19日 火曜日
「遙香パイセン、遙香パイセン」
電話を受けた神崎が、遙香の名前を呼んだ。遙香はと言えば、デスクのモニターを見つめていた。見つめていたというよりは、呆然と眺めていたという方が正しい。
一昨日。想い人である瀬名結衣との初デートにこぎ着けたはいいが、それが「教え子のために行ったウソのデート」だと知ってしまった。期待を込めてのデートが肩すかしどころか裏切られる結果となれば無理もない。無残だ。
「遙香パイセン!」
神崎に体を揺すられ、遙香はハッと我に返った。
「な、なに……?」
「パイセンに電話っス。内線2番」
「あ、ありがとう」
遙香は手元の受話器を取り、保留中になっている内線ボタンに指を沿わせる。押そうとした時に、電話相手が誰なのか確認を忘れたことに気づいた。
神崎に聞くのも面倒だ。遙香は、出たとこ勝負で内線ボタンを押した。
「お待たせしました、支倉です」
『あ、蓮華ヶ丘の木下です』
電話の相手は木下先生だった。蓮華ヶ丘高校の教師で、詩織の担任。そして、遙香にとってはお客さんでもある。
客の立場を利用して『保護者として、詩織と暮らしてあげて欲しい』と無茶苦茶を言ってくる代わりに、何件も大口顧客を紹介してくれる、恐ろしく顔の広い人だ。どうして先生をやっているのか理解に苦しむほどに。
お決まりの「お世話になっています」を言い合った後、木下先生は本題を切り出した。遙香は思わず居住まいを正す。
『実は、カウンセラー室の水が思ったより早く切れてしまって。届くのって来週なんですよね?』
遙香は、蓮華ヶ丘の契約内容を思い出す。職員室の業務用とカウンセラー室の家庭用一台ずつ。業務用の方は二日に一度配達しているが、カウンセラー室は週に一度だ。
「お急ぎでしたら配達しますよ?」
『うわあ、本当ですか! 助かります!』
木下先生の嬉しそうな声が聞こえてきた。この屈託のない明るさが、顔が広い理由なのだろうと遙香は思う。
職場のホワイトボードを見る。社員名と直帰や出張といったステータスが並ぶ下に、社用車の配車状況を示すマグネットが貼り付けてある。
白なら空き。赤なら使用中。
「では、これから配達に伺いますね」
『はい! 守衛には話を通しておきますので、よろしくお願いしますね』
ただの業務連絡だった、よかった。
安堵した遙香が電話を切ろうとすると、『待ってください』という木下先生の声が聞こえた。
「なんでしょう?」
『村瀬さんの期末考査の成績、とても上がってるみたいなんです。やっぱり、誰かが側にいてあげると勉強に集中できるみたいですね』
返答に迷った挙げ句、遙香が出した返事は単純なものだった。
「そうなんですか、よかったです」
『ええ、本当に! 支倉さんにはご迷惑かもしれませんが、受験終了までよろしくお願いします! ……なんて、私母親みたいですね、これじゃ』
「あはは」
いろいろと思い出すことはあったが、どれも話せるような内容じゃない。
遙香は笑ってごまかし、電話を切った。
すると、遙香の通話が終わるのを待っていた神崎が新品の水を運んできた。
「パイセン! 社用車とストックぶんどってきましたッス!」
見ると神崎は、コートを羽織って外回りの準備を済ませていた。しかもホワイトボードの社員ステータス欄が書き換えられている。
支倉 配達
神崎 配達・直帰
「ついて来る気ね……?」
「ッたりまえっスよ! パイセンもあーしが居た方がいいっしょ?」
――いいわけがない、これ以上ついてくるな。
とは言えないのが新人教育中の悲しいところ。課長の方をちらりと見ると、ニヤニヤと笑っていた。上長による暗黙の了解。もしくはただの厄介払いだ。
「……頼むから、余計なことは言わないようにね」
「大丈夫ッスよ! あーし、空気めっちゃ読めますから!」
不安しかなかった。
結局、遙香は神崎を助手席に乗せて、池袋から中野近くの蓮華ヶ丘まで社用車を走らせることとなった。
体が重かった。抱えている水のせいではなく、心が重い。
蓮華ヶ丘に来たこと、神崎のお守りをしている以上に、遙香の足を鈍らせる一番の原因は結衣のウソデートに翻弄されたことだ。キスをして、デートにまで持ち込み、告白までしたのに、すべてはぬか喜びに終わってしまった。
「重い……」
「それな――ッスよね!」
神崎がうっかりやらかすタメ口は無視して、遙香は職員室の木下先生に挨拶に行く。途中、神崎が名刺を切らすという初歩的失態を犯したものの、遙香達は木下先生に案内され、カウンセラー室に向かった。
部屋の前で、木下先生がノックする。
「結衣、お水持ってきてくれたよ」
「おー。入ってもらってー」
耳馴染みのする名前だった。聞き覚えのある声だった。聞き覚えどころか、デートもキスもしたし八年前から好きだったあの人にそっくりな、気だるそうで、脱力した、やる気のない声。
遙香の脳裏に、一昨日の記憶が蘇る。
『あたしの教え子』
『それも臨床心理学ってヤツな』
『今は臨時のカウンセラー。教え子ってのは、そこの人』
まさか、ここに居るカウンセラーは――
「ちわッス! 水屋ッス!」
開口一番部屋に飛び込んでいった神崎の奥に居たのは、紛れもなくあの人。
「うおっ! ハルじゃん!」
「結衣、ちゃん……?」
蓮華ヶ丘高校臨時カウンセラー・瀬名結衣がソファから飛び起きた。
しかも、対面に座っていた二人の女子生徒は――
「ハル……?」
「あら、村瀬さんと日比谷さんも居たんだね」
「はい、ちょっと前からお世話になってて」
村瀬詩織、遙香の援交相手で同居人。その隣には、三者面談の時に座席を譲ってくれた少女、日比谷優姫。
その場で立ち尽くしていた遙香を置いてけぼりに、詩織が気づく。
「瀬名先生、ハルと知り合いなんですか?」
「知り合いも何も、高校の同級生だよ。なあ、ハル」
遙香は、何も言えなかった。
「どうしたんスかパイセン! とっとと配達済ませましょうよ」
神崎に手を引かれ、遙香はボトルを交換し始めた。今すぐ配達と交換を終えて、この場を立ち去らなければ。
遙香が水を交換する間にも、話は遙香を無視して進んでいく。
「すっごい偶然! 結衣と支倉さんが同級生だったなんて」
「木下先生と瀬名先生はお知り合いなんですか?」
「ああ、半年で辞めた大学のな。あたしがここに居るのもマユのコネだよ」
木下
「つーかここ、いい部屋ッスね! 職業柄いろんな部屋見てるッスけど、落ち着くッス!」
「おー、分かんじゃん! 実家のような安心感って感じだろ? なあ、ハル」
遙香は背を向けたまま、作業をしながら適当に相づちを打った。今は誰の顔も見られない。神崎を今すぐにでも黙らせて、このまま消え去ってしまいたかった。
口を開いたのは詩織だった。
「仲いいんですか、ハルと」
「まあね。……っていうか村瀬、なんでハルのこと知ってんの?」
「従姉妹同士なの、村瀬さんと支倉さんって」
「従姉妹……?」
結衣の訝しげな声がした。従姉妹のウソだけはさすがに黙っているワケにいかなかったので、遙香はムリヤリボトルの交換を終えて木下先生に告げた。
「交換終わりました! ひとまずサインを!」
「せっかくだしお茶していきましょう、支倉さん!」
木下先生は瞳をキラキラ輝かせていた。サインを貰うどころではない。
詩織の、結衣の、そして関係ないはずの日比谷の訝しげな視線を全身に浴びつつ、遙香はこの場を立ち去る必死に言い訳を探す。
「あ、いえ……急ぎの仕事がありまして……」
「大丈夫ッスよパイセン! カチョーに連絡しときました!」
「やるねえ、優秀な後輩!」
「イエーイ!」
結衣とハイタッチして盛り上がる神崎に、完全に退路を塞がれた。
――どうしてこんな時だけ余計な気を回すんだ、こいつは。
「ハル、あたしカフェオレ」
「あたしはブラックで頼むよ」
「もう、支倉さんはこの場ではお客様よ? 家ではいいかもしれないけど……」
「家?」
聞き返した結衣に、日比谷が答える。
「詩織さんは、支倉さんのお家で暮らしてるんです」
「マジすげーッスよね、同居中の従姉妹と営業先で再会とか!」
「そうなの。で、私が無理言ってお願いしちゃった」
「マユ、昔からそういうとこあるよなー。お前に頼まれると断れないっつーか」
談笑が進む中、遙香は人数分の飲み物を作ってソファに腰を落ち着けた。向かい合うように置かれたソファの下手側に遙香、詩織、日比谷が座り、テーブルを挟んだ方に神崎、木下先生、そして結衣が座る。
つまり、遙香の隣に詩織。遙香の向かいに結衣。
テスト用に交換したボトルの水を飲んだばかりだったのに、遙香の喉はカラカラだった。詩織と結衣に挟まれて、いつ爆発するとも知れない爆弾を抱えている状況。しかも、爆弾の起爆スイッチは遙香以外の全員が握っている。
先に爆弾のスイッチを押したのは、結衣だった。
「いや、悪いねハル。日曜日付き合ってもらって」
