13日 水曜日
十二月十三日、水曜日。午後二時過ぎ。
水商売の営業のため、東海道線で川崎へ向かっていた遙香のスマホに、詩織からメッセージが届いた。
『家に入れない』
『どうして?』
『鍵ないから』
詩織のメッセージにハッとして、遙香は膝の上に乗せていた鞄の中を漁った。鞄の内ポケットの中に、一つしかない自宅の鍵が入っている。今朝は詩織と家を出る時間が一緒だったから、ついいつものクセで戸締まりをして、鞄の中に入れてしまったのだ。
『ごめん、私が持ってた』
『だよねー』
『ホントごめん』
ごめんなさい、と書かれたスタンプを送りながら、いつの間にか、詩織を家に上げることが当然になってしまっていることに頭を抱えた。あれだけ一線を引いていたのに、フタを開けてみればこの様だ。自分の意志の弱さに辟易する。
『今日は仕事遅い?』
遙香は手帳を確認して、今日の業務予定を思い出した。木下先生のツテで川崎の学校へ売り込みをした後、オフィスへ帰って雑務の処理が待っている。どんなに急いでも、職場を出られるのは定時後。残業確定コースだ。
『いま川崎。定時頃に会社に戻るから』
『終わるの二十時くらいかも』
『じゃ、待ってる』
メッセージを往復し終えたところで、遙香は視線を感じた。隣の座席に座っている女性が、スマホを覗き込んでいた。
「それ誰スか? 詩織って」
名前まで見られてしまったのが運の尽き。説明せざるを得なくなった。
隣に座っている彼女は、遙香の後輩の神崎まどか。先月配属されたばかりの高卒新人で、営業のイロハを学ばせるため、部内の諸先輩方がお守りを担当している。今回は遙香にそのお鉢が回ってきたのだが、部内での評判はすこぶる悪い。
遙香は無理矢理笑顔を作って、ごまかすべきか考える。普通に友達として紹介しようか、でも鍵がないという一連の流れを読まれていたら、面倒なことになるかもしれない。
考えた末に、遙香は詩織のことをそれ以上深掘りされないように話す。
「従姉妹なの。ちょっといろいろあってうちで預かっててね」
「いろいろってなんスか?」
――ああ、こいつは。
彼女の評判がすこぶる悪い理由が、遙香にはなんとなく分かった。そして同時に、苦手なタイプだと直感した。
「家庭環境が複雑でね」
「マジすか、なんかあったんスか詩織ちゃん? DVとか? ネグレクトとか?」
神崎は、詩織の事情にずけずけ踏み込んできた。やんわり注意した方がいいかとも思うが、ヘタに怒ってパワハラだと訴えられたくもない。
実際、神崎は既にやらかしている。客先での態度を課長に注意された腹いせに「課長からパワハラを受けた」と全社メールで一斉送信したのだ。神崎本人の言い分を聞くと課長が絶対悪のように聞こえるが、遙香を含めた社員達は皆同じことを思っているだろう。
百パーセントお前が悪い、と。
「まあ、いろいろね」
面倒ごとに巻き込まれたくなかったので、曖昧にごまかした。
「あー、人生いろいろって言いますしねー」
どの立場からこんな発言が出てくるのだろう。詩織のことを何も知らないくせに、と怒鳴りたい気持ちを、笑顔で塗りつぶして無理矢理お腹の中に呑み込んだ。罵詈雑言を呑み込むと胃がキリキリと痛んだ。
「……以上が当社の製品の特徴になります。本日は実機を持ってこられなかったので実際にお手を触れていただくことができないのですが、何卒ご検討戴ければ幸いです」
川崎の学校で、蓮華ヶ丘でしたのと同じように職員を集めて簡単な説明をした。学校への水商売も三回目ともなれば勝手が分かってくる。熱心なお客さんを相手にするのは大変だが、やりがいもあって、契約を勝ち取った時の喜びはひとしおだ。
「すみません、団体で申し込んだら安くなったりしませんか?」
四十代くらいの女性教員が冗談めかして質問してきた。もちろん、その点は抜かりない。十名以上のグループであれば、5%ほどディスカウントできるキャンペーンがある。
「その点は――」
「あーしの方から説明します!」
説明しようとした遙香に、神崎が割り込んできた。アイコンタクトを送られた遙香は一瞬考えたが、これも経験かもしれないと説明を任せることにする。
「なんと、十人以上が申し込めば5%オフ! ケチな貧乏人でも大助かりです!」
ケチな貧乏人。
和やかだった教室の空気が一気に冷えた。遙香の目の前で二十名近くの笑顔が一瞬で消え失せて、神崎だけが楽しげに笑っている。
沈黙を引き裂いたのは、五十代くらいの男性教師だった。おそらく、教頭先生だろう。憮然とした態度で、聞き返してきた。
「あなた方は、我々をケチな貧乏人だと思っているということですか?」
