24日 日曜日 イブ

 12月24日、午後七時。

 立川駅前のバスターミナルで、あたしは空港行きのバスに乗り込んだ。大きなスーツケースは客席の下の荷物置き場に預けて、鞄ひとつの身軽な格好で。

 着るものがなかった。母さんのお下がりのトレンチコートの下は、本当に適当な服。できれば誰にも見られたくないから、コートの前ボタンをぴっちり締めてバスの狭い座席に腰を沈めている。

 窮屈だった。トレンチコートも、立川のマンションも、この国も。


 ――だから出て行くのが正解なんだよ。あんただって、母さんと一緒に暮らしたがってたじゃん。これで寂しくなくなるからいいんだよ。


 そんな風に自分に語りかけて、未練を殺そうとしている。

 支倉遙香――あたしが大好きなひと。あたしのことは見てくれないひと。あたしを助けてくれたひと。あたしを裏切っていたひと

 愛情と悲恋と感謝と失望。ハルに対して、どんな気持ちで向き合えばいいのか分からなかった。いや、向き合う必要はない。ハルが気づいた頃には、あたしはもうこの国に居ないのだから。

 数日ぶりに、スマホの電源を入れた、立ち上がるなり、大量の通知がメッセージアプリに貯まっていた。百件を超えるメッセージは、そのほとんどがハルのもの。

『しおちゃん』

『お願い、聞いて』

『これ見たら教えて』

『しおちゃん、お願い』

『話だけさせて』

『私が悪かったから』

 スマホの電源を切ってから三日分。膨大な量のメッセージにスマホの挙動が一瞬遅くなった。ハルとのトーク画面を開いたことで、すべてのメッセージに既読がつくからだ。

 ハルへの最後のメッセージを送って、再びスマホの電源を切った。きっとハルは引き留めてくる。決意を揺るがされたくないから、こうするしかない。

 空港行きのバスが走り出した。ニューヨークへのフライトは今日の午後十時過ぎ。空港への到着からフライトまで少し時間が空くのは、最後くらい焦りたくないから。

 でも、もしかしたら心のどこかで期待しているのかもしれない。

 あたしを迎えに来て、「行かないで」と引き留めてくれることを。

 そんなこと、できるはずもないのに。


 ***


 立川から歩いてひばりヶ丘まで帰った遙香はもう満身創痍で、クリスマス・イブを寝て過ごしていた。予定していた結衣とのクリスマス残念会は計画だけして終わってしまった。あんなことがあれば無理もない。

「しおちゃん……」

 うわごとのように詩織の名を呼んでは枕に頭を押しつける。狭いシングルベッドの片側、詩織が眠っていた方にうつ伏せになって残り香を嗅ごうとする。他にも詩織が使ったタオルや、詩織が付けていたエプロン、メイド服。すべてを試したけれど無駄だった。詩織のバニラのような香りは、とうに失われてしまった。

「私、バカだ……」

 何度目か分からない自虐を吐いて、布団に潜り込んだ。人に限らず動物は、自分の体臭で嗅覚を遮られないように、自分の匂いを感じることはないらしい。だから、遙香が感じるのはホコリの匂いだけ。でも詩織は「この布団が幸せだ」と言った。


『ハルに包まれてるみたい』

『温かくて安心できるんだよ』

『もう寂しくないんだよね』


 詩織はずっと寂しかったのだ。ひとり暮らしの寂しさは遙香にも分かる。詩織がいい子の仮面の裏に隠した本音も遙香は見透かしていた。

 それなのに。詩織が寂しがっていることを知っていたのに、見て見ぬふりをした。詩織のアプローチすべてを知らないフリして、鈍感な女を装っていた。

 結果として遙香は、大好きな詩織を失った。

 そう思うと、嗚咽が止まらなくなる。遙香は今日一日、呆然としているか泣いているか、どちらかしかない。

 その時、スマホから鳴り響いた。

 着信。相手は詩織ではなかった。

『もしもし遙香ちゃん! ちょっと聞いてよ最悪なんだって!』

 電話に出るなり、呂律の回っていないが遙香の耳をつんざいた。茜音だ。最悪なのは自分のほうだと感じながら、適当に相づちを打つ。

「どうしたの」

『とにかく来て! 今すぐ! 池袋の飲み屋に居るから』

 茜音は一方的に言うだけ言って電話を切った。彼女は昔からこうなので、遙香は呆れるしかなかった。時刻は午後七時を少し回ったところ。茜音にしてはペースが早いので、ろくな用件じゃないだろう。

