21日 木曜日

 12月。日ごとにクリスマスの匂いが近づいてくる。商店にも街路樹にも駅構内にも、そしてカーステレオから流れるFMラジオにさえも。

「パイセン、運転荒いッスね」

「時間がないの。誰のせいだと思ってるのよ」

 社用車に菓子折とカレンダーの束、そして爆発物である神崎まどかを詰んで、遙香は環七を走行していた。会社的に、年末はお得意先を繋ぎ、来年の業績を確かなものにする重要な時期だ。そのわりに、やることはお客様にカレンダーを配るという微妙なものなのだけれども。

 社用車の行き先は残り二ヶ所。神崎が大失敗した川崎の学校と、蓮華ヶ丘。

「あーし、悪いとか思ってないッス。川崎のことも、詩織ちゃんのことも」

 非を認めようとしない神崎に、遙香はため息をついた。先ほどからずっとこの調子。二、三言神崎が喋っては、FMラジオのDJが沈黙を埋めている。

「遙香パイセンは本当にレズビアンなんスか?」

 遠慮も配慮も欠片も持ち合わせない神崎の言葉に、遙香は半ばヤケクソ気味に答えた。

「そうよ。ていうかレズビアンはやめて。せめてレズにして」

「なんでスか」

「刺々しく聞こえるの、その単語」

 環七を右折して246へ入る。首都高の高架下を走っていると、神崎がぼそぼそと語り始めた。

「あーし、レズ嫌いなんス。つか、女がダメ」

「ふーん」

「アレっス。サルみたいに群れるとことか。あの女はウチらより下だ、とか。なんつーんでしたっけ? ヒラル……ヒラキ……」

「ヒエラルキーね」

「それッス」

 女性は群れる。群れていないと生きていけないと本能にでも刻まれているように。個人間の序列は集団間の、ひいてはクラス・学校全体の序列になり、スクールカーストが自然に形成される。望むべくしてヒエラルキーを形成しているわけではない。

「何するにも周りの目気にするとかマジイミフっスよ。自分が好きなように生きなきゃ意味ないじゃないスか」

 神崎にしてはまともなことを言うな、と遙香は思った。横目に助手席を見ると、神崎は俯いてぶつぶつつぶやいている。聞き取れない。遙香はFMラジオのボリュームを少し絞った。

「そうね。自分の好きなように生きればいい。私は私、あなたはあなた。だけど、大抵の人にはそんなことできないのよ」

 人は皆、周囲の目や世間の評価を気にしてしまう。むしろ、そういうものを気にしなければいけないように、頭の中に刷り込まれている。ご近所さんと顔を合わせたら挨拶をしよう、お年寄りには席を譲ろう、会社では勤勉に振る舞おう。道徳を守り、目立ったことはせず、平凡で凡庸に生きていこう。それが僕の/私の幸せだ。そう教えられてきたから。

「みんな、世間体を気にして我慢している。我慢しているからこそ、世間体や常識に囚われない人に嫉妬する。うらやましいのよ、そういう人が」

「あーしに絡んできたヤツら、みんなうらやましかったんスかね?」

「知らないわ。ただ単にウザいだけだったのかも」

「うわー傷付くっすわパイセン……」

「大したショックでもないでしょ」

「ま、そっスね。あーし、ハートは強いんで」

 ここだけは認めざるを得ないところだった。会社の人事部はこの折れない心を一点買いしたのだろう。上司や先輩社員相手はともかく、客にも折れないのはどうかと思うが。

「でもあーし、レズに嫉妬してないッス。キモいから。でも――」

 遙香は、神崎の視線を顔の左半分に感じた。横目に見れば目が合いそうだったので、遙香は前方に視点を固定する。

「パイセンは好きっス」

 このの意味が、遙香にはよく分かる。告白してフラれたあとに待っている、優しい気遣いの言葉と同じだったから。

「れ、恋愛感情とかじゃないッスよ!?」

 神崎の焦った様子を横目に見て、遙香は笑った。

 間違いを認めようとはしないが、話せば神崎は神崎なりに理解してくれる。うまく手綱を握ってやれば、営業としても人間としても、もっと前に進めるかもしれない。

「分かってるわよ。アンタみたいな性格ブスに興味ないから」

「それはそれでムカツくッス!」

 むすっとした神崎は遙香から目を背け、車窓に流れる多摩川と田園都市線の高架を眺めていた。社用車は246の二子橋を渡り、神奈川県に入る。目的地の川崎の高校に迫ったところで、神崎が「そう言えば」と尋ねてきた。

