盆休みと年末に開催される趣味人達のビッグイベント。その名も――。

「これが、コミックマーケット……」

 遙香は、逆三角の建物まで続いている長蛇の列を見てため息をついた。

 遙香も詩織もこの手の趣味は持ち合わせていない、何もかもが未経験。行き交う人の列の中を泳いでいると、いつの間にか行列の中に組み込まれてしまった。

「日比谷さんって、そういう趣味なの?」

 テレビの特集でこのイベント――コミケが、えっちだったりえっちじゃなかったりする自主製作の同人誌を売り買いするものだと放送されていたのを見たことがある。いわばオタクの祭典だ。周りの人々を見ていると、当たらずも遠からずという気もする。

「分かんない。優姫さん、結構いろいろ隠してるっぽいし」

 詩織は何やら思案する様子を見せて、なにかを思い出した。

「そういえば、文芸部だって言ってた。小説でも書いてるのかな」

「つまり、小説?」

「女同士が絡み合ってたりして」

 そういう作品があることは遙香もかろうじて知っていた。なんでも、百合というジャンルらしい。なぜ百合なんて名前なのかは分からないけれど。

「ま、会ってみたら分かると思うよ」

「不安……」

 しばらく並んで待つと、スタッフの先導で列が動き始めた。遙香達はそのまま、正面にそびえる逆三角の建物へ向かって歩き出す。その途中で、詩織のスマホがぽよんと鳴った。

「優姫さん、階段上がったトコの広場に居るって」

 詩織に言われて視線を上げた遙香は、建物前の広場に広がる光景を見て愕然とした。

「なに、あの人達……」

 広場に居たのは、現実離れした衣服を身に包んだ人達。鎧をまとった西洋の騎士から、小銃を構えた特殊部隊の男性達。着物をアレンジしたような和洋装に、ゴシックロリータ。露出度の高い衣服の他に、この時期だというのに水着の人まで居る。

「あ、そういうことか……」

 詩織は何か納得したような顔でため息をついた。

「そういうことって――」

 詩織に尋ねようとした遙香の眼前に、少女が割り込んできた。

「詩織さん、支倉さん!」

 二人の名前を呼んだ少女は、まるでアイドルのようなピンクを基調としたステージドレス姿。日本人には不自然なほどにふわふわした金髪のウィッグの上には、真っ赤なリボンがウサギの耳のようにまっすぐ伸びている。

「あたし達に見せたかったってこと?」

「それだけじゃないけどね」

 詩織の冷たい態度など気にも留めず、金髪のアイドルはくるりとその場で回ってみせた。裾がひらりと舞う姿にしばし見とれた遙香は、アイドルの顔をまじまじと見てようやく気がついた。

「あなた、日比谷さん……?」

 アイドル――改め、日比谷は微笑んだ。言葉を失った遙香に、詩織が説明する。

「優姫さんの趣味、コスプレなんだって」

「へえ~……」

 遙香は相づちをうちつつ掛けるべき言葉を探した。「意外だね」と言えるほど日比谷のことを知らない。おまけにコスプレの元ネタを知らないので再現度も、似合っているかどうかもいまいちよく分からない。

「かわいいね~」

 当たり障りない言葉でお茶を濁すと、日比谷は頬を染めた。どうやら正解だったようだ。これ以上踏み込まないで済むように、遙香は急いで話題を変える。

「ひょっとして、しおちゃんのメイド服って」

「そ。優姫さんに押しつけられた」

使?」

 ほんのりと悪意がにじんだ日比谷の言葉に、遙香も詩織も赤面した。コスプレ衣装がのひとつとして使用されたのは言うまでもない。

「喜んでもらえたみたいでよかったです。ね、詩織さん」

「う、うるさいな……」

 珍しく決まり悪そうな詩織の顔を見て、遙香は口をぱくぱくさせた。メイド服の詩織を勢い余ってメチャクチャにしたときのことを思い出すと、弁解の余地もない。

 「着替えてくるから待ってて」と言い残して去っていくアイドル活動な日比谷の姿を見送って、遙香は隣の詩織に囁いた。

「日比谷さんってあんな子だったの?」

「だったみたいだね……」


 ***


 所変わって、会場近くの喫茶点。私服姿の日比谷と向かい合うように並んで座った詩織が声を掛けた。

「ハルと会いたいってのは、コスプレ姿を見せるため?」

「それもあるかな。どうでしたか、支倉さん?」

「ああ、うん。もちろん――」

 すごくかわいかった、と言いかけた遙香は、隣に座る詩織の冷たい視線を感じて言葉を呑み込んだ。

「似合ってたよ。なんのキャラか分からないけど」

 詩織はさっぱりしているように見えて、人並みにヤキモチを焼く。だから日比谷にかわいいとは言わず、一番収まりのいい言葉で褒める。ただ、言い淀んだことを読んできたのか、詩織が遙香の方に身を寄せてきた。

