12日 火曜日
火曜日。期末考査二日目が終わった。数学は別の意味で終わった。
後ろの座席から前へ、答案用紙が裏向きに回収されていく。あたしは後ろの日比谷さんから答案用紙を受け取り、自分のを重ねて教卓に置いた。
あれから日比谷さんとは喋っていない。せいぜい「おはよう」と挨拶をしたくらいで、あたしも日比谷さんも、あのことについて触れることはなかった。
『私、村瀬さんのことが……好き……』
一昨日、日比谷さんはあたしに電話で告白してきた。途中でハルがお風呂から出てきたから、返事は伝えていない。
『あたしには好きな人が居るから、日比谷さんの気持ちには応えられない』と言うのは簡単だけど、口にするのは意外と重い。少なくともいい子の仮面を被ってるうちは、言い出すことすら難しい。
かといって言わないままずっと保留にしていると、モヤモヤした気持ちが自分の中で育っていく。ハルとの何気ないひとときの中で、笑えなくなってしまうのはイヤだ。
試験の日は、午前中で授業が終わる。帰り支度を整えて教室を出て行く生徒達をぼんやり見送っていると、ふいに背中を指で突かれた。日比谷さんだ。
「村瀬さん。このあと、ちょっといいかな……」
日比谷さんは、眼鏡を外してささやいた。日比谷さんは、授業中や試験のときだけ眼鏡を掛けている。話題は試験勉強に関することじゃないらしい。だとしたら、ひとつ。
「いいよ」
今のあたしには、返事をするだけで精一杯だった。
荷物をまとめて、あたしは日比谷さんの後ろについて行く。職員室で鍵を受け取った日比谷さんは、図書館の隣にある図書準備室にあたしを連れて行った。
「ここ、文芸部の活動場所なの。来年には廃部になるんだけどね」
「へえ」
日比谷さんが文芸部だったことも、この学校に文芸部があったこともあたしは知らなかった。あたしは日比谷さんのことをなにも知らない。クラスのサルどものことも、知ろうとさえ思わない。興味がないのだ、ハル以外の他人に。
カビとホコリの匂いがする図書準備室のパイプ椅子に座って、あたしは日比谷さんが口を開くのを待った。
「私が村瀬さんのことが気になり始めたのは、二年生の頃なの」
あたしと日比谷さんは、三年間同じクラスだった。だから、
「二年生の春ごろだったかな。村瀬さんが突然、私に話しかけてきてくれた。覚えてないよね、さすがに」
「ごめん、ちょっと覚えてないかも」
「あの時、村瀬さんはこう言ったの。眼鏡も似合ってる、って」
去年の春の日。たまたまコンタクトを落としてしまった日比谷さんは、眼鏡を掛けて授業を受けざるを得なかった。その時、日比谷さんの眼鏡に気づいたあたしが、そんなことを言ったらしい。
「私、眼鏡を掛けた自分がイヤで。でもコンタクトを入れるのも怖くて、コンプレックスだったから、眼鏡も似合ってるって言われて嬉しかったの。きっかけは、その時だったのかなって、私は思う」
「あたしを好きになったってこと?」
日比谷さんは顔を伏せたまま、頷いた。
恋のきっかけは人それぞれ。みんながあたしみたいなドラマティックな体験をするワケじゃなくて、普通は平凡なもの。あたしの何気ない一言で恋をしてしまった日比谷さんみたいに。くだらない遊びで目覚めてしまったハルみたいに。
恋のきっかけは、何気ない日常に転がっている。
「その時は、特に気にならなかったんだけど、気がついたら頭の中は村瀬さんのことばかりで。村瀬さんを目で追ってて、何気ない挨拶が嬉しくて……」
声が小さくなっていくのを、あたしはただ聞いていた。
「おかしいことは分かってた。勉強のやり過ぎでおかしくなったのかもって思った。だけど、変わらなかった」
日比谷さんは両手を握っていた。拳は見て分かるくらいに震えていた。
「女なのに、女の子を好きになるなんて、私は壊れちゃってるんだって思った。この性格を直そうと思って、男の人と……したけど、だめだった」
「男の人って……」
「……援交サイトで知り合った人」
意外だった。
日比谷さんは、真面目星の真面目星人なんかじゃなかった。あたしと同じ、援交少女。それも、未遂に終わったあたしとは違う。
ホ別ゴ有、池袋西口@苺。
日比谷さんは、たったの一万五千円で春を売っていた。
「痛いだけだった、気持ち悪いだけだった。何度か試してみたけど無理だった……」
何も言えなかった。
日比谷さんは、あたしが想像できない以上に悩んでいたことが分かったから。
あたしも、ハルと交際を始めた頃は悩んだりした。女なのに女の子が好きなのはおかしいって、男の子が好きなんだと思い込んでみたりもした。だけど、できなかった。ハル以上の人はどこにも居なかったから。
悩んで、悩み抜いてさんざん泣いたし、何度も何度も自分を責めた。男を好きになれない自分は人間として欠陥品なんだ、って思い込んだ。