 もう一度、スマホが鳴る。きっと茜音が店の場所を送ってきたのだろう、そう思った遙香は、スマホに表示された名前を見た。


 詩織 『さよなら』 19:04


 遙香は目を見開いた。すぐにロックを解除して、詩織にメッセージを打った。

『今どこ』

『引っ越すの?』

『待って』

『会いたい』

 もちろん、既読はつかなかった。にらみつけても念じても、メッセージは届くことなく、電子の海を彷徨っている。このまま一生届くことなく、弁解の余地も和解の機会もなく、遙香と詩織はすれ違ったまま終わってしまうのかもしれない。


「……しおちゃん、今行くから」


 だが、遙香には終わらせるつもりなどなかった。

 着の身着のままで家を飛び出して、池袋行きの電車に乗り込んだ。詩織が今どこで何をしているのか、遙香には分からない。

 なら、分かる人が居るまで尋ねるしかない。

 遙香は、茜音とのチャット欄に問いかける。

『そこに結衣ちゃん居る?』

『いる!』

 証拠写真、とばかりに結衣の写真が送られてきた。左手の薬指には、例の指輪が嵌まっていた。茜音が言っているというのは、結衣のことだろう。だけどもう、そんなことは重要じゃない。

『結衣ちゃんに、木下先生の連絡先聞いて』

『誰それ』

『いいから!』

 途中で乗換を一回、電車が池袋駅のホームに滑り込んだ頃に、11桁の数字の羅列が茜音から送られてきた。『ありがとう』と手早く返信して、駅構内を早歩きしながらはやる気持ちで電話を掛けた。

 1コール、2コール、3コール。遙香にとっては木下先生が唯一の手掛かり。もし彼女が出てくれなければ、出ても詩織の居場所を知らなければ。

 悪いifもしもは、考えれば考えるほど不安になってくる。だから遙香は、絶対に避けねばならない最悪の状況を頭の中から排除した。


 ――今自分がしなければならないことは、たった一つ。

 詩織を見つけだして捕まえることだ。


 5コール目で、ぷつりという音がした。続いて、聞き覚えのある声が聞こえてくる。

『はい、どちら様ですか?』

「私です、支倉遙香です! 村瀬詩織の従姉妹の!」

『ああ、結衣に聞いたんですね。どうかしました?』

「詩織が引っ越したんです! 何か聞いてませんか!?」

『ええっ!?』

 木下先生の反応を見るに、詩織の引っ越しについては初耳だったのだろう。少なくとも、木下先生はなにも知らないのかもしれない。

『ごめんなさい、私は何も聞いてなくて……』

「そうですか……」

 詩織の手掛かりはなくなった。それでも落胆はしない。他に何かないかと考えを巡らせる。

「木下先生、日比谷さんの連絡先って知りませんか?」

『どうして日比谷さんなんですか?』

 一昨日、日比谷は詩織と会うと言っていた。つまり、彼女は詩織と直前まで顔を合わせていたはずだ。何か知っているとすれば日比谷しか居ない。

「日比谷さんは詩織と仲がいいからです!」

 事情を説明している時間が惜しくて、小学生みたいなかいつまんだ理由になってしまった。だが、木下先生は納得したらしい。

『確かに、最近は仲が良さそうでした。日比谷さんなら知っているかもしれません』

 『ですが』と区切って木下先生は続ける。

『すみません。支倉さんと言えど、生徒の個人情報を教えることはできないんです』

 分かっていたことだ。教育熱心な木下先生だからこそ、絶対に護らなければならない部分に違いない。そう思った遙香の耳に『でも』という言葉が続いた。

『私から日比谷さんに尋ねて、支倉さんに伝えることはできます。しばらく待っててください。これから当たってみますから』

「お願いします!」

 木下先生との電話を終えた遙香は、見慣れた池袋東口へ降り立った。木下先生が日比谷優姫の線を当たっている間、遙香は遙香でやることがある。


 東口の雑居ビルの二階に、茜音から送られてきた居酒屋があった。案内されるままに個室へ入ると、べろんべろんに出来上がった茜音と、それを持て余している結衣の姿があった。

「遅いぞ、ハル~。茜音のヤツ、もう寝ちまったし」

 掘りごたつになったテーブルの向こうでは、茜音が横になって寝息を立てていた。その様子を見ただけで、茜音のクリスマスがどうなったのかは察しがついた。挨拶もそこそこに、遙香は結衣に尋ねる。

