15日 金曜日
結衣に送ったメッセージは、滅多なことで既読にならない。基本的には、何を送っても梨の礫だ。
12月6日 『結衣ちゃん元気?』
12月9日 『クリスマスのことなんだけど』
12月14日 『おーい』
結衣は昔から携帯を携帯しない人間だった。遊ぶ約束のメールを送っても、返事が返ってくるのは一週間後。すっぽかされたことも一度や二度じゃない。時代が携帯からスマホ、メールからメッセージのチャット形式に移り変わっても、そもそも携帯しない人間には、伝えたところで意味がない。結衣の予定を確定させるには結衣と会う以外に方法はなくて、八年間疎遠だったのは、そもそも結衣を捕まえることができなかったからだ。
忙しいのだろう、と遙香は思った。
時期は年末。来週には年内の仕事に目処を付けて、再来週は仕事納めが待っている。去っていく2017年を送り出し、2018年を笑って迎えるためには、今が最後の勝負時だ。
だけど、遙香は思う。
結衣は一体、なんの仕事をしているのだろう。
その時、スマホが震えた。デスクのキーボードから手を離し、スマホの通知を確認した。届いたのは、一番捕まえたい人――結衣からのメッセージだった。
『新宿三丁目に十九時。飲もう』
遙香はすぐに『行く!』と返事し、詩織に『遅くなる』とメッセージを打ち込んだ。
結衣の既読はつかない。代わりに返事をよこしたのは、詩織だった。
『残業?』
『飲み会。友達と』
メッセージを打った後で、別に「友達と」だなんて付け加える必要はなかったことに気づく。時期が時期だから、忘年会だとか適当にウソを並べればいいだけなのに。
『本当に友達?』
『ただの友達だって』
『ご飯は?』
『いらない』
既読がついた瞬間、スタンプの嵐が訪れる。泣き顔のスタンプが連続で送られてきて、しばらくするとピタリと止んだ。並んだスタンプの列を見て、心の中で詩織に侘びる。
――どうしても、結衣と一緒になりたい。だから、ごめんなさい。
スマホをデスクに置いたところで、背後からの視線に気づいた。神崎が見ていた。
「詩織ちゃん、フラれちゃったスね~」
ヘラヘラ笑う神崎に言葉を無くした遙香は、再び雑務と向き合った。集合時刻まであと三時間しかない。残業しないで済むように、遙香は神崎への教育的指導を無視して、タイピングのスピードを上げた。
「ごめん、遅刻しちゃった!」
「あー、別にいいって。あたしが急に誘ったんだし」
十九時を少し過ぎた頃、遙香は結衣と合流した。結衣の格好はラフな私服。温かさ重視のリブニットと長いスカートは、結衣らしいと言えばらしいが、あまりに地味だ。
「結衣ちゃん、服のセンス全然変わってないよね」
「服なんて着れたらいいんだよ」
なんて、私服のセンスを指摘されたときの反応も変わらない。
結衣は八年前そのままの姿だ。学生服に袖を通せば、女子高生でも通用するかもしれない。
結衣に連れられて、新宿三丁目の歓楽街を歩いた。師走の金曜日ともあって、どこの居酒屋も満員御礼。何件か門前払いを繰り返されていると、まるで結衣との逢瀬を断られているようで、遙香は複雑な気分になる。
途方に暮れていたところで、結衣はボサボサの頭を掻きながらつぶやいた。
「しょうがない、あの店にするか……」
「あの店?」
「ハル、タバコ吸えるトコでも平気?」
「え、うん……。結衣ちゃんは吸うの……?」
結衣は「へへ」と学生時代によく見たイタズラっぽい笑顔を見せた。笑顔はそのままだったけれど、結衣は当時と違ってタバコを吸う。それが意外だった。
新宿三丁目の大通りに面したビルの二階に、その店はある。
バー・ロビンソン。重厚で高級そうなアンティーク調の扉を開けると、バーデンダーのテーラードを着こなす男性マスターが迎えてくれた。店構えと出迎えに面食らった遙香は、思わずフォーマルスーツの襟を正した。ドレスコードがあるかもしれない。
「二人なんですけど、奥空いてます?」
結衣はこの店の常連なのだろう。マスターと親しげに二言三言話すと、二十代の女性には敷居の高そうな店でも構うことなく、店内に吸い込まれていった。遙香は恐る恐る、結衣の後を追う。
店内は、客とマスターの顔が分かる程度の、ぼんやりした灯りで照らされていた。そして、タバコのなんとも言えない匂いが鼻を突き刺す。カウンターはオシャレな男性客で埋まっていて、その奥に3人程度が掛けられるソファがある。結衣の言っていた奥だ。
