23日 土曜日
遙香と詩織の援助交際のきっかけは、とある春の日の出来事だった。男性に手を引かれた青白い顔の詩織を、遙香が機転を利かせて救ったことから始まる。
あの時の遙香には、何の邪念もなかった。ただ望まぬ援交に走って一生モノのトラウマを負おうとしている詩織を助けたくて、何度となく通っている西口交番までの道案内を頼んだ。
だけど、救ってあげた詩織はこう言った。
「あたしとホテルに行って……記憶を、上書きしてください……」
その言葉で、遙香の心に邪念が生まれた。都条例で禁止されているにも関わらず、未成年との不適切な行動に走ってしまったのは、それを未成年の側が望んだから。詩織を助けてあげるために仕方なく愛しただけで、遙香に罪はない。行為が終わったあと、遙香はそう自己を正当化したし、詩織も同じように言い含めてきた。
「あたしは、遙香さんのおかげで助かったんです。だから悪くないんです」
一度きりなら仕方がないことだ。遙香もそう思った。
だがその一週間後、遙香の職場に詩織が電話を掛けてきた。
「会いたいです、遙香さん」
あの時名刺を渡すんじゃなかった、と遙香は激しく後悔したし、会わなければならなくなった。逃げ場を断たれてしまった格好だ。
そして二度目の逢瀬で、「もう二度と会社に掛けてこないで」と言い含めてから、遙香は詩織にプライベートの連絡先を教えた。そこから二人は、互いに連絡を取り合うようになる。
『遙香さん』
『なんでしょう?』
『今日、誕生日なんです。あたし』
「HAPPY BIRTHDAY」と書かれたスタンプ。
『会いたいです』
『会うのは控えた方がいいと思う』
『警察に話してもいいんですか?』
『あのことバラしちゃいますよ?』
『わかったよ』
最初は、詩織が遙香を誘っていた。誘っていたというよりは、痛いところを突いて呼びつけていたという方が正しい。仕方なく待ち合わせの池袋西口へ向かって、二人はそのままホテルへと向かう。そして、口止め料として毎回五千円を支払う。こんな日々が続いた。
だが、ある日。遙香は詩織の想いに気づいた。詩織が、遙香から受け取ったお金で、服をプレゼントしてきたから。
「これ、遙香さんに似合うと思って」
ホテルの中で渡されたのは、ブランドもののブラウス。スーツとよく合っていて、鏡を見ているだけで遙香は嬉しくなった。
「ありがとう、詩織さん」
その時詩織はイタズラっぽく笑って、遙香に注文を付けた。
「詩織さんじゃなくて、他の名前で呼んでほしいです。遙香さんしか知らない、あたし達だけの秘密の名前で」
「じゃあ、しおちゃんは?」
「しおちゃん」
詩織は名前を復唱して、頬を染めた。そして、遙香をどう呼べばいいか尋ねてくる。
「私のことは、ハルって呼んで?」
「分かりました、ハルさん」
「ハルさんはやめて! おばあちゃんみたいだから!」
「じゃあ……ハル?」
遙香はきっとこの時、七つ年下の詩織に恋をした。それが援助交際という決して褒められない関係であると知りながらも、詩織に惹かれていった。
ある逢瀬の晩、詩織は遙香の豊満な胸を叩いた。
「痛いって!」
「だって無駄に大きいから。くやしいじゃないですか」
「いいことなんてないわよ。肩は凝るし、男が寄ってくるし」
「それ、自慢にしか聞こえないんですけど」
「私はしおちゃんの胸、うらやましいよ」
「はいはい、勝者の余裕ですよね」
「違うって。私、おっぱいは小さい方が好きかな」
「なんでですか」
「小さい方が敏感って言うし」
「ひゃっ――! ……もう、お返し!」
また別の日。買い物がしたいと詩織が言い出して日時を決めたにも関わらず、詩織は予期せぬ生理に襲われた。重い足取りで買い物をなんとか終えたのに、その後のホテルはお預け。それを悔しがる詩織に遙香は告げる。
「ほんと最悪……タイミング悪すぎ……」
