17日 日曜日

 遙香は緊張していた。隣には、八年間恋い焦がれてきた結衣が居る。しかも、結衣の方から腕を組んできて、二人して池袋の街を歩いているから。

 遙香の顔色はうかがうまでもなく真っ赤で、ちらりと見た結衣の青白い顔も、今日ばかりは朱がさしていた。

 想い続けた恋が叶おうとしている。

 追い続けた人に手が届こうとしている。

「次はどこ行くんだ、ハル?」

「えっと、次はね……」

 この日のためにプランは練り上げた。顔も体も磨き上げた。勝負を賭けて、とっておきの下着も着けてきた。あとは遙香次第。すべてを完璧にこなし、このデートに勝利するだけ。

「水族館とプラネタリウム、どっちがいい?」

「これまたド定番だな……」

 遙香が選んだのは、王道のデートプランだった。舞台は、池袋東口を出て大通りを進んだ先、池袋のランドマークでもある複合高層ビル。地上階のショップで結衣が気に入りそうな服を一緒に選んで、お茶をしてひと息つく。その後水族館かプラネタリウムで距離を縮めて、近くのレストランでディナー。最後に展望台で愛を伝える。

「最初のデートなら、定番の方がいいでしょ?」

 結衣は閉口していたが、遙香の言葉に納得したのか体を密着させてきた。

「じゃ、エスコート頼むよ。ハルの好きにしていいから」

「任せて!」

 二人は歩幅を合わせて歩き出す。目的地はプラネタリウム。女性は光り物とリラクゼーションが好きだから。


 遙香と結衣は、屋上行きのエレベーターに乗り込んだ。重い扉の先にあったのは、映画館のように並んだ椅子と丸く歪んだ天井。まるで、雑貨店で売っていたスノードームの中に入ったようだと遙香は思った。

「あたし、プラネタリウムとか初めてだ」

「私もそうかも」

 荷物を置き、コートを脱いだ身軽な状態になって、ほどよくリクライニングする背もたれに体を預けた。遙香が隣を向くと、同じく横になった結衣と目が合った。寝転んで向き合い語り合う、ピロートーク。

「女子どもの見るものだと思ってたけど、結構わくわくするな」

「結衣ちゃん女でしょ?」

「だからあたしも女なんだなあと思ってね。あまりにも男っ気がないもんだから、あたしは女じゃないのかも、なんて思ってたけど」

 結衣は昔から、女を感じさせない少女だった。男勝りでぶっきらぼうな飾らない言葉遣いも、見た目を気にしないところも、私服のセンスのなさも、休日の過ごし方も。本人は兄が二人居るからそれがうつったなんてよく言っていた。

 遙香はそんな瀬名結衣が好きだった。

 係員の声がドームの中で反響した。ドームに投影されていた白い光と足元の誘導灯がゆっくりと消えていく。上映スタートの合図だ。

「始まるよ、結衣ちゃん」


 ドームの夜空に星が生まれ、瞬く間に満天となった。星々はその生涯を、輝くことただ一点に費やしている。プラネタリウムのドームに光る星は単なるまやかしでも、そのモデルとなった光の粒一つ一つは実在のものだ。

 煌々と灯る命の輝きは、何年、何十年、何千年と孤独な暗闇の中を旅して、地球に、遙香達に降り注ぐ。太陽の光ですら、地球に届くまでには八分十九秒の時間がかかるほどに、宇宙は暗く、広く、孤独で満ちている。


『おおぐま座のシリウス。冬の大三角形のひとつを成す白い星は、地球から八光年の距離があります』


 ゆっくりと語りかけてくるナレーターの説明を耳にして、遙香はシリウスがまるでの自分のことのように感じられた。八光年。シリウスの放った光は、遙香が恋をした高校三年生の終わりに放たれたもの。そして八年もの間、孤独の中を旅した。それがどれだけ寂しいものか。どれだけ悲しいものか。どれだけ苦しいものか。遙香には分かる。