「しおちゃん――詩織を見てない?」

「村瀬か? そういや最近来てないな。日比谷はよく来るんだが」

「やっぱり、日比谷さんか……」

 そう独りごちた遙香は、スマホを取り出す。木下先生からいつ電話が掛かって来てもいいようにスマホをテーブルの前に置いて、注文を取りに来た店員にウーロン茶を頼んだ。

「つーか、どうしていきなり村瀬なんだよ。マユの番号の件といい、妙だぞ?」

「詩織が引っ越したの。行き先も告げずに」

「おいおい、一緒に住んでたんじゃなかったのかよ?」

 結衣の認識にはズレがあった。遙香と詩織が別れてしまったことを結衣は知らない。二人の間の不適切な関係も知らないだろう。

 結衣にはいずれ話さなくてはいけない。でもそれは、今じゃない。詩織を捕まえて、高校を無事に卒業した3月になったら、すべてを打ち明けたい。それまでは、苦しいウソをつき続けなければ。

「気づけなかったの。詩織の気持ちに……」

 ウソをついているのに、言葉は正直だった。詩織の気持ちに気づけなかった結果がこんな状況を招いているのだから。

「で、マユには電話したのか?」

 真優マユとは、木下先生の本名。遙香は頷いて、日比谷に話を聞いて貰っていることを説明した。すると結衣は「なら安心だ」と日本酒を煽った。それが少しだけ許せなくて、ついつい突っかかってしまう。

「結衣ちゃん、生徒の一大事なんだよ!?」

 遙香は、結衣を前にしても動悸を感じなくなっていた。結衣と話すだけで緊張していた遙香の舌はウソのように回り、結衣を責め立てる。

「マユに頼んだんだろ? アイツに任せたなら心配ないって」

「そういう問題じゃなくて――」

 スマホが鳴った。表示された木下先生の名前を見て、すぐに通話ボタンを押して耳に当てる。

「どうでしたか!?」

『連絡がつきました。空港に居るそうです』

「空港!?」

『ごめんなさい、それ以上は教えてくれなくて……』

「……いえ、もう分かりました」


 詩織の母はニューヨークで働いている。そのため詩織は、立川のマンションでひとり暮らしを続けていた。その寂しさから援助交際に手を出し、窮地に陥ったところを遙香が救った。遙香と詩織は次第に関係を深めていき、一時は同棲するまでになった。詩織は言った、『もう寂しくないんだよね』と。

 遙香と別れた詩織は、きっと寂しさに打ち倒されたのだ。詩織を失ってはじめて、詩織への恋心に気づいた遙香のように。遙香の元を離れたことで、余計に詩織は寂しさを募らせてしまった。

 ならば、詩織の行き先は――。


「詩織は、ニューヨークへ行くはずです。日比谷さんが空港に居るということは、今日の夜の飛行機で」

 寝ている茜音のスマホを奪って――パスコードは誕生日だった――今日のニューヨーク便を調べる。すると、午後十時台にニューヨークへ向けて飛ぶ便が見つかった。一つは羽田発。そしてもう一つは、成田発。


 つまり、詩織は羽田か成田に居る。

 現在の時刻、午後八時半。残された時間は、一時間たらず。

「木下先生、羽田へ行ってくれますか」

 羽田は東京都の臨海地区に存在するため、都心部からのアクセスもよい。木下先生がどこに住んでいるかは知らないが、電車で一時間程度あればギリギリ到着できるはずだ。

『ええ、もちろん! 空港でお会いしましょう』

「私は羽田には行きません。成田に行きます」

 羽田と違って、成田はお隣の千葉県。電車の接続は悪く、バスも頻繁に出ている訳ではない。

「お前、マジで言ってんのか? こっから一時間ちょいで成田なんて無理だろ!」

 電話を聞いていた結衣が口を挟んできた。茜音のスマホで計算すると、高速道路を使って一時間半、とある。これではギリギリ間に合わない。

「車飛ばせば大丈夫だから」

「そんなワケ……」

 一時間半かかる距離を一時間で走るには、単純計算して1.5倍のスピードで道路を走ればよい。とは言え、そんな速度で飛ばしたら、一発免停は確実。遙香もさすがに無理かもしれないと感じた。

 その時、電話の向こうで木下先生が呟いた

『……そこから一時間で成田、いけるかもしれません!』


 遙香は会計を結衣達に任せて、雑居ビルの階段を駆け下りた。そして、そこからほど近い場所にある職場へ急ぐ。時は12月24日、午後九時前、日曜日のクリスマス・イブ。まっとうな職場なら、こんな幸せな日に人が残っているはずはないが、そこはそれ。見上げた雑居ビルのフロアには、休日出勤にくわえて残業クリスマスイルミネーションが煌々と灯っていた。

 メリークリスマス・ブラック企業。


 遙香が扉を開けると、そこに居たのは神崎だった。

「な、なんスかパイセン!?」

「あんたこそ何やって――」

 神崎は、ホコリを被ったまま放置されている過去の営業資料と格闘していたらしい。職場によくある「誰かにやっておいてほしいけど時間がないから手が回らない」案件だ。いわば、トイレ掃除みたいな雑用の最たるもの。

「クリスマスに働いてんの……?」

「ひ、ヒマだったからちょっとやりに来ただけッスから!」

 丁寧にまとめられた資料に目を落として、遙香は神崎が存外仕事もできるのかもしれないと感じた。

 荷物を片付け始めた神崎を見て、遙香は閃いた。合法的に社用車を借りるためには、共犯者が必要だ。ちょっと成田空港まで、水を売り込みに行く証拠さえあればいい。

「じゃあ、ちょっとドライブしない? まどかちゃん♪」

「き、キモいッスよパイセン!」

「いいから車に乗って! 時間ないんだから!」


 きららウォーター、と書かれた社用車のライトバンがイブの夜の高速道路を駆ける。出発前に積み荷を降ろして軽量化しているからか、加速はいつも以上にいい。「のんびり行こうよ」とちゃぷちゃぷ笑うボトルもないので室内は異様な静けさに包まれていた。

「一体なんなんスか……?」

 助手席で疑問を呈した神崎を黙らせるため、アクセルを思いきり踏み込んだ。積み荷を下ろしていても、所詮は街乗りが中心のライトバンだ。

「つーかパイセン、飛ばしすぎッスよ! 捕まるッスよ!?」

「見つかんなきゃいいのよ!」

 登り坂に差し掛かると、エンジンが吠えた。オートマティックにギアが低速に切り替わり、エンジンの回転数が上がったためだ。こうなると、速度は出なくなる。坂を登ることにエンジンパワーの総力をつぎ込み、なんとか坂を登り切る。しかし、坂に殺された速度はそうそう元には戻らない。

 時刻は九時半。このままのペースでは確実に間に合わない。

「どこかにショートカットとかないの?」

「ゲームじゃないんスよ!?」

 成田までの残り距離と残り時間から、速度を計算する。圧倒的に足りていなくてアクセルを踏み込む。だが、アクセルはずっと踏みっぱなし。ライトバンはもうずっと、限界性能で走っている。

 限界いっぱいでは足りない。もう間に合わない。

「なんでよ! もっと急ぎなさいよッ!」

 走りながら、ライトバンに鞭を入れる。そんなことをしても意味がないことは分かっていた。だけど、急ぐ必要があった。叫んで速くなるなら叫ぶし、体を前後に動かせばいいなら動かしただろう。それだけ必死だった。

 だが、遙香の命運は尽きかける。

『そこの車、止まりなさい』

 制限速度オーバーでひたすら追い越し車線を走っていたのが運の尽き、突如パトランプを生やした覆面パトカーに見つかった。

「もうダメっスわ~ッ!」

 頭を抱える神崎を無視して、パトカーの指示通り路肩に駐車させた。窓をノックしてくる警察官のためにパワーウインドウを下ろした時点で、遙香の脳裏から詩織の姿が消えていった。