「仕方ないよ。私もしおちゃんくらいの頃は安定してなかったし」
「うう……あたし、かわいくない……ハルの前でこんな姿見せたくない……」
「ん~? しおちゃんらしくていいと思うよ?」
「慰めてます……?」
「そのダルそうな感じ、らしくていいね」
「はあ……意味不明……」
「敬語より、こっちが本当のしおちゃんなんだなって気がするよ」
「そうですか……」
「そうそう。しおちゃんらしいよ」
そして詩織は、どんどん綺麗になっていった。女は恋をすると変わると言うが、女子高生の場合はその変化がとにかく早くて、遙香の意識は釘付けになる。この頃には、遙香は惰性で付き合っていた女友達との縁をすべて切った。詩織の姿が次第に、想い人の面影に近づいていったのは必然だった。
「ハル、また他の女の人見てる」
「かわいい人が居ると見ちゃうよね。ストレートだろうけどさ」
「街歩いてる人がどっちかわかんの?」
「勘かな」
「じゃ、あたしと初めて会ったとき、わかった?」
「しおちゃんはわかんなかったな~」
「じゃ、その勘はハズレ。もう頼っちゃダメだから」
「え~?」
「あたしだけ見ててよ、ハル。もっとかわいくなるから」
「ふふ。それ、なんだか告白みたい」
「……ハルはどっちがいい? ショートのあたしか、ロングのあたし」
「ん~……。しおちゃんは髪を伸ばしたほうがかわいいよ」
「そっか」
詩織が、結衣の姿に近づいていく。詩織と会うたびに、初恋の相手だった結衣のことを思い出す。
同じくらいの背丈で、胸が小さいことをコンプレックスにしていて。遙香の注文通りに黒髪で肩口で切り揃えたセミロング。遙香のことを「ハル」と呼んで、ぶっきらぼうで不器用なくせに、人前では「私」と「あたし」を交互に使い分ける。
いい子の仮面の裏側に潜む、気だるげでイタズラ好きの素顔は遙香しか知らない。いつしかその素顔を知っていることが、遙香の喜びになっていた。
「あたしの母さん、ニューヨークに居るの」
「じゃあひとり暮らしなんだ」
「ん……」
「寂しくない?」
「寂しくないよ」
「しおちゃん、ウソついてるね」
「ついてないし」
「そっかな。私には寂しそうに見えるけど」
「…………」
「もっと甘えていいんだよ、しおちゃん」
「え……」
「私じゃ、お母さんの代わりにはなれないけどね」
「当たり前でしょ。お母さんは実の娘にこんなことしないし」
「そういう意味じゃなくて……」
「わかってるよ、ハル。大好き」
そして、長いキスをする。互いの寂しさを埋め合わせるように、神さまが作った70億個のジグソーパズルの隣あったピースのように。それを運命だと感じたのは、喩えを持ち出した詩織だけではない。遙香もまた、たゆたうバニラの香りと温かな体温に身を委ねながら同じことを思った。
だけど詩織は、援交相手。遙香の邪念が作り上げた、ウソと偽りの恋。その呪縛からは逃れられなくて、遙香は詩織に一線を引いた。絶対に本気になってはいけないと、自分の心に固く誓った。そんな心はいつしか、無意識のうちに村瀬詩織に瀬名結衣の姿を重ね合わせていく。詩織と唇を重ね、体を交わらせるほどに、色褪せていた八年前の初恋が、その色彩を豊かにしていく。
遙香にとって、瀬名結衣の姿は淡いセピア色の思い出だった。そこに村瀬詩織が現れて、彼女の姿が瀬名結衣と重なった。その途端、もう手に入らないセピアの初恋は、手の届くところにある瀬名結衣そっくりな村瀬詩織によって色とりどりに蘇った。
――違う、本当は初恋は蘇ってなどいない。
セピア色の結衣の姿が、極彩色の詩織の姿に――詩織の言葉を借りれば――上書きされていただけ。遙香はそれに気づかず、結衣を追いかけた。脳裏に蘇ったと思い込んだ極彩色の結衣だけを追い求めた。
だが、極彩色の結衣などはじめから存在しなかった。当然のことだ、八年前に好きになった結衣の幻は、詩織との交際を経て、オリジナルを無視して自分勝手に大きく膨れ上がっていたのだから。
