第三章 誰が聖夜に笑うのか
18日 月曜日
月曜日は、先週の期末考査の返却ラッシュ。クラスメイトのサルどもの阿鼻叫喚の叫びを背中で受け流して、あたしは自分の点数と向き合った。
数学、79点。
穴だった数学を、とうとう8割近いところまで引き上げることができた。他の教科も基本は8割。英語と国語に至っては、9割に乗せた。
悪くない。ていうか良すぎるくらい。来年のセンター試験に弾みをつけられるいい結果だ。これなら母さんも木下先生も安心だろう。ハルだって、あたしとの同棲について文句は言えないと思う。
昨日から、ハルと顔を合わせていない。日曜の夜遅くに帰ってきて、今朝はあたしより先に起きて家を出たから。布団はめちゃくちゃ、パジャマは脱ぎっぱなし。洗濯物はそのままで、朝ごはんの買い置きもない。いつものがさつで面倒くさがりなハルが帰ってきた。
なのに、あたしは何故だか安心できない。
「詩織さん、成績悪かったの?」
放課後。
優姫さんに心配されて、あたしは首を傾げた。成績は心配なかったのに、どうしてそんなことを言われるのだろう。
「や、悪くないよ」
「じゃあ、従姉妹さんのことかな」
どきりとした。
「なんで知って……」
「顔を見れば分かるよ。言ったよね、いつも見てたって」
優姫さんは、あたしが被っているいい子の仮面を見透かしている。ほんのわずかなあたしの変化に気づいて心配してくれている。ハルはここまでしてはくれないのに。
「ホント、あたしのこと好きだよね」
「優姫さんの観察は、私の日課だもの」
ハルが優姫さんくらいあたしを見ていてくれたらいいのに。優姫さんがあたしを想い続けてるみたいに、ハルも想ってくれていたらいいのに。
思えばずっとそうだった。あたしとハルは、何度も唇を、体を重ねて愛し合ってきた。だけど、愛されている実感はなかった。ハルに求められるのは嬉しかったけど、一番応えてほしいことには応えてくれない。
優姫さんの勘に降参したあたしは、正直に告げた。
「ちょっと、うまくいってなくて」
そう感じるのは、あたしの心が腐っているからかもしれないけれど。
「もしかしたら倦怠期なのかな?」
「そうかもね」
一週間とちょっとの同棲生活で、あたし達は互いを知り合った。知らなくていいところも隅々まで。あたしはハルのどんなところでも愛する自信があるけれど、ハルはそうではないのかもしれない。
理由はきっと――
「あたしが子どもだから、かな」
「子ども……?」
早くおとなになりたかった。おとなになるにはセックスしかないと思ったから、あたしはハルに春を売った。でもそれは、おとなの条件じゃなかった。
いつだったか、ハルは言っていた。
『あなたは子どもなの。社会の厳しさが分かってないからそんなことが言える
のよ』
じゃあ、社会の厳しさを知れば、ハルはあたしをおとなだと認めてくれるの?
高校を卒業して、大学も卒業して、就職して社会の冷たい風にあてられれば、ハルは満足してくれるの?
「あと4年なんて、長すぎるよ……」
そんな長い期間、ハルはあたしを待ってくれるの?
他の人のところに行ったりしないで、あたしだけを見ていてくれるの?