「え? 安くなったらいいじゃないですか。お買い得ですよ?」
遙香の額を冷や汗がたらりと落ちた。神崎から説明を引き取り、必死に頭を下げる。
「申し訳ございません、こちらの説明に不備があったことをお詫びします!」
「不備なんかないスよ! あっちが難癖付けてきたんスから」
「難癖だと!?」
教員は、資料を叩きつけて教室を出て行った。それに続くように、他の教職員達も教室を後にする。この日のために作ってきた黒板に貼るポスターも、自社の水を入れた試飲用のペットボトルも、すべてが無駄になった。
「……お帰りはあちらです」
木下先生の大学時代の友人に案内され、遙香らは逃げるように学校を立ち去った。契約など取れるはずもない。紹介してくれた木下先生に、そしてその友人の顔に泥を塗ることになってしまった。
帰りの東海道線に乗るのは気が重かった。オフィスから担いできた4リットルのペットボトルをトイレに流して身軽になっても、全身のだるさは抜けない。
「あんなのモンスタークレーマーになるに決まってるスよ! 契約できなくてよかったっスよね」
遙香の隣で、神崎はそんな風に息巻いた。
ストレスが溜まる。こんな時は詩織に癒やされたい、癒やしてほしい。
「神崎さん」
「まどかでいいっス! 自分、名字で呼ばれるの嫌いなんで」
彼女は高卒だから19歳。詩織とは1歳しか違わない。なのに、神崎の精神年齢は詩織以下どころか、中学生レベルにさえ思えた。
「……神崎さん」
神崎の言っていることを敢えて無視して、遙香は言葉を選びながら告げる。
「お客様にあんな態度取っちゃダメだよ。自分がお客だとして、あんな説明されたらどう思う?」
神崎は考えているアピールのために「う~ん」と唸った。どうせ何も考えていないと遙香は思う。
「自分、そもそも水道水でいい人じゃないスか? わざわざお金払って水なんて買わないっていうか」
唖然とした。そんなことを聞いているんじゃない。
「あなたが契約するかどうかは別。お客様の立場に立って考えてみよう?」
「つーか自分、新人スし。客の気持ち分かってたら自分で営業行ってますって」
遙香は言葉を呑み込んだ。遙香の胃は呑み込んだ怒りや呆れで荒れ果てていた。それでも遙香はなんとか平静を装う。相手のレベルに合わせて感情を露わにすれば、こちらの負けだ。
「まあ、私もそういうミスはあったから。これから頑張ろうね」
「いや、自分ミスだとか思ってないスから。ぶっちゃけあーし、営業の才能あると思ってるんで!」
胃痛に加えて、頭まで痛くなってきた。
これから会社に戻って、今日の成果がゼロ件であることを報告しなければならない。粗相があったことを正直に話すべきか、それとも全ての責任を神崎になすりつけるべきか。
そんなことを考えている間に、山手線は池袋に到着していた。
すべての責任を被ろう。中学生レベルではなく社会人レベルとして、自分の指導が足りなかった点を反省するしかない。
池袋の駅ナカを歩いていると、合鍵を扱っている店を見つけた。思い出すのは詩織のこと。
待ってる、のメッセージ以来、詩織からの連絡はない。ひばりヶ丘近くの喫茶店にでも入って、勉強をしているのだろう。
「神崎さん、先に行ってて」
「ラジャっス!」
神崎を会社に戻らせて、遙香は店に立ち寄った。最短一分程度で合鍵を作れる上に、それほど高いものでもない。
これは、受験勉強に挑む詩織を助けるためにやること。詩織との同棲を認める訳じゃない。あくまでも受験のため。他意はない。そう強く念じてから、自宅の鍵を差し出した。
二つに増えた鍵を持って、店を出る。池袋東口から出て大通りを進んだところにオフィスがある。
「うげ」
目の前には、先に行かせたはずの神崎の姿があった。
「自分ひとりで帰ったら、説明すんの面倒じゃないっスか」
神崎はそう言いながら遙香に笑いかけた。悪気のない笑みだとは思う、信じたい。信じたいが、胃の中に呑み込んだはずの感情がふつふつと湧き上がってくる。
「ああ、そう。じゃ行こうか」
かなり投げやりで棘のある言葉になってしまった。平静を装いたいのに、装えない。これじゃ中学生レベルと同じだ、なんて猛省する。だけど――
「ん~! 今日も働いたっスね!」
なんて、当の本人は気楽なものだった。
その時だった。
「ハル!」
声がして呼び止められた。振り向く間もなく、何かが遙香の腰に抱きついていた。詩織だ。
「しおちゃん!? どうして……」
「待ってた。電車で移動してるなら、絶対ここを通ると思って」
詩織は遙香から距離を置いて、右手を差し出した。「鍵をよこせ」ということだと察した遙香は、鞄から新しく作った鍵を取り出す。
「なくさないでね」
作ったばかりの合鍵は、キーホルダーもなにも付けられていない、なんの可愛げもないただの鍵だった。だけど詩織は、鍵の意味を理解したのか大切そうに握りしめる。
「なくすワケないよ」
詩織はイタズラっぽく笑った。遙香にはその笑顔が、最高の癒やしに思えた。
「あ、もしかして例の詩織ちゃんスか?」
親しげに話しかける神崎に、詩織は一歩距離を置いた。詩織は勘がいい。関わらない方がいい人間を瞬時に嗅ぎ分ける嗅覚が備わっている気がする。
「遙香さん、こちらの方は?」
そして瞬時に居住まいを正して、詩織は猫を被った。よそ行きの声とよそ行きの顔で。いい子の仮面だ。
「職場の後輩の神崎さん」
「神崎まどかッス。家庭のこととか大変ッスよね、頑張ってくださいッス!」
「はあ……?」
詩織の疑るような鋭い眼光が遙香に向けられた。遙香はぶんぶんと首を横に振る。
「つか、ふたりとも美人っスね。従姉妹って割には全然似てないっスけど」
神崎は水を得た魚のように、遙香にとって痛いところを突きまくった。
遙香はようやく気づく。彼女の評判がすこぶる悪い理由は、思ったことをそのまま言ってしまうからだ。人の出方を見ながらトークを組み立て、時にはオブラートに包む必要のある営業には、致命的に向いていない。人事部は何をやっているのだろう。
遙香が閉口していると、優等生らしい笑顔で詩織が答えた。
「よく言われます」
「分かるー!」
遙香の作り笑いは今にも剥がれそうなのに、詩織は上手く神崎を受け流していた。こういう時の処世術だけなら、詩織は三人の中で最も大人かもしれない。
「つーかパイセンん
もう何も答えたくなかった。下手に答えると面倒が起きることは目に見えていたので聞こえないフリをしたけれど、詩織は告げる。
「二人くらいは大丈夫ですよ、ちゃんと掃除しておけば」
詩織の顔は笑っているが、皮肉で攻撃するあたり内心ではかなり怒っているのだろう。そんなことなど知るよしもなく、神崎は感心したふうに「マ?」と聞き返した。学生気分がまるで抜けていない。
「でも寝るときとかどうしてんスか? 同じベッドで寝てるとかじゃないッスよね?」
「ええ、もちろん」
詩織はとっさにウソをついた。遙香達の嗜好に理解があるかどうか分からない人相手には、なるべく普通の人を装う。
「ですよね! 女同士で寝るとか、ナシよりのナシ。キモいッスよねー!」
遙香の耳は、神崎の言葉を逃さなかった。
ここまで耐えてきた詩織の眉間にも、さすがに皺が寄っていた。詩織の思考はいい子の仮面の裏側を読み取るまでもなく分かる。
――こいつはあたし達の敵。
詩織はすぐさま、笑顔を貼り付けて答える。
「ふふ、そういう人も居ますね」
「これで話は終わり」とばかりに詩織は神崎に礼をして、マフラーを巻き直した。バニラの香りが、どこか刺々しかった。
「じゃあ遙香さん、先に帰るね。お仕事頑張って」
「うん、気をつけてね」
池袋東口に吸い込まれていく詩織を見送ると、神崎がイライラするくらい楽しげに笑った。
「詩織ちゃん、礼儀正しくていい子っスねー! 妹にしたいッス!」
「そうね」
お前にだけは渡さない。
軽々しく詩織ちゃんなんて呼ぶな。
私達をそっとしておいてくれ。
……そんな思いまで呑み込んで満腹になった腹を抱えながら、オフィスへ戻った。鞄の中で震えるスマホを神崎に見つからないように覗き込むと、詩織のメッセージが大量に撃ち込まれていた。
『ハル』
『あいつ何』
『何であんなのが後輩なの』
『ムカつく』
『無理』
『最悪』
『キモいって言った』
『死ね』
機関銃みたいな罵詈雑言のオンパレードを見て、遙香は一言だけ返した。
『わかる』
だけどこれが、世間の価値観。理解のないマジョリティは、いつだって数の暴力でマイノリティを蹂躙する。
イヤだと思うのは勝手だし、気持ち悪いと思うこと自体は構わない。だけどそれを口に出して、価値観を押しつけるようなことだけはしないでほしい。
オフィスに戻り、課長に営業結果を報告した。だが、残業なしの神崎が帰った後、遙香は課長に報告をし直した。営業先での一部始終を話し、「お客様を怒らせたのは、神崎の態度にある」と報告すると、少しは気も晴れた。
課長は遙香の努力を認めて、災難だなと労ってくれた。だけど、あんな新人を庇いたくないと思ってしまった自分の未熟さに、遙香の良心は少しだけ痛んだ。
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