だから、結衣に再会したとき戸惑った。妄想上の結衣と現実の結衣が、大きく乖離していたから。遙香の思った妄想の結衣は、酒もタバコもやらないし、乱暴な物言いでもなければ豪快に笑い飛ばしたりもしない。それに、男を作ったりもしない。
では、遙香が追い求めていた幻の正体は。
好きだと思い込んでいた、結衣の幻影の正体は――。
『クリスマスまでにあなたが反省しないなら、詩織さんは私が奪います。あなたが詩織さんにつけた匂いも何もかもを、日比谷優姫で上書きしますから』
日比谷優姫にこう言われたとき、遙香は心の底から嫌だと感じた。できることならこの場で、優姫を殴ってでも引き留めたいとさえ思った。
詩織を誰かに奪われる。
それが何よりも悲しくて、寂しくて、怖くて。思わず声に出してしまった「いや」という言葉が、遙香が無意識のうちに覆い隠していたヴェールをはぎ取り、本心を露わにした。
――ああ、私は。
私は村瀬詩織のことが大好きだったんだ。
こんな簡単なことにも気づけないなんて、私はどれだけ愚かなのだろう。
あんなに健気に愛してくれた詩織を騙して、届くはずのない結衣を追いかけいてたなんて。
子どもだと侮っていた詩織のほうが、私よりも何倍もおとなだったなんて。
私は、詩織に合わせる顔がない。
失って初めて気づくだなんて、本当にバカでクズでダメ人間だ。詩織が許してくれるとは思えない。
でも、どうしても。
詩織に会いたい。会って好きだと言いたい。抱きしめたい。愛し合いたい。
居ても立ってもいられなくて、遙香は家を飛び出した。前に聞いていた立川の住所から変わっていなければ、詩織は今もそこに居るはずだ。電車とバスを乗り継ぐのももどかしくて、近くを走っていたタクシーに飛び乗った。
時刻は二十三時。日も街の灯りもとうに落ちている。割増料金も知ったことではなかった。住所を伝え、急いでもらう。料金メーターの表示より、道路標識と信号ばかり気になった。行き先を示す看板に立川の文字が見えるまで、後部座席から身を乗り出して、運転手よりも先を見ていた。
タクシー運賃の八千円近い出費で財布の中身は消し飛んだが構わなかった。詩織の居る408号室をめがけ、階段を駆け上った。深夜だった、挙げ句部屋着のままで、化粧は落ちているうえに顔は涙でぐしょぐしょだった。どうでもよかった。詩織に会えればそれでいいのだから。
「しおちゃん! しおちゃんッ! 私! 開けてッ!」
呼び鈴を連打しても応答がなかったので、重い金属製のドアを叩いた。そして一心不乱に詩織の名を呼ぶ。何度も呼び鈴を鳴らし、ドアを叩き、ドアノブをガチャガチャと回す。すると――
「うるさいな、今何時だと思ってんだ!」
隣の住民がドアを開けて出てきた。近所迷惑だったのだろうと遙香はその時ようやく気づいた。
「すみません、ここのしおちゃん――村瀬さん知りませんか!?」
遙香の剣幕に住民は呆気にとられたが、後から出てきた住民の妻らしき人が告げた。
「村瀬さんなら、昨日引っ越しましたよ?」
「引っ越した!?」
「行き先までは知りませんけど……」
崩れ落ちる遙香を見て、住民は怪訝な顔で部屋に戻っていった。
本音が言葉になって出ていく。言葉にするたびに、本音はよりその強さを増す。
「そんなの……やだよ……!」
涙があふれて止まらない。あれだけ泣いてカラカラのはずなのに、体のどこからか涙が湧き出し、流れていく。
「しおちゃん……行かないでよ、しおちゃん……」
コンクリートの廊下に伏せって、立川の冷たい夜風に吹かれる。
日付は、とうの昔に変わっていた。
人生最悪のメリークリスマス・イブだった。
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