「ごめん、分からないよね、こんなこと……」
「分かるよ」
あたしの言葉に、日比谷さんは顔を上げた。瞳には涙が溜まっていて、今にも溢れ出しそうだった。
「前も言ったでしょ。好きな人がたまたま女の子だっただけ。日比谷さんは変じゃないよ」
「優しいね、村瀬さん……」
日比谷さんは再び顔を伏せた。堪えきれなくなった涙が、ぽたり、ぽたりとネイビーグレイのスカートに模様を作っていく。
日比谷さんは、あたしと同じだ。女なのに女が好きだし、順序は違うけど援交も経験している。まるであたしの生き写しだった。
事実を話してあげたら。「本当はあたしも援交で知り合った女の人が好きなの」と答えてあげたら、日比谷さんは救われるのだろうか。だけど、ハルのことは口外できない。たとえ同じ悩みを抱えた生き写しの存在だろうと、他人のことは信用できないから。
あたしはハルと一緒に居たいから、秘密を守ってハルを守る。
つまりあたしには、日比谷さんを救えない。そもそも救う必要がない。
「私には、どうしたらいいのか分からなくて……」
だけど、救ってあげたかった。あたしには救えなくても、誰か、悩みを聞いてくれる人がいればいい。日比谷さんが苦しまずに済む助言を与えられる人がいればいい。これ以上、日比谷さんの心が腐らないように救ってあげられる人がいてほしい。
「……そうだ。あの人なら……」
「あの人……?」
あたしは日比谷さんの手を引いて、図書準備室を出た。あの時あたしを励ましてくれたあの人ならば、日比谷さんを救ってくれるかもしれない。
「失礼します」
カウンセラー室の扉は開いていた。あたしと日比谷さんが声を上げると、パーティションの隙間から、あの人が顔を出した。
「お、お客さんか。いらっしゃい」
保健室のベッドで出会った時は姿は見えなかったけれど、声を聞いたらこの人だと分かった。ハルと同年代くらいの若い先生だけど、温かそうなタートルネックのセーターにゆるめのワイドパンツの姿は、結構地味だ。
「ちょうどヒマしててね。お茶がいい、コーヒー? カフェオレなんかもできるけど」
日比谷さんと二人、カフェオレを注文すると、「その辺に座って」と先生から言われた。二人掛けのソファに座ると、ハルが納入したらしいウォーターサーバーが水を吸い込んでごぼっと鳴った。
カウンセラー室の中は、教室というより病院の待合室のようだった。だけど病院のように冷たい印象はなくて、テレビドラマなんかで見る一家団らんのリビングみたいな、温かで落ち着いた雰囲気。
「はい、カフェオレお待たせ。今日も寒いもんね~」
先生は、向かい合わせのソファに座って、マグカップのコーヒーを啜った。あたし達は、もくもくと立ち上る湯気を見ながら、何をどう相談すればいいのか考える。
「ま、堅くならずにくつろぎなよ。お菓子なんかもあるからさ」
正直、お腹は空いていた。テーブルの上に出されたチョコパイを取って、一口食べる。口の中が乾いていて味を感じなかった。カフェオレを啜ると、やっと甘さが広がった。
「緊張してるねえ。ま、ここに来る人はみんなそんな感じだから」
見抜かれていた。ゆるい感じに微笑む先生は、もうすでにあたしの心の中まで見透かしているのかもしれない。
あたしは意を決して告げた。
「先生、聞いてほしいことがあるんです」
「お? なになに?」
先生は軽い雑談みたいな感じでノッてきた。日比谷さんはあたしの袖を掴んで止めてきたけど、それも気にせず言葉を撃った。
これは、日比谷さんのためにやることだから。
「あたし、女の人が好きなんですけど、変ですか?」
女なのに女の人が好き。それは、あたし達みたいな女の子はみんな悩むこと。おかしいと思って自分を責めて、時には自殺さえ考えて、日比谷さんみたいに果敢に挑んで傷ついてしまう人もいる。
でももう、あたしは自分のことを変だなんて思っていない。
ハルが居てくれたから。悩んで、責めて、泣いているあたしに、ハルが「自分の好きなように生きればいいよ」って言ってくれたから。
その言葉があったから、今もあたしはハルを好きでいられる。女の人を好きな自分でもいいんだと思えてる。
だけど、日比谷さんにはハルは居ない。同じ悩みを抱えていて、一緒に悩んであげられる人が居ない。あたしにはハルみたいな役目は負えないから、誰かに相談するしかできない。
「む、村瀬さん……?」
「黙っててごめん、日比谷さん。あたし、好きな人が居るから」
「そう、なんだ……」
それに、せっかく日比谷さんが
「なるほどねえ……」
先生はあたしの告白に、目を瞑って静かに頷いた。
あたしは、先生のことを何も知らない。だけどこの先生は、あたしに的確なアドバイスをくれた。この先生なら、思い悩む少女の悩みに道筋をつけてくれる。そんな確信があった。
