25日 月曜日 聖夜

 送ってくれた警官二人に感謝して、遙香は成田空港の国際線ターミナルに飛び込んだ。フライト情報が表示されたLEDモニタを見上げ、ニューヨーク行きのフライトをチェックする。しかし国際空港は世界の空の玄関口、当然、モニタの文字は日本語だけではない。

 まずは韓国語、そして中国語。時間がないのに、フライト情報が読めなくてイラついてくる。日本語と英語だけでいいのになんて身勝手なことを思っていると、ようやく表示が日本語に切り替わった。


 22:30 成田 → ニューヨーク


 詩織が乗っているかもしれない飛行機は、まだ飛んでいない。搭乗ゲートの数字を確認した遙香は、国際線ターミナルの搭乗口へ走り出した。時を同じくして、アナウンスが流れる。

『お知らせします。ニューヨーク行きご搭乗のお客様は、ただいまより優先搭乗をご利用いただけます』

 機内への搭乗が始まった。国際線の場合、出国審査場を越えてしまっていたら、もう引き留めることはできない。遙香は走りながらスマホで詩織に通話をし続ける。頼むから気づいてほしい。


 ――神さま、70億ピースのジグソーパズルを作った神さま。

 私に、しおちゃんを引き留めるチャンスをください――


 はたして、祈りは聞き届けられた。

 メッセージアプリの履歴がすべて既読に変わった。詩織がメッセージを見た。今度は無視されないよう、無視できないよう、瞬時に通話を押してスマホを耳に当てた。

 長いコール音が続いた後、小さくぷつりと音がした。風の音が聞こえた。

「しおちゃん! 今どこに居るの!?」

 詩織からの返事はない。風の音にかき消されている。

「私、成田に居る! しおちゃんを迎えにきたの!」

 返事はなかったが構わず続けた。詩織に対して言いたかったことのすべてが、堰を切ったように勢いよく流れ出した。

「しおちゃん、ごめん! 私は本当に最低な女だった! しおちゃんが私を好きでいてくれることに気づいてたのに、ずっと初恋の人のこと追いかけてた! でも違うの! 私が追いかけてたのは結衣じゃなかった! ずっと結衣だと思ってたのは、実はしおちゃんで……ああ、こんなことが言いたいんじゃなくて!」

 心の中身をありのままに吐露したら、支離滅裂だった。詩織にも理解できる分かりやすい言葉で、遙香は詩織に告白した。

「私は村瀬詩織が好き! 恋人として、人生のパートナーとして! だからあなたをニューヨークになんて行かせない!」

 そう宣言して、国際線ターミナルの四階へ駆け上がる。パスポートと航空券を持たない遙香は、出国審査場のある四階までしか行けない。追いかけるにも、限界が近づいていた。

 遙香の告白からやや空いて、詩織が告げた。

『どうして成田だって分かったの』

 詩織は成田に居た。遙香の読みは当たった。

「勘よ、勘!」

『……それだけ?』

「運命ってヤツを信じてみたかったの! あなたの言ってた神さまとやらが、本当に私達を作ったなら、きっとここで出会わせてくれるって!」

 アナウンスが聞こえてきた。ニューヨーク便の搭乗終了が間近に迫っている。引き留めるなら、これが最後のチャンスになる。

「だからしおちゃん、行かないで! 私と一緒に暮らして! もう絶対、寂しい思いはさせない! あなただけを愛するって約束するから!」

『……遅いよ、バカハル』

 詩織の声は、わずかに上擦っていた。

 これ以上追いかけられないところまで来てしまった。遙香の眼前には、駐機場に駐まった旅客機が見える。詩織が乗っているニューヨーク行きの便だ。まだボーディング・ブリッジが伸ばされている。今ならまだ間に合う。