「レズってどうやってセックスするんスか? ちんこ付いてないッスよね?」

 まず第一に、彼女にはデリカシーという言葉を学ばせよう。遙香は痛い頭を抱えながら、高校の正門前に社用車を横付けした。


 お詫びの菓子折とカレンダーを持った遙香達を待ち受けていたのは、教師達の冷ややかな視線だった。来客室へ通されて、痛む胃を抱えながら教頭を待っていると、憮然とした表情の教頭がやってきた。

「本日はどのようなご用件でしょうか?」

 教頭の男性は愛想笑いもない、不機嫌で失礼な態度。こちらに失礼があったのだから当然だ、と遙香は思う。謝罪の言葉を言い出そうとしたところで、神崎がソファから立ち上がった。そして――

「すみませんッした!」

 立った姿勢から、流れるように土下座する。いっそ清々しいまでの土下座だった。

「ちょ、ちょっと君!」

「ウケ狙いのつもりだったッスけど、空気読めてなかったッス! ホント、サーセンッした!」

 教頭と遙香は目を合わせた。どちらの顔にも動揺の色が浮かんでいる。

「わ、分かりましたから顔を上げてください!」

「ういッス」

 教頭に言われて素直に顔を上げると、神崎はお詫びの菓子折とカレンダーを教頭の前に差し出した。

「これ、あーしオススメのお煎餅ッス。つまらないものとかじゃないんで、皆さんで食べてください」

 教頭は呆気にとられていた。このスキに謝罪して逃げてしまおう、と遙香も決めた。

「先日は申し訳ございませんでした。神崎は新入社員、私達だけでなく皆様のご指導ご鞭撻により成長途中の若者です。どうか長い目で見てやってください」

 神崎と揃って、深々と頭を下げる。長い沈黙の中で顔を上げると、教頭は目を見開いたまま硬直していた。謝り逃げるなら今のうちだ。

「それでは」

「いや、待ってください。こちらからも謝罪させてください」

 思わぬ反応に遙香はたじろいだ。教頭も同じように頭を下げる。いわく「所詮は胡散臭い商売だ」と思っていたから、難癖付けて追い払いたかったらしい。その本音を吐露したあと、「ですが」と続けた。

「そもそも、わざわざ謝罪をしにくる必要もないのにお二方はやってきた。その誠意ある対応を見て、間違っていたと感じ入りました」

 営業はよくも悪くも一期一会。粗相があったとは言え契約に至らなかった客に、わざわざ謝罪をしに来る必要はない。そんな時間とコストがあれば、新しい客を探す方がはるかに合理的だからだ。

 だけど、そうはしなかった。謝ろうと言い出したのは神崎だったから。


『なんつーか、悪いとは思ってないんスよ? 思ってはないッスけど、一応謝っといた方がいいと思ったんで』


 社用車にお年賀代わりのカレンダーを積み込んでいるとき、神崎はそっぽを向きながら菓子折の袋を持ってきた。つまり神崎の持参した菓子折は自腹。遙香から見れば、誠意の塊だ。

 素直なんだか素直じゃないんだか分からない神崎の態度が少しだけ面白かった。


「ペンディングになっていたウォーターサーバーの件、契約を進めて貰えますか。こちらで再度希望者を募ってみます」

「本当ですか!?」

 思わぬところで商談に繋がった。遙香の隣で、神崎がガッツポーズしている。

「そちらの……神崎さんに頼みたいのですが、構いませんか?」

「あーしッスか!?」

 教頭からの直々の指名を貰い、神崎は大げさに驚いた。不安だが、先方からのご指名だ。それに、サポートしてやればなんとかなるだろう。

「ええ、では神崎を窓口にしていただければと思います。私もサポートしますので」

 また一つ、悩みの種が増えた。だけどこの種は芽吹いて綺麗な花を咲かせてくれるかもしれない。綺麗な花を咲かせるためにも、しっかり世話して水をあげてやろう、と遙香は思う。

 ようやくこの水商売が、ほんの少しだけ楽しいと思えた。


 ***


「つーわけで、サーセンっした!」

 川崎からところかわって、中野の蓮華ヶ丘。神崎は、カウンセラー室で結衣と日比谷に頭を下げた。

「まーアンタまだ19歳なんだろ? あたしが19の時なんてフラフラしてたんだからそんなに気にすんなって」

「そッスよね、ウィッス」

「や、少しは気にしろよ」

 日比谷は、神崎を見つめていた。神崎の反応が予想外過ぎて、どんな反応をとればいいのか答えに苦慮しているのだろう、と遙香は思う。

 一昨日、ここに居たはずの詩織の姿は見えなかった。今日は木下先生を介さず結衣に直接電話してアポを取ったから、詩織のその後を知ることはできない。

 詩織からメッセージはなかった。既読すら付けず、放置されている。あの時、遙香自身が詩織に行ったのと同じスルー。普段から即レスだった詩織から食らってみると、その威力がとてつもなく高いことが分かる。

「でも、レズはキモいってのは変えらんねーッス。それがあーしの考え方なんで」

 神崎がまたもやが、それを聞いて結衣は大笑いした。

「あっはははは! お前、なんのために謝罪に来たんだよ」

「決まってるッス! あーしが空気読めなかったことを謝ってるッス!」

「つまり、考え方を変えるつもりはない、と」

「当然ッス! レズにはレズの、あーしにはあーしの考え方があるッスから」

 価値観の相違。この溝は絶対に埋まらないし、無理矢理埋めるものでもない。「マジョリティが価値観を押しつけてきたから」と言って、逆に押しつけ返していいものでもない。この手の議論は終始、平行線だ。

 だから、同性愛の善悪を議論することに意味はない。考えるべきは、その人個人の生き方。人種も国籍も宗教も、総体でみるから争いになる。わかり合うべきはいつだって、個人と個人、自分と相手なのだから。

「日比谷。こいつはこう言ってるが、お前さんはどう思う?」

 結衣は当事者である日比谷に話を振った。日比谷はしばらく考えると、ソファから立ち上がって神崎に告げた。

「私には私の考え方があります。それを曲げるつもりはありません。神崎さんが同性愛者を嫌ってるのと同じくらい、私も男性と付き合う女性は汚いと思います」

 「だけど」と言葉を切って日比谷は続ける。

「それが神崎さんを嫌いになる理由にはなりません。たしかに、すごくイヤで傷付きはしましたけど、神崎さんが悪い人じゃないのは話を聞いていたら分かりますから」

 日比谷は大人だ。もしかしたらこの中で誰よりも大人かもしれない。昔の遙香が大いに悩んだことに、もう一定の結論を導き出せている。結衣の教育あってのことだろう。あの時の結衣とのデートが彼女を救ったのかもしれないと思えば、少しは心の傷を癒やす薬にもなるだろう。

「あーしもハッキリ言う子は好きッス! まどかって呼んでいいッスよ!」

「お断りします」

「はあ? ないわー!」

 カウンセラー室は、温かい笑顔に包まれた。バカバカしい話を始めた神崎と結衣を見ていると、真向かいに座った日比谷が告げてくる。

「あの、遙香さん。少しお話いいですか?」


 日比谷に連れられて、遙香はカウンセラー室そばの階段踊り場にやってきた。屋上は立入禁止のため、そこへ続く階段は人気ひとけが少ない。かすかに聞こえていた吹奏楽部の調律と運動部の声を打ち消して、日比谷は告げた。