「結論から言うと、変じゃない。女が好きだからって自分を責める必要もなければ、治そうとして無理矢理したくもないことをする必要もない。そもそも治せるようなもんじゃないんだ。病気じゃない、持って生まれた才能みたいなモンだからね」
先生は微笑んで、ハルと同じことを言ってくれた。
「ぶっちゃけるとあたしはあたしってヤツだね。周囲の理解ないヤツらからの声なんて無視して、自分の好きなように生きる。それでいいのさ」
あたしはあたし。ハルはハル。日比谷さんは日比谷さん。
周りからどう思われようと、自分の気持ちに素直でいること。
「ま、相手が受け入れてくれるかどうかは別問題だ。第一、自分は女が好きだとしても、相手が同じとは限らない。そういう時にどう折り合いをつけるかってのは、難しい問題だけど」
先生はコーヒーを啜った。話を聞いていた日比谷さんが先生におずおずと質問した。
「先生はその……どうなんですか……?」
問われた先生は、コーヒーを吹き出した。慌ててティッシュで拭きながら、「いやいや」と苦笑いする。
「あたしは異性愛者だよ。ぶっちゃけ、さっきのは本の受け売りでね。どこかの偉い先生が言ってたことを通ぶって喋ってるだけ。本当は自分の経験や言葉でアドバイスしたいところだけどさ」
寂しそうな顔を浮かべた先生に、日比谷さんは言葉を呑み込んだ。
やっぱり、同じ悩みを抱えた人でないと、いけないのだろうか。
「あの、私も相談があるんです。さっきの村瀬さんと、同じ悩みで……」
「おおい、君もか!?」
日比谷さんの突然の告白に、先生はおどけた調子で言ってのけた。その様子がおかしくて、あたしも日比谷さんも笑った。
「秘密にしておくから、話してみ?」
「えっと……」
日比谷さんは、先生にとうとうと話をした。援交のことはさすがに隠したけど、自分が人間として壊れた欠陥品だと感じていたこと、性格を直そうとして男子と関係を持ったこと。そのせいで思い悩んで、自殺まで考えていたこと。何もかもを包み隠さず、赤裸々に。
先生はそれをうんうんと聞いていて、話に詰まると助け船を出してあげた。ハルがあたしにしてくれたように、ゆっくり、やさしく。否定をしないで最後まで。
知らなかった日比谷さんの姿を急激に知っていく。あたしとよく似た女の子。違うのは、ハルが居るか居ないかだけ。あたしもハルが居なかったら、日比谷さんみたいに悩んで苦しんで、傷ついていたかもしれない。
「失礼しました」
「ん、また話したくなったらおいで~」
先生に見送られて、カウンセラー室を出た頃には、時刻は午後三時を回っていた。試験が終わってから、実に三時間近く話し込んでいたことになる。先生はその間、ご飯も食べず――時折お菓子はつまんでいたけど――日比谷さんの話に付き合っていた。
あたしは、泣き腫らした日比谷さんを横目に見る。悲しげな顔だけど、先生に話したからか先ほどまでの緊張はなくなって、どこか凛として見えた。
視線に気づいた日比谷さんがあたしに微笑んだ。
「ありがとう、村瀬さん。私が話しやすいように、先に告白してくれたんだね」
「さあ、どうかな」
真実は隠した。照れ隠しでもあったし、日比谷さんはすべてを喋ってくれたのに、あたしはハルと援交して同棲していることを隠している負い目もあったから。
「本当は分かってたの。村瀬さんが好きな人は、三者面談に来た綺麗な女の人なんだろうなって」
「どうしてそう思ったの?」
「だって私、村瀬さんのことよく見てたもの。あの時の村瀬さん、今まで見たことのない素敵な顔だったから、気づいちゃうよ」
日比谷さんは笑った。そもそも、バレていたのだ、日比谷さんには。
いい子の仮面は、日比谷さんの前ではもういいかな、と思った。
「はぁ……。うまく隠せてたつもりだったんだけどな」
「その顔も見たことないかも。そっちが本当の村瀬さん?」
「そ、こっちが本当のあたし。日比谷さんをフった、悪い女」
「ううん。村瀬さんに好きな人が居るの分かってて告白したから、私も悪い女だよ」
「……詩織でいいよ。あたしも優姫って呼ぶから」
日比谷さん――改め、優姫の手を引いて、玄関に急ぐ。試験を終えた生徒達は、もうほとんど残っていない。
「ど、どこ行くの?」
「お腹空いたでしょ、マックでも行こ」
ハルしか興味のなかったあたしに、友達ができた。ついでに、いいカウンセラーの先生にも巡り会った。さんざん話してカウンセラー室を出た後、部屋の外に掲げられたネームプレートの名前を見て、あたしはやっと先生の名前を知った。
カウンセラー室担当 瀬名結衣。瀬名先生は、いい先生だ。
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