22日 金曜日
西向きの部屋のカーテンが、取り外されていた。
詩織の2LDKのマンションを訪ねた優姫は、家財が減っていることに驚いた。元々詩織ひとりで住んでいたため家財は必要最低限だったが、テレビとソファだけになったリビングは、まるでモデルルームを内見していると見まがうほどに生活感が感じられない。
詩織に黙ってなくなった荷物の行方を探った優姫は、隣の部屋にまとめられた段ボール箱の山を見つけた。詩織・本と書かれた段ボールのそばには、箱の中に入れてもらえなかった教科書や参考書が、ビニール紐で縛られて窮屈そうにしている。
さすがの優姫も、詩織が何をしようとしているのか理解した。
「詩織さん、まさか……」
ベッドに腰掛けた優姫の問いかけに、詩織は部屋にある私物を段ボール箱に詰めながら淡々と言った。
「優姫さんと会うのも最後かもしれないね」
詩織は、クローゼットの衣服を一着ずつ畳んで箱に詰めている。ただ、全てを箱に詰めるわけではない。時折、隣に用意したゴミ袋の中に服が投げ込まれていく。新品同様の衣類や高そうな下着が次々放り込まれる様子を見て、優姫は尋ねてみた。
「それ、もう着ないの?」
「着ない。捨てる」
そう言って、詩織はペールピンクのパジャマをゴミ袋に放り込んだ。着心地がよくてカワイイと評判のジェラートピケのパジャマだ。
「でも、もったいないよ?」
「欲しいならあげる。ハルにもらったヤツだから」
優姫は、すでに二袋あるゴミ袋の意味が分かった。透明なゴミ袋の中に詰まったコートもシャツもブラジャーも、すべては詩織がかつての恋人である支倉遙香から貰ったものだ。
詩織は、遙香と決別するため、すべてを処分しようとしている。
優秀な成績も、支倉遙香に貰ったモノも、住んでいるマンションすらも。
「……引っ越しちゃうの?」
ちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。インターホンで応答した詩織が部屋を開けると、引っ越し業者の制服を着た男性が入ってきた。
詩織はただ淡々と、男性に用件を話していた。
「必要なものはこっちの部屋に。家具と家電類は全部処分してください」
事前に話をつけていたのか、男性達は分担しながら家財を運び出していく。もう止められないのかもしれない、と優姫は思った。
「どこへ引っ越すの?」
「ニューヨーク。母さんが住んでるから」
優姫は怯んだ。だけど、なんとか詩織を引き留めたくて質問を重ねる。
「学校には……?」
「あとで先生と話す」
「大学はどうするの?」
「行く必要なくなった」
「友達は居るの?」
「居なくても平気って知ってるでしょ」
「あの人は?」
詩織は黙った。手に持っていた下着をゴミ袋に叩きつけて、クローゼットの中身を一気に部屋中にバラ巻いた。
「嫌いになれないから引っ越すんだよ……!」
散らばった衣服をゴミ袋に放り込んでいく。ゴミ袋は四袋目に突入した。
「あんなことされたのに、今でも好きなの! 好きだけど叶わないんじゃしょうがないよ!」
引っ越し業者の男性が様子を覗き込んできた。首を傾げつつも問題ないと感じたのか、荷物の積み込みに戻っていく。
「だからって引っ越さなくても……」
「……本当はね、ずっと前から母さんに言われてたの」
優姫の隣に、衣服の梱包を中断した詩織が座った。散乱した衣類に視線を落として、詩織はひとり言のようにつぶやいた。
「ひとり暮らしじゃなくて、アメリカで一緒に暮らそうって。ちょうど高2の春に」
「どうして行かなかったの?」
「ハルと出会ったから」
優姫は、昔の詩織の姿を思い出した。高校三年間同じクラスだった詩織は、一年生のころはとても平凡な存在だった。それが二年生になってから急に垢抜けて、どんどん綺麗になっていった。成績が上がりだしたのもその頃から。
「ハルと出会って、この人と離れたくないって思った。だから母さんの誘いも蹴って、寂しいけどひとり暮らししてた。ハルがあたしの寂しさを上書きしてくれたから」
だけどもう、詩織の隣にあの人は居ない。
だから、立川に――日本に用はない。
「もう、寂しいのはイヤ……耐えられない……」
私服姿の詩織を、優姫は抱き留めた。震える肩を抱いていると、優姫まで泣き出しそうになる。
「私じゃだめなの……?」
詩織は嗚咽を漏らしながら首を横に振った。
優姫では、詩織を引き留められない。詩織の寂しさを埋め合わせることはできない。詩織の体に刻まれたあの人の唇を、指を、言葉を、そしてすべての思い出を優姫には上書きすることはできない。
「あの人には?」
「……言えない」
「どうして?」
詩織はそれから何も答えなかった。泣きながら衣類の仕分けに戻り、クローゼットの中身をゴミ袋に詰めていく。アメリカ行きの段ボールは三箱。廃棄するゴミ袋は五袋。
クローゼットから目を逸らすと、大量の本が紐で縛られていた。文庫本もマンガ本も、廃棄されるのは遙香から貰ったもの。化粧品も雑貨も文具も。
詩織の部屋にあるものの半分以上は、あの人が絡んでいる。
「無理して捨てなくてもいいと思うよ」
「無理なんてしてない」
「ウソつかないで。顔見れば分かるから」
「優姫さん、出てって」
優姫は詩織に引っ張られた。予想以上に強い力で引きずられ、抵抗すると今度は髪の毛を掴んでくる。
「やめて!」
「もういいの、決めたの! だからもう引き留めないでッ!」
詩織は、優姫の鞄と靴を玄関前の廊下に放り投げた。その後、優姫を突き飛ばす。マンション廊下の壁に背中を打った優姫は、詩織のひどい泣き顔を見た。
「さよなら」
「待って!」
どうにか引き留めたかった。詩織の恋心が自分に向いていないことは分かっていた。優姫では詩織を引き留められないことも分かっていた。だけど、それならもう一度だけチャンスが欲しかった。
詩織を自分のものにしたくて引き留めたいんじゃない。詩織が悲しい気持ちのまま引っ越してしまうことだけは避けたかった。ケンカしてお別れにしたくなかったから。
「いつ行くのか教えて! 見送りくらいさせて!」
部屋に戻ろうとした詩織は足を止めた。そして、振り向くことなくデッドラインを告げた。
「イブの夜」
今日は12月22日。つまり明後日。
「空港は!?」
ニューヨークへの直行便があるのは、関東なら羽田か成田。だが、国際空港は日本中にある。名古屋にも、大阪にも。
「羽田か成田。それ以上は教えない」
優姫は部屋に戻ろうとした詩織に追いすがろうとしたが、冷蔵庫を抱えた引っ越し業者に阻まれた。そのまま、冷蔵庫を運び出す男性達に追いやられ、マンションの細い通路を逆戻りするはめになる。詩織が遠ざかって行く。
もう、詩織は何も教えてくれないだろう。そう感じた優姫は、スマホで国際線の時刻表を調べた。
イブの日の羽田か成田、どちらかに詩織は居る。絶対にその場で詩織を引き留める。そう強く決意して、日が暮れた立川から自宅のある中野へ帰る電車に揺られる。
だけど、と優姫は思う。
私で、詩織を引き留められるのだろうか。
詩織を引き留めるなら、もっと適任の人材が居るのではないか。
脳裏を掠めた彼女――支倉遙香の顔をかき消して、詩織は羽田空港発の国際線と、そこへ向かうバスの時刻表を照らし合わせていた。
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