 頬を、熱いものが伝った。

 あの時シリウスが放った光は、もうすぐそこまで来ている。

 ようやく地球に、遙香の隣で星空を眺める結衣へと届く。


 ***


「いやあ、見事なもんだったなあ……」

「そうだね」

 プラネタリウムの興奮冷めやらぬ二人は、ディナーの最中も感動を共有しあっていた。

「特にあの、なんつったっけな。冬の大三角形の……」

「シリウスだよ、八光年先」

「それそれ。思わず八年前のこと思い出しちゃったよ」

 ディナーには小洒落たイタリアンを選んだ。だが遙香は何を食べたのか覚えていない。饒舌に語る結衣のプラネタリウムの感想に相づちを打つのに精一杯で、味わう余裕もなかったのだ。

 なぜなら、この後には一番のイベントが控えている。

「ねえ、結衣ちゃん。展望台、行ってみない?」

 遙香は、唇の震えを抑えて告げた。昔のような明るい笑顔を作って、心臓が飛び出そうなほどの緊張をムリヤリ抑えつける。

「王道デートって感じだね。よし、行ってみっか!」

 二つ返事で快諾した結衣を連れて、展望台へ向かう。エレベーターの中には、遙香達以外はみな男女のカップル。同じようなデートプランを実行した彼らが、屋上で行うことは決まっている。

 秘めたる己の想いをげて、日の下に晒すこと。

 八年前のシリウスの光を浴びて、八年越しの恋を叶えなければならない。


 二十時過ぎ、屋上展望台。

 クリスマスを翌週に控えた日曜日とあって、展望台はカップル達の空間になっていた。誰もが夜景と隣に佇む人を見て、恋の温かな光に頬を染めている。

 その片隅で、遙香は窓ガラス越しの夜景を指さした。

「結衣ちゃん、見て」

「おー……」

 窓ガラスに張り付いて、結衣は夜の東京を一望した。晴れ渡った空には、下弦の月と、都市の灯りに負けない星が見えた。その星がシリウスかどうかは、遙香にはこの際どうでもよかった。オリオン座の一部でも、プレアデスでも、今日だけはシリウスになってもらおう。そう決めた。