「今度は支倉さんもやりませんか? 支倉さん、大人っぽくて綺麗だからお姉さんキャラとかすごく似合うと思いますし」

「あー、私はそういうのは……」

 遙香が語尾を濁すと、詩織が割って入ってくる。

「ハルはそういうのしないから。したいならあたしの前だけでやって!」

 そう言って頬を赤らめる。どうやら詩織は嫉妬しているらしい。

「詩織さんならそういうと思った」

 日比谷はくすくす笑って、本題を切り出した。

「まず、詩織さん。お帰りなさい。それと支倉さん。あんなこと言って、すみませんでした」

 日比谷は真面目な顔で頭を下げた。

「あんなことって何?」

 詩織の疑問に、日比谷は答える。

「詩織さんが引っ越すって言った前日に、支倉さんを責めたの。詩織さんの優しさに甘えてる最低の女だ、って」

 日比谷はかつて、蓮華ヶ丘の階段の踊り場で遙香の弱点を言葉のナイフで抉った。あまりにもその通りだったため遙香はロクに反論することもできなかったのだ。

「まあ、事実だね。だよね、ハル?」

「でも、ひどいことには変わりないから。それを謝りたかったんです」

 昔と言っても、まだあの事件からは一週間と経っていない。それでも詩織と以前よりも親密な距離になれたのは、日比谷のあの言葉のおかげでもある。

 遙香は隣でイジワルな笑みを浮かべる詩織を見てから告げた。

「気にしないで。あんな風に言われなかったら、私達は今ここに居ないから」

「結果的に恋のキューピッドになっちゃったってことですね、私」

 日比谷は力なく笑って、オレンジジュースを啜った。その様子を見て、詩織が身を乗り出して尋ねる。

「今の話、ちょっと詳しく聞きたいかも」

「む、昔のことはもういいでしょ?」

「いいじゃん、気になるし。教えて、優姫さん」

 止めようをする遙香を無視して、優姫は語り始めた。

「私、って言ったの。あの時の詩織さん、私にまで迫ってきたもん。落とせちゃうかも、ってちょっと思っちゃったから」

「そうなんだ、しおちゃん」

 痛いところを突かれたのか、詩織は「昔のことはいいから」と告げてそっぽを向いた。

 断片的な後日談として聞くだけでも、本当に危ないところだったらしい。それに気づいた遙香は冷や汗をかいた。あの時、必死にメッセージを送り、電話しまくってよかったと心の底から感じる。

「でも、ふたりは運命だったんだって思った。木下先生から支倉さんが成田に行ったって聞いて、やっぱり私じゃだめなんだって思ったから」

「ホント、よく分かったよねハル。あたしのスマホに何か仕込んでる?」

 遙香が成田を選んだのはただの直感だった。詩織が成田に居るというイメージだけしか脳裏になくて、車を走らせたのだ。

「だから勘だって。仕込んでたら、すぐにでも引き留めたよ」

「だね。ハルはそういう人だよ」

 そう言って、遙香と詩織は目を見合わせた。瞳の中にもう涙は浮かんでいない。春のように温かな信頼と運命じみたものが、二人をしっかりと引きよせ合っている。

 その様子を見て、日比谷がため息をついた。

「やっぱり、うらやましいな……」

「あたしを射止めたハルに嫉妬してんの?」

 やや棘のある詩織の言葉に一瞬悩んで、日比谷は首を縦に振った。

「詩織さんからそこまで想われて慕われてるのはうらやましいよ。私、まだ詩織さんのこと忘れられてないから」

 日比谷の告白に、未だに自分と日比谷は恋敵なのだと遙香は感じた。思わず背筋が伸びたが、日比谷は続ける。

「でも私には、支倉さんが感じた運命みたいな直感はなかった。それに、詩織さんの隣に居る自分を想像できないもの。詩織さんの隣は支倉さん。今の並びもそうだけど、それはこれからも変わらない気がする」