「あ、えっと……」
言い淀む遙香の脇腹を詩織が小突いた。そして詩織が起爆スイッチを押す。
「瀬名先生ってタバコ吸いますか?」
「シガー……っつっても分からんか。あたしが吸うのは葉巻」
結衣はテーブルの上の木箱を開けた。赤と金のラベルが撒かれた葉巻が並んでいる。結衣が一本手に取って、詩織に渡した。
「瀬名先生? 学内禁煙なんですけど?」
「学校の中じゃ吸ってないって。それより村瀬、匂い嗅いでみ?」
詩織は葉巻を鼻に近づけて、鼻腔をひくつかせた。そして、まるでその匂いに覚えがあるように頷き、納得したように息を吐いた。
「案外いい匂いだろ?」
「はい。よく分かりました」
詩織は無言で葉巻を木箱に戻した。次いで、遙香には直接関係のない日比谷までスイッチを押してくる。
「あの。支倉さんは村瀬さんのことをどう思ってるんですか?」
「どう、と言われても……従姉妹だとしか……」
まごつく遙香の脇腹に、再び詩織の指が食い込んだ。しかも日比谷は、またしても遙香を追い詰めてくる。
「ただの従姉妹なんですか? 大切な人なんじゃないんですか!?」
日比谷の剣幕に、遙香は答えに窮した。詩織の顔色は伺えない。顔を伏せたまま、脇腹を指先で小突くだけだった。
「従姉妹だもの。大切な人に決まってるよ、日比谷さん」
割り込んだ木下先生に救われたのも束の間、木下先生までもが遙香の爆弾に火をつけようとする。
「三者面談のとき、村瀬さんが言ってたわ。ふたりでホテルに泊まったり、一緒にお風呂に入って、寝るほど仲がいいって」
「それって……!」
木下先生の言葉に日比谷は俯いた。その様子を気にも留めず、結衣は遙香に向き直る。
「どした、ハル。顔色悪いけど」
遙香は、自分の顔色がどうなっているのか分からなかった。そもそも、会話の流れで爆弾が爆発しないか祈ることしかできないでいる。
顔色が悪いことを糸口にして、この場を去ろう。そう考えた遙香が口を開いた――ところで、最後の爆弾のスイッチが押された。
神崎だ。神崎は何も考えていない冗談めいた口調で笑った。
「ホテルで風呂で一緒に寝るって、従姉妹っつーか恋人みたいッスよねー! なんつーんでしたっけ、女が好きな女のこと」
「レズビアン、だな。オブラートに包むなら同性愛者とかLGBT」
「それッス! ぶっちゃけキモいッスよねー!」
神崎以外、誰も笑っていなかった。そして爆弾が爆発した。
「ハル。そこのバカ連れて帰って」
「あ?」
顔を上げた詩織は泣いていた。バカ呼ばわりされた神崎は、詩織をにらみつけている。
「ちょっと、村瀬さん!」
「いや、村瀬は正しい。ハルの後輩も正しい。が、人様とやりとりする営業にしちゃ配慮に欠けてんな」
「はあ? イミフなんスけど。パイセン、あーしなんか悪いこと言いました?」
遙香が答えを探していると、日比谷がぼそりとつぶやいた。氷のように冷たい声だった。
「……キモいって言った」
「たりまえじゃん、レズなんてキモいって!」
吠える神崎が、さらに爆弾を爆発させる。
「悪いな、ハル。教頭には黙っとくから、そいつ連れて帰れ」
遙香はこの時ようやく、少女・日比谷優姫のセクシャリティに気づいた。彼女は、同類だ。
ならば、神崎がどれほどの失礼を働いたのかは容易に想像がつく。自分自身も昔さんざん遊び半分でからかわれ、苦しんだことだ。まして、相手は高校生。カウンセラー室に居た理由も、自ずと想像がつく。
「本当に、失礼しました。私の不徳の致すところです……」
「なんで謝んスか! あーし当たり前のこと言っただけッスよ! 女は男と恋するのが当然じゃないスか!」
神崎の言うことは生物学上は正しい。人類が――もっと言えば雌雄の、性差のある動物が今日まで発展してきたのは、オスとメスの営みがあったからだ。
だけど、そんなことは分かっている。分かっているからこそ、それができないことに悩むマイノリティがこの世には大勢居る。
セクシャル・マイノリティ。彼ら・彼女ら・または性のない人々に降りかかるのはいつも、生物学上、法律上、宗教上というマジョリティ側の作った無理解の暴力だ。
神崎は悪くない。むしろこの問題は、誰かを責めて解決するようなものじゃない。理解できない人が居るのは仕方のないことだから。
遙香は、神崎と目を合わせて尋ねた。
「神崎さん。私にも同じこと言える?」
「たりまえッス! レズはキモいッス!」