「バカだよ! 本当にバカ! バカでごめん! だからお願い、帰ってきて! 私と一緒に――」

『ばいばい』

 通話が切られた。メッセージを送っても、コールをしても既読はつかなくなった。そして、眼前の飛行機に伸ばされていたボーディング・ブリッジが引っ込んでいく。

「待って、やめてッ!」

 窓ガラスを強く叩いて、叫んだ。そして、平べったい積み木のような車が、旅客機を牽引していく。

「しおちゃん! しおちゃん! 帰ってきてよ、しおちゃん!」

 あまりにガラスを叩き続ける遙香の許に、空港警備員が飛んできた。遙香は抑えつけられて、女性職員になだめられる。それでも視線は飛行機を向いていた。

 飛ぶな、止まれ。

 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ――


「何やってんスかパイセン!?」

 ライトバンで追いついた神崎が、遙香を抑えつける警備員に事情を説明した。神崎のおかげで遙香は解放されたものの、飛行機は滑走路へと進んでいく。

「……先輩。詩織ちゃんを見送りに行かないッスか?」


 呆然と窓ガラスに張り付いていた遙香は、神崎に案内されるままに展望デッキへ向かった。星明かりのない曇り空、わずかに雨の気配がする暗闇には、幾何学図形を描く滑走路の誘導灯が浮かんでいる。

 誘導灯のイルミネーションの中を、詩織の乗る旅客機が進む。端まで行って向きを変えると、一時停止した。

「いよいよッスね」

「やだよ、しおちゃん……行かないでよ……」

「送り出さなきゃッスよ。詩織ちゃんも先輩に感謝してるはずッス。それに、従姉妹ならこれからも会えるッスよ?」

 どうでもいいはずの神崎の言葉すら、遙香には痛かった。

「お、出発ッス」

「待って!」

 飛行機は加速した。先ほどのパトカーなんて非にならないほどの甲高いエンジン音が腹に響く。空気全体を振るわせているためか、握っている鉄製のフェンスもひりついていた。

「お願い、止まって!」

 遙香の叫びは、飛行機のエンジンに吸い込まれた。飛行機は機首を上げ、暗澹たる夜空へ飛び立った。時刻は午後十一時。定刻から三十分遅れでの出発だった。

「行っちゃったッスね、詩織ちゃん」

 遙香の頬を大粒の涙が伝った。追いかけている間も、詩織に通話できた時も絶対に泣かないと決めていた。泣いたら前が見えなくなるから、前を向けなくなるから。それに、幸せだった過去を偲んで泣くのは、あまりにも惨めだったから。

「……池袋まで運転するッス。帰りましょう」

 神崎に連れられて、遙香はライトバンの助手席に乗り込んだ。ポケットの中に突っ込んでいた合鍵を取り出して、ぎゅっと手で握った。詩織が出て行ったあの日、合鍵はポストの中に投げ込まれていた。それが「ひばりヶ丘には用はない」という無言の別れに感じて、怖かった。

 詩織からのメッセージは、入るはずがない。次にメッセージが入るとすれば、送信先はニューヨークに違いなかった。

 遙香が詩織とのメッセージ画面に視線を落としていると、画面が切り替わる。木下先生からの電話だった。遙香は袖で涙を拭って、電話に出る。

『支倉さん、そっちは!?』

「……ダメでした。成田には居たんですが、タッチの差でした」

『そうですか……残念ですけど……』

 一瞬、「きゃっ」という木下先生の声がした。おそらくスマホを奪い取られたのだろう。しゃくり上げて嗚咽を漏らす少女の声が聞こえてきた。日比谷優姫だった。

『ごめんなさい……! 私、詩織さんから聞いてたんです! 引っ越しのことも、出発の日のことも……!』

 途切れ途切れの日比谷の言葉を聞き漏らすまいと遙香はスマホを耳を押し当てる。

『でも、話せなかった……話したくなかった……! 支倉さんみたいな人に、詩織さんを任せたくなかったから……私が絶対引き留めようと思って……! なのに……ッ!』

 木下先生と日比谷は羽田空港に居た。詩織が居たのは成田だったから、日比谷では絶対に引き留められなかった。

『私じゃ無理だって、気づいて……! 木下先生に話したのに……私が遅すぎたから……! 変な意地張らずに支倉さんに伝えてたら……詩織さんは……!』

 日比谷がすぐに教えてくれていれば、詩織を引き留められたかもしれない。そう考えると、日比谷への怒りが湧いてくる。

『ごめんなさい……!』

 だが、嗚咽混じりの声を聞くだけで、彼女もまた詩織を失った悲しい女性なのだと分かった。遙香の怒りは行き場を無くした。神崎の運転する社用車のダッシュボードをグーで殴っても、痛いだけだった。

「もういいの。ずっと私がのがいけなかったから」

 すべてが遅すぎた。詩織が投げていた本気の「好き」という言葉を一切取り合わず、無視してきた。自分の気持ちにウソをついて、結衣を好きになることで詩織を忘れようとしていた。