遙香と結衣は奥まった小部屋のソファに、腰を落ち着けた。遙香の気持ちはまるで落ち着かなかった。
「結衣ちゃん、ここ……」
「大丈夫だって。見た目ほど高い店じゃないから」
注文を聞きに来た女性のバーテンダーに、結衣は「ラフロイグをストレート」と告げた。お酒は好きだが冒険しない遙香には、呪文のように感じられた。
「ハルはどうする?」
「えっ!? 私お酒弱いから、メニューは……」
女性バーテンダーは「メニューはありません」と苦笑しながら言った。こういうお店にメニューはないよと結衣は笑って、「シャーリーテンプル」を注文する。そして――
「シガーもお願いします。ロメオで」
しばらくすると、バーデンダーが木箱に入った大量の葉巻を持ってきた。結衣が適当に選んだ葉巻に何やらいろいろと細工をして、火をつける。先ほどから結衣の注文は呪文で、葉巻の細工は儀式。店の雰囲気も相まって、魔法の世界の出来事のように感じられた。
すべてが遙香の想像を超えていた。メニューのないバー。高級そうなアンティークの内装。白いテーラードカラーのジャケットをきっちり着こなした二人のバーテン。ハイソサイエティであることをうかがわせる客層。そして何より、タバコを吸わなかった結衣が、タバコを注文したこと。
遙香が呆然としていると、結衣が隣で葉巻を燻らせながら笑った。
「ハルはこういうお店初めて?」
「あ、当たり前だよ。ていうか結衣ちゃん、タバコ……」
「あたしが吸うのは葉巻だけ。ちょっと吸ってみる?」
差し出された葉巻の吸い口は、V字にカットされていた。遙香はタバコを吸わないが、結衣の誘いとあれば話は別だ。
葉巻をおずおずと受け取り、結衣が口づけていたところに唇を合わせた。
間接キス。
「こう?」
「そ。で、吸うの。乳首を吸うみたいに」
むせた。葉巻の煙ではなく、結衣の変態親父みたいな下ネタに。
「あはははは、むせてやんの」
「結衣ちゃんが変なこと言うから……ッ!」
「とにかく、吸ってみな。で、吸った煙を口の中で溜める」
結衣に言われた通り、遙香は葉巻を吸った。乳首を吸う、という言葉で浮かんでしまった詩織の顔をなんとかかき消して、口腔内に煙を溜める。苦いような辛いような、それでいて甘い、不思議な感覚。
「あとはゆっくり吐き出す。自分の周りに煙をまとわせるように」
葉巻の煙は、紙巻きのタバコと違って肺に入れるものじゃない。燻らせて味を確かめ、吐き出して香りを愉しむもの。結衣の解説を聞きながら、口からもくもくと煙を吐き出す。甘い香りが煙たくて、目に染みた。
「どう?」
「どうもこうもないよ……」
「ま、ハルには難しかったかもね」
結衣は葉巻を受け取り、ゆっくりと吸って、吐いた。淡い靄が結衣の周りを包んで、甘い匂いが充満した。
「ここ、前の職場の上司に連れてきてもらってさ。それ以来お気に入り」
「そうなんだ……」
結衣は変わらないと思っていた。携帯を携帯しないのも連絡を読まないのも、私服のセンスも遙香をハルと呼ぶことも。だからこの間、同窓会で八年ぶりに再会したとき、卒業式で抱き合って以来なにひとつ変わらないその姿に、遙香は恋をし直したのだ。
だが、八年の歳月は結衣を大きく変えていた。遙香の知る限り、結衣はタバコは吸わないし、お酒も飲まない。当時は高校生だから当然とはいえ、このような店に通うようになっているとは思わなかった。
「なんかゴメン、ワガママ言ってさ」
結衣は遙香の気持ちを悟ったのか、申し訳なさそうに告げた。
「ううん、意外だなって思っただけだから」
「ま、高校以来だからねえ。大人になったらお酒も飲むし、葉巻も吸うさ」
「うん……」
結衣はもう、遙香の知っている結衣ではないのかもしれない。
八年間の歳月が、結衣をはるか遠くへ追いやってしまったのだろうか。
切り込みの入った高級そうなグラスで、二人分のお酒が運ばれてきた。結衣の小さなワイングラス――コニャックグラスと言うらしい――には、琥珀色のお酒が少量。その隣には、水の入ったグラス。遙香はオレンジ色のカクテル。店の雰囲気に合わせて、小さな声で乾杯して、二人は飲み物を口に運んだ。葉巻とは違って、甘かった。
「ちょっと頼まれてほしいことがあってさ」
結衣が吐く葉巻の煙を所在なく見つめていると、結衣が肩越しに話しかけてきた。