待っててほしい。
あたしがおとなになるまで、ずっと側に寄り添っていてほしい。
子どものあたしがおとなになるには、ハルが必要だから。
***
優姫さんに付き添って、あたしはカウンセラー室までの廊下を歩く。
優姫さんはあれから、瀬名先生のところに通うようになった。家に帰ってもひとりだからというのもあるし、瀬名先生に悩みを聞いてもらえるのが嬉しいらしい。実際、そのおかげか優姫さんは少し明るく、前向きになった気がする。
隣を歩きながら、優姫さんは何気ない感じで尋ねてきた。
「詩織さんに聞きたいんだけど」
「ん?」
「どうして誰かを好きになるのかな?」
予想に反して飛び出した哲学じみた問いかけに、あたしは唸った。
「う~ん……」
「顔がいいとか声がいいとか、性格が合ってて心地いいとか、一般的な好きの理由はいろいろあるけれど。どうして誰かを好きになるのか、私には分からなくて……」
優姫さんは、文系なのに理系に強い。というか、どうして文系クラスに居るのか分からないくらいにロジカルな考え方をする。時たま、突拍子もないことをするけれど。
「あたしも分かんない。気がついたら好きだったから」
「恋はするものじゃなくおちるもの、なんて書いた作家も居たみたいだね」
江國香織、東京タワー。あたしも読んだことがある。
優姫さんは、「私の場合は」と思案してから告げた。
「コンプレックスだった眼鏡を、似合ってるって言ってくれたから、かな」
「それ、あたしのことじゃん」
「もちろん。今でも詩織さんのこと好きだから」
微笑む優姫さんに、あたしは面食らった。
「でも、それはきっかけ。どうして詩織さんを好きになったのかは私にも分からない」
「優姫さんでも分からないことがあるんだね」
「私、勉強は得意だけど、恋愛偏差値は低いから」
そう言って優姫さんは苦笑した。
こんなに想ってるのに、届かない想いもある。
「村瀬」
名前を呼ばれてあたしは振り向いた。声をかけてきたのは同じクラスの男の子、名前もろくに覚えていない、サル山の住民のひとり。
「なに?」
優姫さんとの会話を遮られて不機嫌だけど、表情を取り繕って尋ねる。
「話がある、来てくれ」
「ここで言ってくれる?」
男子生徒の表情を一目すれば、言わんとしていることは読み取れた。恋愛偏差値が低いと自嘲した優姫さんも、この先起こることは理解したらしい。あたしの前に歩み出て、男子生徒を威圧する。
男子生徒は怯んだ様子だったけど、それにも負けず、あたしに聞こえるように告白した。
「お前が好きだ、村瀬」
どれだけ想っているか知らないけれど、届かないものは届かない。叶わない恋は叶わない。
恋は一方通行になりがちで、届かないことの方が多いのかもしれない。
「ごめん。もう恋人が居るから」
でも、もしかしたら。
あたしがハルに抱いているこの気持ちも、一方通行なのかもしれない。
「俺の知ってるヤツか?」
知ってる人だったらどうするって言うんだろう。殺してでも奪い取るつもりなのだろうか。
面倒くさい男子に話すことはない。あたしはハルが好きで、ハル以外を好きになることはない。明日世界が崩壊して、あたしとこいつのふたりだけになっても、あたしの気持ちは変わらない。脈々と続いてきた人類の歴史がそこで終わるだけ。
「関係ないよ。あたしなんか忘れて、新しい恋を見つけなさい」
つい最近、ハルにも同じことを言われた。その時あたしはフラれたけれど、諦めきれなくてハルに挑んだ。
「俺は諦めないからな」
予想通りの答えにため息が出た。もう隠すのはやめよう。サル山の連中に知られてしまうのはイヤだったけれど、あたしはお断りを入れた。
「あたしは女が好きだから、あなたを好きになることはないの」
男子生徒は目を見開いた。あなたの恋は絶対に届かない。
「分かった?」
優姫さんの気持ちも、名も知らない男子生徒の恋心も、あたしには絶対に届かない。それは一方通行の片想いだから。
恋とは、なんて悲しいものなのだろう。誰かへ飛ばした好意の矢が、誰かに刺さるとは限らない。的外れな矢もあれば、
あたしは、ちゃんとハルの心を射止めているのだろうか。
生涯ひとりだけと決めた、一本限りの必殺の矢でハルを貫いているのだろうか。
そしてハルは、あたしに向けて矢を撃ち返してくれるだろうか。
「悪いけど、そういうことなんだ。行こっか、詩織」
気を利かせてくれた優姫さんに手を引かれ、あたし達はその場を離れた。名も知らない男子生徒の目には、あたしと優姫さんが付き合っているように見えただろう。それ以上、男子生徒の声は聞こえなかった。
遠く離れてから、あたしは優姫さんに問いかける。
「いいの? あれじゃ、優姫さんまで誤解されちゃうけど」
「気にしないことにしたの。どうせもうすぐ卒業しちゃうから」
優姫さんは、視線を前に向けたままつぶやいた。
「それに、自信を持ちたかったから。詩織さんが言ってくれたよね、女を好きでもいいんだって」
「……そっか」
凛とした、迷いのない優姫さんの横顔はとても綺麗だった。
カウンセラー室の前で、あたしは優姫さんと別れた。今日は近所のスーパーの特売日。優姫さんや瀬名先生とお茶をするのも楽しいけれど、あたしはハルのためにご飯を作ってあげないといけないから。
だけど、分からない。ハルの気持ちが分からない。
信じていたはずのハルに対して、不信感がふつふつと育っていく。
木曜のタバコと酒の匂い、土曜のパーマ液とアロマの匂い。
あんなに張り切っていたハルが、あたしを避けるようになった理由。
ハルは、何を隠しているのだろう。何を知られたくないのだろう。
恋人同士が笑いあう聖夜に、あたしは笑っていられるのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます