20日 水曜日

 立川のマンションは今日も冷えていた。むしろ家出前より冷えている。流れ落ちたそばから涙が凍っていくほどに。

 冷たい布団の中で何度目かの眠りから醒めた詩織は、枕元に置いたスマホを覗き込む。

 水曜日。時刻は午後四時過ぎ。通知欄に電話とメッセージが貯まっている。今は名前も見たくないからの通知ではなかった。

 布団から指を出して通知を調べる。同じ番号からの電話が三件。他は優姫からのメッセージだった。

『詩織さん、今日はお休み?』

『先生が心配してるよ』

『これ見たら連絡して。伝えておくから』

 詩織は今日、学校を無断欠席した。昨日、ひばりヶ丘の荷物をまとめて帰ってきてからずっと、布団の中で眠っていたからだ。

 詩織は昨日、失恋した。ずっと想い続けていた――信じていた――女性が他の女性に告白する様を見せつけられる形で。詩織が放った恋の矢は、見事に外れてしまった。外れていたことにすら気づかなかったほど、それはもう哀れな最期だった。

 詩織は、ベッドから起き上がる。帰るなり着替えずそのままベッドに飛び込んだから制服はよれよれで。ベットの周りには、涙を拭いたティッシュがあふれていた。体じゅうの水分が涙になって出ていってしまったみたいだった。

 立つだけで体力が持っていかれる。水道水を飲んで体を潤しても、立っているだけの気力すらなくなって、詩織はキッチンのフローリングに座り込んだ。このまま心身ともに冷えて、冷たい牢獄で死んでいくのだろう。

 壁面の通風口が、木枯らしを受けてビュウと鳴った。「それがお前の運命だ」と、詩織に冷たく当たる立川のマンションが、せせら笑っているような気がした。

 その時、呼び鈴が鳴った。鏡を見るまでもないくらい、今の自分はひどい顔だろう。もとより、玄関まで歩く気力もなくて、詩織は居留守を決め込んだ。しかし、呼び鈴はしぶとい。

 二度、三度。意地でも詩織が出てくるのを待っているといった様子の来訪者に、詩織はのっそり立ち上がり、インターホンで応答した。

「……はい」

『詩織さん!? よかった、ここに居たんだね……』

 インターホンのモニタに、クラスメイトの日比谷優姫の顔が映っていた。学校帰りの制服姿。優姫が家を訪ねて来られたのは、木下先生に教えてもらったのだろう。

『テストの答案とか連絡事項のプリントとか預かってるんだけど……』

「……待ってて」

 詩織は玄関の鍵を開けた。鉄格子のようなドアがゆっくりと開き、優姫の姿が見えた。

「詩織さん……」

 詩織は、優姫の体に抱きついた。そして抱きかかえられたまま泣いた。飲んだばかりの水道水が、涙となって玄関のコンクリートを濡らしていった。


「落ち着いた?」

 詩織の部屋。敷かれたラグに座る優姫の膝の上から、詩織は上体を起こした。心配そうに眺める優姫の顔を見ているとまた泣きたい気持ちになる。だけど涙はもう出てこない。枯れ果ててしまった。

「ちょっと寒いね、この部屋。暖房入れてもいい?」

「……ん」

 エアコンの電源を入れると、生ぬるい風が部屋に流れ始めた。それでも、詩織は胡乱な表情で虚空を見上げていた。部屋の温度は上がっても、詩織の心は凍っている。

「とりあえず、着替えよっか。私、部屋の外に出てるから」

 部屋を出ようとした優姫を、詩織は引き留めた。

「……ここに居て」

「でも……」

「お願い」

 そばに居た人が居なくなる。それが耐えられなくて、詩織は優姫の前で制服を脱いだ。よれよれのブレザー、折り目のついたスカートを一枚ずつゆっくりと脱ぎ捨てる。

 白いブラウスと下着だけ。にしか見せたことのない姿を優姫の前で晒して、ラグの上に腰を落とした。着替える気力も残っていない。

「風邪引くよ?」

「別に……」

 ごうごうとエアコンの作動音だけが聞こえる。沈黙を破って、優姫が語りかける。

「ごめんね。無理を言って木下先生に住所を教えてもらったのに、何を言えばいいのか分からなくて……」

 詩織自身、何を言われたいのか分からなかった。励ましてほしいのか、慰めてほしいのか。そもそも他人の言葉が必要なのかどうかさえ。

「何かして欲しいことがあれば言ってほしいな。瀬名先生みたいなアドバイスはできないと思うけど」

 ふと、詩織の脳裏を瀬名結衣の姿が掠めた。平均的な身長で、胸が小さくて。黒髪で肩口までのセミロング。あの人のことを「ハル」と呼び、ぶっきらぼうな口調で自分自身を「あたし」と呼ぶ、気だるげでイタズラが好きな女性像。詩織が何故だか親近感を覚えて、いい先生とまで思った彼女の正体は――。