「なに?」
「あのさ、言いにくいんだけど……」
結衣は葉巻を灰皿に置いて、遙香の耳元に口を近づける。甘ったるい煙の匂いに混じって、結衣の声が聞こえてきた。
「……あたしにキスしてくんない?」
「はあッ!?」
遙香の顔は瞬時に紅潮した。暗い照明の中では、結衣の顔色を窺うことはできない。逆に顔色を窺われないで済むのは好都合だったけれど。
「ど、どうして!?」
「いいじゃん、昔やったキスゲームの延長戦。覚えてない?」
「お、覚えてるけど……」
忘れもしない。あの遊びのキスのおかげで、遙香は結衣を八年間追い続けた。あの遊びのキスのせいで、女しか好きになれない自分に気づかされたのだ。
「でもここ……」
「誰もあたし達のことなんて見てないよ。だから、なるべく情熱的に頼むね」
そう言って、結衣は瞼を閉じた。唇を少しだけとがらせた結衣の顔を見て、遙香の胸は高鳴った。注文したシャーリーテンプルのせいではない。このカクテルは、ソフトドリンク。遙香を酔わせるアルコールは一滴も入っていない。
この高鳴りは、結衣が居るから。そして、結衣にキスを迫られたから。
もしかしたら、と遙香は思う。
――結衣は、私のことが好きなのかもしれない。
八年間想い続けていたのは自分だけじゃなく、結衣もそうだったのかもしれない。
もしそうだったとしたら、私がやるべきことはひとつ。結衣の望みに答えること。
そして、結衣との望みを叶えること。
遙香は、グラスの中身を口に含んで、バレないように唇を、そして舌を濯いだ。饗された塩味のカシューナッツも、苦い葉巻の煙も、すべてを甘いシャーリーテンプルで覆い隠して、最高のキスができるように。
そして――
「……するよ」
「早くして。恥ずかしいから」
客は皆、カウンターを向いていた。二人のバーテンダーも姿は見えなかった。物陰に入るように、キスがバレないように体を反らせて、遙香は結衣に口づけた。
八年前のゲームとは違う、情熱的なキス。
唇を触れ合わせ、啄ませる。遙香の唇の動きをなぞるように、結衣も動きを合わせる。そのまま、しばらく。比翼連理のつがいのように、噛み合わせのよい歯車を動かすように、互いに求め合った。
情熱的なキスをして。その言葉を信じて、遙香は舌を侵入させる。結衣の体はわずかに震えたが、遙香を拒絶はしなかった。受け入れてくれたことを確信して、ゆっくりと舌を沿わせる。詩織を相手に毎晩しているように、強い欲望を込めて。結衣を感じたくて、八年間追い求めた結衣とのキスを味わいたくて。音を立てないように優しく、葉巻の苦い味と、ウイスキーの向こうに潜む結衣を舌で探した。
長いキスだった。八年間を埋める、濃厚なキスだった。
名残惜しさを感じながらも、遙香は唇を離して結衣を見た。結衣は固く閉ざした瞼をゆっくりと開き、短い息を吐いてソファの背もたれに体を預けた。情熱的という注文があったとは言え、ついやり過ぎてしまったかもしれない。
「……どう?」
遙香は尋ねる。結衣がどんな反応をするのか、怖かった。
「うん、八年前より上手いな……」
「え、えっと……」
下手なキスをしておいた方がよかったのかもしれない。経験豊富な女だと思われるのは、マイナスだったかもしれない。
言葉に窮した遙香に、結衣は笑った。
「ハル、明後日の日曜日空いてる?」
「あ、空いてるけど……」
手帳を確認するまでもない。日曜日に仕事はないから。
「じゃ、あたしとデートしてくんない? 二人きりで、恋人っぽく」
「それはどういう意味……?」
「そのままの意味だよ」
結衣はグラスの水を飲んで、葉巻を吸って煙を吐く作業に戻った。遙香はその様子をただ眺めながら、結衣の発言を反芻する。
「キスして」と結衣は言った。「デートして」と結衣は言った。どういう意味か問うたら「そのままの意味」だと言葉を返した。
導き出せる答えは、ひとつしかない。
遙香は、シャーリーテンプルを飲み干して、バーテンダーを呼んだ。
「すみません、甘いお酒ありますか?」
「お、飲むの? じゃああたしも二杯目いこっかな」
お酒が飲みたい気分だった。今なら気持ちよく酔える気がした。
今日くらいは勝利の美酒に酔ってもいいだろう。そんな風に思えた。
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