「あれがシリウスかも」

 指さした方向を見て、結衣は唸った。

「八年かあ……」


 ――そう、八年間。八年もの間、私はあなたを想い続けていた。


「あの、ね。結衣ちゃん」

「ん?」

 結衣はシリウス――かもしれない星――から目を逸らし、遙香に目を遣った。

「私、ずっと言いたかったことがあって」

「なに?」

「聞いてほしいんだけど……」

「もったいつけんなって。あたしとハルの仲じゃん」

「そうだよね、あはは……」


 息を吸う。

 覚悟を決めた。


「私、結衣ちゃんのことが好き。八年前から」

 とうとう言った。言いたくても言えなかったこと。口に出すことが憚られて、悩んでいたこと。チャンスに恵まれず、八年間置き去りになっていたこと。

 遙香は、結衣の返事を待った。どうか、イエスであってほしいと願った。

「今さら何言ってんだよ、あたしも好きだよ」

 返事はイエスだった。だが、このは遙香の求めたものじゃない。

「いや、違うの! そういう意味じゃなくて……!」

「恋愛感情として、ってことだろ? 今回は

「え……?」


 ――結衣ちゃんは、何を言っているんだろう。


「今日一日、付き合ってくれてありがと。ハル」

 結衣は、遙香に向けて微笑んだ。その意味を測りかねた遙香は、何か言いかけた結衣の言葉を待った。

「でもな、結局。アイツのためになればと思って、ハルにもいろいろと協力してもらったんだが……うむ……」

「どういうこと……?」

 予想だにしなかった返答に、遙香は言葉を失った。

 結衣は確かにイエスと言った。それが恋愛感情としてのイエスだったことを理解していた。ノーじゃない。遙香達マイノリティを苦しめる、というお断りの常套句でもない。

 それに、アイツとは何者なのだろう――

 しばし考え込んだ結衣は、残念そうに苦笑していた。その顔を見ていられなかった遙香は、結衣に尋ねる。

「アイツって、誰……?」

「あたしの教え子。まあ正確には、あたしはそこまで立派なものじゃないんだけどね」

 謎が増えるばかりだった。

 困惑の表情を浮かべている遙香に気づいたのか、結衣は小さくため息をついて語り始めた。

「あんまり言いたくはないんだけど、大学を中退してね。根本的に教育学に向いてないってことが分かったから」

「え……?」

 遙香にとって初耳だった。以前会った時、「普通」に仕事をしていると言ったから、教育学部を出て教師にでもなったのかと思っていた。

「で、本当にやりたいことは何なのか考えた。あたしにとってそれは心理学だった。それも臨床心理学ってヤツな」

 臨床心理学。人間の抱えた心の問題を回復させたり予防したりすること。有資格者は病院だけでなく、企業やその他様々な施設でメンタルヘルスの向上に努める。

 概要をざっと説明して、結衣は続ける。

「昔からあたしは、人をぼんやり眺めてるのが好きだった。こいつは何考えてんのか、何に悩んでんのかって勝手に頭の中で妄想したりしてな。当人達にとっちゃひどい話かもしんないけど」

「それはなんとなく知ってたけど……」

 ようやく言えた言葉は、小さくなってかき消えた。

 八年間追いかけていた結衣のイメージが、どんどん崩れていく。

「まあとにかく、心理学を学べる大学に入り直した。で、今は大学院生。つっても、学生なんだか助手なんだか、よく分かんないことをやらされてるけどねー」

 携帯を携帯せず、私服のセンスも言葉遣いもひどい。それは変わらない。だけど、敷居の高いお店に物怖じせず、酒を飲み、葉巻を吸う。いつの間にか大学を辞めて、今は臨床心理学を学ぶ大学院生なのか助手なのか分からない存在。


 ――あなたは本当に、私が恋した瀬名結衣なの?


「じゃあ、教え子っていうのは大学の……?」

「いや、ちょっとしたツテがあってさ。今は臨時のカウンセラー。教え子ってのは、そこの人」

 話について行けない。

 結衣は昔から、ちゃんと説明をしてくれない。一番肝心なことを語らずに、周りのどうでもいいことばかり先に埋めていく。

 最後のピースが埋まらない。

「とにかく、助かった。今日は最初から最後まででいられたよ。これであたしも、あたしの言葉でアイツにアドバイスできる」

 恋人気分、という言葉が遙香の胸に突き刺さった。

 結衣にとっては、すべては気分だった。デートは雰囲気作りの一環だった。買い物もカフェもプラネタリウムもディナーも展望台での告白も、すべてはごっこ遊び。

「さて、帰るか! あたし越谷の実家だけど、ハルは?」

「……全部、ウソだったの?」

 遙香は俯いていた。どんな表情をしているか分からなかったから、顔を見られたくなかった。

「どうしたハル、何怒ってんだ?」

 結衣に背中を向けた。涙が零れ落ちてもいいように、ハンカチを取り出して目元を覆った。

「……別に」

「そっか。んじゃ、気をつけて帰ってな」

 結衣はそう言い置いて、下りのエレベーターで消えていった。

 

 覚悟を決めたのに、勝負を賭けたつもりだったのに。

 結衣は勝負すら挑ませてくれなかった。用意したデートプランも告白も、恋人気分を演出するためにやったんじゃない。ましてや、結衣が教え子にアドバイスするために心を砕いたワケでもない。


 遙香は、展望台フロアのトイレに駆け込んだ。個室の中に入った途端、目からは滂沱の涙が流れ落ちた。

 クリスマスまでは、あと一週間。


 ――私は、聖夜に笑うことができるのだろうか。

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