「……あたしは、瀬名先生じゃない」

「え……?」

 詩織は、援交を始めて数ヶ月経った時、あの人が言い出した言葉の数々を思い出した。

『私、おっぱいは小さい方が好きかな』

『そのダルそうな感じ、らしくていいね』

『私のことは、ハルって呼んで?』

『髪を伸ばしたほうがかわいいよ』

『もっと甘えていいんだよ、しおちゃん』


 あの人は――支倉遙香は、村瀬詩織を見ていなかった。村瀬詩織に重なった、瀬名結衣の幻影を愛していたのだ。だから、どんなに遙香を追ったところで意味がない。彼女にとって詩織は結衣の代わり。遙香の心の隙間を埋め合わせるためだけの代用品に過ぎなかった。

 詩織は、唇を震わせてつぶやいた。

「……髪を切って」

 机の上にあった文房具のハサミを優姫に握らせる。首筋に垂れた髪の毛を切りやすいように束ねて、優姫の前に突き出した。

「そんなこと……」

「いいから」

 文具用のハサミで髪を切れば、毛先はボロボロに傷んでしまう。それにばっさり切り落とせばバランスが悪くなる。だけど詩織はそれでも構わなかった。自分に張り付いた瀬名結衣の幻影を切り落とすには、そうするしかなかったから。

 優姫は恐る恐るハサミを握り、髪の束に刃を沿わせる。

「本当に切るよ?」

 詩織が頷くと、ざりざりと音を立てながらハサミが動いた。思った以上に毛量が多くて、刃が閉じるほどに髪が巻き込まれていく。引っ張られた髪の毛が痛かったが詩織は我慢した。これが必要な痛みだと思ったから。

 ざりざりと刃が軋む。はらはらと髪の毛が落ちる。髪を伸ばせと言った遙香を否定して、詩織は自分自身を取り戻す。

「……終わったよ」

 両手には短い髪の束が握られていた。優姫が差し出してくれたゴミ箱に髪の毛を捨てる。机の上の鏡には、遙香と出会う前――一年半前の詩織の姿が映っていた。

 だけど、記憶までは切り落とせない。という意識だけは、詩織の中にひしめいている。

「お願い、して……」

「ど、どういうこと――きゃっ!?」

 詩織は優姫を押し倒した。仰向けに倒れた優姫の顔を覗き込んで、詩織は唇を近づけていく。

「あたしの心も、体も、おっぱいも、子宮も……。あたしに染みついたハルの記憶すべてを、優姫さんで上書きして……」

「し、詩織さんっ……」

「キスして……」

 少しずつ優姫の顔に近づく。体を密着させて、優姫の体温を、匂いを感じる。キスの仕方も、迫り方も、女性の愛し方さえも、すべてを上書きしてほしい。かつての援交未遂の時、遙香が詩織にしたように。


「いやっ!」

 詩織は、優姫にはね除けられた。柔らかなラグに体を叩きつけられて、詩織は小さく震え始めた。

「ダメだよ、詩織さん」

「どうして……」

 震える声で尋ねた詩織に、優姫は告げた。

「詩織さんは、私を見てくれてない。私は、遙香さんの代わりじゃないんだよ」

 詩織が優姫にしようとしたこと。それは、遙香が詩織自身にしてきたことと同じだった。自分勝手な幻を相手に重ねて、それを愛そうとしただけ。

「私だってキスしたいよ。大好きなんだもの。でも、私は私。遙香さんじゃない」

 髪を切っても。遙香以外に体を晒しても。詩織は変われない。身も心も遙香の好みに染まってしまった村瀬詩織は、村瀬詩織であることを放棄することはできない。

 今の詩織は支倉遙香のもので、瀬名結衣の代用品だから。

 お仕着せられたマネキンは、遙香しか愛せないから。

「あたしは、どうすればいいの……」

「……ごめんなさい」

 優姫は、詩織を拒絶した。鞄から答案用紙とプリントを出して、詩織の家を足早に立ち去る。

 再びひとりになった部屋で、詩織はラグに寝転んだ。一年半ぶりに露わになった首筋は、思った以上に冷えていた。

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