「ごめんなさい。気をつけて帰って」

 電話を切って、遙香は泣いた。神崎はなにも言わずにカーステレオの電源を入れた。日付変更のカウントダウンに続いて、生放送中のDJが「メリークリスマス」と叫んだ。

「あ、なんかサーセンッス……」

 さすがに場違いだと感じたのだろう。神崎はチューニングを弄ってラジオ局を変えようとする。

「いいよ、このままで……」

 オープニングトークの後に流れ出したリクエスト曲はあまりにもハッピーなキラーチューン。泣き疲れた遙香の意識は、高速道路の暗闇の中に消えていった。

 詩織は、寂しさを埋めるためにアメリカに行ってしまった。

 もう遙香の許には帰ってこない。


 ***


 池袋に到着した頃には、深夜二時を回っていた。会社に泊まるという神崎と別れて、遙香は夜の街を彷徨った。電車は当然止まっている。財布の中身は千円しかなくて、ネットカフェはおろかホテルに泊まることもできない。そもそも今晩、ホテルが空いているとは思えない。

 コンビニのATMは、時間外で使えなかった。仕方なく、クレジットカードの使えるタクシーを拾って、ひばりヶ丘まで走ってもらう。深夜割増料金に、そこそこの長距離。二ヶ月後の決済のことを考えると頭が痛かった。


 詩織はもう居ない。アメリカへ行ったから帰ってこない。

 こんなことになるのなら、最初から素直に好きだと言うべきだった。ひとり暮らしが寂しいと言った詩織のために、同棲ができる物件に引っ越すべきだった。

 なにがだ。あの日、詩織を初めて泊めたときに、心が騒いだじゃないか。雑貨をふたりで買ったときも、とても温かな気持ちになったじゃないか。

 ずっと好きだったくせに。

 ずっと大好きだったくせに。


「しおちゃん……」


 村瀬詩織。ある春の日に出会った、遙香の最愛の人。

 でも、詩織はもう居ない。聖夜の日に母親の待つ国へ旅立った。

 母親と暮らせば、詩織は寂しさを感じずに生きていけるだろう。

 という寂しさを、置き土産に去っていったのだから。


 二階建、6部屋からなる遙香のアパートが見えてきた。東向きの窓は、どれも灯りが消えている。時刻は深夜三時だから、住民達は寝静まった後なのだろう。

 二階へ続く外階段を静かに上がって、常夜灯が照らす共同廊下に出た。

 遙香は、思わず声を上げた。

「え……」

 二階廊下に連なる三部屋の一番奥、遙香の家である203号室のドアの前に、トレンチコートを着込んだ少女が座っている。隣には見覚えのある銀色のスーツケースに、通学用にしているカジュアルなリュックサック。

 見間違いかと思って、涙を拭った。よくよく目を凝らした。

 髪型が違う。だが遙香は、日比谷優姫の言っていたことを思い出す。から。少し痩せたように見えるのは、から。

「しおちゃん……!」

 遙香は廊下を駆け抜けた。近所迷惑など気にせずに、少女――村瀬詩織に抱きついた。もうどこにも行かないでと、まるで自分自身が万力にでもなったかのように詩織を抱きしめる。

「ハル、苦しいから」

 詩織の言葉に、遙香は飛び退いた。冷えた肩を抱いて、尋ねる。

「しおちゃん、どうして……」

 どうして成田に居たはずの詩織が、ここに居るのか。飛行機に乗ってアメリカに行ったはずの詩織が、なぜひばりヶ丘のアパートに居るのか。遙香のさまざまな「なぜ」を、詩織は一言で片付けた。