「変わらないよ。ハルはずっと一緒に居るって言ってくれたし」

「あは、プロポーズまでされたんだ」

 面と向かって言われると、遙香もさすがに恥ずかしい。だけど、あの時の告白はそういう類のものだった。ずっと一緒に暮らしていくこと。この国では難しいかもしれないが、LGBTのカップルを受け入れてくれる自治体があることは遙香も知っている。

「じゃあ、最後にワガママ聞いてもらっていいですか?」

 日比谷は、遙香に向けて申し訳なさそうに微笑んだ。「いいですよ」なんて思わず敬語で頷くと、日比谷が告げた。

「私の前で、詩織さんを幸せにするって言ってください。誰にも渡さないって誓ってください。そうしたら私、諦めがつきます。いつまでも終わりかけの恋にうじうじ悩みたくないんです」

 日比谷の言っていることは、わりとメチャクチャだ。失恋を受け入れられないから、無理矢理強烈な失恋のショックを味わって、詩織への想いを断とうとしている。

 それは、日比谷にとっていいことなのだろうか。詩織にとってもいいことなのだろうか。せっかくできた詩織唯一のを外せる友人なのに、その関係に亀裂を入れてしまうのでは――。

 そんなことを考えていると、詩織が告げた。

「ハル、言ってあげて。優姫さん、きっと苦しいんだと思うから」

 詩織にはどうすることもできない。詩織がハッキリ振ったのに、日比谷は想いを断ち切れなかったから。きっと日比谷は「チャンスがあるかもしれない」と心のどこかで感じてしまったからだろう。

 だったら、日比谷を救う方法はひとつしかない。遙香自身が八年前の結衣を断ちきったように、日比谷の中に潜む詩織の幻影を壊すこと。

 遙香と詩織のふたりには甘く、日比谷には苦い方法で。

「私は、詩織を幸せにするよ。日比谷さんにも他の誰にも渡さない。隙間に誰かが入り込む余地もないくらい、一生、詩織の隣にいるから」

 言い終えて、強烈に恥ずかしくなった。隣の詩織を横目でちらりと見ると、遙香に顔を見られまいとそっぽを向いている。赤くなった耳を見られまいと手で隠しているので、詩織の気持ちは遙香にもよく分かった。

 日比谷の瞳は潤んでいたが、大きく深呼吸して零れそうなものを押しとどめた。そして――

「ありがとうございます。これで、ふたりを応援できそうです」

 と笑った。悲しくも儚い笑顔だった。


 もう少しコミケを見て回るという日比谷と別れて、遙香と詩織は帰路についた。埼京線直通で池袋から乗り換えて、いつものひばりヶ丘で下車、住宅街を並んで歩く。

 その時遙香は初めて、三年間住んだこの街が手狭に感じた。これからもふたりで暮らしていくなら、もっと東向きの――遙香と詩織にとって陽当たりがよくて風当たりの柔らかな街がいい。

「しおちゃん。来年大学に合格したら、ふたりで家を探そっか」

「あたしは別にいいけど。どこにするとか決めてんの?」

「今はまだ秘密」

「なにそれ」

 呆れたように笑う詩織に本当のプロポーズをするのは、もう少しあと。今すぐにでも引っ越して、気持ちはあるけれど、まずは大学受験に集中してほしいから。

 遙香は詩織の手を握った。詩織も手を握り返してきた。冬の寒さに負けないくらい、二人の手の平は温かかった。


「ところで、私のスリーサイズには意味あったの?」

 ふと、日比谷から尋ねられたことを思い出した遙香は、詩織に尋ねてみた。

「今度はハルのためにメイド服を作るんだってさ」

「うげ」

 詩織が着ていたフリフリのメイド服はとても可愛かった。が、あれを自分が着た姿を想像したら変な声が出た。

「今から楽しみだな~。ご奉仕してくれるハルメイドさん」

「……お手柔らかにお願いしますね、ご主人様」

「どうしよっかな?」

 澄まし顔で微笑むと、詩織は遙香の横顔にキスをした。詩織に手を引かれ、遙香は足早に帰り道を歩くのだった。

 大学受験本番まであと二週間。

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