16日 土曜日

 十二月十六日、午前一時。

 飲んできたらしいハルの様子がおかしい。

 まず、すぐに酔ってしまうから深酒を控えているはずのハルが、ベロベロになるまで飲んで帰ってきた。おかしい。

 家に帰るなりトイレでぶちまけて、水を飲ませてあげたらまた吐いて。散々な飲み会だったはずなのに、ハルの顔はふにゃふにゃに笑っている。おかしい。

 ハルのスーツを脱がせてお風呂に放り込んだ。ハルはタバコを吸わないのに、スーツには鼻を刺すような匂いが染みついていた。おかしい。

「しおちゃーん、おゆがでないよ~ぅ」

 調子っぱずれの大声がお風呂場から聞こえてきて、あたしは風呂場の扉を開けて絶句した。

「ハル……」

 ハルは、風呂場の床にそのまま座って、足を投げ出していた。

 頭がおかしい。

「わーい、しおちゃんだー!」

 あたしはスマホでハルの痴態を撮っておいた。イタズラ心というよりは、素直に反省してほしかったから。

 あんなに裸を撮られることを恥ずかしがっていたハルが、上機嫌でピースまでしてくる。まるで大きな子どもだ。

「シャワーこわれちゃったかなあ~」

 ハルはシャワーノズルをまじまじと覗き込んで、ぶるんぶるんと振るっている。お湯を出そうとしているのかもしれない。

 あたしは無言で、蛇口をひねった。少しは頭を冷やした方がいい。

「つめたーい! あはははは……」

 それでも、ハルの酔いがさめることはなかった。結局あたしは二度目のお風呂に入って、ハルのメイクを落として体も髪も洗ってやって、タオルで拭いて下着を着せた。それでもハルはふにゃふにゃ笑っていた。余程いいことがあったのか、お酒を飲み過ぎて表情がバグっちゃったのかもしれない。

 髪も乾かさずにベッドに倒れたハルの抜け殻を片付けていると、なんだか腹が立ってくる。


 あたしを放置してでも、こんなになるまで飲みたい人が居るんだ。

 その人とあたし、どっちが大切なの。

「あほらし……」

 そんな風に考えてることがバカみたいで、あたしは下着だけつけたハルの隣に潜り込んだ。濃厚なハルの匂いに酒と煙草が絡みついて、あたしの鼻までバグってしまいそうだった。


 ***


 翌朝になっても、ハルの様子はおかしかった。


「おはよう、しおちゃん!」

「んあ……」

 低血圧のあたしをたたき起こしたハルは、もう出掛ける準備を終えていた。あたしが寝ぼけ眼を擦っていると、ハルはこう言う。

「今日はサロン行ってエステ行って買い物してくるから! 夕方には帰るから、しおちゃんお留守番お願いね!」

「んん……」

 昨日の夜からハルのは続いている。

 二度寝したあたしが昼前に起きると、テーブルの上にはコンビニで買ってきたサンドイッチが置かれていた。『朝ごはん』というメモ書き付き。

 洗面所へ向かうと洗濯機は仕事を終えていて、たまたま放置してしまった台所のシンクは、綺麗に片付けられていた。


 おかしい。おかしすぎる。

 がさつで面倒臭がりで、二日酔いに致命的に弱いハルが、こんなことをするはずがない。

「ハル、どうしちゃったの……?」

 メッセージを送ろう。スタンプで爆撃して、昨日何が起こったのか聞き出そう。そう思ったあたしの指は、メッセージの入力画面でぱたりを動きを止めてしまった。

 なにを聞けばいいのか分からなくて。どう言えばいいのか分からなくて。

 そして、どんな答えが返ってくるのか、怖くて。


 お昼ご飯になってしまったサンドイッチを食べて、あたしはベッドに潜り込んだ。ハルの匂いがする枕を抱きしめて、布団の中で息をひそめる。

 ハルは遠くへ行ったりしない。ハルはあたしを置いて行ったりしない。

 イヤな想像をかき消したくて必死になる。

 あたしの意識は、まどろみの中に堕ちていった。


 ***


「たっだいまー」

 ハルは、うららかなな春風みたいな陽気さをまとって帰ってきた。玄関で靴を脱ぐハルを待ち受けて、あたしは居住まいを正す。

 リビングの扉が開くと同時に、あたしは練習した通りに言い放った。


「お帰りなさいませ、ご主人様」

 優姫さんにもらった甘すぎるメイド服を着て、あたしはハルを出迎えた。こんなことをする理由はひとつ。

 ハルが欲しいから。

「やっぱりしおちゃん、それ似合ってる~!」

 ハルは笑顔であたしを褒めた。でも、それだけ。

 この間みたいに、勢い余ってあたしを押し倒すようなことはない。

「お荷物、お預かりします」

「ふふ、ありがと。メイドさん」

 ハルの髪型が変わっていた。長いストレートの黒髪には緩やかにパーマが当たっている。メイクも出掛けた時とは違った、これまで一度も見たことのない顔。エステに行ったからなのか、顔もほんの少しスッキリしていて、美人度が増している。

「これどう? ちょっと短くして、パーマしてみたの」

 ハルはそう言って、肩口あたりでふわりと膨らんだ黒髪を揺らした。パーマ液の刺激的な匂いが、ハルの匂いを塗りつぶしていた。

 なんだかイヤだ。心の中が腐っていく。

「前の方がよかったんじゃない?」

 腐った心は、素直にハルを褒めることもできない。あたしはなんとかハルを、元のハルに戻したくて無茶を言う。

「ハルはまっすぐな髪の方がよかった。メイクだって前の方がかわいかったよ」

「そっかな~?」

 あたしの心配をよそに、ハルは姿見の前でくるりと回る。パーマ液の匂いに混じって、鼻の奥をくすぐるような甘ったるい香りがする。ハルの匂いじゃない。

「なにこの匂い」

「アロマじゃないかな。オイルマッサージだったし」

 ハルが鞄から取り出したパンフレットに、エステの内容が書かれていた。痩身・ボディメイク。『エッセンシャルオイル配合のオイルマッサージで、身も心もほぐしましょう』なんて書かれている。

 複数ある使用オイルの項目の中で、『イランイラン』という名前のオイルが目を引いた。効用は催淫、ムードを作る、恋愛力向上。

「お風呂で落としてきたら?」

「パーマかけたところだし、お風呂は明日の朝かな?」

「……いいから落として。その匂い、嫌い」

 こんなのハルじゃない。あたしの好きなハルじゃない。

 あたしの好きなハルは、いつでもあたしを蕩けさせる匂いをまとっている。パーマ液やアロマオイル、お酒や煙草の匂いじゃない。

「せっかくのオイルなんだよ? 肌にもいいし」

「いいから、洗って。そんなにオイルマッサージが好きなら、あたしがやってあげるから――」

 だから、あたしのハルを返して。

 他の人の匂いなんて付けないで、あたしだけが味わえる匂いで居て。

 そうじゃないとあたしは、に心を毒されてしまいそうだから。

「この匂い、そんなに嫌い?」

 あたしは無言でハルをにらみつけた。

「しょうがないなあ……」

 ハルは背中を丸めてお風呂場へ向かった。

 着ていったコートも、持っていた鞄も、足跡のように続く残り香も気に入らなくて、あたしはスプレータイプの消臭剤を撒き散らした。

 何度も何度も、いらない匂いが消えるように。ハルの匂いまで消えてしまうけれど、今すぐ消してしまいたくて。


 そうしているうちに、匂いは消えた。

 でも、あたしの中に芽生えた不信の残り香だけは、何度スプレーしても消すことはできなかった。

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