『さよなら』


 ここまで来たのに、負けてしまった。

 もう少しだったかもしれないのに、力及ばなかった。


「免許証を拝見」

 若い女性警官に促されるままに、遙香と――ついでに神崎も免許証を見せた。女性警官は、遙香の免許証を見て続ける。

「確認だけど支倉遙香さんでいい? 職業はウォーターサーバーの販売業務、年齢25歳」

「そうですけど……」

「じゃ、車を降りてください。連行します」

「連行って……」

「身に覚えがあるでしょ? 速度超過以外で」

 遙香の顔面があっという間に蒼白になった。なにもこんなタイミングで逮捕しなくていいだろう、と逆ギレしてしまいそうになる。

 女性警官はライトバンの運転を神崎に任せて、後ろに止めたスポーツタイプのパトカーに遙香を押し込んだ。

 翌日の新聞には、こんなニュースが載るだろう。

 OL、女子高生を従姉妹を偽り援助交際一年八ヶ月。


 ――いろいろな意味で、終わった。


「いや、まさかホントにブッ飛ばしてるとはなあ」

 覆面パトカーの運転手の男性警官が笑っていた。助手席では、先ほどの女性警官も調子を合わせて笑っている。

「大丈夫ですよ、支倉さん。あの程度の速度なら、普通は止めたりしませんから」

「じゃあなんで止めたんですか!」

 遙香は、警官にさえ口答えするほど焦っていた。止められてさえ居なければ、走り続けていれば希望はあった。だけど捕まってしまったらもう希望はない。詩織は太平洋上へ飛び立ってしまう。

 拳を握りしめていた遙香に、男性警官が告げた。


「あんなポンコツじゃ間に合わないってことですよ、支倉さん」

「どういうことですか……?」

 遙香の問いかけに、女性警官が答えた。

「蓮華ヶ丘高校をご存じですよね?」

「え、ええ、まあ……」

 すると、運転席の男性が遙香の方へ振り向いた。朗らかに笑っている面影を、遙香はどこかで見たことがある。屈託ない笑顔で無茶振りもしてくるけれど、ちゃんと対価を用意してくれる、蓮華ヶ丘高校の教員で、詩織の担任で、遙香のお得意様でもある、あの人によく似ていた。

「まさか、木下先生の……」

「兄です」

「はあ!?」

 声が出たと同時に、覆面パトカーが急発進した。後ろを神崎の運転するライトバンが付いているが、みるみる距離を開けられていく。

「妹の真優に頼まれましてね。なんでも、あなたにしかできない仕事だとか」


 木下先生が『行けるかもしれない』と言った理由は、これだった。

 木下先生の兄は、高速道路での警邏けいらを職務とする警察官。いわゆる高速道路交通警察隊の一員らしい。妹の木下先生から連絡を受けて、成田方面に向かって爆走するライトバンを探していたのだ、という。


「昔から他人にお節介を焼くのが好きな妹でしてね。よく尻ぬぐいをさせられました」

「先輩はそれで警察官になったようなものですからね」

 既に法定速度を超えて走るパトカーの内部で、遙香は木下先生に感謝した。刻一刻とタイムリミットが迫っているが、このペースならばギリギリ間に合うかもしれない。

「でも、いいんですか。こんなことしてもらって……?」

 恐る恐る尋ねた遙香に、女性警官はゆっくりと告げた。

「実は、支倉さん。あなたの戸籍を調べさせていただきました。その結果ですがね、あなたには村瀬詩織なんて従姉妹は居ないんですよ」

「あ……」

 別件逮捕、というヤツだと思った。一瞬で背筋が凍り、鳥肌が全身を覆った。

「となると、見ず知らずの他人同士が何故か知り合い、何故か仲を深め合っているということになります。どこで知り合ったんでしょうね。接点などないはずのお二人は」

 女性警官は、そこで話を切った。

「まあ、今日はクリスマス・イブです。法の番人も、たまにはお目こぼしするかもしれませんよ」

 女性警官はくすりと笑って、カーステレオを操作した。すると突如、アップテンポなユーロビートが車内に流れ始めた。

「この曲……!?」

 男性警官は楽しそうに笑い、告げた。

「高速用の覆面パトカーってのはね、日本の警察で最も速い車なんですよ」

 車内を響かせるエンジン音が、一気に高く跳ね上がった。そして、先ほどまでのライトバンの非ではないほど体を後方に押しつけられる。

「ちょ、ちょっと!? 飛ばしすぎてません!?」

「まーまー、法の番人もお目こぼしする聖夜なんですよ? ねえ先輩」

 女性警官は、シートベルトを確認した後、ドアの上に付いた手すりを持った。その意味がなんとなく分かった遙香は、後部座席にしがみついた。

「日産GTRのパワーってのを見せてやりますよ!」

 真後ろにGが掛かった。遙香はもう諦めて目を瞑ることにした。


 成田発の飛行機に間に合うだろうか。

 そもそも、詩織は成田にいるだろうか。

 居たとして遙香は、詩織を引き留められるだろうか。


 時刻は午後十時。

 成田空港国際線ターミナルで、遙香は詩織を探し始める。

 すべては聖夜に笑うために。

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