「詩織さんのこと、どう思ってるんですか」

 予想通りのことを尋ねられて、遙香は答える。

「ただの従姉妹だよ」

「ウソつかないでください。知ってるんです、お二人の関係」

 遙香は答えに窮した。あの口が堅い詩織が、自分達の関係を喋ったのだろうか。そうたどすればマズい。あと三ヶ月で事実上の時効になるのに。

 しかし、日比谷が言い出したのは援助交際のことではなかった。

「付き合ってるんですよね、お二人。従姉妹なのにそれも、かなり……濃厚に……」

 日比谷の声は少しずつ小さくなっていく。詩織が援助交際のことまでは喋っていなかったことに安心したけれど、従姉妹に手を出した女という余計にこじれそうな関係だと思われていることを遙香は察した。

「付き合ってた、だね。過去形。もう別れた」

「詩織さんの気持ち、考えたことありますか?」

 考えたことなら山ほどある。毎日顔を合わせるたびに、罪悪感がつきまとっていた。それでも詩織の体を求めたし、詩織に愛されたかった。詩織だけは確実に自分を愛してくれるという確証があったから。

 遙香は話を逸らす。

「二人はクラスメイトなんだよね、仲いいの?」

 話題か変わったことに気づいたのだろう、日比谷は遙香から視線を逸らし背中を向けて語る。

「フラれました。遙香さんが好きだからって」

 日比谷の言葉が、そして詩織の想いが遙香の心に突き刺さった。

「なのに詩織さんは昨日、私に……キスしてこようとしました」

 振り向いた日比谷の瞳には、涙が溜まっていた。声が上擦らないように胸を手で押さえて、日比谷は迫る。

「それだけじゃありません。すべてを上書きしてって言ってきたんです。詩織さんにとってはただの友達でしかない、この私にッ!」

 上書き。ある春の日に、出会ったばかりの詩織が言った言葉。その言葉のままに遙香は詩織を抱いた。

「……詩織さん、昨日から学校を休んでます。私が会いに行ったときには、とても顔色が悪くて、心ここにあらずって感じで、ずっと泣いてました。当然ですよね、あんなに酷い裏切りにあったんですから!」

 日比谷の語尾が強く、遙香の心を針のむしろにするには充分なくらい刺々しくなっていく。

「しかも、あんなに綺麗だった髪を切ったんです。あなたを忘れるために!」

「もう……やめて……」

 やっとのことで遙香が口に出せたのは、我が身かわいさからの哀願だった。

「嫌です! はっきり言って私は、神崎さんなんかより、あなたのことの方が許せません! あなたは詩織さんの心を弄ぶだけ弄んで、優しさに甘えていた最低の女です!」

 遙香の視界が歪んだ。瞬時に、頬を涙が伝っていく。

「分かってるわよ……そんなこと……」

「いいえ、分かってません! 詩織さんにどれだけ愛されているのか、詩織さんがどれほどあなたなんかのために心を砕いてきたのか! 子どもだからってバカにしないでください! あの人はもう、一人前のおとななんです!」

「う、ううう……!」

 遙香は立っていられなくなった。屈んだら尻餅をついた。冷たい床に膝を抱いて小さくうずくまり、嗚咽を漏らす。

「本当に考えたことあるんですか!? 詩織さんの気持ち!」

 日比谷は涙を拭って、遙香の元を立ち去った。去っていく足音の後に、勢いよくドアを開く音が二回する。カウンセラー室で帰り支度を整えて、日比谷は遙香の元に戻ってきた。

「……詩織さんの所に行きます。クリスマスまでにあなたが反省しないなら、詩織さんは私が奪います。あなたが詩織さんにつけた匂いも何もかもを、日比谷優姫で上書きしますから」

「いや……!」

 想いが飛び出していた。


 そうだ、本当はずっと前からそうだった。八年間の想いは、いつしか上書きされていたのだ。何度、結衣との逢瀬を妄想したことか分からない。でも妄想はそのたびに、詩織の姿に書き換わっていた。だけど詩織は、割り切りの関係。と始めから考えないようにしていただけだった。

 遙香が本当に愛していたのは――


「私は……しおちゃんが好き……!」

「……失礼します」

 日比谷は足早に階段を降りていった。詩織とは違う、酸っぱくも刺々しいレモンの香りがその場に残されていた。

 約束の聖夜まで、あと四日。

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