遙香は、少しだけ神崎に失望した。仕事はできないし迷惑ばかりかけるけれど、ここまで無理解な人間だとは思わなかったから。
それでも、一括りに嫌いだとは言ってほしくなかった。いつだったか詩織が喩えていた、世界が神さまの作ったジグソーパズルという話。70億のピースは、人それぞれ形が違って、同じ物などひとつもない。愛し方だって人それぞれだ。
遙香は、告白することにした。
「私はね、レズビアンなの。あなたがキモいっていうね」
「は……?」
神崎は言葉を失った。結衣と木下先生も、遙香の言葉に耳を傾ける。
「みんな苦しんでるの。異性を愛さなければならないって言われてね。だけど私は、そうしようと思ってもできないのよ」
遙香は続けた。
「高校時代にね、ある女の子を好きになった。それ以来私はずっと苦しみ続けてる。大学生の頃は、告白されるままに男性とも付き合ったし、セックスもした。だけど、誰も好きになれないの。どうしてだと思う?」
神崎は、急に態度を変えた。落ち着きを取り戻したのか、それともさすがに申し訳なさを感じたのか、顔を真っ青にしておろおろと話し出す。
「そ、それは……タイプじゃない男だったんじゃないスか……?」
「男の子を差し置いて、女の子ばかり好きになるのに?」
とうとう沈黙した神崎に、遙香は微笑んだ。
「大丈夫、神崎さんはタイプじゃないから。あんたみたいな女、こっちから願い下げ」
許す気持ちはあるのに、ついつい報復してしまう。まだまだ自分は子どもだ、と遙香は反省した。
ひとまず、詩織と日比谷に謝罪しよう。神崎と一緒に二人に頭を下げて、遙香はカウンセラー室を出ることにした。
その時、結衣が遙香を呼び止めた。
「……ハル、悪かった。お前がそうだと知ってたら、あんなことは絶対しなかったよ」
キスのこと、そしてウソのデートのこと。遙香にとっては、冗談では済まないことだった。
「分かってる。その子があなたの教え子なんでしょ」
結衣は静かに告げた。
「そうだ。あたしもレズになれば、マシなアドバイスができると思って。キスやらデートやらいろいろ、お前の気持ちも知らずに頼んだんだが、結果はまあ、お分かりの通りだよ」
結衣は、着膨れた服の首筋に手を突っ込み、隠していたネックレスを引っ張り出した。ペンダントトップの代わりについているのは指輪だった。
「あたしは男が好きだ。ハルは親友だけど、恋愛対象じゃない」
「そっか……」
八年越しの想いは終わった。勝手に抱いていた結衣のイメージは死んだ。
学生時代、社会人になってからもよくあることだ。男性を好きになれないくせに、好きになるのは異性愛者の女性ばかり。どんなに親密になっても、告白ひとつで関係は壊れ、存在を否定されて疎遠になる。
神崎を連れて立ち去ろうとしたところで、今度は詩織に呼び止められた。
「……ハルのバカ」
遙香は、詩織が泣いている理由に気づいた。詩織と同棲していながら、結衣を追いかけていたから。結果的に、詩織の気持ちにあぐらをかいて、騙していたから。
「ごめん」
「もう知らない。行こ、優姫!」
詩織は日比谷を連れて出て行ってしまった。追いかけたものの、姿はどこにもなかった。
帰りの社用車は静かだった。普段の狂犬ぶりがウソのように、神崎は一言も話さない。怒っているのか悲しんでいるのか分からなかった。神崎の最寄り駅で社用車を止めると、神崎は一言だけ言い残して去っていった。
「あーしは間違ってないッス。でも、パイセンはキモくないッス」
「あっそ。じゃあお疲れさま」
ずっと緊張状態の中にあったからか、ひとりになると急に眠くなる。なんとか社用車を駐車場に戻して、雑務を終えて遙香は帰路につく。
移りゆく車窓を見ていた。不意にスマホに視線を落としても、詩織からの通知はこない。最後に詩織に送信したメッセージには既読がつかず、送信日時だけが悲しく踊っている。
『本当にごめん』 18:26
ひばりヶ丘の自宅は、真っ暗だった。そして、詩織が持ってきた大量の荷物が、跡形もなく消えてなくなっていた。バスタオルやお皿、新生活に合わせて買ったものだけが、一人減った住民のことを思って寂しげに震えている。
「私のバカ……」
遙香は、詩織の出迎えがなくなった玄関に崩れ落ちた。
今日、ふたつの恋が同時に終わった。
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