「……好きだから」

 遙香の瞳から、滂沱の涙が流れ落ちた。

「ホントは成田まで行ったんだよ。だけど、せめてハルに会って、さよならって言おうって思った」

「うん……」

 詩織の言葉に、遙香は泣きながら相づちを打つ。

「でもさ、そんなこと考えたら、ハルに会いたくてしょうがなくなった。既読付けなくても、スマホ見てればハルのメッセージは分かるから」

 通知を見るだけなら、既読を付けずにメッセージが見られる。詩織が遙香の気持ちを知ったのは、そんな時だった。

「こんなの見ちゃったら、行けないよ……」

「行かせたくなかったから……」

 詩織は顔を上げて遙香に視線を合わせた。寒さからか頬は赤らみ、瞳は涙で潤んでいた。

「気づくのが遅いよ……」

「うん……」

「あたし、ずっと好きだったんだよ?」

「うん……」

「ずっと前から、好きだって、本気で言ってたんだよ?」

「子どもだから、ちゃんとした大人になろうって勉強頑張ってたんだよ?」

「綺麗でかっこいいハルに釣り合う女になりたくて、頑張ってたんだよ?」

「うん、うん……」

 遙香は、詩織の言葉にただ相づちを打つことしかできなかった。

 二人は泣いていた。だが、涙は凍らなかった。冬の冷たい夜風に晒されているのに、涙は温かかい。それはまるで春の嵐。温かな春雨が、凍てついた冬に縮こまっていた草木を蘇らせ、芽吹かせ、育むように、二人のひび割れた関係を元の距離に戻していく。

「泊めてくれて嬉しかったし、合鍵もらえて嬉しかったんだよ?」

「ハルとすることなら、どんなことでも嬉しかったんだよ?」

「別れたくなかったし、終わりになんてしたくなかったんだよ?」

「うん……!」

 詩織は、遙香を抱き返した。

「……大好き、ハル」

「いいの?」

「何が?」

「許してくれるの?」

 遙香の言葉に、詩織は少し間を空けて答える。

「許さない。許さないから、罰としてそばにいて」

「うん……」

「あたし以外の人のところに行かないで」

「うん……」

「もう寂しくしないで……!」

 ひときわ強く、遙香は詩織に抱きしめられた。

「ごめんね、しおちゃん」

 遙香は、言えなかったことを口にした。

「私は、結衣が好きだった。ずっと結衣を追いかけてたつもりだった。でも、途中から結衣は、しおちゃんになってた。最初は、結衣の面影を追って、しおちゃんを好きになってたかもしれない。でも、それが逆だって気づいたの」

「ハル……」

「私は、しおちゃんが好き。結衣でも誰でもなくて、村瀬詩織が好きなの。恋人として、パートナーとして!」

 詩織は、遙香の腕の中でこくりと頷いた。

「ずっと騙しててごめん、不安にさせてごめん。寂しくさせてごめんなさい……」

「ホントだよ、ハルのバカ」

「バカでごめん」

「バカバカバカバカバカバカバカバカ!」

「ごめん……」

 そのまましばらく、抱き合って泣いた。夜風に当てられて震える詩織は、遙香を突き放して片手を突き出してきた。以前、池袋の駅前でされたのと同じ、「鍵をよこせ」という仕草で。

「合鍵、返して」

「……もちろんだよ」

 遙香は、ポケットから合鍵を取り出した。その合鍵に、詩織は成田空港で買ったらしいデフォルメされた飛行機のキーホルダーを付けた。

「今度別れるなんて言ったら、ホントに飛んでくから」

「言うワケないでしょ。しおちゃんだってさ」

「当たり前でしょ。あたしにはハルしか居ない。隣り合ったピースは、ハルだけだから」


 人間は神さまの創った70億ピースのジグソーパズル。一度は離れたふたつのピースは、今またピッタリと合わさった。視線を、指先を、唇を合わせて、互いの気持ちを確かめ合うように。

「寒いから入ろ、ハル」

「そうだね……」

 鍵を開ける。冷たいハルの部屋のエアコンを付けて、コートを脱いで抱き合った。唇がふやけるまでキスをして、ただ抱き合って体温と匂いを感じあった。

 詩織のバニラの匂い。そして、遙香の春の匂い。

「そうだ、言い忘れてた」

「なに、ハル」

 尋ねてきた詩織に、遙香は囁いた。

「メリークリスマス。詩織」

「メリークリスマス。ハル」


 12月25日、月曜。

 ふたりは泣き腫らした笑顔で抱き合って、聖夜の朝を迎えた。お互いに、大切で大好きなを抱き合って、もう二度と離さないと誓い合う。

 聖夜に笑えたふたりなら、これからも笑い続けるだろう。

 聖夜に泣いたふたりなら、これからも一緒に泣けるだろう。

 この人となら、絶対に大丈夫。

 遙香と詩織の心には、不思議とそんな確信が芽生えていた。

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